宏池会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 組織

宏池会(こうちかい)は、自由民主党の派閥。通称は岸田派

流れとしては、池田派前尾派大平派鈴木派宮沢派加藤派→(二派閥分裂※)→古賀派岸田派

※ 2000年11月の加藤の乱に伴う派閥分裂中は、
  • 加藤派小里派谷垣派
  • 堀内派丹羽・古賀派古賀派
の二派閥に分かれていたが2008年5月13日、分裂していた二派閥が統一。

概要

創設者の池田勇人以来、大平正芳鈴木善幸宮沢喜一と4人の総理総裁を輩出、野党時代にも河野洋平谷垣禎一と2人の総裁を出しており、自他共に保守本流の名門派閥と見なされてきた。元来、池田を取り巻く官僚出身の議員やスタッフを中心に形成されたという沿革もあり、今日に至るまで政策に通じた議員が多く在籍する。しかし政策には強いが政局に弱いなどとも評され、「公家集団」などと揶揄されることもしばしばみられる。

当初から離合集散を繰り返してきた自民党各派閥に比べて、各会長の下一致結束して派閥を継続してきたとされ、自民党草創期の名称(宏池会)を今日まで維持している唯一の派閥でもある。しかし1993年の野党転落を機に派の主導権争いが激化して以降は分派や合流を繰り返しており、現在の自民党には宏池会に起源を持つ派閥が他に2つ存在する(為公会有隣会)。

政策面では、歴史的に明確な一貫性があるわけではないが、自民党内では中道派に属し、特に安全保障では日米関係を重視しながらも、ややハト派的傾向が見られる。小泉政権以降、自民党の主流が保守化する中、後述の宏池会再結集においては意識的にリベラル派の再結集をアピールした。

「宏池会」の名は、後漢の学者・馬融の「高崗の榭(うてな)に臥し、以って宏池に臨む」という一文(出典は『広成頌』)から、陽明学安岡正篤が命名したものである。池田勇人の「池」の字、池田の出身地である広島の「ひろ」を「宏」に掛けているともいわれる。

創設以来、赤坂日本自転車会館(赤坂貿易会館→日本短波放送会館を経て現在のビル名)1号館に事務所が置かれていたが、再開発によりビル取り壊しが決定したため、永田町全国町村会館に移った[1]

沿革

結成

1957年池田勇人を中心に結成された。

池田は、旧自由党吉田茂派(吉田学校)を同門の佐藤栄作と分ける形で派閥を形成し、池田の下には前尾繁三郎大平正芳黒金泰美鈴木善幸宮沢喜一小坂善太郎など官僚系を中心とした人材が結集した。また、派のブレーンにはやはり大蔵官僚出身の下村治・田村敏雄などが集まり政策を立案していった。

前尾・大平派時代

池田の退陣・死去後は前尾繁三郎が派閥を継承したが、佐藤四選を許した前尾に飽き足りない田中六助田沢吉郎塩崎潤ら若手議員は大平正芳を担いで、前尾を会長から下ろした(大平クーデター)。

大平派においては、伊東正義斎藤邦吉佐々木義武が「大平派三羽烏」と呼ばれた。大平は総理総裁に就任すると椎名裁定以来の総幹分離の慣例を破って総裁派閥である斎藤邦吉を幹事長に起用し、大平―斎藤ラインで1979年衆院選を行い、自派閥衆議院議員を50名に増やした。

鈴木派・宮沢派時代

また、大平急逝後、鈴木善幸が宏池会代表(のち会長)・首相となるが、そのもとでは、宮沢喜一と田中六助の間に「一六戦争」と呼ばれる暗闘が繰り広げられた。宮沢は早くから将来を嘱望される存在であったものの、人望と政治的手腕に欠け、一方の田中(六)は鈴木善幸の擁立や新自由クラブとの連立工作などで存在感を増していく。背景には宮沢嫌いで知られる田中角栄と、宮沢と同じく大蔵省出身の福田赳夫による「角福戦争」がある。

鈴木退陣後は中曽根康弘総裁の下で主流派を占めていたが、中曽根が田中派に傾倒していくに従って溝が広がり、「半主流派」などと揶揄される。二階堂擁立構想では、鈴木ら派幹部が主導的役割を演じた。田中(六)が糖尿病の悪化で政界を去ると、鈴木は宮沢に派を禅譲。宮沢は1987年自民党総裁選に出馬するも、「中曽根裁定」により竹下登に敗れた。

宮沢は1991年に竹下派の後押しもあって念願の総裁に就くが、その竹下派の分裂が引き金になり、自民党は野党に転落することになった。野党転落後は宮沢が会長に留任したまま、宏池会の河野洋平が総裁となり、1994年に自社連立を実現させ、与党に復帰する。しかし河野総裁の任期中から宮沢の後継争いも絡んで加藤紘一と河野との対立が深刻化し(「KK戦争」)、加藤が1995年の総裁選で橋本龍太郎を支持したこともあり、河野は総裁続投断念に追い込まれる。4ヶ月後には村山富市の総理辞任によって橋本が総理に就任。河野は総理大臣に就任しない最初の自民党総裁となった。

宮沢後継を巡る対立はその後も燻り続けたが、宮澤から加藤へ派閥の継承が決定的になると1998年12月に河野は派閥を離脱、派内の反加藤議員を結集して翌年1月に大勇会(現:為公会)を結成した。長らく結束を保ってきた宏池会にとって最初の分裂だったが、翌年には更なる激震に見舞われることになる。

加藤の乱と派閥の分裂

2000年11月に野党から提出された森内閣不信任案に加藤は同調。しかし、派閥全体を動かすことができずに尻すぼみに終わった(加藤の乱)。結果、加藤を支持するグループと、反加藤グループ(堀内派)に分裂し、両派が互いに「宏池会」と名乗る異例な事態となった(加藤グループは、2年後に加藤が秘書のスキャンダルで議員辞職に追い込まれて小里貞利が継承。その後小里が政界引退し、2005年9月26日の派閥総会で谷垣禎一が会長に就任)。

宏池会分裂時(2000年11月 - 2008年5月)の各派閥についての詳細は、以下の項目も参照。

小泉政権

5年半の長期政権となった小泉政権においては、谷垣派は谷垣自身がほぼ一貫して重要閣僚を担っていたため事実上の主流派として政権を支える一方、堀内派は政権に対する距離が定まらず、2003年の総裁選などでも派内対立が激化した。2005年のいわゆる郵政法案とその後の郵政解散を巡っては、堀内会長が反対票を投じて離党に追い込まれ、古賀も棄権票を投じたため誓約書を書かされた上でようやく公認を得るなど苦汁を舐めさせられている。小泉の「脱派閥」方針で一貫して派閥の弱体化が進んだ時期だったが、相対的に小泉の出身派閥である清和会の存在感が増していくと、それに対する対抗の意味もあり、宏池会の再結集が語られるようになっていった。

宏池会結集構想

2006年に入ると、河野グループも含めた旧宮澤派の流れを汲む三派の再結集を目指す大宏池会構想が具体的に表面化した。谷垣と河野グループ(当時)所属の麻生太郎がポスト小泉に名乗りを上げているため、2006年9月の自民党総裁選が終了した10月頃の合同で三派幹部の認識は一致しており、「大宏池会」への流れは加速していると見られてきた。

ところが、総裁候補を有しない丹羽・古賀派内部では若手議員を中心に安倍待望論が根強く、丹羽雄哉・古賀誠も事実上の安倍支持を表明、更に丹羽・古賀派のベテランである柳澤伯夫が安倍陣営の選対本部長に就任(後に厚生労働大臣)。安倍が勝利した総裁選後の人事では丹羽・古賀派からは丹羽が総務会長に就任したのに加え、4人を閣僚に送り込み、河野グループ(2006年12月以降、麻生派)でも麻生外相が留任するなど主流派となったのと対照的に、谷垣派は完全に要職から外れた。さらに総裁選後は丹羽・古賀派の古賀系の議員による丹羽外しの動きが見られた。

翌2007年、安倍退陣後の総裁選においては、総裁選の過程で早くから谷垣・古賀が派として福田康夫支持を打ち出し、対立候補の麻生を一転劣勢に追い込んだため「麻生包囲網」などと言われた。福田政権においては古賀・谷垣自ら三役入りする一方で、麻生は入閣を拒否し反主流派にまわった。かつての盟友である麻生・古賀の関係が冷え込んだのもこの時期である。

このように三派の関係や各派内部においても溝が生じたため、総裁選を過ぎた後は、大宏池会としての合流は困難な情勢となった。

古賀派・谷垣派の再合流

他方、上述の総裁選をきっかけに谷垣・古賀両派の関係は緊密化し、2007年末になって麻生派抜きの「中宏池会」として古賀派と谷垣派が2008年5月にも再合流することで両派閥が合意。これに伴い「宏池会」の名称で2つの派閥が並立する状態は7年ぶりに収束することになった。

その後、再合流は通常国会前が望ましいとの観点から2008年5月13日に前倒しされ、古賀が派閥会長に、谷垣が代表世話人に、堀内光雄が名誉会長に、逢沢一郎が事務総長に、それぞれ就任した。

中宏池会の成立により宏池会(2008年10月15日現在[2]61人)は、清和政策研究会(2008年6月20日現在[3]玉澤徳一郎含めて89名)、平成研究会(2008年2月13日現在[4][5]69人)に次ぐ第3派閥となり、ハト派勢力として党内に影響を与えると見られた。

総裁派閥に

自民党が野党に転落した第45回衆議院議員選挙では宏池会も所属衆議院議員を25人と半減させたが、第1派閥の清和会、第2派閥の平成研がそれぞれ1/3に議席数を減らしたため、衆議院では第1派閥となった。

麻生総裁退任を受けた2009年9月の自民党総裁選では、谷垣禎一が勝利。自派も含めて幅広く支持を集めての圧勝だったが、小野寺五典が自ら立候補を模索した上河野太郎支持に回った他、菅義偉も派閥を退会して河野を積極的に支持するなど、総裁選は派閥単位の動きよりは世代対立の様相を呈した。宏池会が総裁派閥となるのは、皮肉にも前回の野党転落時の河野洋平以来14年ぶりだが、党中央への権限集中をもたらす小選挙区制が定着する一方、国政選挙での相次ぐ退潮で議員の数も減った状況で、総裁派閥としてのメリットを生かせるかは微妙な情勢であった。

古賀派から岸田派へ

総裁再選を目指し、2012年自由民主党総裁選挙への立候補に意欲を示す谷垣は、出身派閥の領袖である古賀へ支援を要請した。しかし、古賀は「若い人へバトンタッチするべき」と述べて、谷垣への支援を拒否した。派内の旧谷垣派議員らが反発する中、古賀は参議院議員林芳正擁立に乗り出した。出身派閥の支援を得られなくなった谷垣は脱派閥を打ち出し、党内最大勢力となった無派閥議員の支持を得ようとするも、推薦人の確保すらままならなくなり、最終的に、幹事長の石原伸晃が立候補することを受け、執行部内の候補一本化を理由に立候補の断念に追い込まれた。次期総選挙における自民党の政権奪還が確実視される中、谷垣は総理の座を目前で逃すことになったが、こうした展開は皮肉にも、やはり宏池会出身の総裁であった河野洋平のケースと酷似したものだった[6]

こうした状況に派内では対立が激化。事態の収拾のため、古賀は会長職の辞任を表明した。後任には谷垣側近の逢沢一郎を充て、派内の融和を図ろうとするも、谷垣系の反発は収まらず、逢沢や川崎二郎などの約10人の旧谷垣派出身議員が退会届を提出した。逢沢らは、総裁退任後に宏池会への復帰を見送った谷垣や、谷垣の再選を支持した議員らと共に、「有隣会」を旗揚げし、宏池会は再び分裂した。

結局、新会長には古賀に近い岸田文雄が就任し、ナンバー2の座長には林芳正が、名誉会長には古賀が就くこととなった。これを受け、以後マスメディア等では岸田派と呼ばれるようになる。総裁選での支援候補の敗北や、派閥の分裂で、求心力が大幅に低下した古賀は、第46回衆議院議員総選挙に立候補せず、政界を引退した。

総選挙後に誕生した第2次安倍内閣では岸田が外相に就任したのをはじめとして林、小野寺五典根本匠の4人が入閣した。

現在の構成

役員

名誉会長 会長 座長 副会長 事務総長 最高顧問
古賀誠(議員引退済み) 岸田文雄 林芳正 (不明) 望月義夫 金子一義

衆議院議員

金子一義
(9回、岐阜4区
岸田文雄
(7回、広島1区
鈴木俊一
(7回、岩手2区
塩崎恭久
(6回・参院1回、愛媛1区
竹本直一
(6回、比例近畿
根本匠
(6回、福島2区
宮腰光寛
(6回、富山2区
望月義夫
(6回、静岡4区
山本幸三
(6回、福岡10区
小野寺五典
(5回、宮城6区
北村誠吾
(5回、 長崎4区))
福井照
(5回、高知1区
上川陽子
(4回、静岡1区
三ツ矢憲生
(4回、三重5区
左藤章
(3回、大阪2区
寺田稔 
(3回、広島5区
葉梨康弘
(3回、茨城3区
木原誠二
(2回、東京20区
盛山正仁
(2回、兵庫1区
岩田和親
(1回、佐賀1区
古賀篤
(1回、福岡3区
國場幸之助
(1回、沖縄1区
小島敏文
(1回、比例中国
小林史明
(1回、広島7区
新開裕司
(1回、比例九州
末吉光徳
(1回、比例九州)
武井俊輔
(1回、宮崎1区
堀内詔子
(1回、比例南関東
藤丸敏
(1回、福岡7区
村井英樹
(1回、埼玉1区
吉川赳
(1回、比例東海
渡辺孝一
(1回、比例北海道

(計32名)

参議院議員

林芳正
(4回、山口県
岸宏一
(3回、山形県
松山政司
(3回、福岡県
藤井基之
(2回、比例区
水落敏栄
(2回、比例区)
金子原二郎
(1回・衆院5回、長崎県
宮澤洋一
(1回・衆院3回、広島県
古賀友一郎
(1回、長崎県)
二之湯武史
(1回、滋賀県
馬場成志
(1回、熊本県
森屋宏
(1回、山梨県

(計11名) [7]

備考

脚注

  1. [1]
  2. 2.0 2.1 田中直紀氏の離党了承 自民党党紀委(産経新聞 2008/10/15 13:34)
  3. 入籍の次は入会 大塚拓、丸川珠代両氏、町村派入り(産経新聞2008年6月20日19時38分)
  4. 自民党津島派に平口洋氏が入会(日本経済新聞2008年2月14日7時3分)
  5. 【自民党】津島派に平口洋衆院議員(広島2区、当選1回)が入会 同派は69人(衆院47人、参院22人)に(2ch)
  6. 「谷垣総裁を再選させるな」17年前と重なる選挙目当て週刊文春2012年9月12日
  7. 国政情報センター・刊「國會要覧」第五十版 (ISBN978-4-87760-221-5)
  8. 田中氏離党“角栄血脈”自民から絶える(日刊スポーツ2008年9月27日9時31分)
  9. 田中直紀参議員 自民離党届を提出(スポニチ2008年09月27日)

関連項目

テンプレート:自由民主党 (日本)