安重根

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テンプレート:Infobox 犯罪者 テンプレート:朝鮮の人物 安 重根日本語読み;あん じゅうこん、朝鮮語読み;アン・ジュングン、朝鮮語表記:안중근1879年9月2日[1] - 1910年3月26日)は大韓帝国時代の朝鮮民族主義活動家で、初代韓国統監を務めた伊藤博文(日本の初代内閣総理大臣)[2][3][4]を、1909年10月26日満州のロシア権益のハルビン駅構内で襲撃して殺害した暗殺者である。ロシア官憲に逮捕されて日本の関東都督府に引き渡され、死刑となった。(テロリストか義士かの詳細については下記)

伊藤の死により韓国併合の流れ[5]は加速され、暗殺は大韓帝国の消失という皮肉な結果をもたらしたという見方もある[6]が、当時の朝鮮族、ならびに今日の韓国では、後の朝鮮独立運動にもつながる抗日義士であったとして安重根は英雄視されている。一方、北朝鮮においては、神話的に喧伝される金日成抗日パルチザンに比して、まず安重根には両班という出身に矛盾があり愛国的ではあったものの解決策を持たず手段も目標も誤った人物であったという評価に留まり、金日成の引き立て役に位置づけられている。

他方、事件当時、明治日本の右翼人士や知識人[7]は、安重根は単身で要人暗殺テロを完遂した汎アジア主義者の志士であるとして、動機と犠牲精神の純粋性に共感する傾向があり、助命嘆願をする者もいたほどだった。

生い立ち

現在は北朝鮮にある黄海道の道都海州府首陽山の両班の家に生まれ、平安南道鎮南浦に移った。性格が軽急に近いので名を重根、胸腹に黒子が7箇所あったのでは應七と名づけられた[8]

1894年、16歳の時に金氏(キム・アリョ)を妻に娶ったが[9]、この年に甲午農民戦争があり、父の進士泰勲に従って政府側で従軍して、農民軍と戦った。

東学党に反対していた安は追われて、カトリック教会パリ外国宣教会から派遣されていたジョゼフ・ウィレム(Nicolas Joseph Marie Wilhelm, 빌렘, 韓国名: 洪錫九)[10]司祭に匿われた際に、洗礼を受けて[11]17歳でキリスト教に改宗し、洗礼名を「トマス」とした[12]

教育関係の仕事を経た後、1907年高宗の強制退位と軍隊解散、それに伴う義兵闘争の高まりのなかで危機感を募らせウラジオストクへ亡命した。そこで「大韓義軍」を組織し[13]、抗日闘争活動に身を投じた、と韓国では言われているが、論拠には乏しい[14]

自伝によると、1909年、同志12名と共に「断指同盟」を結成して薬指を切り(指詰め)、その血で大極旗の前面に「大韓獨立」の文字を書き染めて決起し[15]、国内外に同志を派して情勢を探り、同年9月頃、伊藤博文を暗殺することになった[16]

彼は熱心な信者で、死ぬまでカトリック信仰を持ち続け、妻への最後の手紙では、自分の息子は聖職者になるようにと書いたという[6]

伊藤博文暗殺事件

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事件直前の伊藤とココツェフ

1909年10月26日伊藤博文(暗殺当時枢密院議長で、同年6月に韓国統監を退任)は満州朝鮮問題に関してロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフと会談するためハルビン市(哈爾浜)に赴いた。

午前9時、哈爾浜駅に到着し、伊藤は車内でココツェフの挨拶を受けた後、駅ホームでロシア兵の閲兵を受けていた。そこに群衆を装って近づいた安重根が拳銃を発砲した。彼は全弾7発を乱射した。(本人が書いた自伝によれば)安は伊藤の顔を知らず、顔が黄ばんだ白髭の背の低い老人を伊藤博文と思い、その人物に向けて4発を発砲した。しかし人違いで失敗したとあっては一大事と考えて、この人物の後ろにいた威厳のある人物にもさらに3発連射した[17]

伊藤には3発が命中した。近くにいて最も多くの弾丸を受けた外交官の室田義文[18]は、伊藤に間違えられた可能性があるが、奇跡的に軽傷であった。しかし哈爾濱総領事の川上俊彦[19]が腹部に重傷、流れ弾が秘書官森泰二郎満鉄総裁の中村是公、同理事の田中清次郎の衣類を貫通した。襲撃では何発が発砲されたか、狙撃手は1人か複数かには異説がある。

伊藤は胸・腹部に被弾して「三発貰った、誰だ」と言って倒れ、しばらく意識があったが、約30分後に死亡した。狙撃後、安重根はロシア語で「コレヤ! ウラー!(Корея! Ура!)」(韓国万歳)と大声で叫び、逃げもせずにその場でロシア官憲に逮捕された。

身柄引き渡し

満州鉄道関連施設で捜索権を持っていたロシア官憲は、背後関係を調べて20名余を尋問し、8名を新たに拘束。安重根はロシア公館に2日間拘留された後、彼らと共に日本領事館に移送され、そこからさらに旅順の日本の司法当局に引き渡された。

2年前の1907年、金才童(キム・ジェドン)がハルビンで日本人を殺害した事件では、ロシアは裁判を主管する権利を主張したが、日本の外相小村壽太郎は、第二次日韓協約(1905年)によって在外韓国人の保護は日本の管轄になったこと、同じく同条約により日本を介する以外で対外交渉できない韓国政府とは協議する必要はないことを、川上総領事に訓令して対処させ、金を引き渡させたことがあった[20]。安の場合も同じ事案であり、ロシアとの連係は前回よりもスムーズであった。

留置中

留置中に伊藤の死亡を知った際、安は暗殺成功を神に感謝して十字を切り「私は敢えて重大な犯罪を犯すことにしました。私は自分の人生を我が祖国に捧げました。これは気高き愛国者としての行動です」と述べたという[6]

大韓帝国のカトリック教会の司教からは大罪を犯した安重根にサクラメントを施してはならないという命令が出されたにもかかわらず、懇意であった洪司祭は彼のもとを訪れ支えとなった。彼も収監中は官吏に対し自分を洗礼名で呼ぶよう主張したといわれる。

裁判

1910年2月14日、安重根は旅順関東都督府地方法院で裁判を受けた。

動機

伊藤博文を暗殺した動機として、安重根は検察官の溝渕孝雄に尋ねられた際、15の理由を挙げた[21]。この内の5つは第三次日韓協約に関するものである。しかし伊藤との関連については、少しも関係がないか関係性がよくわからない風説の類も散見され、「大韓独立主権侵奪の元凶」[22]として、伊藤を朝鮮支配の象徴とし偶像化していたことがわかる。

テンプレート:Quotation

弁護

安の主任官選弁護士水野吉太郎は、まず、韓国人に対して裁判権が及ばないこと、韓清通商条約を理由に清国領土内における韓国人の犯罪には韓国刑法を適用すべきことなどを指摘し、本法廷の管轄外であると主張したが、退けられた。彼は次に安の行動と幕末の志士とを比較して、安は朝鮮の志士であるという弁論を展開して、殺人罪としては最も軽い懲役3年が妥当であると主張した[23]。しかし判決ではこれは考慮されず、共犯3名と共に有罪判決を受け[24]、実行犯の安は死刑を宣告された。安は自分は捕虜であり裁判そのものが不当であると憤慨した[6]。(下記も参照

投獄と最期

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「一日不讀書口中生荊棘」安重根が獄中で書いた遺墨の一つ。(韓国の国宝)

裁判を統轄した判事は、死刑執行までに少なくとも判決後2、3か月の猶予が与えられるとしていたが、日本政府中央は事件の重大性から死刑の速やかな執行を命じた。安は上訴を行ったが、水野弁護士が「朝鮮の志士が死を恐れるために控訴」したと思われると諭したため[25]、上訴を取り下げて刑が確定した。安は、担当検察官であった溝渕孝雄へ、自分が「東洋平和論」を書き終えるまでの時間的な猶予と、死刑の時に身に纏う白い絹の衣装を一組与えてくれるよう願い出て、概ねその通りになった。

3月26日午前10時、伊藤の月命日と絶命した時刻に合わせて、死刑が執行された。安の死から更に5か月後の8月29日に、日韓併合により大韓帝国は消滅した。なお、この元総理殺人犯の死刑を執行した関東都督府の当時の都督大島義昌は、安倍晋三の高祖父にあたる。

獄中における日本人との関わり

投獄された旅順監獄看守で、安重根の監視を任ぜられた千葉十七は、当初は伊藤を暗殺した安を憎んでいた。ところが、話を重ねるごとに千葉は安の思想に共感を覚えるようになっていった[26]。安は処刑の直前、千葉に向かって「先日あなたから頼まれた一筆を書きましょう」と告げ、「為国献身軍人本分」と書いて、署名し薬指を切断した左手の墨形を刻印した。そして彼は、「東洋に平和が訪れ、韓日の友好がよみがえったとき、生まれ変わってまたお会いしたいものです」と語ったという。千葉は終生、安の供養を欠かさなかった。

また旅順監獄の典獄(刑務所長)であった栗原貞吉も、安の願いを聞き入れ、煙草などの差し入れをしたり、法院長や裁判長に掛け合い、助命嘆願をするなど便宜を図っていた。処刑前日には、絹の白装束を安に贈った[27]。死刑執行後、栗原は安の死を惜しんで故郷の広島に帰った。

主任弁護士だった高知の水野吉太郎も手帳に安重根の親筆を得ていた[28]。彼は安の処刑に立ち会い、執行後「東洋平和のため万歳三唱」することを願い出たが、刑務官に許されなかった[25]

また別の看守の八木氏も安の墨書[29]を記念に書いてもらって持ち帰り、2004年、孫の八木正澄氏が韓国に無償で寄贈した[30]

それより前の1970年代に、日本から韓国大統領府(朴正煕時代)に寄贈された安の遺墨宝物第569-4号[31]は、現在所在不明である。2012年の韓国大統領選挙では、投票日の9日前に、安度眩(詩人)がこの墨書は「(娘である)朴槿恵が盗んだのではないか」と示唆する内容の記述をTwitter上に書き、物議を醸した。その後、彼は中傷で有罪判決を受けた[32]

遺骨 

安重根は遺言として解放後の韓国への移葬を希望していたが、35年後には葬られた場所の所在を知るものがおらず、遺骨は紛失した。

李明博大統領は、その任期中に安の死から100周年を迎えることから、2008年[33] と2010年[34]に、安の遺骨問題を担当する国家報勲庁に発掘調査を行わせたが、何も見つけることが出来なかった。このため日本側に埋葬資料の提供を要請していた。

これを受けて、民主党松本剛明衆院議員は、被害者である伊藤博文の玄孫にあたる縁から、2011年に外務大臣に就任した後に「遺骨関連記録を必ず探し韓国側に引き渡したい」と述べた[35]が、結局、何の進展もなかった。

評価

立場が違えば「歴史認識が違って当然」[36]で、正反対の評価が下されるということはしばしばある[37]。安重根への評価は、下記のように様々で、時代によって変遷して、国によって人によって大きく異なる[38]。特に日韓の安の評価の違いは、日韓両国の永続的な確執の象徴になった[39]

朝鮮

大韓帝国

暴徒
大韓帝国の皇室は日本への配慮を重視し、太皇帝高宗は亡くなった伊藤博文を「韓国の慈父」と評して哀悼の意を示した。当初は犯人は外国人であろうとしたが、日本にいた王世子が報道で知って兄純宗に「伊藤氏が我が国の人間の『凶手』にかかった」と電報を発してきたことから、韓国の暴徒の手にかかったと聞いた高宗は「恥ずかしさの極限」であるとして陳謝[40]。首都での歌舞音曲を禁止するなど、徹底した自粛を行った[41]

大韓民国

義士
大韓民国において安重根は抗日闘争の英雄と評価され、「義士」と称され、国民的英雄とされる[42][37]。大韓義軍参謀中将[13]であったとか、特派独立軍司令官[43]、将軍とも称される[13]が、安本人が裁判で自分の地位を陳述した以外では、これらの肩書きに根拠はない。ソウル特別市には安の偉業を伝える「安重根義士記念館」が1970年に建設されている[44]
韓国海軍では、2008年に完成した孫元一級潜水艦3番艦の艦名に彼の功績を称えて「安重根」と命名した[45]。同様の理由でテコンドー界でも、型の名前に彼の名が用いられている(国際テコンドー連盟4級で習得する安重)。
また伊藤博文暗殺から100年にあたる2009年10月26日にはハルビンで記念式典が開催された[46]テンプレート:By、韓国大統領の朴槿恵は6月の訪中で、中国国家主席習近平に対して、殺害現場であるハルピン駅に安重根の石碑建立を提案して実現にむけて協力を要請した[47]
在日本大韓民国民団は2014年3月26日に東京で開催された安重根の追悼式で「安重根義士がテロリストではなく、東洋の平和を切に願った義人だという事実を日本政府も知るべきだ。今後、安義士の思想が東洋平和の礎となるよう努力していく」と表明した[48]
反日
韓国では安重根はしばしば反日のシンボルとされ、国際的なスポーツ大会(特にサッカー)でも彼の肖像画の横断幕が使われる事があり、2013年7月28日に行われた東アジアカップ日本韓国戦でも、申采浩[49]の『歴史を忘れた民族に未来はない』という横断幕と共に、李舜臣の肖像が掲げられた[50]
韓国でも伊藤の暗殺だけでなく、彼の唱えた「東洋平和論」やその思想を証明する教育啓蒙活動は活発であるが、非常に一面的である。裁判での陳述や東洋平和論を読む限り、安自身は反日を主張しておらず、(白人支配への)日朝中の共闘を呼びかけているに過ぎない。これは看守など獄中での日本人との親しい交流でも明かで、安重根の日本観[51]は、不幸な形で誤解されている。君主主義者である安は、日韓の皇室に敬意を払い、政道を正すために奸臣を取り除こうとしたのであり、自らを忠義の臣であるとした。「王や皇帝に誤りはなく、悪い臣下がいるから政道を誤るという」[51]考え方は日本の右翼人士と共通する志向であったので、彼らの共感を得たのである。しかし韓国では親日はタブーであり、安重根は一面的に反日の英雄としか見なされていない。
義兵闘争と国際法との関係
韓国の義務教育期間である中学校の歴史教科書によると「義兵将として国内外で抗日戦を展開していた安重根は、初代統監としてわが国侵略の先頭に立っていた伊籐博文がロシアの代表と会談するためにハルビンに到着したたとき、彼を射殺して民族の独立の意志を明らかに示した。」[52]とあり、韓国では義兵が自らを国際法上の交戦団体として承認するように各国大使館に要求していたことから、これが独立のための軍隊であったと主張され、安重根はその軍(つまり大韓義軍)の軍人であったとされている。確かに、安本人も裁判で自分は「戦争に敗北した捕虜」であり、日本の国内法で裁かれることに不満を述べ、「万国公法(国際法)によって処理される」ことを希望したが、この主張にはいくつか重大な問題がある。
まず、当時、義兵を交戦団体に認定した外国政府はなかった。また大韓義軍は国境の外に多数に存在した武装勢力の一つに過ぎず、(事件を起こすまで)特に目立つ存在ではなかった。そして仮に交戦団体であったと仮定しても、そこで生じるのは戦時国際法を守る義務である。銃弾を受けた伊藤博文と随行員のすべてが文民であり[53]、現場となったハルビン駅も該当紛争の中立国中国(清朝)内のロシア管理区域で交戦地域ではなく、さらに安は平服で軍籍を示すような徽章の類を示していなかった。1909年当時、すでに日韓はハーグ陸戦条約に加盟しており、自らが軍隊であると主張するのであれば戦時国際法を遵守すべきであるが、複数の点[54]で明らかに違反するか、少なくとも捕虜の待遇を求めるには不十分であった。また大韓義軍関係者は上海やウラジオストクなどで活動しており、仮に交戦団体であったと見なせば、彼らの活動を許した中国やロシアには中立国義務違反が生じる恐れがあった。安の希望した国際法を適用すると、これらの周辺国との問題に発展した。ロシアが速やかに安の身柄を日本側に引き渡したのはこのためで、日本もあくまでも刑法犯として裁いた。

朝鮮民主主義人民共和国

反面教師
朝鮮民主主義人民共和国においては、安重根の救国の意志は認めるものの、その手段としての「暗殺」は評価しない。教科書では金日成反面教師のように扱われる。(参考:映画『安重根 伊藤博文を撃つ』1979年 北朝鮮)
テンプレート:要出典範囲
2009年10月24日付けの週刊誌『統一新報』では「歳月が流れても祖国と民族のために捧げた愛国者の人生は、民族の記憶の中に永遠に残ることになる」としながら「卓越した指導者にめぐり会えず個人テロに頼らざるを得ず、ついには命を投げ打っても独立の念願を果たせなかった民族の風雲児」であるとした[55]
烈士
2013〜2014年の日韓における安重根論争に際して、金正恩政権の北朝鮮も、朝鮮労働党機関紙『労働新聞』が1月26日付の記事で見解を発表した。日本政府が安を「テロリスト」と呼んだことについて、「反日愛国の烈士をむやみに冒涜すべきでない」と批判。同日、北朝鮮のメディアとしては初めて、朝鮮中央放送と平壌放送が、記念館の設置についても触れた[56]

日本

テロリスト

犯罪者
韓国の朴槿恵政権が中国に依頼して建立を目指す安重根の石碑について、安倍内閣官房長官菅義偉は2013年11月19日の記者会見で、「わが国は、安重根は犯罪者であると韓国政府にこれまでも伝えてきた」[57]と述べ、日韓関係のためにはならないと不快感を示した[58]。官房長官の発言に韓国メディアはこぞって猛反発し、20日、韓国の尹炳世外相も国会答弁で「容認できない」と抗議したが、官房副長官の世耕弘成は「伊藤博文を殺害し、死刑判決を受けた人物だ。それに尽きる」と述べて反論した[59]
後述のように記者会見では「テロリスト」と述べるわけであるが、2014年2月、国会で新党大地鈴木貴子衆院議員の質問主意書に答える際には、表現を再びトーンダウンし、安重根は「死刑判決を受けた人物」であると政府答弁書には記することを閣議決定した[60]。これが現在の政府見解である。
テロリスト
安重根はテンプレート:要出典範囲。自民党の深谷隆司元衆院議員も「安重根はテロリスト」であると書き、伊藤は「日韓併合には慎重論者」で暗殺は「朝鮮にとってかえって不利益」をもたらしたという説に同調し、菅官房長官の発言は当然とした[61]
また9.11テロ以後、政治テロに対する世論は厳しくなっており、安重根は「伊藤博文を暗殺したテロリスト」[62]であり、「テロリストを英雄として賞賛することも先進国では考えられない」[62]
2014年1月20日、前述の抗議を無視してハルビン駅に安重根記念館がオープンしたことに対して、菅官房長官は再び発言し、平和に資するものではないと「極めて残念で遺憾だ」[63]と述べ、「安重根は我が国の初代首相を殺害し、死刑判決を受けたテロリストだと認識している」[64]との政府見解(後にやや修正)を明らかにした上で、中韓に外交ルートで抗議するとした[63]
近代史における歴史研究としては、伊藤博文研究者の伊藤之雄京都大学教授は、近年発見された伊藤のメモに「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があったことから、「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的だった事を裏付けるもの」としている[65]。しかし伊藤博文は韓国を日本の被保護国に留めることを志向し、日韓併合に慎重な立場であったため、伊藤の暗殺は逆に併合を加速させることになった[6]という説がある一方で、伊藤は日韓併合に慎重な立場であったが、韓国統監時代に韓国の国権接収などに関与し、最後には併合する日本閣議も承諾していた[66]という説もある。
伊藤博文暗殺の15の理由の1つとして、安は「伊藤博文は明治天皇の父親[67]を殺した」と述べており、そのため安は「天皇が朝鮮独立を望んでいるにも関わらず、進展がないのは伊藤が逆らっているからだ」と考えるようになったという説があるが、そのような事実は存在しない。いずれにしても安が言う原因すべてを伊藤とすることはできない。
政治犯
テンプレート:By社会党新村勝雄衆院議員は、安を含む韓国統治時代の「政治犯」の名誉回復を提起したが、安倍晋三首相の父で、当時の安倍晋太郎外相は、明確な答弁を避けた[41]。安重根を政治犯とする主張は、左派にしばしば見られたが、行為そのものは犯罪であり、肯定するものではないが、その行動の政治的理由を勘案して一定の赦免は与えられるべきという立場であった。
韓国の愛国者[68]/ 義兵運動・独立運動家[69]
朝鮮日報は2013年11月21日の社説で『1982年に日本の歴史教科書は安義士を「壮士」と表現した。日本語の「壮士」にはヤクザやチンピラという意味合いがある。日本の極右勢力の主張が今や日本政府の公式見解になってしまったのだ。』[42]と書いたが、実際には「壮士」と記述したのは扶桑社/自由社のものだけで、1982年でもなかった。山川出版社の世界史用語集によると、安重根は「韓国の愛国者で、伊藤博文を朝鮮亡国の元凶とし1909年ハルビンで暗殺。刑死した。」[68]とあり、そもそもほとんどの教科書に登場しない語句である。伊藤の暗殺に関連して名前が出てくる程度であり、独立運動家や民族主義者など簡単に表現されることがほとんどで、テロ行為そのものの評価にまで踏み込んでいる日本の教科書は存在しない。

汎アジア主義的立場

初期の汎アジア主義者は、アジアの諸民族は団結して(白人の)植民地や半植民地的な状態から脱すべし、という立場であったので、民族主義者の独立運動を是認する傾向にあった。安の書いた「東洋平和論」はこの汎アジア主義に極めて近い思想であり、日本の右翼にも共感できる部分が少なからずあった。

志士
韓国支配の象徴的存在であった伊藤の暗殺は、民族の独立を願う志士の純粋な行動として、幕末の勤皇志士につながるところがあり、安重根の裁判を担当した日本の検事から「韓国のため実に忠君愛国の士」と感嘆の声があがるほどであった。これは、立場が違っても、相手を忠義の志士と見れば、一定の敬意を払う武士道的倫理観によるものである。
戦後新右翼の代表的な論客であった野村秋介も、安を「尊敬する歴史上の人物」に挙げている。

陰謀説

事件当時より情報が錯綜したため、被害者や犯人の数について様々な憶測が流れたが、現在でも単独犯行ではなかったという主張もある。

鉄砲玉
ロシア国籍の朝鮮人、金某が安重根に手引きしてやらせたという説がある[70]。なお、金某を含めロシア国籍の不逞朝鮮人はシベリア奥地に移住させたとされる[70]
人身御供
伊藤博文の随行員として事件現場にいた外交官出身の貴族院議員である室田義文が、
  1. 伊藤に命中した弾丸はフランス騎馬隊のカービン銃のものと証言しているのに、安重根が所持していたのはブローニング拳銃である。
  2. 弾丸は伊藤の右上方から左下方へ向けて当たったと証言している。
ことなどから、伊藤に命中した弾丸は安重根の拳銃から発射されたものではない、という説がある。この説においては安重根は事件の真相を闇に葬るための人身御供とされ、黒幕とされているのは明石元二郎杉山茂丸後藤新平である。[71][72][73]

中華人民共和国

無評価
伊藤博文暗殺の現場となったハルビン市は当時は王朝の領土であったが、駅はロシア権益に属した。この地域は現在も少数民族として朝鮮族が居住しているほか、韓国人も外国人として在留している[74]中華人民共和国では、安重根が「日本の首相経験者を暗殺した人物」として高い知名度を持っている[74]が、中国政府は、安重根の評価は反日勢力を刺激し、国内の社会不安を増大させるとして、積極的な評価は行っていなかった[74]
1980〜90年代末にかけ中国で学んだ人物によると、中国の教科書には『安重根が伊藤博文を暗殺したことが火種となり、日本は韓国を併合し、中国侵略への準備を加速させていった』との記述があったと記憶しているとのことで、安重根についての説明はなかったという[75]。またこれは暗殺事件が併合のきっかけになったという説に沿った見解であった。
2006年には、韓国人によってハルビン市に4.5mの安重根の銅像が建設されたが、「外国人の銅像建設は認めない」として当局により撤去された[76]。伊藤暗殺から100年にあたる2009年10月26日には同市で記念式典が開かれることになったが、ハルビン駅近くの中央大街公園広場での開催は許可せず、朝鮮民族民芸博物館での開催となった。また旅順市の戦争陳列博物館で安重根の特別展が開かれたが、「国際抗日烈士展示館」と安重根の名前は出さない曖昧なものにさせ、慰霊や記念式典は認めなかった[74]
ファイル:Ahn Jung-geun Memorial Hall in Harbin Railway Station.jpg
黒竜江省ハルビン市駅内, 安重根義士記念館(2014年)
抗日
従来、朝鮮族の民族主義が、中国共産党が掲げる中華民族の主張に矛盾するため、その分離主義の主張を嫌って中国は積極的に評価しないのではないかと言われていたが、2013年11月20日中華人民共和国外交部報道局洪磊副報道局長は「安重根は歴史的に知られた抗日の義士で、中国でも尊重されている」と会見で初めて韓国寄りの発言をした[77]
2014年1月20日、同じく洪報道官は「安重根は著名な抗日戦士で、中国人民は尊敬している。中国は、国内の関連規定により記念施設を設立していて、理にかなっている」として記念館のオープンを説明し、日本の抗議を受け入れない旨を表明した[78]。また9月24日、ハーグで中韓首脳が会談した際、習近平主席は記念館の「建設は私が直接指示を下した」と述べ、さらに光復軍に関する記念館建設についても言及した[79]
この中国の方針の変化は、単に日中関係の悪化によるものではないという分析もある。中国はアジアにおけるアメリカ合衆国の同盟構造を脆弱化させることを狙っており、記念館建設によって韓国人の中国人に対する好感度を上げることで、アメリカの安全保障上の土台である日韓の関係の溝を一段と広げようという政策であったというのである[39]

ヨーロッパ

評価無し
ヨーロッパでは、安重根の知名度は低く、ほとんど知られていない。安重根によるハルビン事件は、第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件の暗殺を連想させる[80][81]が、詳細はサラエボ事件#その後の影響ガヴリロ・プリンツィプの頁を参照。

安重根の子孫

安俊生

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安俊生(左端)と伊藤文吉(右の和装)
  • 安重根の次男・安俊生は、出生前に父がウラジオストクに行ったため、父とは面識はなかった。事件後、母に連れられ満洲、シベリアなどを流浪し、上海租界に在住。杭州の大学を卒業した。1939年内鮮一体の活動の一環で上海在留朝鮮人の「満鮮視察団」に加わり[82]、一行は10月9日に朝鮮総督府を訪れて総督南次郎と面談。11日に平壌で解散した後、俊生は数名の同行者と10月15日にソウルに建立された博文寺を訪問。伊藤博文の位牌に対して焼香した[83]。さらに翌10月16日には、朝鮮ホテルで伊藤博文の息子である伊藤文吉と面会し謝罪した[84][41]
演出された和解劇であったが、この話を新聞で知った韓国独立運動家の金九[85]は、「南総督[86]を父と呼んだ」として激怒し、俊生は「韓奸」であるとみなして殺害を図った。金九は当時重慶にいた蒋介石に俊生を逮捕して絞首刑にするよう強く依頼した[82]。しかし上海の当局はその要請を黙殺。俊生は上海で薬局を営んでいて実際に殺されることはなかったが、終戦後もしばらく帰国をためらい、母の死後、俊生はようやく帰国。韓国でひっそり暮らし、朝鮮戦争中に釜山に避難しているときに、デンマーク国籍の病院船内で結核で死去した。
俊生の子(つまり安重根の孫)安雄浩は米国に移民して中国系女性と結婚。さらにその息子(つまり曾孫)のトニー・アン・ジュニアはすっかり「韓国語もしゃべれない米国人」[36]になってしまったが、暗殺事件104周年記念で韓国を訪れた[36]

安賢生

  • 安重根の長女・安賢生(日本名:大川安子)は、事件があったときは8歳だったが、すぐに出国した母と弟とは分かれて、父が懇意にしていたフランス人神父の保護を受けながら明洞聖堂の修女院で暮らし、5年後に帝政ロシア末期のウラジオストクに亡命して家族と合流。革命とシベリア出兵の混乱を避けて、中国・上海フランス租界に移り、フランス文学と美術を勉強した。25歳で黄一清と結婚。賢生は満鮮視察団には同行しなかったが、夫は同租界の電車会社の車掌監督で、その夫と共に1941年3月に博文寺を参拝して、弟と同様に伊藤博文を慰霊した[82]。この模様も京城日報によって報道されているが、彼女に関しては名指しでの殺害指令は出されていない。参拝した時期は日本軍による上海租界の占領の前である。
帰国後はソウル在住。朝鮮戦争時に大邱に移り、大邱曉星女子大(大邱カトリック大学)で教職についた[87]。1960年にソウルで死去。

記念碑

日本
  • 元看守の千葉十七(及びその妻)の墓がある宮城県栗原市(旧若柳町)の大林寺には、1981年に安重根の顕彰碑が建立された。これは千葉十七が安から贈られた「為国献身軍人本分」と書かれた墨書を、遺族が安重根の生誕100周年(1979年)に際して韓国に贈ったことへの返礼として、遺墨を刻んだ碑が立てられたものである。碑の裏には山本壮一郎県知事(当時)の「日韓両国永遠の友好を祈念」の文字が刻まれ、1992年9月6日からは日韓合同で毎年、安重根・千葉十七夫妻の合同供養が執り行われている[88]
  • 2011年、佐賀県佐賀市の無量寺に「安重根東洋平和祈願碑」の碑が建てられた[89]
韓国
  • ソウル市内に安重根義士記念館があるほか、その近くに安重根の銅像がある。
中国
  • 2006年、ハルピン内に銅像は一度建てられ、中国当局により撤去させられたことは前述[76]の通りであるが、銅像が禁止であるため、今度は石碑をハルピン駅内に造るとされていたが、結局は日韓・日中関係の悪化によって、中国政府は記念碑の設置を格上げして「安重根義士記念館」として2014年1月19日に完成させ、翌日より一般公開した[90]。前回揉めた銅像も設置されている。韓国は「歓迎し、高く評価する」[90]と発表したが、日本は上記のように抗議した。
ロシア
  • 2002年、ソウル保健神学研究院と提携したことがきっかけで、ウラジオストク国立医科大学の構内に安重根をたたえる記念碑を建立したが、翌年、学内のリニューアル工事のために撤去された[91]

安重根を描いた作品

小説
  • 韓碩青 著 金容権訳『安重根』1997年
    • 第一部:生成篇 ISBN 4-87893-289-9
    • 第二部:超人篇 ISBN 4-87893-290-2
映画
  • 安重根と伊藤博文(DVD邦題:安重根 伊藤博文を撃つ、1979年、北朝鮮、演:リ・インムン)

関連書籍(邦文)

  • 『朝鮮統治史料 第5巻 (民族運動)』韓国史料研究所 1970
  • 市川正明『安重根と日韓関係史』原書房 1979 明治百年史叢書
  • 中野泰雄『安重根 日韓関係の原像』亜紀書房 1984
  • 谷譲次『安重根 十四の場面』五望書房 1989
  • 佐木隆三『伊藤博文と安重根』文芸春秋 1992 のち文庫 
  • 斎藤充功『伊藤博文を撃った男 革命義士安重根の原像』時事通信社 1994 のち中公文庫 
  • 斎藤泰彦『わが心の安重根 千葉十七・合掌の生涯』五月書房 1994
  • 鹿嶋海馬『伊藤博文はなぜ殺されたか 暗殺者・安重根から日本へ』三一新書 1995
  • 中野泰雄『安重根と伊藤博文』恒文社 1996
  • 津留今朝寿『天主教徒「安重根」 私の中の安重根・日本と韓国』自由国民社 1996
  • 市川正明『安重根と朝鮮独立運動の源流』原書房 2005 明治百年史叢書
  • 廣瀬爲人,斎藤泰彦『わが心の安重根遺された硯』創樹社美術出版 2008
  • 伊藤之雄,李盛煥編著『伊藤博文と韓国統治 初代韓国統監をめぐる百年目の検証』ミネルヴァ書房 2009 シリーズ・人と文化の探究
  • 安重根『安重根 仁の人、義の人、信の人』うのていお訳 愛知宗教者九条の会 2011
  • 『安重根事件公判速記録 復刻版』満洲日々新聞社編 龍溪書舎 2011 韓国併合史研究資料
  • 『図録・評伝安重根』統一日報社編 姜昌萬監修 日本評論社 2011

出典・脚注

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参考文献

安重根伝記等

伊藤暗殺事件関連

関連項目

  • 旧暦では1879年7月16日。
  • テンプレート:Cite web
  • テンプレート:Cite web
  • Ito, Hirobumi | Portraits of Modern Japanese Historical Figures at www.ndl.go.jp
  • なお韓国併合の方針は、すでに暗殺前に日本で閣議決定していた。(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 1909年7月6日)
  • 6.0 6.1 6.2 6.3 6.4 テンプレート:Cite book
  • 夏目漱石も元首相の暗殺には驚愕しつつも、安は独立活動家であるとその動機を判断していた。被害者の1人である中村是公は漱石の親友でもあった。
  • テンプレート:Harvnb
  • テンプレート:Harvnb
  • 빌렘, 천주교서울대교구,가톨릭인터넷 굿뉴스(天主教ソウル大教区、カトリックインターネットGoodnews), 2010年2月8日閲覧。
  • 안중근, 천주교서울대교구,가톨릭인터넷 굿뉴스(天主教ソウル大教区、カトリックインターネットGoodnews), 2010年2月8日閲覧。
  • 笹川紀勝「安重根の平和論」NPO現代の理論・社会フォーラム『NEWS LETTER』2009.12, Vol.2-12(通巻23号)
  • 13.0 13.1 13.2 テンプレート:Cite news
  • 軍人であるという主張は極めて疑わしいが、韓国では公に信じられている。後述のテロリストではないという韓国側の主張のベースとなっており、非合法戦闘員ではなかったことにしたいようだ。
  • テンプレート:Harvnb
  • テンプレート:Harvnb
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  • 長州閥の1人。釜山領事やメキシコ公使も務めた外務官僚ながら、井上馨の口添えで1900年に第百十国立銀行の頭取に就任。1909年には随行員として伊藤に同行していた。1934年に貴族院議員
  • 新潟県出身。旧村上藩士の子。東京外国語学校ロシア語科卒でロシア語に堪能で、外務省のロシア関係担当。旅順開城の際には乃木大将とステッセル中将との通訳も務めた。伊藤に同行した際も通訳兼務で、事件で銃弾を受けたが後に回復した。
  • テンプレート:Cite news
    新聞記事の後半に「不当性自認」とあるが、実際は第二次日韓協約があるので、韓国側にできることはなく、「実行上の支障」とは手続きなどが決まってないことをさす。
  • 以下は「安重根と伊藤博文(著・中野泰雄)」の67頁~69頁から引用。原文のまま。
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • 共犯者として同様に逮捕された禹徳淳には懲役2年、曹道先及び劉東夏には懲役1年6ヶ月の判決が下された
  • 25.0 25.1 『南国夜話』小島徳治(著)昭和23年
  • 「わが心の安重根―千葉十七・合掌の生涯」-斉藤泰彦著。
  • 財団法人日韓仏教福祉協会 安重根義士と千葉十七夫妻の日韓合同法要 財団法人「日韓仏教福祉協会」より。
  • テンプレート:Cite news
  • この獄中遺墨は宝物第569-25号。
  • テンプレート:Cite news
  • 宝物は韓国の国宝の意味。「第569号」はすべて安重根の墨書関連で、何十点もある。
  • 安重根の遺墨盗難で朴槿恵氏にぬれぎぬ、大学教授の書き込みとは(元は朝鮮日報の記事だが消滅により)
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • 36.0 36.1 36.2 テンプレート:Cite news
  • 37.0 37.1 郵便学者内藤陽介テロリスト図鑑:安重根
  • テンプレート:Cite news
  • 39.0 39.1 テンプレート:Cite news
  • 『高宗実録』『純宗実録』1934年
  • 41.0 41.1 41.2 テンプレート:Cite news
  • 42.0 42.1 テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • ソウル・南山の安重根記念館、日本人「ざんげ」の場に (WoW! Korea 2009/10/22)
  • 韓国海軍の潜水艦「安重根艦」が進水 (朝鮮日報 2008/06/05)
  • 伊藤博文暗殺から100年、韓国で記念式典 (読売新聞 2009年10月27日)
  • テンプレート:Cite news
  • 朝鮮日報 2014/03/27 安重根没後104年、東京で初の追悼式
  • 朝鮮の独立運動家で歴史学者。大韓民国臨時政府の一員だったが、路線対立で後に脱退。より過激なテロ組織の義烈団に加わり、朝鮮革命宣言を書いた。日本では完全に無名だが、韓国では高名。
  • 韓国サポーター、安重根の大きな肖像画も レッド級横断幕(ZAKZAK、2013年7月29日記事)
  • 51.0 51.1 テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite book
  • ハーグ条約では単に非戦闘員だが、後のジュネーヴ条約にはさらに厳しい規定と禁止事項がある。
  • 安が拳銃を隠し持って群衆にまぎれて接近したのならそれも違反で、戦闘員と認めるのは難しい。
  • 安重根義挙は「個人テロ」、北朝鮮・統一新報」聯合ニュース/gooニュース、2009年10月25日
  • テンプレート:Cite news
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  • 2013年11月19日 朝日新聞「菅官房長官「安重根は犯罪者」 碑設置の動きに不快感
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • 62.0 62.1 テンプレート:Cite news
  • 63.0 63.1 テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite web
  • 韓国併合 伊藤博文のメモ見つかる(NHK) (NHKの記事は消失のためネットに残るキャッシュ)
  • テンプレート:Cite book
  • 孝明天皇のこと。
  • 68.0 68.1 テンプレート:Citation
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  • 70.0 70.1 先人を語る 本多熊太郎 1939年
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  • テンプレート:Citation
  • 74.0 74.1 74.2 74.3 伊藤博文暗殺から100年 中国ハルビンでの記念式典をめぐり中韓で大きな温度差」『産経新聞』2009年10月26日。
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  • 76.0 76.1 テンプレート:Cite news
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  • テンプレート:Cite news
  • テンプレート:Cite book
  • テンプレート:Cite news
  • 82.0 82.1 82.2 テンプレート:Cite web
  • 京城日報」1939年10月16日付より。
  • 毎日新報」1939年10月18日付より。
  • 金九の長男の金仁は、安重根の姪の安美生と結婚しており、姻戚関係にあった。このために安俊生が内鮮一体に賛同したことは、彼とっては(金九の家長的権威の無視であって面子を潰されたことになるので)家族的な大問題であり、許されざる行為であった。
  • 満州事変時に陸軍大臣。後に関東軍司令官。戦後、A級戦犯として終身刑になった。内鮮一体、創氏改名は彼の代で提唱されたもの。個人的には穏和で誰にでも人当たりの良い人で、安俊生らとの面会でも気さくに振る舞ったことが記されている。
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  • 財団法人日韓仏教福祉協会」公式サイトより
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  • 90.0 90.1 テンプレート:Cite web
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