岡田克也

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テンプレート:政治家 岡田 克也(おかだ かつや、1953年(昭和28年)7月14日 - )は、日本政治家民主党所属の衆議院議員(8期)、民主党最高顧問、民主党三重県連代表。

民主党幹事長(第4代・第8代・第11代)、民主党代表(第4代)、外務大臣(第142代・第143代)、副総理内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)などを歴任した。

ジャスコ創業者岡田卓也は父。イオン取締役兼代表執行役社長の岡田元也は実兄[1][2][3]

略歴

生い立ち、官僚時代

三重県四日市市の岡田屋呉服店を前身とする四日市岡田家本籍地は四日市市中部地区の諏訪栄町商店街で結婚後は近鉄名古屋線の西側の四日市市堀木に自宅を購入した)の7代目当主でスーパー「岡田屋」を経営していた岡田卓也の次男として生まれる。男3人兄弟であった。4歳年下の弟(中日新聞政治部長の高田昌也)は母方である高田家の養子となった。2009年(平成21年)の自身のブログで1月31日に100歳で老衰死去した長寿麻雀が好きだった母方(高田家)の祖母が大好きなおばあちゃん子であったと書いている。

公立小学校公立中学校に通い四日市市立中部西小学校と四日市市立中部中学校を卒業した。平成13年(2001年8月1日朝日新聞社の取材を受けて、「育った町の四日市市についてどう思うか」との質問に「公害の町」であると回答した。「中部西小学生だった頃に第2四日市コンビナート(近隣の午起地区に中部電力四日市火力発電所などの石油系企業が増設された事と、コンビナートの高煙突化対策が原因で汚染物質が中部地区まで拡散されて公害被害地域が拡大した)が建設された事から公害問題が顕在化して、中部地区にも大気汚染による被害が拡大した。同級生(昭和28年度生まれ)で四日市ぜんそくの症状で悩んでいた人もいたし、自分が卒業した後に、中部西小学校の後輩になる9才年下(昭和37年度生まれ)の女の子が4年生(9歳)で死亡したなど公害で亡くなった四日市地域の人もいた」と発言した。

父の経営するスーパーが三重県四日市市を拠点とする「岡田屋」から、他社である兵庫県姫路市を拠点とする「フタギ」と大阪府吹田市を拠点とする「シロ」の3社が提携を行い合併して「ジャスコ」となり事業が拡大すると共に、四日市市中心から全国的な経営をする必要から父子で大阪府に移住して、大阪教育大学附属高等学校池田校舎を経て東京大学法学部を卒業する。

国家や社会など公的な仕事に就くという幼少時からの夢のため、国家公務員を目指した。厚生省への就職も考え迷ったあげく、1976年昭和51年)通商産業省(現在の経済産業省)に入省する。同期には高橋はるみ北海道知事らがいた。

通産省では中小企業対策や石油問題などを手がけて、中小企業庁総務課→産業政策局調査課→石油計画課→工業技術院総務課に配属された。[4]町村信孝の直属の部下だったこともある。1985年(昭和60年)に米国のハーバード大学の国際問題研究所に派遣された。研究員として1年間滞在して、ハーバード大学のケネディスクールジョン・F・ケネディアメリカ大統領を冠して設立された行政学を専攻するコース)で学び、ロナルド・ドーアエズラ・ヴォーゲルの講義を受けた。この頃から政治への問題意識を抱き始め、同時に官僚として出来ることの限界に気付くようになる。[5]

政界入り

桑名市四日市市を地盤としていた竹下派所属の山本幸雄の後継者として出馬をした。竹下登と財界との関係で繋がりが深かった父の岡田卓也を通じて打診、克也が「やってもいい」と意欲を見せたことで自由民主党竹下派の新人候補として出馬に至った[6]1988年(昭和63年)7月に大臣官房総務課の企画調査官を務めたのを最後に通産省を退官した。36歳の若さで中選挙区三重1区から1990年平成2年)の第39回衆議院議員総選挙に出馬した。滑り込みの4位であったが当選した。選挙結果である当選順位は、同じ自民党所属の北川正恭三塚派所属で2位の110384票)と川崎二郎宮沢派所属で3位の105183票)より得票数が少ない97290票で、自民党候補では最下位であった。中選挙区制度では他の自民党候補との競争や労組出身の伊藤忠治に勝てずに自分が選挙に強くない事を実感した。自民党離党後に新生党から出馬して、新党ブームで無党派層の支持を得た。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙ではトップ当選をした。新進党民主党で一貫して唱えた二大政党制を推進する小選挙区制が有利に働いて、強力な地盤が形成されて、三重3区で大差で連続当選している。

自民党時代は、当初経世会(竹下派)に所属していたが、東京佐川急便事件で竹下派が分裂すると羽田派(改革フォーラム21)に所属した。羽田孜後藤田正晴らと共に政治改革を訴え、若手国会議員の代表格として頭角を現していく。

一連の政争を重ねる中で「一国の総理大臣が、金集めがうまいかどうかで決まる」(本人談)という当時の自民党の派閥政治を目の当たりにし、愕然とする。1993年(平成5年)、宮澤内閣改造内閣不信任案に賛成して自民党を羽田派の議員で集団離党した。この際に「岡田に暴力をふられた」と叫んだ浜田幸一議員との乱闘があり、3年半の自民党生活に終止符を打った。

その後は、羽田孜や小沢一郎に従って新生党結党に参加した。翌年の1994年(平成6年)に新進党に合流した。1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙に敗北した後の新進党内の抗争激化を受けて、翌年の1997年(平成9年)に小沢一郎が新進党解党を宣言する。議員総会で「新進党解党を了承するように」と発言した小沢一郎に対して「有権者を裏切る行為だ」として岡田は解党に強く反対するが、決定は覆らなかった。以後、小沢とは民主党自由党の合併(民由合併)まで袂を分かつこととなる。

民主党時代

野党時代

新進党の解党後、国民の声民政党を経て新民主党に参加する。政策調査会長代理に就任する。以後、衆議院安全保障委員長、政策調査会長、幹事長代理を歴任する。2002年(平成14年)の民主党代表選に立候補するが菅直人に敗れて、幹事長に就任する。

2004年(平成16年)、菅が年金未納問題で代表を辞任して、有力後継候補と目されていた小沢一郎も同様に国民年金未払が発覚して、代表選出馬を辞退する。この事態により、岡田が同年5月18日より代表を務めた。

代表就任以降、「野党」ではなく「政権準備党」を名乗るなどして衆議院選挙での政権交代をアピールした。2004年(平成16年)7月11日参議院通常選挙では自民党を1議席上回る50議席を獲得した。

2004年(平成16年)9月13日の代表選挙で無投票再選を果たす。役員人事で幹事長に川端達夫、代表代行に藤井裕久を任命する。

2005年(平成17年)8月の郵政民営化問題を契機とする衆議院解散郵政解散)で自民党が分裂選挙となったことから、当初は「政権獲得千載一遇のチャンス」などといわれたが、小泉劇場の前に民主党は埋没し、9月11日総選挙では公示前勢力を64議席下回る113議席に終わり大敗をする。岡田は9月12日に代表を引責辞任した。

2006年(平成18年)9月、民主党の改造人事で民主党副代表に就任する。

2007年(平成19年)、政治改革推進本部長、衆議院予算委員会筆頭理事、党地球温暖化対策本部長に就任する。

2009年(平成21年)3月、小沢一郎の公設秘書が西松建設事件で逮捕され、5月に小沢が代表を辞任すると、党若手議員からの支持を受けて5月16日の代表選挙に出馬した。事前の世論調査では優位に立っていたが、対立候補の鳩山由紀夫に僅差で敗れる。翌17日、党幹事長に就任[7]

鳩山政権

2009年(平成21年)8月の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区制導入以来の自身最多得票数で再選する。民主党がこの選挙で第1党となったことから与党議員となった。

2009年(平成21年)9月に発足した鳩山由紀夫内閣外務大臣に就任する。菅直人副総理と並びポスト鳩山の有力候補とも目されたが後任の党代表選では菅の推薦人に名を連ねた。菅内閣で再任された。

菅政権

2010年(平成22年)9月17日に、民主党代表選挙で再任された菅直人の要請を受けて、3度目の民主党幹事長に就任をする[8]テンプレート:リンク切れ[9]

野田政権

2011年(平成23年)8月の民主党代表選で選出された野田佳彦による組閣で財務大臣就任を要請されたが固辞した[10]。新執行部の発足[11]に伴い幹事長を退任した。公務をする充電期間として閣僚を退き、複数のベテラン議員と共に民主党最高顧問となった。12月に民主党行政改革調査会会長に就任。

2012年(平成24年)1月13日に、野田政権の内閣改造(野田改造内閣)により入閣し、内閣府特命担当大臣(「新しい公共」担当)内閣府特命担当大臣(少子化対策担当)内閣府特命担当大臣(男女共同参画担当)内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)の4ポストを兼任することとなった[12]。また、国務大臣としての所管事項として「行財政の抜本的見直しを推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[12]や「公務員制度改革を推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[12]と「社会保障及びに関する改革を一体的に推進するため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[12]を、それぞれ担当することになった。また、内閣総理大臣臨時代理への就任順位は、内閣官房長官の藤村修を抑えて筆頭となったため[12]、いわゆる副総理となる。

2012年(平成24年)2月10日に、復興庁が発足した事に伴い、復興大臣等の人事が行われ、内閣府特命担当大臣の「新しい公共」、少子化対策、男女共同参画の3ポストを退任する(後任は、中川正春前文部科学大臣)。2012年(平成24年)12月26日に退任する。

2013年(平成25年)7月21日に行われた第23回参議院議員通常選挙において三重県選挙区選出の現職高橋千秋の選対本部長を務めるが落選[13]、地元三重県において自身の影響力の退潮を暗示する結果となった。

政策・主張

外交・国際問題

  • 日米同盟を基軸としながらも、中国など東アジア重視の姿勢を見せている。国際貢献には積極的な姿勢をみせ、党代表時代には日本国憲法第9条を改正した上で国連を中心とした集団的安全保障への参加と武力行使を容認する姿勢を示した[14]。これは前任の菅直人が提唱した穏健な国防・改憲議論とは一線を画すものであり、この路線は後任の前原体制にも引き継がれた。
  • 中台問題では訪台や台湾当局者の会談の際に独立反対を明言し、台湾側から厳しく批判された[15]
  • 靖国参拝問題について2005年(平成17年)6月2日の衆議院予算委員会小泉純一郎首相に対して、A級戦犯を昭和の受難者だと位置づけて合祀している靖国神社には参拝すべきでないと述べた。また参拝に関する小泉の姿勢が、日本の国連常任理事国入りや北朝鮮をめぐる六カ国協議などに大きな影響力を持つ中国との関係をぎくしゃくさせている原因の一つであると指摘。小泉にはアジア各国に対して信念を説明して理解を得る責任があり、それができないのなら辞任すべきだと述べた[16]
  • 尖閣諸島問題について、岡田が“中国との領土問題ではないが、議論があることは事実”と表明し、石原慎太郎主導による尖閣諸島購入事件を強く批判した。[17]
  • 麻生首相が靖国神社が宗教法人を任意解散して祭式の非宗教的・伝統的な特殊法人に移行する私案を発表していることに対して、「国の施設にすることに違和感を持つ。信教の自由との関係はどうなるのか」と批判している。中国や台湾が領有権を主張する尖閣諸島に関し、鳩山由紀夫首相が2010年(平成22年)5月27日全国知事会で「帰属問題は日本と中国の当事者同士でしっかり議論して結論を見い出してもらいたい」と発言したのに対しては「尖閣に領土問題はなく、議論の余地はない」と述べ、尖閣諸島に領土問題は存在しないとの認識を示している。
  • 「民主党核軍縮促進議員連盟」を作り、核不拡散・核軍縮の提言を行っている。非保有国への核使用を無条件に違法とする国際法の確立や非核三原則の東北アジアにおける共有を提案し、将来的な核兵器の廃絶を目指している[18]
  • 歴史教科書問題では、(日本の侵略戦争について謝罪した1995年の)村山談話に基づいて、「韓国・日本・中国共通の教科書を作るのが最も理想的」と繰り返し主張している[19][20]
  • 日韓併合100周年の際には、韓国人に対する謝罪の総決算となる政府声明を取りまとめるため奔走した[21]
  • 沖縄返還及び非核三原則に纏わる4つの密約(西山事件の問題他)は全て公開されるべきであるとする立場で、外務省にも2009年(平成21年)11月までに報告するよう命じている。
  • 外務大臣として伊藤忠商事会長の丹羽宇一郎氏を中国大使に起用したが、大使としての機能を果たすことができなかった上、東京都による沖縄・尖閣諸島の購入を批判するなどの問題を引き起こした。岡田はこの人事について「政権交代のコスト」と漏らしている[22]
  • 2012年11月に行われた離島奪還の日米共同統合演習について、無人島入砂島沖縄県渡名喜村)を使った日米共同奪還訓練実施が日米政府間で合意されていたものの[23]、当時の岡田克也副総理が中国への配慮のためにこれを撤回し中止させた事と[24]、中止決定から3日後の同年10月25日に来日したキャンベル国務次官補外務省幹部にこの件について強い不快感を伝えた事が報道された[25]
  • 産経新聞2013年2月4日付記事は、政府関係者の話として、2012年12月13日に沖縄県尖閣諸島周辺で発生した中国機による領空侵犯の数日後、防衛省航空自衛隊緊急発進時の手続きについて報告し藤村修前官房長官や玄葉光一郎前外相ら関係閣僚は了承したが、当時副総理の岡田は『防衛省がそんなことをするから日中関係がますます悪くなる』と反対したと報道した。また当時防衛大臣森本敏は『これ(緊急発進)は国権の発動で当然の行為だ』と主張したが、野田佳彦前首相は岡田の意見を採用するよう指示し、岡田の主導により野田内閣曳光弾による警告を意図的に封印していたと報道した[26]。この報道について岡田は、産経新聞社に対して抗議文を送り[27]、「私は、曳光弾による警告について、防衛省から報告を受けたことも、判断を求められたこともありません。昨年12月の中国国家海洋局のプロペラ機に対するスクランブルは、従来からの領空侵犯に対する政府の既定方針であり、これに関し私が異を唱えたこともありません」と述べ、記事は事実無根であると主張した。

在日外国人

経済・財政

  • 「自由で公正な社会」を標榜する。経済政策では「小泉(元)総理以上の市場経済主義者」を自認するなど、政府の役割を認めながらも自由主義的な傾向が強く[31]、民主党内では改革派と見られている。一方で、「実質的な機会の平等」を実現するため教育の重要性を繰り返し説いている。
  • 政策の優先順位が低いとして道路予算の見直しを訴えている。三重県の道路建設促進協議会の顧問就任も拒否している。
  • 自動車ユーザーにガソリン税の暫定税率を負担させながら道路特定財源の一般財源化を行うのは、租税法定主義の原則から問題があるとして、暫定税率の廃止を主張している[32]
  • 財政再建に向けて積極的に提言をしており、公共事業費の削減[33]、公務員の人件費2割削減[18]特別会計の1割削減[34]などの歳出カットを訴えている。
  • 所得格差是正のため、所得税相続税の最高税率見直しを含む累進課税の強化を実行すべきだと述べている[35]
  • 年金の基礎部分にあてる財源として、将来的な消費税引き上げの議論を始めるべきだとしている[36]
  • 日本経団連の政党に対する政策評価を批判している。評価の理由説明が不十分な上、各企業の政党に対する献金について介入するやり方に問題があるとしている[37]
  • 日本国債について「国債の買い入れについて、懸念されるのは、財政赤字のファイナンスを日本銀行がすると見られることである。そう見られてしまえば、国債の格下げや長期金利の上昇ということにつながりかかねない、大変リスクが高い」と述べている[38]

環境

民主党の地球温暖化対策本部長を務め、地球温暖化対策に関しては、麻生政権が中期目標とした「2005年比15%削減」を地球温暖化対策として全く不十分と批判し、民主党は温室効果ガスの排出量を2020年までに1990年比25%削減することを中期目標とすることを表明している[39]

行政改革・社会保障

  • 積極的に税源を移譲するなどして地方主権を進め、国と地方のあり方を変えるべきだとしている[40]
  • 政策を官僚に丸投げするやり方を批判し、政治家主体の行政を実現すると語っている。
  • 役人の天下り問題には厳しい姿勢を取っており、全面禁止を主張している[41]
  • 将来的には子ども手当てを毎月4万円に引き上げるべきだと言っている。それには高額所得者に有利な配偶者控除扶養控除制度の廃止、歳出の削減に加えて新たな財源の手当てが必要だとしている[42]
  • 河野太郎野田毅ら自民党議員の有志を含む超党派で取りまとめた年金抜本改革案を発表している。年金一元化、基礎年金の全額税方式といった従来の案に加え、270兆円の純債務を別勘定に切り離す、20年程度で新方式へ完全移行することなどを提唱している[43]

選挙関連

  • 政治家への入口を狭くしてしまうことが組織全体の活力の低下につながるとして、国会議員の親族が同一選挙区から連続で立候補する世襲規制を打ち出している[44]
  • 2005年(平成17年)の衆議院選挙後にTBSの「新・調査情報」のインタビューにて「政治は真面目なものであるべき」と主張するなど、小泉内閣における「劇場型民主主義」に対して批判的な姿勢を取った。
  • 企業・団体からの政治献金は全面的に禁止するべきとし、あわせて、インターネット献金の普及、個人献金の税額控除、公設秘書の増員などの制度の導入を主張している[45]

政策・主張 (外務大臣として)

「核」について

「アジア非核地帯構想」を提唱

ファイル:Katsuya Okada.jpg
2010年1月12日ホノルルでの日米外相会談後の共同記者会見にて
ファイル:David Lausman and Katsuya Okada 20100410.jpg
2010年4月10日横須賀市海軍施設視察にて、ジョージ・ワシントン艦長デイビッド・ラウスマン海軍大佐(中)と
  • 2009年(平成21年)10月12日パキスタンを訪問。海上自衛隊のインド洋での給油活動の継続を求めるパキスタン政府に対して、鳩山由紀夫内閣は給油活動延長の意思はないことを説明し、理解を求めた。また、パキスタンが核保有国であることを非難し、「核のないアジア」を提唱したが、ザルダリ大統領からは「日本は(同じく核保有国の)インドを説得して欲しい」と反論された[46]。これに対して、岡田は「インドの国防費の拡大は中国をにらんだものだ。」「オバマ米大統領は核のない世界を提唱したが、自分は核のないアジアを提唱したい」など述べたが、同意は得られなかった[47]
  • また、同日に行われたクレーシ外相と会談で、核の不拡散問題について、パキスタンが疑念を抱かれるようなことがあれば、国際社会の対応は厳しくなると述べ、第3国などに核物質などが流出することがないように管理の徹底を求めたが、クレーシ外相は、「パキスタンは責任ある核兵器国である。核物質の管理に責任を持って対応している」と不快感を示し、「パキスタンの安全保障上の懸念も理解してほしい。南アジア地域の安定を図りたい。パキスタンは攻撃的ではなく防衛的な政策をとっている」と反論した[48]

イランの核開発疑惑

2010年(平成22年)2月24日、岡田はイランアリー・ラーリージャーニー国会議長と会談した。この時、岡田はイランの核問題について「国連安全保障理事会が新たな制裁決議を採択する場合、日本も従わざるを得ない」と述べ、イランの核開発を容認しないとの認識を示した[49]

非核三原則

2010年(平成22年)3月14日非核三原則を堅持するとした政府(鳩山由紀夫内閣)方針に対し、岡田も堅持を表明しつつも「内閣がそれぞれ決めること。将来にわたって縛ってしまうのがいいのか」と述べ、非核三原則を法制化をする考えはないとの認識を示した[50]

3月17日衆議院外務委員会で、非核三原則の法制化について「ロシア中国の艦船が日本の領海を核を積んで通過しないという担保をどう取るのか。そういう問題に決着がつかないと、法制化は難しい」と述べ、改めて、現段階では法制化する必要はないとの認識を示し[51]、有事の際のアメリカ軍による核搭載艦船の一時寄港については「日本国民の安全が危機的状況になったとき、原理原則をあくまで守るのか、例外を作るのかは、その時の政権が判断すべきことであり、今将来にわたって縛るわけにはいかない」と述べた[52]

東シナ海ガス田問題

東シナ海ガス田問題2010年(平成22年)1月17日中国楊潔チ外相と会談して、2008年(平成20年)6月18日東シナ海ガス田の共同開発で日中両国が合意した[53]東シナ海の「白樺」について、中国がガス生産に踏み切った場合は「日本としてしかるべき措置をとることになる」と警告した[54]

領土問題

日本竹島について「歴史上も国際法上もわが国固有の領土」という立場を取っているが、岡田自身は「竹島が大韓民国不法占拠されている」という言葉は「信念」として使わないと、2010年(平成22年)3月26日4月14日衆議院外務委員会で、自民党新藤義孝の質疑に対して答弁をしている[55]尖閣諸島に関しては「(中国とは)議論の余地はない」と強硬姿勢を示しており、2010年(平成22年)9月の尖閣諸島中国漁船衝突事件でも、中国人船長逮捕を強く主張したとされている。

普天間基地代替施設移設問題について

「嘉手納基地統合案」から「現行案」へ

鳩山政権を揺るがすことになったいわゆる普天間基地移設問題では、外務大臣就任当初から県外移設の選択肢には否定的な立場をとる一方で、辺野古移設の現行案ではなく嘉手納基地との統合案について度々言及。しかし閣内で十分な調整を経ないで発言したため、県外移設を模索していたとされる首相方針との食い違い、閣内不一致を指摘された(同案そのものは自民党政権時代にも検討され、米側にも様々な見解が存在したが、高速航空機が主体の嘉手納基地で、海兵隊のヘリを同時管理することが困難だとして、最終的には米側が否定的な結論に至った経緯がある)。加えて地元嘉手納町では既に深刻な騒音被害が倍増することなどへの懸念から猛反発が起き、岡田も統合案を封印した。年末近くから日米関係を重視して現行案に回帰していき、年明け後は北澤俊美防衛大臣と共同歩調をとる形で、鳩山首相に対して現行案の受け入れを主張した。

人物像

個人として

  • 支持者には「真面目でクリーン」といったイメージで捉えられることがあり、「ミスター・クリーン」と呼ばれることもある[56]。その容姿などから「ロボコップ」原理原則を曲げない事から「原理主義者」とあだ名されることもある[57][58]
  • 趣味は読書・映画鑑賞など。他にも音楽をレトロなカセットテープで聞くことがあり、GACKTの「君に逢いたくて」を好んでいる。
  • 10代からカエルの置物を収集している[56]。日本国外に出かけた際にも、「安価でどこの国にもあり、また、お土産に何を買うかあらかじめ決めておけば悩まなくてもいいから」という理由で、かならず買い求めるようにしている[59][60]。東京の事務所にはカエルの置物が大量に飾られている[56]。“カエル”には2つの意味があり、一つは「海外へ出張しても、無事妻や子供達の元へ『帰る』」という思い、もう一つは「政権を『変える』」という意味が込められているとされる。
  • 今日では大手流通グループとなったイオングループだが、岡田の少年期は四日市岡田家(岡田屋呉服店)の個人商売を発展させた父が創業したジャスコ三重県を中心とした地域企業から関西地方へ進出して、さらに日本全国へと拡大していく過程であり、父の苦労する姿のほうが印象に残っているという[61]
  • 高校時代に進学していた大阪教育大学附属高等学校池田校舎で、当時の学園紛争に巻き込まれ、同校には後にハーグ事件をおこす西川純らが中心となって「学園封鎖」の先頭に立っていた。大多数の学生が学園封鎖に賛成していたが、岡田はごく少数の封鎖反対派の立場に回り、「高校生は将来の日本を背負うために今は勉強すべきだ。政治の問題を学校に持ってくることが本末転倒ではないか」と主張し譲らなかったという。
  • 出身地の四日市市中部地区は四日市公害の汚染地区であり、四日市ぜんそくによる犠牲者や患者が多数いたが、四日市岡田家は近鉄名古屋線の西側の堀木に自宅があり岡田家は金持ちで食べ物が良かったので克也や体格が良い健康体となり、同級生が四日市ぜんそくの症状で苦しむなか克也は軽度の咳が出る程度ですんだ。中部西小学校と中部中学校の同級生(昭和28年度生まれ)から<おから克也>ニックネームで呼ばれていた。
  • 大学時代は勉強より読書に夢中だった。大学の教養課程では佐藤誠三郎の名物ゼミに所属し、社会科学古典を週に何冊も読んだ。当時、衝撃を受けた本としてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を挙げ、三兄弟の中でもイワンに共感を覚えたという。
  • 尊敬する歴史上の人物として織田信長をあげており、本人曰く「日本の歴史上最高の人物だと思う。変革期・激動期に、旧来の考えにとらわれず信念に基づいて行動した。タブーをおそれない改革精神と実行力を見習いたい。やり方は荒ぽかったが、あの時代はあれしかなかったと思っている」と述べている。
  • 妻の多津子は村上水軍の末裔家柄[62]自由民主党村上誠一郎衆議院議員である。父の村上信二郎は53歳の若さで亡くなっていて、村上家家訓は「国家の大事には親兄弟の屍を乗り越えても戦え」だった。職業医師である。日本最初の「女医学校」である東京女子医科大学を卒業した神経内科医である。岡田克也は司法試験を目指して東京大学法律相談所と云うサークルに所属していた。[63]日本史年号暗記が苦手な岡田は法令記憶も苦手で岡田克也は司法試験に敗北した。[64]この東京大学法律相談所サークルにいた村上誠一郎という友人第37回衆議院議員総選挙第38回衆議院議員総選挙に出馬した。衆議院議員総選挙の選挙応援の村上候補の支援グループに妹の村上多津子がいた。まだ東京女子医科大学女学生だったがこのときばかりは真面目な岡田克也の行動は素早かった。多津子の兄が選挙区である愛媛県愛媛2区の選挙活動に縛られている間に恋人同士としてデートを重ねた。岡田克也は村上誠一郎に自分の妹との交際が分かった時は「俺の知らない間に自分の父親が早く亡くなり父親代わりに育てた妹に手を出して」と彼が激怒したと回想している。[65]
  • 夫婦で2男1女の3人の子供たちの四日市市立中部西小学校の運動会に参加していた。平成初期に長女(昭和61年生まれ)の誘拐未遂事件があり、[66]四日市南警察署による[67]家族への警備が強化された。

政治家として

  • 政治家となった理由は国家国民のために何かをしたいよりも、ケネディ家ジョン・F・ケネディが政治家(アメリカ合衆国大統領)となったのと同じで、父である岡田卓也が抱いた野望の四日市岡田家が繁栄するために政治的な名誉を得る必要があり、父から期待された次男の克也が政治家となった。地元の四日市市では昭和40年代に四日市市長だった九鬼喜久男と同じように「四日市のケネディ」と評されている。[68]
  • 政策通として知られ、環境から経済、安全保障まで幅広い分野に精通している[58]
  • 世襲政治家として国会議員が地盤を継承する事に反対する立場から、強力な地盤がありながら、三重3区を子供など血縁者に継がせない方針である。小泉家4代の世襲政治家として強力な地盤がある神奈川11区小泉進次郎衆議院議員と同じく、小泉進次郎と岡田克也は家柄の力で強力な地盤があり、小選挙区制度の恩恵を受けて300小選挙区の中で選挙に苦労しない全国1位の楽勝で当選する選挙区となっている。
  • 民主党代表時代には、手堅い手腕でボトムアップによる全会一致主義の党運営を行った。一方、党内で意見が分かれた場合には代表預かりとすることが多かった。
  • 演説の内容が細かく、大下英治の著書によると、民主党の藤田幸久元衆議院議員が有権者に「小泉総理は生命保険のキャッチフレーズを提示したが、岡田代表は約款を読んでいる」と揶揄されたと言った。
  • 派閥政治を嫌い、党内のどのグループにも属していない。ただし、渡部が呼びかけた反小沢系の議員グループ七奉行の会には名を連ねており会合にも参加するなど、将来の総理・党代表を意識して党内の有力議員との連携は図っている。
  • 民主党政権が成立した後の与党時代になってからは公務の都合と警備の重要さで回数が少なくなったが、野党時代から選挙活動として定期的に何度も地元三重県の三重3区桑名市いなべ市・四日市市北部「富田地区」・菰野町の4箇所を重点)に座談会と呼ばれる対話集会を行っている。
  • 岡田家は、三重2区の(四日市市中部地区の出身)であり、出身地から考慮すると三重2区(四日市市南部鈴鹿市亀山市)から立候補するのが正当であり出馬計画もあったが、鈴鹿市を地盤としていた北川正恭三重県知事の後継者となった中川正春との調整で、三重3区(四日市市北部・桑名市・母の実家の三重郡菰野町いなべ市など)から立候補する事とした。桑名市出身の山本幸雄から桑名市の地盤と、山手満男東洋紡績出身の四日市市の政治家)→田中覚(四日市市塩浜地区出身の三重県知事)が地盤としていた岡田家の出身地の四日市市を岡田が地盤として継承した。
  • 三重3区では対立候補の平田耕一が四日市市北部の(富田地区富洲原地区)を地盤としており、近隣の三重郡川越町に岡田克也選挙事務所を設置して、四日市市北部を重点に選挙活動をしている。四日市市北部では、岡田屋呉服店を前身とするスーパー経営者四日市岡田家と、千代田建材を前身とする建材屋の平田家が成金化して、名門実業家となった四日市中部地区岡田家と四日市富洲原平田家がライバル関係である。
  1. 岡田克也の実家の岡田家が(イオングループ経営者
  2. 平田耕一の実家の平田家が(チヨダウーテの経営者)
  1. 岡田克也は四日市市中部地区出身者である事を強調していた。
  2. 平田耕一は四日市市富洲原地区の地域出身であると強調していた。

エピソード

  • 会合に出席するため朝4時半に目覚まし時計をセットしたものの1時間寝過ごし、人生で初めて寝坊をした。翌日も寝坊してしまい、おかしいと思って時計を調べてみると壊れていたという。その時計は初当選以来20年近く使い続けていたものだった[69]
  • 業界からの政治献金だけでなく、支持者からの贈り物は一切受け取らず、直筆礼状を添えて送り返しているというが、贈り物として届いた伊勢エビを受け取らず腐らせてしまったり、生花の贈り物も拒否して枯らしてしまったという出来事もあった。
  • 自民党時代、総務会で亀井静香と取っ組み合いの喧嘩をして新聞に載ったことがある[70]
  • 小沢一郎は初当選時の幹事長であり、以後新進党解党まで行動を共にし、自ら「政治の世界の父」と呼ぶ人物でもある。しかし以後は小沢の民主党入り後も微妙な関係で、「きちんと話をしたことは一度もない」[71]とされる。2010年(平成22年)の小沢の国会招致を巡っては、岡田が幹事長、小沢が一議員と立場が逆転していたが、小沢との会談をするのにも苦労する有様だった。
  • 議員在職当時の大橋巨泉が『毎日新聞』のインタビューで、岡田の真面目さを「議会が終わったらすぐ図書館」と形容した。大橋流の例え話だったのだが、大橋によると、後日2人が会った時に岡田が「僕は議会の後図書館に行ったことはありません」と真面目に反論したという。
  • 利益供与や金銭の遣り取りに敏感で、同僚議員との食事であっても割り勘を原則とするため、党若手議員との懇親会を開いた際も、「食事を済ませてから来てほしい」と事前に通告していた[72]
  • 時間厳守に敏感で、2011年(平成23年)3月に発生した東北地方太平洋沖地震においても、定期開催されることになった実務者会合について、議論の中身よりも開催時間(1時間)に強いこだわりを見せ、実際に第一回の実務者会合において、福島第一原子力発電所事故(原発)の問題で議論が行われている最中に、「時間もないので物資輸送の件に移りましょう」と発言して原発問題の議論を打ち切り、開始からちょうど1時間後に終了宣言し、会合そのものを打ち切っている[73]
  • AERAは真面目な性格が女性に人気で、街頭演説では韓流スターのような熱い眼差しを受けていると記事にしている[74]

主な発言

「今の説明、私は納得できません。新進党と書いていただいた有権者に対する裏切りだ」
1997年(平成9年)、両院議員総会で新進党解党を宣言した小沢一郎に対し[75]
「イラクの状況から米軍が駐留する責任はあるが自衛隊は憲法上撤退すべきだ」
ハワード・ベーカー駐日米国大使との会談中に。
金大中前大統領が言われた未来志向のレールの上をうまく走っていないとすれば、主に日本側に問題があると思う」
羅鍾一駐日大使との会談中に。
「(拉致被害者)5人の方が『いたい』というなら日本にとどめておくことは当然だが、政府が決める必要はなかった。そのことで北朝鮮が態度を硬化させた。世論に迎合しすぎだ」
2003年(平成15年)1月19日、拉致被害者5人を北朝鮮に返さないとした日本政府の方針に対してのNHK討論番組における発言。
アルコール中毒で悩んでいる人の目の前にビールを置いたり、糖尿病患者の目の前に饅頭を置いたりするようなものだ。が深くなるだけで何の意味もない」
2008年(平成20年)12月23日、鹿児島県曽於市での講演での発言。2008年度第2次補正予算案に盛り込まれた定額給付金について[76]
「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」
2009年(平成21年)10月23日、国会開会式での天皇のお言葉について閣議後の閣僚懇談会で、宮内庁に対しお言葉の見直しを検討するよう求めた[77]。詳細は第173回国会#その他を参照。
「公約と(鳩山首相の)選挙中の発言とはイコールではない。公約というのはマニフェストだ」
2009年(平成21年)11月4日の国会答弁において普天間基地移設問題についての答弁[78][79]。民主党は2007年(平成19年)7月の国会答弁にて「自民党が選挙の際の発言を履行していない」という趣旨の主張をしていた[78]
「事務的なミスを大きく取り上げ、いちいち大臣を辞めないといけないと結びつけるのは適切なのか」
前原誠司外務大臣が在日外国人から政治献金を受けていたことについて[80]
政府の邪魔しないでくれ」
東北地方太平洋沖地震に際して、野党側からの地震災害救助対策について協力の申し入れを断る際の要請文において同趣旨の発言があったと自民党小池百合子総務会長が言及している[81]
デフレ時代は資産の無い若い人には絶対にチャンスだ。安く物が買えるなど悪いことばかりではない」
2012年(平成24年)3月22日、ニコニコ生放送の番組に出演し、努力が報われにくい現代の若者に向けての持論[82]
「原発事故は幸運だった」
2012年(平成24年)10月6日に行なわれた三重県桑名市での講演にて、福島第一原子力発電所事故について「いろんな関係者が言っているが、事故は幸運だった。最悪の場合は東京圏も含めて汚染される可能性があった」と発言。その後「そういう(最悪の)事態になれば、福島でももっと影響が出て、高濃度に汚染されていた。現状でもひどい状況だが、最悪の事態を考えれば幸運にも助けられたということだ」と発言の意図を説明した[83]

その他

  • 1990年(平成2年)2月3日の衆院予算委員会で日本共産党正森成二議員から海部俊樹首相らに対し、岡田が自民党から初当選した第39回衆議院議員総選挙において、ニックネーム岡田カツ子さんと呼ばれている、ジャスコの従業員(パートをしている主婦を中心)を動員して選挙活動を行ったとの指摘が行われた[84]
  • 2004年(平成16年)、当時、岡田と民主党が批判していた小泉純一郎総理大臣の、勤務実態のない不動産会社に関するプロフィールへの記載の問題に関連して、自らの通産省勤務時代に岡田家の資産管理会社の取締役を務めていたこと、自らのプロフィールでその事実が記載されていないことが週刊文春の取材で明らかになり、これが公務員の兼職禁止規定違反にあたるものだったとして代表定例会見で説明、謝罪している。同会見において、自ら追求してきた小泉の問題と比較した質問に対し、説明の場を設けていることを理由に、「開き直っている小泉さんと一緒くたに議論されることは、極めて不本意」という旨の弁明を行った。また、自身の釈明がマスコミ取材まで行われず、結果的に公訴時効以後にまでに時間がかかったこと、自身のプロフィールに公務員法違反時の勤務先の記載のないことに関しては、経歴をどこまで書くかは本人に委ねられていると主張し、隠していたわけではないと釈明した。この主張により、自身が追求してきた小泉の問題に関して、自らお墨付きを与えることになり、この問題は立ち消えになったほか、兼職禁止規定違反とその釈明に至る一連の経緯について、当時国家公務員法を知らなかったことが原因とした岡田の説明に対し、岡田が法学部出身であることなどから「俄かに信じがたい」と『週刊文春』が批判している。
  • 2006年(平成18年)の秋篠宮妃紀子懐妊に際し、同年2月6日の予算委員会開会中にその一報がもたらされ、小泉純一郎首相に対する質問中に「秋篠宮妃紀子さまがご懐妊されたということで、国民の皆様と共にお喜びを申し上げたい」と述べたが、紀子妃の名前を「ノリコ様」と誤読した。
  • 2009年(平成21年)7月、鳩山由紀夫の「故人献金」に端を発する政治資金報告書虚偽記載問題に関連して、鳩山の対応を「自民党にも様々な疑惑があるが、自ら非を認めて謝罪をしたのは鳩山氏だけだ」と評価した[85]
  • 2009年(平成21年)3月、「岡田克也と(民主党の当時の代表との不適切な関係を指摘されている)西松建設が怪しい」との見出しで報道した『週刊朝日[86]に対し、誤解を与える広告であるとして抗議をおこなった[87]。後日、『週刊朝日』側が誤りを認め、謝罪している[88]
  • 2007年(平成19年)、新興宗教崇教真光の第48回秋季大祭に出席し、民主党の石井一副代表と共に祝辞を述べている。
  • 2009年(平成21年)元旦に、立正佼成会四日市教会で年越参り、立正佼成会桑名教会で元旦参りをしている[89]
  • 2013年(平成25年)2月6日朝日新聞が夕刊1面で同年1月30日午前10時頃に中国海軍フリゲート艦海上自衛隊護衛艦に対して火器管制レーダーを照射した事件[90]と同様のレーダー照射が、2012年(平成24年)9月に野田政権尖閣諸島国有化する前にも複数回あったことを政府関係者の話として報道[91]し、日本経済新聞は翌7日付朝刊で『当時の野田佳彦首相や岡田克也副総理らは「日中関係を悪化させたくないとの判断で公表を避けた」と関係者は語る』と報道した[92]。これについて岡田は日本経済新聞に謝罪・訂正文の掲載を求める抗議文を公表し[93]、「事実に反する記事を本人への確認もなく書いたということは、許されないことだと思います」「この時期にこういう「リーク」が出てくるというのは、特定の意図を持って流された可能性が非常に高い」と主張[94]。また小野寺五典防衛大臣が「総理に報告するような事案については、今回のこと(1月19日と30日のレーダー照射)以外には発生していないということであります」と明確に答弁したことを挙げて、「当時の総理や副総理、あるいは、政権が代わったあとの防衛大臣が明確に否定していることについて、たとえ伝聞であったとしても、いかなる根拠を持って、中国を刺激するから公表をしないようにと我々が述べたということを、見出しでも書いたのか。そのメディア(日経新聞)に対して、きちんと説明してもらいたい」[95]と述べている。また、野田前首相も「当時そのような報告を受けた事実はなく、防衛省も事実はなかったことを認めている」との談話を発表し[96]、全面的に否定した。野田、岡田の反論や小野寺の国会答弁を受けて、日本経済新聞は2013年3月8日付朝刊で、「関係者の話を総合すると当時、中国からのレーダー照射とみられる情報は政権内で広く共有されず、野田、岡田両氏は状況を把握していなかったことになる」と報じ、2013年2月7日付朝刊記事を事実上訂正した。

所属団体・議員連盟

家族 親族

岡田家の教育方針

  • 著書やブログによれば、大学4年生の東京大学を卒業する前に就職先として決定していた通産省以外に、東大法学部で勉強した法律の知識に対する向学心から司法試験に興味を持ち、将来官僚や政治家になるために職業上有利な弁護士資格の獲得に挑戦する事とした。実際は本気ではなかったので「記念受験」として法律の勉強にチャレンジしたが不合格となった。東京大学に入学した事についても、岡田家は父岡田卓也と兄岡田元也早稲田大学出身なので東大合格にこだわっていなく、高望みをした東大の記念受験で合格したと述べている。父は、私立ではなく四日市市立(公立学校)の中部西小学校と中部中学校にあえて息子たちを通学させた。

系譜

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岡田家
  • 1887年明治20年)に岡田屋の5代目岡田惣右衛門が四日市久六町にあった店舗を四日市辻へ移転した。 屋号を「岡田屋」と改称した。現在でも北勢町治田には、岡田本家がある。岡田屋となった四日市岡田家は分家であり、家系図や治田鉱山(銀銅山)関係の古文書が複数残っている。古文書の記述や口伝によると、岡田家の祖先は治田鉱山千姫の化粧料として与えられた江戸初期に、鉱山を管理する江戸幕府の役人として治田(現いなべ市)に来た。その後、子孫が四日市に移り住み、5代目の岡田惣右衛門が個人経営から株式会社組織・岡田屋呉服店に改組した[98][99]
  • 岡田屋の近代化の貢献したのは5代目岡田惣右衛門である。6代目岡田惣一郎1927年(昭和2年)に早死にをした後は長男の卓也が2才だったので姉が後見人となった。7代目の岡田卓也は単なる一地方の呉服屋にすぎなかった岡田屋を国内最大規模の流通企業であるイオングループに発展させて事業を拡大させた。克也は四日市市堀木に自宅があったが、長女と長男が東京都内のマンモス大学に進学した事を機に、2008年(平成20年)4月に東京の議員宿舎を引っ越した事をブログなどで後援者に公表している。


                                                                  ┏8代目岡田元也
初代岡田惣左衛門━2代目岡田惣右衛門━3代目岡田惣助━4代目岡田惣八━5代目岡田惣右衛門━(女系養子)6代目岡田惣一郎━7代目岡田卓也━╋岡田克也
                                                                  ┗高田昌也

脚注

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関連項目

参考文献

テンプレート:参照方法

  • テンプレート:Cite web
  • 『政権交代―この国を変える』出版社 講談社、2008年6月、ISBN 406214607X
  • 『岡田克也、父と子の野望』榊原夏、出版社扶桑社、2004年、ISBN 4594048250
  • 「岡田語り」』。著者岡田克也。出版社、武田ランダムハウスジャパン。平成22年6月24日発売。1500円(税込)。
  • 「政権交代この国を変える」 著者岡田克也。出版社 講談社。発売日平成20年6月。販売価格1,500円(税込)。

外部リンク


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テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
菅直人 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 国務大臣副総理
2012年 |style="width:30%"|次代:
麻生太郎 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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蓮舫 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 特命担当大臣少子化対策
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中川正春 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
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海江田万里

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  1. テンプレート:Cite news
  2. テンプレート:Cite news
  3. 滋賀報知新聞2010年10月5日
  4. 岡田克也父と子の野望163頁~164頁
  5. (生い立ちについての参考文献は著書「岡田語り」の引用である。平成22年6月24日発売)
  6. テンプレート:Cite journal
  7. 日テレNEWS242009年5月17日
  8. 【民主党役員・閣僚人事】幹事長、岡田氏に決定 産経新聞 2010年9月16日閲覧
  9. asahi.com asahi.com2010年9月17日
  10. 毎日jp2011年9月2日
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  12. 12.0 12.1 12.2 12.3 12.4 「人事異動」『官報』号外特1号、国立印刷局2012年1月13日、1面。
  13. 民主党が2000年から維持してきた同選挙区の議席を失う。
  14. 読売新聞』2004年7月16日。
  15. テンプレート:Cite web
  16. 国会会議録2005年6月2日
  17. 岡田副総理が東京都の「尖閣買収」をあらためて批判!-「領土係争」を認める発言に中国は大歓喜!
  18. 18.0 18.1 テンプレート:Cite web
  19. 2004年6月におこなわれたウリ党議長(当時)辛基南との会談
  20. 2009年10月7日、東京外国特派員協会の講演
  21. 2010/07/16 09:02 朝鮮日報 韓国併合100周年:日本政府が「謝罪談話」を検討
  22. 産経新聞 丹羽大使、尖閣購入支持「おかしい」 外交軽視の実害 与党からも批判 2012.6.8 01:27 [1]
  23. テンプレート:Cite news
  24. テンプレート:Cite news
  25. テンプレート:Cite news
  26. テンプレート:Cite news
  27. 貴紙掲載記事について2013年2月4日
  28. 「櫻井よしこ氏招き勉強会 外国人地方参政権で民主推進派」 (産経新聞) 2008年03月12日
  29. 公式ブログ2008年5月20日
  30. 公式ブログ2009年1月13日
  31. 衆議院予算委員会 平成16年02月10日
  32. テンプレート:Cite web
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  34. 「民主党代表候補討論会」 13頁。
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  36. 「民主党代表候補討論会」 5-6頁。
  37. テンプレート:Cite web
  38. 日銀正副総裁人事―デフレ脱却と経済成長をやり抜く静かな闘志を(岡田克也)BLOGOS(ブロゴス) 2013年03月13日
  39. 民主党衆議院議員 岡田かつや | 発言・報道 | 2009年06月11日(木)[2]
  40. テンプレート:Cite press release
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  46. 『読売新聞』2009年10月12日23時00分。
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  48. テンプレート:Cite news
  49. テンプレート:Cite news
  50. テンプレート:Cite news
  51. テンプレート:Cite news
  52. テンプレート:Cite news
  53. ロイター2008年6月18日
  54. 共同通信2010年1月17日
  55. テンプレート:Cite news
  56. 56.0 56.1 56.2 テンプレート:Cite news
  57. テンプレート:Cite news
  58. 58.0 58.1 テンプレート:Cite news
  59. テンプレート:Cite web
  60. テンプレート:Cite web
  61. 著書『政権交代』
  62. 岡田克也父と子の野望162頁12行目~163頁6行目
  63. 岡田克也父と子に野望161頁13行目
  64. 岡田克也父と子の野望162頁1行目~2行目
  65. 岡田克也父と子の野望162頁3行目~11行目
  66. 平成6年発行の四日市市立中部西小学校の保護者だよりより
  67. 平成6年の伊勢新聞で記事で、匿名の誘拐未遂事件の記事がある。未遂であったので公表されなかったが四日市南警察署の警備が付いた
  68. 「岡田語り」』著者岡田克也。出版社、武田ランダムハウスジャパン。平成22年6月24日発売。1500円(税込)
  69. テンプレート:Cite web
  70. 早野透『政治家の本棚』
  71. 週刊新潮2010年11月18日号
  72. http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090626AT3S2502J25062009.html
  73. テンプレート:Cite news
  74. 2009年9月14日 AERA 真面目さがたまらない。
  75. asahi.com2010年9月16日
  76. テンプレート:Cite news
  77. テンプレート:Cite news
  78. 78.0 78.1 テンプレート:Cite news
  79. テンプレート:Cite news
  80. 岡田幹事長が前原外相の続投支持産経ニュース 2011年3月5日
  81. 9分30秒あたりから自民党・小池百合子総務会長 定例記者会見 2011年3月15日
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  84. 衆議院予算委員会 2号1990年2月3日
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  86. 週刊朝日 2009年4月3日号
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  94. 日経・レーダー照射報道―事実に反し確認もない、検証と訂正を公式ブログ 2013年2月8日
  95. レーダー照射報道―防衛相も否定、日経は誠意ある回答と訂正を公式ブログ 2013年2月20日
  96. 野田佳彦前代表が中国レーダー照射事案の一部報道に「事実無根」のコメント民主党ホームページ 2013年2月7日
  97. 母の妹の夫(=義叔父)。だが、母とはいとこ同士(=いとこおじ)でもある。
  98. livedoor ニュース、榊原夏著『岡田克也、父と子の野望』より
  99. 岡田久保著『オカダヤ社史』