鞆の浦

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鞆の浦(とものうら)は、広島県福山市鞆地区の沼隈半島南端にある港湾およびその周辺海域

現在は鞆港の港周辺の市街を含めた範囲も「鞆の浦」と呼ぶことも多いが、本来「鞆の浦」とは「鞆にある入り江」という意味であり鞆港を中心とした海域のことである。

沿岸部と沖の島々一帯は「鞆公園」として国の名勝および国立公園に指定されている。

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医王寺太子殿から望む鞆の浦
ファイル:Setostamp1939.JPG
瀬戸内海国立公園指定時に発行された記念郵便切手(1939年)

概要

鞆の浦周辺は1925年名勝鞆公園の指定を受け、さらに1931年に制定された国立公園法において国立公園として最初に指定された地区のひとつである(瀬戸内海国立公園)。そのため1934年の国立公園指定当時の記念切手や絵葉書には鞆の風景が描かれているものがある。 なお鞆の浦に含まれる島には仙酔島、つつじ島、皇后島、弁天島、玉津島、津軽島がある。

瀬戸内海の海流は満潮時に豊後水道紀伊水道から瀬戸内海に流れ込み瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦沖でぶつかり、逆に干潮時には鞆の浦沖を境にして東西に分かれて流れ出してゆく。つまり鞆の浦を境にして潮の流れが逆転する。「地乗り」と呼ばれる陸地を目印とした沿岸航海が主流の時代に、沼隈半島沖の瀬戸内海を横断するには鞆の浦で潮流が変わるのを待たなければならなかった。このような地理的条件から大伴旅人などによる万葉集に詠まれるように、古代より潮待ちの港として知られていた。また、鞆は魏志倭人伝に書かれる「投馬国」の推定地の一つともなっている。

鞆の浦の港町である鞆には古い町並みが残り、1992年には都市景観100選に、2007年には美しい日本の歴史的風土100選にも選ばれた。江戸時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」が全て揃って残っているのは全国でも鞆港のみである。江戸時代中期と後期の町絵図に描かれた街路もほぼすべて現存し、当時の町絵図が現代の地図としても通用する。そのような町は港町に限らず、全国でも鞆の浦以外には例がない[1]

2008年公開された『崖の上のポニョ』で、宮崎駿監督が構想を練った地として有名になり、映画ロケが増えている[2]

歴史

古代

「吾妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき(大伴旅人)」や「鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも (大伴旅人)」等、759年に編纂された万葉集には鞆の浦を詠んだ歌が八首残されている。それ以前の鞆の成り立ちがどのようなものであったかは、はっきりしないが、遺跡の分布状況などから、弥生時代にはすでにある程度の集落が成立していた可能性が高いと考えられている。

平安時代初期には鞆近郊に静観寺、医王寺が創建され、備後国南部における布教の拠点となった。京都の八坂神社の本社である沼名前神社は平安時代の法令「延喜式」にも記載されている。これらを含め江戸時代までに狭い町並みに由緒ある寺が19か寺・神社大小あわせ数十社も建ち並んでおり、その繁栄ぶりが窺える。

中世

一体は渡辺氏の支配下にあった。

1336年建武3年)には多々良浜の戦いに勝利した足利尊氏が京に上る途中この地で光厳天皇より新田義貞追討の院宣を賜る。南北朝時代には鞆の浦沖から鞆にかけての地域で北朝南朝との合戦(鞆合戦)が幾度もあり、静観寺五重塔などの貴重な文化財が失われた。

戦国時代には毛利氏によって鞆中心部に「鞆要害」(現在の鞆城)が築かれるなど備後国の拠点の一つとなっていた。室町幕府15代将軍足利義昭織田信長により京を追放された後、毛利氏などの支援のもと渡辺氏の援助で鞆に拠点を移し信長打倒の機会を窺った。伊勢氏上野氏大館氏など幕府を構成していた名家の子弟も義昭を頼り鞆に下向していたとされる。このことから「鞆幕府」と呼ばれることもある[3]。また、前述のように足利尊氏が室町幕府成立のきっかけになる院宣を受け取った場所でもあるため、幕末の歴史家頼山陽は“足利(室町幕府)は鞆で興り鞆で滅びた”と喩えた。

尼子氏滅亡に際しては播磨国上月城より移送途中に誅殺された山中鹿之助の首級が鞆に届けられ足利義昭や毛利輝元により実検が行われた。この遺構として首塚が現在も残されている。

近世

江戸時代になると備後国を領有した福島正則によって鞆要害を中心に市街地を取り囲む大規模な城郭「鞆城」の築城が始まるが、これが徳川家康の逆鱗に触れ工事は中止された。その後、福島氏に代わり、徳川家康の従弟水野勝成備後福山藩の領主となり、鞆城跡には奉行所(鞆奉行所)が設置された。このとき勝成の息子で2代藩主である水野勝俊は鞆に住んでいたため「鞆殿」と呼ばれた。また、朝鮮通信使の寄航地にも度々指定され、1711年(正徳元年)の第8回通信使では従事官の李邦彦が宿泊した福禅寺から見た鞆の浦の景色を「日東第一形勝」(朝鮮より東の世界で一番風光明媚な場所の意)と賞賛した(この文を額にしたものが福禅寺対潮楼内に掲げられている)。

しかし、航海技術が発達し「地乗り」から「沖乗り」が主流になったことにより鞆の浦で潮待ちをする必要性は薄れていったことなどから、備後地方の港湾拠点は尾道に大きく傾いていった。

近代

近代になると鞆の浦の拠点性はますます低下していき、1913年大正3年)の鞆軽便鉄道開通により陸上交通の利便性は向上したものの、半島の先端という孤立した環境や開発可能な平野部が少ないことなどから近代化の波に取り残された。鞆軽便鉄道(鞆鉄道)の利用も太平洋戦争直後をピークに減少し1954年昭和29年)には採算悪化などから廃止された。この鉄道跡が概ね県道22号線福山鞆線である。

その一方で景勝地としては、明治時代より天皇・皇后を始めとする皇族が好んで訪問してきた仙酔島弁天島を含む東岸の景観が、沼隈半島の西部に隣接する磐台寺観音堂阿伏兎観音)と並んで高い評価を受け、いち早く国立公園に指定された。

現在では鞆港への商船の出入りはほとんどなく、連絡船、観光船、港内にある造船所(本瓦造船)への修理船を除けば、ほぼ漁港として用いられるのみである。しかし、こうしたことが開発の波に呑まれることなく古寺が数多く点在する古い街並みをとどめる要因になった。 テンプレート:Main

鞆港

鞆の浦で最大の港。鞆の津とも呼ばれる。円形港湾で近世の港湾施設がよく残されている。港湾法上は1961年に福山港へ編入され福山港の一地区として扱われる。江戸時代に大きく整備され、この時代の港湾施設である「常夜燈」、「雁木」、「波止場」、「焚場」、「船番所」の全てが全国で唯一残されている。県営桟橋から走島まで1日5往復の定期連絡船が発着している。

原港

鞆町の東側にある漁港。鞆の浦の港では最も小規模。方形の港で東側に防波堤が設置されている。

平港

鞆港の南に隣接する港。方形の港で防波堤は南側に設置され玉津島まで延ばされている。規模としては鞆港に次ぐ。港内に本瓦造船の本社工場がある。

島嶼

仙酔島

鞆の浦で最大の島であり鞆の浦のシンボル的な島である。仙人も酔ってしまうほど美しいことから、仙酔島と名付けられたといわれる。外周約5キロの無人島であるが、島内にはホテルや国民宿舎、キャンプ場、海水浴場などがあり、本土とは渡船で往来することができる。

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大可島

鞆港の東側に隣接する島。慶長年間の鞆城築城により埋め立てられ陸続きとなっている。南北朝時代には大可島城が築かれ、合戦も行われた。頂部には円通寺が建てられている。江戸時代には船の出入りを見張る遠見番所が置かれた。また、大可島の麓には遊廓が栄え1678年に記された「色道大鑑」には国内を代表する25の遊郭のひとつにも挙げられていて遊郭建築の遺構も残っている。 テンプレート:Main

つつじ島

仙酔島の東に位置する無人島。

皇后島

弁天島の先、大可島の東に位置する無人島。神功皇后が当地へ立ち寄った際に船をつないだことから、皇后島と名付けられたといわれる。山頂には鞆奉行荻濃重富の妻の墓が建てられている。

弁天島

鞆町と仙酔島の間にある無人島。島内に弁天堂が建てられていることから弁天島と呼ばれているが、正式名称は百貫島である。 テンプレート:Main

玉津島

鞆港の南に位置する無人島。現在は鞆港を囲む防波堤で繋がれ本土と陸続きとなっている。鞆港の天然の堤防となっていた。かつては「ふく島」と呼ばれていたが領主となった福島正則により「玉津島」に改名されたといわれる。また、現在はネズミのような形状から「ねずみ島」と呼ばれることもある。

山頂には玉津島神社祀られている。

津軽島

玉津島のさらに南に位置する無人島。

市街部

鞆町の市街部は古代から「鞆」と呼ばれる港町として栄え、「鞆の浦」の名称の由来ともなった街である。現在では逆に鞆が鞆の浦と呼ばれることも多くなっている。ここでは鞆の通称としての鞆の浦について説明する。

「鞆」は古代から近代まで沼隈半島の中心的な都市である。明治時代には沼隈郡の郡役所が置かれ昭和時代までは自治体(旧鞆町)であったが、1956年に福山市に編入され現在の「鞆町」、すなわち福山市鞆町となった。ちなみに、かつての鞆町役場が現在の福山市役所鞆支所である。

現在の行政区画としては、沿岸の中心部が鞆町鞆、それ以外の沿岸部および山間部が鞆町後地であり、島嶼部は弁天島が鞆、仙酔島などその他の島は後地に含まれる。なお、どの区域が鞆の浦と呼ばれているかは厳密には定まっているわけではないが、旧鞆町に含まれていた田尻町および走島町については鞆の浦と呼ばれることはない。 テンプレート:Main

名所・史跡等

社寺

  • 阿弥陀寺
  • 安国寺 - 釈迦堂、阿弥陀三尊像などが国の重要文化財、境内は広島県指定史跡。
  • 静観寺 - 最澄により806年創建と伝える鞆最古の寺院。
  • 医王寺 - 空海により826年創建と伝える。
  • 円福寺 - 大可島城跡に建てられている。いろは丸事件時の和歌山藩士の宿舎。
  • 顕政寺
  • 小松寺 - 境内に琉球使節碑がある。平重盛手植えの松があった。
  • 地蔵院 - 中国地蔵尊霊場第8番
  • 慈徳院
  • 浄泉寺
  • 常国寺 - 鞆幕府の所在地である一乗山城の領主渡辺氏の菩提寺
  • 正法寺
  • 善行寺
  • 大観寺
  • 南禅坊 - 宮城道雄の祖父母の墓がある。中国風建築の鐘楼門がある。
  • 福禅寺 - 境内は「朝鮮通信使遺跡鞆福禅寺境内」として国の史跡に指定。対潮楼には「日東第一形勝」の額が掲げられている。
  • 福寿堂
  • 法宣寺 - 大覚大僧正による手植え・境内に生育していた天蓋マツは国の元天然記念物
  • 本願寺
  • 沼名前神社 - 延喜式内社。能舞台は国の重要文化財、石鳥居は広島県指定重要文化財。
  • 明円寺
  • 妙蓮寺
  • 淀姫神社

文化施設

祭事・催事

  • 鞆の浦観光鯛網 - 毎年5月
  • 鞆の浦弁天島花火大会 - 毎年5月最終土曜日
  • 瀬戸内クルージング - 期間限定3月下旬~11月下旬 鞆港と尾道港を結ぶ観光クルージング
  • お手火まつり - 旧暦6月7日に近い土曜日
  • 八朔の馬出し- 旧暦8月1日に近い日曜日
  • 鞆町並ひな祭 - 2月~3月

名産品

鞆の浦埋立て架橋計画問題

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交通アクセス

1954年(昭和29年)までは、鞆鉄道線が福山駅から発着していたが昭和29年に廃止。現在の“県道福山鞆線”がほぼその軌道跡である。

鞆の浦を舞台とした作品

周辺

参照

  1. 広島大学大学院文学研究科教授三浦正幸氏「日本の宝 鞆の浦を歩く」
  2. 2.0 2.1 秋公開米映画に鞆の浦 福山市「世界PRの好機」秋公開米映画に鞆の浦 福山市「世界PRの好機」ウルヴァリンが「観光大使」に=新作ロケ地の広島県福山市映画『ウルヴァリン:SAMURAI』を鞆の浦(広島)ロケ地マップでひと先にチェック!
  3. 福山商工会議所「鞆幕府 戦国史をななめに斬る」1983年、川西利衛
  4. 4.0 4.1 4.2 中国新聞 2013年4月5日 23面
  5. 読売新聞 2009年9月21日 24面(新聞記事と内容は同じ)
  6. テンプレート:Cite news

外部リンク

埋立て架橋関連のリンクは別記事の「鞆の浦埋立て架橋計画問題」へお願いします。 テンプレート:Sister