藤岡琢也

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:ActorActress 藤岡 琢也(ふじおか たくや、1930年9月4日 - 2006年10月20日)は、日本俳優声優

兵庫県姫路市出身。身長165cm、体重71kg。血液型はO型。兵庫県立姫路西高等学校卒業、関西学院大学文学部中退。

来歴・人物

1930年、姫路市にて会社員の父憲一の第一子として誕生。家族は妹2人を加えて5人家族。比較的裕福な家庭に育ち、成績は優秀だった。広島陸軍幼年学校在籍時に終戦を迎え、その後、兵庫県立姫路西高等学校を卒業。1949年関西学院大学文学部に入学するが、翌年に病気のため中退。入院中にラジオ作家の堀江史朗の弟と知り合い、退院後、芸能界入りのため堀江を頼って上京した。1957年に劇団「」へ入団。当初は「平凡な顔立ち」という理由で、外国ドラマ・アニメなどの声優としての活動をしていた。

1966年、NHKの人気ドラマ『事件記者』に急逝した清村耕次の後任としてレギュラー出演し、俳優として世間に広く知られるようになった。引き続きNHKのドラマ『横堀川』に出演し、主人公を慕い協力する寄席芸人ガマ口役でその演技力を認められ、第4回ギャラクシー賞を受賞した。1967年には『ケンチとすみれ』でテレビ初主演。

映画にも数多く出演し、お調子者の中間管理職、中小企業の社長等を演じた。初の主演映画は1970年の『喜劇 がんばれ日本男児』。映画では、小狡い小悪党の役も巧くこなし、単なる善良な父親だけではない幅広い役柄を演じた。1967年頃から森繁久彌主演の映画『社長シリーズ』にも数本出演し、1970年には明治座において森繁劇団10周年記念公演に出演した。1985年から、森繁主演のテレビドラマシリーズである『おやじのヒゲ』に十数年にわたってレギュラーとして出演した。森繁からはプライベートでも実弟のように大変可愛がられていたという。小林桂樹とも昔からの共演が縁でとても仲が良かったそうで、晩年はツーカーの携帯電話のCMで一緒に共演した。

テレビでは、大阪を舞台とした商人もの、ホームドラマ、NHK大河ドラマ東芝日曜劇場、2時間ドラマに数多く出演した。ホームドラマでは小太りで黒縁の眼鏡とヒゲが特徴的な風貌を持ち、家に帰ると和服に着替えて一杯飲むという一時代前の典型的な父親のイメージを努めて演じた。演じる役柄によっては関西弁を強調した話し方をすることもあり、藤岡自身のキャラクターとして確立した。このタイプの俳優として1960年代の森繁久彌があげられるが、その後継者の位置を確保することになった。

1984年橋田壽賀子脚本『大家族』出演をきっかけに、その後多くの橋田作品に出演する。1990年よりスタートした『渡る世間は鬼ばかり』に、五人姉妹の父親である岡倉大吉役で出演。高視聴率番組となったため、その後は続編で十数年に渡って大吉役を演じて晩年の代表作となった。

1969年から2004年までの35年間、サンヨー食品の「サッポロ一番みそラーメン」のCMに出演した。(後任は木梨憲武が務めた)

2006年2月21日肺炎のために『渡る世間は鬼ばかり』を降板(後任は宇津井健が務めた)。同年10月20日午後3時18分、慢性腎不全のため東京都新宿区慶應義塾大学病院で死去。テンプレート:没年齢。戒名は「夢藤岡琢也霊位」。

2006年10月24日増上寺において葬儀がとりおこなわれた。会場には生前本人が好きだったジャズ音楽が流された。『渡る世間は鬼ばかり』の石井ふく子プロデューサー、岡倉家の五人姉妹(長山藍子泉ピン子中田喜子野村真美藤田朋子)やドラマの共演者が葬儀に参列している。

弟子に藤井つとむらがいた。

エピソード

  • 名前は生まれたときと名付けられたらしい。(2006年10月22日、『Theサンデー』より。)
  • 桂米朝は小学校の上級生で、遠足の時に案内で手をつないでもらった。
  • 大学時代の同級生でもあり、音楽仲間にキダ・タロー(在学中に同じバンドに所属、担当はバイオリン、キダ・タローの担当はアコーディオン)がいる。藤岡が亡くなった事を聞いたキダは「悲しい」とコメントした。
  • 大学時代の同級生には高島忠夫がいる。
  • 戦時中は、供出で不足した鉄針の代わりに小指の爪を尖らせてレコード盤面に当て、親指を耳に当てて音を聴いたという、熱心な音楽好きをうかがわせるエピソードが残っている。
  • 無名時代、「君は役者に向いていない」と言われ、嘉穂劇場で音響の裏方をしていた事がある。
  • 無名時代から石原裕次郎勝新太郎長門裕之とはプライベートでもたいへん親交が深かったそうで藤岡が一番年上だったが、毎晩のように4人で集まっては遊んでいたという。(藤岡の逝去直後には親友の長門がマスコミ等のインタビューに応じて生前の思い出話を語った)。
  • 1966年の『紅白歌合戦』に紅組応援団として参加した
  • 晩年はキムタクをもじった「フジタク」という愛称で親しまれた。フジタクは一時期『痛快!明石家電視台』の番組マスコット(着ぐるみ)になった。
  • ドラマでは典型的な日本の父親を演じたが、実生活では子供はいなかった。
  • 映画では、せこいやくざ役が多く(主人公に倒されたり、引退するなど)やられ役が多かった。
  • ドラマでは、名古屋章等と同様に、ベテラン刑事役を演じることが多かった
  • 阪急ブレーブス時代からのオリックス・バファローズファンである。エピソードとして、山森雅文の高い守備力を「何度だって見てみたい。奇跡だ」と絶賛した。
  • 2003年9月13日、『さんま所のオシャベリの殿堂』(NTV)に出演し、数々のエピソードを披露し、ジャズを歌った。
19歳から7年間病気と闘い、大手術を受けて社会復帰が可能となった。
初舞台は、アルベール・ユッソン作『俺たちは天使じゃない』の二枚目の海軍士官の役だった。登場シーンで失敗し観客から大笑いされ、舞台上で上京したことを後悔し涙ぐんだ。
原節子のファンだった。小さい頃母親につれられてよく映画を見に行った。
1958年川島雄三監督の映画『女であること』(東宝)に端役で出演した時、原節子から皮をむいたミカンを半分貰ったことが忘れられない。
1960年代に放送された『ディズニーランドアワー』(NTV)で初代のドナルドダックの声を演じた。
一番好きな曲は1930年代のジャズのスタンダードナンバー「君微笑む時 When You Smile」である。
晩年は愛犬のタロー(ラブラドールレトリバー)と自宅周辺を散歩するのが健康法であった。
終戦後、ジャズに出会いジャズプレーヤーを目指すが、1948年に肺結核を患い断念した。
自宅には長年にわたって収集したジャズレコード3000枚があり、ガラスケースに飾られている。
1955年、ギャラ500円のころに3000円で買ったジャズレコード『The VIC DICKENSON SHOWCASE』が宝物のひとつである。
1965年、妹の親友であった千鶴子と結婚する。夫人の本名は千鶴(ちづる)であったが言いにくいため、藤岡が改名させた。
1970年、森繁劇団10周年記念公演に出演した際、森繁からもっと遊びを覚えろと言われ、酒飲みになろうと決意し遊び始めた。
晩年の夢はジャズツアーを企画し、日本全国を大型バスでまわることだったという。

出演作品

テレビドラマ

映画

テレビアニメ

劇場アニメ

吹き替え

海外アニメ

CM

その他

  • マキシシングル「渡鬼音頭」
  • ときめきJAZZ喫茶(NHKラジオ)
    この番組でも随時話しているが、藤岡は同じ姫路出身のジャズ音楽評論家(姫路ジャズメイツ代表)・ラジオパーソナリティーの人見恭一郎との親交が深いことから、ジャズへの造詣も非常に深い。
  • 新潮CD「おはん」(新潮社)
    宇野千代「おはん」(新潮文庫)の全文を朗読したもの。原作は中年男性の独白で構成されており、かつて声優で活躍していた藤岡の「声の名人芸」が聴ける。

受賞歴

関連項目

テンプレート:Sister