森繁久彌
テンプレート:ActorActress 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - 2009年11月10日[1])は、日本の俳優、歌手、コメディアン[2]、元NHKアナウンサー。最終期はアクターズセブン所属。森繁久弥とも表記される。身長:171cm、体重:78kg、血液型:B型。 大阪府枚方市出身。
目次
略歴
出生
旧制第二高校教員、日本銀行、大阪市庁(現・大阪市役所)、大阪電燈等の重役を経て後に実業家となった父・菅沼達吉と大きな海産物問屋の娘であった母・馬詰愛江との間に出来た3人兄弟の末っ子。久彌という名前は、父が実業家・岩崎久彌と深い親交を持っていたことに由来する。江戸時代には江戸の大目付だった名門の出身だった。しかし久彌が2歳の時、父が死去。母方の実家も色々と子細、経緯等があって7歳の時に母方の祖父の姓を継いで「馬詰」姓から「森繁」姓となった。長男・弘は馬詰家を継ぎ、次男・俊哉はそのまま菅沼家を継ぎ三男・久彌は森繁家を継ぎ名字も「森繁」となる。戸籍上の養父は南海鉄道の鉄道技師であった森繁平三郎である。幕末の奥儒者・成島柳北は大叔父にあたる。父・菅沼達吉は大目付・森泰次郎の次男であり、菅沼家の養子となった。泰次郎と成島は松本家の出身の兄弟であり(泰次郎が兄)、それぞれ森家、成島家の養子となっている。
学生時代
堂島尋常高等小学校、旧制北野中学校、早稲田第一高等学院を経て1934年に早稲田大学商学部へ進学。在学中は演劇部にて先輩部員の谷口千吉や山本薩夫と共に活動。この頃に萬壽子夫人(当時、東京女子大学の学生)と知り合う。その後、山本らが左翼活動で大学を追われてからは部の中心的存在となりアマチュア劇団に加わり築地小劇場で『アンナ・クリスティ』を上演した。また吉本興業の社長であった八田竹男は北野中学校時代からの同級生。
演劇の世界へ
1936年、必修とされていた軍事教練を拒否して大学を中退。長兄の紹介で東京宝塚劇場(現・東宝)の東京宝塚新劇団へ入団。その後は日本劇場の舞台進行係を振出しに東宝新劇団、東宝劇団、緑波一座と劇団を渡り歩く。下積み時代は馬の足などしか役が付かなかった。日劇で藤山一郎ショーの舞台進行を務めた時、藤山に頼み込み通行人の警官役で舞台に立つも全くウケなかったなどの辛酸を嘗めた。座長の古川ロッパに認められた緑波一座では、盟友となる山茶花究と出会う。1937年、退座。
1939年、NHKアナウンサー試験に合格。アナウンサーになったきっかけは「徴兵制度を避ける為。海外へ赴任出来る当時としては数少ない仕事であったから」と、後の著書に記している。3ヶ月の養成期間終了後は、満州・朝鮮各地の放送局網拡大によるアナウンサーの海外赴任策により、希望通り満洲に渡り、満洲電信電話の新京中央放送局に赴任した。アナウンサー時代に指導した後輩アナウンサーに糸居五郎がいる。新京中央放送局では、アナウンサー業務の他に、満洲映画協会の映画のナレーション等を手掛け、満映理事長だった甘粕正彦とも交流があった。さらに、満州巡業に来た5代目古今亭志ん生、6代目三遊亭圓生らとも親交を結ぶ。この頃、新京の劇団に所属していた芦田伸介とも知り合う。
1937年に長女、1941年長男(元俳優の森繁泉)1942年次男(久彌の葬儀での喪主)誕生。
川一本を隔てたソ連軍に対する謀略放送(見つかれば確実に生きて帰れないほどの接近をしたこともあったという)を行ったり、蘭花特別攻撃隊(B29に体当たり攻撃を行う航空隊(本土での「震天隊」に相当))の為の歌『空に咲く』の作詞も行っている。1945年、敗戦を新京で迎えソ連軍に連行されるなどして苦労の末、1946年11月に帰国。この年、徳島県海陽町の旅館で宿泊中に昭和南海地震に遭遇している。[3]
人気タレント・俳優として
戦後も劇団を渡り歩く。1947年、東宝で、衣笠貞之助監督の『女優』に端役で映画初出演。1949年、再建されたばかりの新宿のムーラン・ルージュに入団。演技だけでは無くアドリブのギャグを混ぜて歌も歌うなど、他のコメディアンとは一線を画す存在として次第に注目を集める。
1950年、NHKがアメリカの『ビング・クロスビー・ショー』に倣ったラジオ番組『愉快な仲間』を放送。メインの藤山の相手役のコメディアンとして抜擢され、ムーラン・ルージュを退団。『愉快な仲間』は2人のコンビネーションが人気を呼び、3年近く続く人気番組となった。この放送がきっかけで映画や舞台に次々と声が掛かり、一躍人気タレントとなった。同年、新東宝『腰抜け二刀流』で映画初主演。
1952年、源氏鶏太原作のサラリーマン喜劇(河村黎吉主演『三等重役』)に要領のよい人事課長役で助演。後に河村が急逝したこともあって久彌が社長役として主演の「社長」シリーズへと発展する。1953年からマキノ雅弘監督の『次郎長三国志』シリーズに三枚目の森の石松役で出演、シリーズ第8作の『海道一の暴れん坊』で無念の死を遂げるまで大活躍する。ほか1958年から始まった『駅前シリーズ』に全作主演し、伴淳三郎、フランキー堺との絡みが好評を呼び、東宝を支えた大ヒットシリーズになった。
テレビドラマでは、草創期から活躍した。テレビ放送が開始された1953年には、『半七捕物帳』(NHK)や『生と死の一五分間』(日本テレビ)などのドラマに出演している。また1958年には当時竣工間もない東京タワーをタイトルロールにしたテレビ対映画の人間模様を描いた芸術祭参加ドラマ『マンモスタワー』(TBS)に特別出演している。なお、本作は今まで幾度となく再放送され、また横浜の放送ライブラリーで現在も視聴可能の、日本の民放放送製作黎明期のテレビドラマとして貴重な資料となっている。
1955年、豊田四郎監督の『夫婦善哉』に淡島千景と共に主演。この映画での演技は、それまで数々の映画に出演して次第に確立していった久彌の名声を決定的なものにした。同年、久松静児監督の日活『警察日記』で田舎の人情警官を演じこれも代表作の一つとなる。これにより、単なるコメディアンから実力派俳優へと転身する。
1959年の第10回から1965年の第16回まで、7年連続で歌手としてNHK紅白歌合戦に連続出場。このうち、第10回は森繁の歌のラジオ中継の音声が現存し、第14回(1963年)と第16回は映像が現存する。第10回は2009年4月29日放送のNHK-FM『今日は一日“戦後歌謡”三昧』の中で、森繁の歌も含め全編が再放送された(音声はモノラル)。第14回と第16回はNHK-BS2で再放映されている。
1960年代、『しれとこ旅情』(後の『知床旅情』)を作詞作曲し自ら歌うシンガーソングライターとしての活動もしていた。同曲は1970年に加藤登紀子によってカバーされた。
ラジオやテレビでのトーク番組・バラエティ番組等では、その独特な話り口が「森繁節」として親しまれた。舞台では1959年より「森繁劇団」を結成し、持続的に演劇活動を行う。またミュージカル『屋根の上のバイオリン弾き』は1967年の帝国劇場での初演以降900回にわたってユダヤ人・テヴィエ役を演じ、彼の代表作となった。
1982年、佐々木孝丸の後任として日本俳優連合の理事長に就任。1986年、早稲田大学の卒業式に記念講演の講師として招かれた際、大学から卒業証書を受け正式に卒業を認められた。
晩年
1990年に妻・杏子(本名・満壽子)、1999年に長男・泉に先立たれた。長男が行っていた事業清算のため世田谷区船橋にあった大邸宅を売却、等価交換の形で跡地に建設されたマンションのワンフロアに転居、家族及び身の回りの世話をする事務所関係者と住んでいた。
2002年12月、沖縄県で心筋梗塞で倒れ、一時危険な状態に陥ったが無事に回復し、映画「死に花」で復帰した。 2003年には90歳を迎えたことを機に、作家・演出家の久世光彦と<語り森繁、文は久世>の形で『大遺言書』を週刊新潮で連載を開始。後に単行本4冊にまとめられた。当初はこれが最後の仕事と森繁は熱意を持って望んでいたが、諸般の事情から連載終盤は森繁の話が殆ど出て来なくなっていった。
俳優として演技を見せたのは2004年1月2日放送のテレビドラマ『向田邦子の恋文』(TBS)が、1980年代半ば以降慣例となっていた大物芸能関係者の葬式における弔辞も2004年1月の坂本朝一元NHK会長のものが、それぞれ最期となった。
2006年3月に22歳年下の久世が急逝。同3月6日、健康上の理由から周囲が止めたがそれ押し切り、久世の通夜に参列。焼香後一旦は帰路に着くも再び会場へ引き返し焼香を行った。この通夜で「如何して僕より先に逝っちゃうんだよ…、長生きするって辛いのう…。」と嘆き哀しむ姿が森繁が公の場へ現れた最期の姿となった。
2007年2月23日、「最後の作品」と銘打った朗読DVD『霜夜狸(しもよだぬき)』が出されたが1991年に舞台用に録音されながらもお蔵入りになった作品を元に新たに編集したものである。現代社会への憂いを込めた「久弥の独り言」も収録されている(元々は森繁自身が録音する予定であったが、声が弱っていることから親交の深い竹脇無我が代読。主題歌担当者とのツーショット写真は公開されている)。 このDVD発売の際、森繁の近況が関係者から明かされた。それによれば天気のいい日は散歩や観劇に出掛け、食欲も旺盛でフォアグラやステーキ等の肉料理を平らげ、ホットブランデーを愛飲するという元気な日々を送っているというものだった。 またこの際、森繁自身も「体は思うように動かないが心は現役である」というコメントを発表している。 同年に日本俳優連合の理事長の地位を退き、名誉会長になった。
2009年8月、同年7月に風邪を引きそのまま8月3日に至るまで入院中である事が発表された。発熱などの重い症状は7月中に回復したが、痰が出る等の症状が治まらない為に大事をとって退院せずに病院で経過を診る措置がとられた。その後、9月15日に自身が在住する東京都世田谷区内のイベント「第十一回世田谷フィルムフェスティバル」において開かれた『名優・森繁久彌展』へメッセージを寄せ、その中で入院の件にも「皆さんに多大なご心配をおかけしましたが、私自身はおだやかに秋をむかえております」と触れた。
テンプレート:Sister 11月10日午前8時15分、東京都内の病院で老衰のため死去[1]。テンプレート:没年齢。 10日夜には多くの新聞社で号外が発行され、テレビニュースもほぼトップ扱いで森繁の逝去を報じ、各局がニュース速報テロップで彼の訃報を報じた。更に翌11日付の各社朝刊では1面に訃報が掲載された。
葬儀は故人の「こじんまりとしてほしい」との意向で、11日に家族葬に近い密葬形式で送られた[4]。同日午後に記者会見で、所属事務所の守田洋三代表はお別れ会については「関係者に挨拶した後改めて考えたい」[4]と述べた。
没後
11月20日に青山葬儀所で、葬儀・告別式とファンによる「お別れの会」が行われた。告別式には小泉純一郎元首相を始め、小林桂樹、竹脇無我、加山雄三、里見浩太朗、伊東四朗、ペギー葉山、樹木希林、梅宮辰夫、西郷輝彦、あおい輝彦、黒沢年雄、森公美子、関口宏、林家正蔵、野際陽子、黒柳徹子、加藤登紀子、中村玉緒、中村メイコ、司葉子、西田敏行、和田アキ子ら多くの芸能・政財界関係者が参列した[5]。祭壇には今上天皇からの祭粢料(一般の香典に当たる物)と生前に贈られた文化勲章などが飾られた。法名は「慈願院釋浄海」(じがんいんしゃくじょうかい)。
12月8日、日本政府は大衆芸能の発展に尽くし、多くの人材を育てた生前の功績を多とし、森繁久彌に対し、従三位に叙すると同時に国民栄誉賞を授与する閣議決定を行った[6]。国民栄誉賞の受賞は森光子以来18人目で、俳優での国民栄誉賞の受賞は、長谷川一夫、渥美清、森光子に次いで4人目。表彰式は12月22日に執り行われた。
2010年2月6日、出身地の大阪府枚方市で市葬が行われ、地元(大阪11区)選出で、内閣官房長官の平野博文(当時)も参列した。
同年6月に次男・森繁建と長女・和久昭子による、対談共著『人生はピンとキリだけ知ればいい わが父、森繁久彌』(新潮社)が刊行された。
2010年11月の一周忌に当たり、東京都世田谷区が小田急電鉄千歳船橋駅から旧森繁久彌私邸へ抜ける世田谷区道を『森繁通り』と命名することを決定し、11月13日に命名式典が世田谷区長:熊本哲之と森繁建(次男)を始めとする関係者列席の下に執り行われた[7]。
人物
1975年に『屋根の上のヴァイオリン弾き』の役作りの一環として(白い)口髭と顎髭を蓄え、以後それがトレードマークとなった。本人も気に入り、また一度剃ると蓄えるまで時間がかかるということで、オファーがあった際に髭があっても差し支えない役かを尋ねたという。ただし役の上で髭は邪魔ということであれば剃っている(映画「小説吉田学校」など)。
1977年に、60歳から80歳までの年齢層を「熟年」と呼ぶことを提唱した原三郎(東京医科大学名誉教授)からパーティーでこの言葉について説明を受ける[8]。以後、森繁もこの意見に賛同[9]、1981年にテレビ朝日系で放映されたテレビドラマ『森繁久彌のおやじは熟年』では主役を務めた。このドラマの主人公は65歳の実業家という設定で、森繁本人と同じく「老年と目されることを嫌って"熟年"だとしきりにこだわる人物」とされていた[10]。
社会活動
自身の寄付活動をあゆみの箱として法人化した。
趣味
射撃を趣味にしていた時期があった。所有していた散弾銃は、独創的な機構を持つイタリア製の銘銃「コスミ」(外部リンク)であったことが射撃界では知られている。また芸能人・文化人の射撃好きで結成している『芸能文化人ガンクラブ』会長を結成以来務めていた。但し晩年は健康上の理由もあり表舞台には出ず、会の運営は会長代行(2代目理事長)の高木ブー(ハワイアンミュージシャン)に委ねていたという。
ゴルフも若い頃にやっており、広島県東広島市の賀茂カントリークラブの設立に携わり初代社長も務めていた。ちなみに賀茂カントリークラブには森繁のライフワークであったミュージカル『屋根の上のヴァイオリン弾き』の像が設置されている。
人間関係
駆け出しの放送作家だった向田邦子の才能を高く買い、自身のラジオ番組スタッフに抜擢し、本格的な放送作家となるきっかけを作った。その後『七人の孫』や『だいこんの花』シリーズなど多くの番組でタッグを組んだ。向田の墓石に刻まれた『花ひらき はな香る 花こぼれ なほ薫る』の詩は森繁の作である。
記念すべき『徹子の部屋』第1回(1976年2月2日)放送分のゲストである。放送中に突然黒柳徹子の胸を触り、ハプニングシーンとなった。この時の映像は、バラエティ番組で『徹子の部屋』第1回放送シーンが流れるたびに使われる。
竹脇無我の父・竹脇昌作とはアナウンサー時代からの親友であった。無我は森繁と自殺した自分の父の姿とがだぶることから、彼を「オヤジ」と呼び慕っていた。
舞台、ドラマで多くの共演者から慕われ、その結束は森繁ファミリーと言われたほどで、竹脇無我、松山英太郎、林与一、西郷輝彦、あおい輝彦らが薫陶を受けた[11]。藤岡琢也や小林桂樹を実弟のように大変可愛がっていた。
評価
森繁の成功の影響でコメディアンの中からベテランになるにつれてシリアスな演技者となりたがる者が多発したため、作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』でそのような傾向の人々を「森繁病」と呼んだ。ただ小林は同書で森繁は元来シリアスな役者志望者であり、たまたまコメディアンとしての才能もあったため一時的にそのように注目されたのであってそのため彼の「転身」を他のコメディアンが単純に真似するのはおかしいとしている。
賞詞
叙位・叙勲・褒章
その他の表彰
- 菊池寛賞(1974年)
- 紀伊國屋演劇賞(1976年)
- 芸術選奨文部大臣賞(1979年)
- 第1回都民文化栄誉章(1983年)
- 大阪府枚方市名誉市民(1984年12月)
- 文化功労者(1984年)
- 第7回日本アカデミー賞優秀主演男優賞(1984年)
- 早稲田大学芸術功労者表彰(1985年)
- 第15回日本アカデミー賞協会栄誉賞(1992年)
- 日本映画批評家大賞ゴールデン・グローリー賞(1995年)
- 東京都名誉都民(1997年)
- 日刊スポーツ映画大賞特別賞(2009年)(没後追贈)
- 国民栄誉賞(2009年)(没後追贈)
- 第33回日本アカデミー賞協会栄誉賞(2010年)(没後追贈)
役職
映画
- 1947年 東宝 『女優』 - スクリーンデビュー
- 1950年 新東宝 『腰抜け二刀流』 - 初主演作
- 1951年 新東宝 『恋人』(ダンスホールのマネージャー森繁)
- 1952年 新東宝 『チャッカリ夫人とウッカリ夫人』
- 1952年 新東宝 『続チャッカリ夫人とウッカリ夫人 底抜けアベック三段とび』
東宝 社員・重役シリーズ
- 1952年 『三等重役』、『続三等重役』(浦島人事課長)
- 1953年 『一等社員 三等重役兄弟篇』(天栗太郎)
- 1954年 『坊ちゃん社員』、『続坊ちゃん社員』(番太)
- 1955年 『森繁の新入社員』、『森繁のやりくり社員』、『森繁のデマカセ紳士』
- 1956年 『森繁の新婚旅行』、『森繁よ何処へ行く』
- 1957年 『森繁の僕は美容師』
- 1959年 『新・三等重役』(沢村四郎・主演)
- 1960年 『新・三等重役 旅と女と酒の巻』、『新・三等重役 当るも八卦の巻』、『新・三等重役 亭主教育の巻』(沢村四郎・主演)
- 1964年 『裸の重役』
東宝 社長シリーズ(主演)
- 1956年
- 『へそくり社長』、『続へそくり社長』(田代善之助)
- 『はりきり社長』(大神田平八郎)
- 1958年 『社長三代記』、『続・社長三代記』(浅川啓太郎)
- 1959年 『社長太平記』、『続・社長太平記』(牧田庄太郎)
- 1960年 『サラリーマン忠臣蔵』(大石良雄)
- 1961年
- 『続サラリーマン忠臣蔵』(大石良雄)
- 『社長道中記』、『続社長道中記』(三沢英之助)
- 1962年
- 『サラリーマン清水港』、『続サラリーマン清水港』(山本長五郎)
- 『社長洋行記』、『続社長洋行記』(本田英之助)
- 1963年
- 『社長漫遊記』、『続社長漫遊記』(堂本平太郎)
- 『社長外遊記』、『続社長外遊記』(風間圭之助)
- 1964年 『社長紳士録』、『続社長紳士録』(小泉礼太郎)
- 1965年 『社長忍法帖』、『続社長忍法帖』(岩戸久太郎)
- 1966年 『社長行状記』、『続社長行状記』(栗原弥一郎)
- 1967年 『社長千一夜』、『続社長千一夜』(庄司啓太郎)
- 1968年 『社長繁盛記』、『続社長繁盛記』(高山圭太郎)
- 1969年 『社長えんま帖』、『続社長えんま帖』(大高長太郎)
- 1970年 『社長学ABC』、『続社長学ABC』(網野参太郎)
東宝 駅前シリーズ 他(主演)
- 1958年 『喜劇 駅前旅館』(生野次平)
- 1961年 『喜劇 駅前団地』、『喜劇 駅前弁当』(柳田金太郎)
- 1962年 『喜劇 駅前温泉』、『喜劇 駅前飯店』(柳田金太郎)
- 1963年
- 『喜劇 とんかつ一代』(五井久作)
- 『喜劇 駅前茶釜』(柳田金太郎)
- 1964年 喜劇 駅前女将』、『喜劇 駅前怪談』、『喜劇 駅前音頭』、『喜劇 駅前天神』(森田徳之助)
- 1965年
- 『喜劇 駅前医院』、『喜劇 駅前金融』、『喜劇 駅前大学』(森田徳之助)
- 『喜劇 各駅停車』
- 1966年
- 『喜劇 駅前弁天』、『喜劇 駅前漫画』、『喜劇 駅前番頭』、『喜劇 駅前競馬』(森田徳之助)
- 『喜劇 仰げば尊し』(浜口丈太郎)
- 1967年 『喜劇 駅前満貫』、『喜劇 駅前学園』、『喜劇 駅前探検』、『喜劇 駅前百年』(森田徳之助)
- 1968年 『喜劇 駅前開運、『喜劇 駅前火山』、『喜劇 駅前桟橋』(森田徳之助)
- 1973年 『喜劇 黄綬褒章』
- 1976年 『喜劇 百点満点』(北上大三)
次郎長シリーズ
- 東宝「次郎長三国志」
- 1953年 『次郎長三国志 第二部 次郎長初旅』、『次郎長三国志 第三部 次郎長と石松』、『次郎長三国志 第四部 勢揃い清水港』、『次郎長三国志 第五部 殴込み甲州路』、『次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家』(森の石松)
- 1954年 『次郎長三国志 第七部 初祝い清水港』、『次郎長三国志 第八部 海道一の暴れん坊』(森の石松)
- 1955年 『次郎長遊侠伝 秋葉の火祭り』、『次郎長遊侠伝 天城鴉』
- 東宝「次郎長意外伝」
- 1957年 『次郎長意外伝 灰神楽の三太郎』、『次郎長意外伝 大暴れ三太郎笠』(森の石松)
その他の主な出演
- 1951年
- 新東宝 『ブンガワンソロ』(武上等兵)
- 1952年
- 1953年
- 1954年 東宝 『芸者小夏』(川島)
- 1955年
- 1956年
- 日活 『神阪四郎の犯罪』(神阪四郎・主演)
- 東宝 『花嫁会議』(山ノ内専務)
- 東宝 『ロマンス娘』(森下)
- 東宝 『猫と庄造と二人のをんな』(庄造)
- 東宝 『白夫人の妖恋』(終南山の道士)
- 1957年
- 1958年
- 東宝 『負ケラレマセン勝ツマデハ』(岡見久吉・主演)
- 東宝 『東京の休日』(ファッションショーのMC)
- 東宝 『人生劇場 青春篇』(吉良常)
- 東宝 『暖簾』(八田吾平:主演)※株式会社小倉屋山本がモデル。
- 1959年
- 1960年
- 1961年
- 1962年 東宝 『青べか物語』(先生・主演)
- 1963年 東宝 『台所太平記』(千倉磊吉・主演)
- 1964年 東宝 『われ一粒の麦なれど』(乳児院院長)
- 1965年 東宝 『大冒険』(首相)
- 1969年 東宝 『水戸黄門漫遊記』(徳川光圀)
- 1971
- 松竹 『男はつらいよ 純情篇』(千造)
- 松竹 『喜劇 女は男のふるさとヨ』(金沢・主演)
- 1972年
- 東宝 『座頭市御用旅』(藤兵衛)
- 松竹 『喜劇 女売出します』(金沢・主演)
- 1973年 東宝 『恍惚の人』(立花茂造・主演)
- 1978年 松竹 『事件』(清川民蔵)
- 1980年 東映 『二百三高地』(伊藤博文)
- 1981年 東宝 『連合艦隊』(本郷直樹)
- 1982年 東宝 『海峡』(岸田源助)
- 1983年 東宝 『小説吉田学校』(吉田茂・主演)
- 1984年
- 1990年 東宝 『流転の海』(主演)
- 1994年 東宝 『忠臣蔵 四十七人の刺客』(千坂兵部)
- 1997年 東映 『GOING WEST 西へ…』(近所の修ちゃん)
- 1997年 松竹 『新サラリーマン専科』(寺内庄助)
- 2004年 東映 『死に花』(青木六三郎)
アニメ(声の出演)
テレビドラマ
日本テレビ 年末時代劇スペシャル
日本テレビ「年末時代劇スペシャル」には、6作品に出演した。
- 1985年 忠臣蔵(吉良上野介)
- 1986年 白虎隊(井上丘隅・主演)
- 1987年 田原坂(龍左民)
- 1988年 五稜郭(佐藤泰然)
- 1990年 勝海舟(渋田利右衛門)
- 1993年 鶴姫伝奇(越智兵庫助安用)
TBS 水戸黄門
TBSのナショナル劇場(現・パナソニック ドラマシアター)『水戸黄門』には数回、ゲストで出演している。当初は、徳川光圀役を演じる予定だった。
- 第5部 第24話「二人の御老公・佐賀」(前佐賀藩主鍋島光茂)
- 第14部 第19話「悪を懲らした喧嘩友達・会津」(会津藩主松平正容)
- 第15部 第12話「偽黄門様は喧嘩医者・小倉」(玄磧)
- 第22部 第23話「悪計暴いた備前焼・岡山」(備前遊山)
- 第23部 第22話「白いお髭の意地比べ・萩」(前長州藩主毛利綱広)
- 1000回記念3時間スペシャル(紀伊國屋文左衛門)
TBS 向田邦子ドラマスペシャル
その他(主な出演)
- 1966 - 1967年 太陽の丘(八代邦住。主人公一家の夫)
- 1975年 元禄太平記(徳川光圀)
- 1977年 毛糸の指輪
- 1996年 とおりゃんせ〜深川人情澪通り 第13回「鶴の行方」ゲスト(亀蔵)
- 1996年 大往生
- 1999年 怒る男 わらう女
- 1974年 水もれ甲介(三ッ森保太郎)
- 1983年 24時間テレビ愛は地球を救うスペシャルドラマ『黒い雨・姪の結婚』(閑間重松)
- 1958年 マンモスタワー
- 1964 - 1966、1987年 七人の孫
- 1969年 S・Hは恋のイニシャル
- 1973 - 1975年 あんたがたどこさ 全2シリーズ
- 1975 - 1977年 江戸を斬る 第2,3部(徳川斉昭)
- 1976年 いごこち満点 第17話ゲスト(エイの研究の大学教授、実は詐欺師・岩崎)
- 1976 - 1980年 三男三女婿一匹 全3シリーズ(桂大五郎)
- 1979年 熱い嵐(高橋是清)
- 1981年 関ヶ原(徳川家康)
- 1984年 ガンコおやじに敬礼!
- 1985年 そして戦争が終った(鈴木貫太郎)
- 1986 - 1996年 おやじのヒゲ
- 1987 - 1994年 江戸を斬る 第7,8部(徳川斉昭)
- 1988年 森繁久彌ドラマ 花くらべ(岩佐東吉/佐々軍六)
- 1989年 翔んでる!平賀源内(鴻池宗右衛門)
- 1991年 仙人のいたずら
- 1992年 社長になった若大将
- 1996年 大岡越前 第14部 第1話(見雲遊山)
- 1997年 南町奉行捕物帖 怒れ!求馬(田安幽斉)
- 2001年 こちら第三社会部(最後の連ドラ準レギュラー格出演)
- 1983年 芸能生活50周年記念・栄花物語(田沼意次)
- 1994年 銀色の恋文(未放送作品/2009年11月14日に追悼番組として初放送)
- 1995年 銭形平次 第5シリーズ 第10話「過去からの告発」ゲスト(勘助)
- 2001年 旗本退屈男 第5話「幽霊城の姫君」ゲスト(立石右京太夫)
- 1982 - 1997年 裸の大将放浪記(園長先生)
- 1983年 開局25周年記念 吉田茂(吉田茂)
- 1970 - 1977年 だいこんの花
- 1978年 悪女について
- 1981年 森繁久彌のおやじは熟年(大文字泰助)
- 1989年 大風呂敷 後藤新平~時代をクリエートした男~(後藤新平)
- 1996年 小石川の家(幸田露伴)
- 1997年 おじいさんの台所
- 1998年 人情馬鹿物語
- 1998年 飛んで火に入る春の嫁
- 1999年 赤穂浪士(四方庵宗偏)
- 1999年 永遠のアトム 手塚治虫物語(幼少時代の手塚の前に現れる謎の老人)
- 2001年 女と愛とミステリー『森繁久彌サスペンス 小池真理子の「鍵老人」』(西村与平/最後の完全主演ドラマ)
CM
- 全日本空輸
- 興和 キャベジンコーワ
- コカ・コーラ
- シーメンス 補聴器
- 三井不動産 レッツ
- 佐渡汽船(ラジオのみ)
- 松下電器産業(現:パナソニック)ナショナル マックロード
- 第二電電(現:KDDI)
- 日本IBM(AS/400)
- 奥の松酒造(ビンのラベルの書)
ラジオ、テレビゲスト出演ほか
- 2003年からは再放送、共演は加藤道子
- 1961 - 1962年 森繁ゴールデン劇場(文化放送)
- 1964 - 1967年 今晩は森繁久彌です(文化放送)
- 1980年4月13日放送 日曜喫茶室 「奈落で聴いたカーテンコール」(NHK-FM)
徹子の部屋
- 1976年2月2日放送(第1回ゲスト、ゲスト出演1回目)
- 1977年1月4日放送(ゲスト出演2回目)
- 1977年12月1日放送(ゲスト出演3回目)
- 1980年5月15日放送(ゲスト出演4回目)
- 1984年2月2日放送(ゲスト出演5回目)
- 1986年2月3日放送(ゲスト出演6回目)
- 1989年2月2日放送(ゲスト出演7回目)
- 1993年1月28日放送(ゲスト出演8回目)
- 1993年5月4日放送(ゲスト出演9回目)
- 1997年4月29日放送
- 2001年2月2日放送(最後のゲスト出演13回目)
- 2009年11月12日放送(追悼特別番組)
- 2010年2月1日放送(35周年特別番組)
バラエティ番組など
華やかなる饗宴(うたげ)
その他
- 森繁が各界著名人とインタビューする番組のメインパーソナリティー。出身地・大阪の放送局で製作された数少ない森繁主演番組である。
舞台
- 1967 - 1986年 ミュージカル 屋根の上のヴァイオリン弾き(テビィエ役)
- 佐渡島他吉の生涯
- 暖簾
- 孤愁の岸
- 狐狸狐狸ばなし
- 台所太平記
- 赤ひげ診療譚
作詞・作曲
LPレコード
コンパクトディスク
- 森繁久彌全集 ~青春が花ならば~(1996年/日本コロムビア)
- 森繁久彌大全集(2007年/森繁久彌さんを偲んで日本コロムビア)
- 愛誦詩集(2001年/エイベックス)
- 望郷詩集(2003年/エイベックス)
- 森繁ゴールデン劇場「あの唄 この唄 僕の唄」(2008年/ビクターエンタテインメント)
- 森繁久彌 歌の旅 映画の人生 (2010年/ビクターエンタテインメント)
NHK紅白歌合戦出場歴
年度/放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1959年(昭和34年)/第10回 | 初 | カチューシャ | 23/25 | 越路吹雪(1) | |
1960年(昭和35年)/第11回 | 2 | フラメンコ・ソーラン節 | 15/27 | 江利チエミ | |
1961年(昭和36年)/第12回 | 3 | 五木の子守唄 | 17/25 | 寿美花代 | |
1962年(昭和37年)/第13回 | 4 | しれとこ旅情 | 20/25 | 越路吹雪(2) | |
1963年(昭和38年)/第14回 | 5 | フラメンコかっぽれ | 08/25 | 楠トシエ | |
1964年(昭和39年)/第11回 | 6 | 戦友 | 21/25 | 越路吹雪(3) | |
1965年(昭和40年)/第12回 | 7 | ゴンドラの唄 | 15/25 | 吉永小百合 |
(注意点)
- 対戦相手の歌手名の( )内の数字は、その歌手との対戦回数、備考のトリ等の次にある( )はトリ等を務めた回数を表す。
- 曲名の後の(○回目)は、紅白で披露された回数を表す。
- 出演順は「(出演順) / (出場者数)」で表す
著書
- 『こじき袋』読売新聞社 1957 のち中公文庫
- 『森繁久弥の朝の訪問』日本放送出版協会 NHK新書 1957
- 『アッパさん船長』中央公論社 1961 のち文庫
- 『見て来た・こんな・ヨーロッパ』雪華社 1961 のち中公文庫
- 『森繁自伝』中央公論社 1962 のち文庫
- 『はじのうわぬり 森繁らくがき帖』今野書房 1964
- 『友よ明日泣け 今晩は森繁です』編 サンケイ新聞出版局 1966
- 『ブツクサ談義』未央書房 1967
- 『猛烈社員の条件 社長さん森繁です』東京12チャンネル制作部編 新人物往来社 1969
- 『一片の雲 森繁久彌随筆集』ちはら書房 1979
- 『にんげん望遠鏡』朝日新聞社 1979
- 『わたしの自由席』中公文庫 1979
- 『さすらいの唄 私の履歴書』日本経済新聞社 1981
- 『こぼれ松葉 森繁久弥の五十年』日本放送出版協会 1983
- 『にんげん望艶鏡』朝日新聞社 1983
- 『人師は遭い難し』新潮社 1984
- 『ふと目の前に 自伝エッセイ』東京新聞出版局 1984 のち小池書院・道草文庫
- 『あの日あの夜 森繁交友録』東京新聞出版局 1986 のち中公文庫
- 『左見右見』扶桑社 1987
- 『海よ友よ メイキッスIII号日本一周航海記』朝日新聞社 1992
- 『隙間からスキマへ』日本放送出版協会 1992 のち日本図書センター「人間の記録」
- 『森繁久弥の碧い海をもとめて "めいきっすIII世号"日本一周クルージング フォトエッセー』佐々木正和写真 東京新聞出版局 1992
- 『夜光虫』新潮社 1993
- 『帰れよや我が家へ』ネスコ 1994
- 『青春の地はるか 五十年目の旧満州への旅』日本放送出版協会 1996
- 『もう一度逢いたい』朝日新聞社 1997 のち文庫
- 『品格と色気と哀愁と』朝日新聞社 1999 のち文庫
- 『森繁久彌86才芸談義』倉本聰聞き手 小学館文庫 1999
- 『大遺言書』語り 久世光彦文 新潮社 2003 のち文庫
- 『今さらながら 大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2004
- 『生きていりゃこそ』語り 久世光彦 文 新潮社 2005
- 『さらば大遺言書』語り 久世光彦 文 新潮社 2006
共編著
揮毫など
脚注
外部リンク
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- 森繁久彌 Movie Walker
- 森繁久彌 - プロフィール - yahoo!人物名鑑
テンプレート:- テンプレート:国民栄誉賞 テンプレート:ブルーリボン賞主演男優賞 テンプレート:毎日映画コンクール男優主演賞
テンプレート:毎日芸術賞- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite news
- ↑ 2009年11月11日『サンケイスポーツ』21面
- ↑ 『先人の教えに学ぶ 四国防災八十八話』国土交通省四国地方整備局2008年p70より
- ↑ 4.0 4.1 テンプレート:Cite web
- ↑ 故森繁久弥氏の告別式、共同通信11月14日閲覧
- ↑ 故森繁久彌氏に国民栄誉賞 産経新聞 2009年12月8日閲覧
- ↑ 森繁通り(もりしげどうり) 設定年月日:2010年8月4日 起点 世田谷区船橋一丁目10番先(小田急線) 終点 世田谷区船橋三丁目5番先(旧・森繁久彌邸前) 路線延長660m 故・森繁久彌さん:世田谷に「森繁通り」誕生! 一周忌迎え命名式 毎日新聞 2010年11月14日閲覧
- ↑ 「『熟年』論争の運命は?」朝日新聞1981年4月5日
- ↑ 1980年に放映されたテレビドラマ『機の音』出演の際、新聞の取材で「60歳から80歳は熟年ですよ」と答えている(朝日新聞1980年8月22日)。
- ↑ 朝日新聞1981年3月19日(番組紹介記事)
- ↑ 国民的俳優の森繁久弥さん96歳老衰で逝く (2009年11月11日)