山梨市

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ファイル:Yamanashi city center area Aerial photograph.1975.jpg
山梨市中心部周辺の空中写真。1975年撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

山梨市(やまなしし)は、山梨県の東部に位置する甲州ワインの産地として知られる。 国宝の仏殿を有する清白寺古今和歌集「しほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とぞなく」を代表に多くの歌人にも詠まれた名勝地差出の磯(さしでのいそ)、武田信玄の隠し湯ともいわれる県内最古の温泉である岩下温泉などがある。

地理

牧丘町、三富村と合併以前の旧山梨市域は県中央部、甲府盆地の北東縁にあたる副盆地上に位置する。方形市域で、北西部から南西部にかけては山地で、南部は平地。市内南部を笛吹川や重川、日川などの支流が南北に縦貫し、氾濫原や複合扇状地を形成している。気候は冬夏でやや寒暖の差が激しい。

隣接している自治体

歴史

旧牧丘町、旧三富村域の歴史については牧丘町#歴史三富村#歴史を参照。

先史・古代

県内には山麓地域を中心に後期旧石器時代遺跡が分布しているが、市域には旧石器時代の遺跡はないものの、1961年(昭和36年)に兄川河床からナウマンゾウの化石が出土している。これは3万年前から10万年前と推定されている臼歯などの化石で、人類史との関わりからも注目されている。

一般に甲府盆地底部の扇状地は河川の氾濫原であったため縄文時代の遺跡は少ないが、市域底部を流れる笛吹川や支流流域は他各地と比べ比較的安定的であったため、縄文遺跡が広く分布している。後期旧石器時代から縄文時代草創期には八ヶ岳山麓地域を中心に遺跡が分布しているが、市域では東後屋敷遺跡から出土している掻器が縄文草創期である可能性が考えられており、早期には県内各地でも特徴的な押型文土器が市域から広く出土している。盆地東部では縄文早期に花鳥山遺跡釈迦堂遺跡群(ともに笛吹市)などの大規模集落が出現しているが、市域では集落の遺構は確認されていないものの、集落に伴う諸磯式土器が発見されている。

弥生時代には唯一の集落遺跡として上石森の堀ノ内遺跡がある。弥生後期の遺跡である堀ノ内遺跡は水田遺構の検出例は無いものの、弥生式土器に加えて稲作文化に関係する石包丁、土製紡錘車などが出土しており、中央高地系文化の影響を受け東海地域の影響が少ないことが指摘されている。古墳時代には盆地南部の曽根丘陵地域において前期古墳(中道勢力)が営まれるが、市域を含む盆地東部では弥生時代以来の墓制である方形周溝墓が築造され、前期古墳は見られない。古墳後期には中道勢力が後退して古墳の築造が盆地各地へ拡散し、市域でも6世紀後半代から古墳の築造が開始され、上岩下の岩下古墳群や山根古墳群などの後期古墳が分布している。

古代の律令制下においては甲斐国山梨郡に属する。市域に関する最古の文献資料は正倉院宝物の白絁金青袋端書の墨書で、市域にあたる「山梨郡可美里」の日下部某があしぎぬを貢進していたことが記されている。また、奈良・平安遺跡としては日下部遺跡があり、学史上においても重要視された遺跡としても知られる。

中世

中世には牧荘小原荘大八幡荘などの荘園が記録に残っている。平安時代後期には甲斐源氏の一族が甲府盆地の各地へ進出して勢力を拡大するが、市域を含む安田郷は甲斐源氏の一族である安田氏が本拠とし、小原(山梨市小原)には館跡がある。鎌倉時代から戦国時代にかけて甲斐国は守護である武田氏の支配下にあったとされるが、牧荘については鎌倉時代後期に他氏の支配が確認されている。

三ヶ所には中世の豪族屋敷跡である連方屋敷が所在し、かつては戦国期の武田氏蔵前衆古屋氏の居館と評価されていたが、現在では考古学的観点から南北朝・室町期の守護居館とする見方が提唱されている。

室町・戦国期には武田信昌の隠棲地で菩提寺である永昌院の存在や武田信縄の館跡があり、武田氏が本拠を甲府に移転する以前の政治的中心地に属していたと考えられている。

近世

甲斐武田氏の滅亡後、甲斐は徳川氏を経て豊臣大名の羽柴秀勝加藤光泰浅野長政幸長父子が配置される。市域では羽柴氏時代の史料は残されていないが、加藤氏時代には甲斐支配の実務を担当した西川吉久が海鳥寺に対して人足役を免許した証文が残されているほか、天正19年(1591年)に加藤光泰が永昌院や信盛院、窪八幡神社に対して所領を安堵した判物が残されている。

浅野氏時代には、甲斐の支配において江戸時代まで引き継がれる九筋二領の行政区分が敷かれ、市域では万力筋・栗原筋が設定され、栗原筋に関しては浅野出羽守・鍋田善右衛門尉・須田七郎左衛門尉が筋奉行を担当している。また、市域における浅野家臣への知行割に関しても史料が残されている。また、浅野氏時代には青梅往還と秩父往還が合流する後屋敷に新町を設置し、金峰山への参詣道である金山道を引き入れた。新町には市場を開設し、付近の住民には諸役免許を行っている。

近世には、市域の諸村は甲府藩領を経て幕府直轄領となる。徳川氏領有時代から豊臣大名時代、幕府直轄領時代にかけて甲斐では検地が実施され、貞享元年の検地で29か村が成立した。また、市域には14か村の旗本領や御三卿領である田安家領、清水家領が含まれ、両家領の陣屋も存在している。

甲州街道青梅街道秩父往還などの諸街道が整備され、市域では甲州街道の栗原宿を中心に交通の要衝地となる。文化面では『甲斐名勝志』を記した萩原元克小島蕉園早川漫々などの文人も出現する。

近現代

明治期には藤村県政における差出の磯の道路開削で青梅街道の開削や亀甲橋の架橋が行われ、市域には東山梨郡役所が設置され東山梨郡行政の中心地となる。1903年(明治36年)には中央線日下部駅(山梨市駅)が開業。また、正徳寺出身の根津嘉一郎は甲州財閥の一人として財界で影響力を持ち、地元においても根津橋の架橋を行っている。

戦後には米麦栽培や養蚕を中心とする農業から果樹栽培へと転換する。昭和29年には古屋俊一郎が初代市長に就任し昭和61年まで8期連続で市長を務め、古屋市政では財政健全化や社会資本整備、市有林の設置などが行われる。

沿革

人口

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行政

歴代市長

(旧)山梨市のデータ

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山梨市 (-2005年3月21日)は、山梨県の中部に位置する市。2006年3月22日に、東山梨郡牧丘町三富村との新設合併により、新山梨市 (2005年3月22日-)の一部となった。

合併前後での違い

現在の山梨市(新山梨市)は新設合併によって設置された自治体であり、それ以前に存在した山梨市(旧山梨市)は廃止されている。新山梨市(2005年3月22日以降)と旧山梨市(2005年3月21日まで)は同名別人の自治体であり、国勢調査などのデータは、2005年3月22日の合併前と合併後とでは、別々のものとして扱われている。

旧山梨市の市役所本庁舎は新山梨市役所本庁舎として引き継がれていたが、2008年11月にセレスティカジャパン山梨サイト跡地に移転している。

の所属については、旧山梨市の市域は、山梨郡を経て、郡区町村編制法施行後は東山梨郡に属していた。

警察

経済

産業

主産業はブドウおよびモモ果樹栽培である。

姉妹都市・提携都市

海外

地域

教育

高等学校

中学校

  • 山梨北中学校
  • 山梨南中学校
  • 笛川中学校

小学校

  • 加納岩小学校
  • 岩手小学校
  • 後屋敷小学校
  • 山梨小学校
  • 日下部小学校
  • 日川小学校
  • 八幡小学校
  • 堀之内小学校
  • 牧丘第一小学校
  • 牧丘第一小学校柳平分校(2007年より休校。かつては日本で最高所の小学校だった)
  • 牧丘第二小学校
  • 牧丘第三小学校
  • 三富小学校

交通

鉄道路線

バス路線

道路

高速道路

県内で唯一高速道路の通っていない市である。 中央自動車道勝沼インターチェンジが最寄のインターチェンジとなる。

名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事

特産品

出身有名人

外部リンク

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