テコンドー

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テンプレート:Infobox 武道・武術 テンプレート:Infobox テコンドーまたは跆拳道(たいけんどう)とは、格闘技スポーツの一種で、韓国国技。その起源である空手と比べて多彩な蹴り技が特徴。「跆拳道」の「跆」は、踏む・跳ぶ・蹴る等の足技、「拳」は突く、叩く、受ける等の手技、「道」は武道を意味する。

概説

テコンドーが発達してきた過程には「伝統」と「スポーツ」の2つの側面がある。これらはいずれも不可欠であり、その境界線はしばしば曖昧でもある。

  • 「伝統としてのテコンドー」は、1950年代から1960年代にかけて韓国の軍隊で定着化した格闘技としての部分や、韓国の歴史に因んだ名称や象徴を多く持つ「」に見られる。
  • 「スポーツとしてのテコンドー」は、1950年代以降の数十年の間に確立された現代的な部分、すなわちスピード性や(オリンピックのスパーリングにあるような)競技性に見られる。

WTFITFの2つの系統や、派生団体の間には教義・技術面での違いこそあるが、脚力と脚のリーチを生かした移動姿勢からの蹴り技に重点が置かれている点は共通している。最も明確に両団体の違いを見て取れるのは、競技としてのスタイルとルールの違いである。テコンドーのトレーニングでは主として防御、蹴り、突き、手刀を、副次的には相手を押倒す、足払いをする、投げる、関節技をかける、といった技術を体系的に身に着ける。一部の道場・教室では、合気道柔道といった武道から取り入れられた護身術や急所突きも併せて指導されている。

(※ここからの話は20年以上前の1987年時点におけるものであることに注意)具体的な競技人口は1980年代末の時点で韓国系のWTFに約3000万人、北朝鮮系のITFに約1500万人の合計、約4500万人である[1]。しかしながらアメリカなどでは「KARATE」の看板が掲げられていても、実際に道場に入ってみると韓国国旗を掲げて、テコンドーをしているというケースにジャーナリストの岩上安身は遭遇しており、実際の競技人口は公称よりも多いという[1]。日本テコンドー協会(WTF系)の島田明男によると東洋の武道の中で最初に欧米に渡ったのが空手であるため、東洋の格闘技=空手のイメージが強く、テコンドーを教えていながらも空手を名乗っている道場が多くあるという[1]。テコンドーがアメリカに入ったのは1960年代で、その後急速に普及していき、島田が渡米してテコンドーと出会った時点での普及率は約50%、現在(1987年時点)では全米の武道人口のうち70%をテコンドーが占めているという[1]。 また、島田は自身がテコンドーの前に空手をしていた経験から武道としての実戦性をみれば日本の空手は凄まじいものがあるが、テコンドーを実戦性で空手などの日本の武道と比較する意味はなく、テコンドーは純然たるスポーツ競技だと述べている[1]。 ITF系(北朝鮮)は初期のテコンドーを受け継いでおり武道としての色彩が濃いが、WTF系(韓国)は、オリンピック競技化を明確な目標として実戦性を犠牲にしてでもスポーツとしての面白さ、分かりやすさを追求していった[1]。また、当時、普及度において先行していた空手がIOC(国際オリンピック委員会)に承認されれば類似するテコンドーのオリンピック競技化は困難となるため、韓国はテコンドーのスポーツ化をすすめると同時に国家的なバックアップのもと、指導者と選手を育成して海外普及に努めた[1]。その結果、1970年の時点で統一組織をつくり世界大会を開催していた空手を追い上げ、73年に世界大会を開催、80年にはIOCに加盟し、86年のアジア大会で空手に先んじて正式競技となり、88年のソウルオリンピックではオープン種目として採用されることになった[1]。 「武道としての実戦性を犠牲にしても、スポーツとしてのわかりやすさ、面白さを追い求めていった韓国の戦略が、伝統に固執する日本の空手を引き離してしまった」と岩上は結論付けている[1]

歴史

1955年4月11日、「テコンドー」という名称が、崔泓熙(チェ・ホンヒ) が日本留学中に学んだ松涛館空手を元に独自の工夫を加えて、正式に命名された[2]

「テコンドー」命名以前

1940年代中盤の朝鮮半島では、韓国併合後に日本から伝わった空手が「コンスドー(空手道)」、「タンスドー(唐手道)」などの呼称で普及しはじめた。当時の主な道場勢力は以下の通りである。

  • 青涛館(1944年 - )
    初代館長は李元国(イ・ウォングク)。日本留学中に松武館の盧秉直とともに松濤館へ入門、船越義珍に師事。朝鮮戦争勃発時、軍の召集を拒み日本へ密航した。青涛館の分館として4つの道場が派生。
  • 吾道館
館長は崔泓熙(チェ・ホンヒ)陸軍少将。軍隊内でその教義を広め、民間道場とは一線を画していた。「テコンドー」の名称が決まるまでは自らの雅号「蒼軒」に因んで「蒼軒流唐手」と称していた。ベトナム戦争時は657名のテコンドー師範を同地に派遣した。
  • 国武館
  • 正道館
  • 青龍館
  • 松武館(1946年 - )
    館長は盧秉直(ノ・ピョンジク)。日本留学中に青涛館の李元国とともに松濤館へ入門、船越義珍に師事。後に大韓テコンドー協会の第5代会長に就任。
  • 朝鮮研武館空手道部 / 智道館(1946年 - 1967年
    館長は田祥燮(チョン・サンソプ)。 柔道道場内に発生。後年、智道館に改称。
  • YMCA拳法部 / 彰武館(1946年 - )
    館長は尹炳仁(ユン・ピョンイン)。後に智道館と親交を深める。後年、彰武館に改称。この分館として講徳院、韓武館等がある。
  • 武徳館
    館長は黄琦(ファン・ギ)。鉄道局内のクラブとして発生。黄琦は南満州中国武術を学んだとしている。後に「手搏道(スバクドー)」の名称で普及、大韓手搏道会の前身にあたる。

「テコンドー」命名

1950年代、韓国内の武道団体統治の動きは武道自体の名称統合の流れを生み、「テコンドー」が命名される。国政の動乱の中で一度は解体されるも、命名者崔泓熙の活動により復活を果たす。

  • 1950年 - 朝鮮戦争が勃発。臨時首都のあった釜山で「大韓空手道協会」が創立される。中央審査委員の資格が付与されないことを理由に、武徳館館長の黄琦と青涛館館長の孫徳成(ソン・トクソン)が脱退。
  • 1953年 - 黄琦、「大韓唐手道協会」を独自に発足。
  • 1954年 - 崔泓熙陸軍少将を含む第29歩兵部隊が李承晩大統領の前で演武を行う。空手を知らない大統領はテッキョンと断定したままこれを賞賛、軍内での普及を宣言。崔泓熙は反日の立場を取る大統領に向かって日本の武道である空手とは言えず、またテッキョンとも違うことから自らが創始した武道であると伝える。

これは当時の軍国・民族主義的風潮への配慮(空手が日本を想起させる、現在に至る反日教育下)もあったため名目上テッキョンの名前を利用した。武道としては空手の派生であるとされる。

  • 1954年12月 - 崔泓熙、自らが訓練してきた武道の名称を「テコンドー(跆拳道)」に決定。
  • 1955年4月11日 - 崔泓熙が名称制定委員会を招集、テコンドーの名称が李承晩大統領によって公式に認定される。
  • 1959年9月3日 - 崔泓熙、大韓空手道協会を「大韓テコンドー協会」に改称。
  • 1960年 - 李承晩大統領が経済政策に失敗し、4·19革命で国外に追われる。黄琦、大韓唐手道協会を「大韓手搏道会」へと改称、大韓民国文教部体育会への登録を果たす。
  • 1961年 - 崔泓熙の後輩にあたる朴正煕らによって引き起こされた5·16軍事クーデター後、政権が朴正煕が率いる国家再建最高会議に掌握される。新政権樹立後、以前の文教部登録が無効となり、国家再建最高会議が団体の文教部への再登録を求めたことから再び統一名称問題が持ち上がる。
  • 1961年9月 - 名称統合会議が開催され、テコンドーの「跆(テ)」と空手の「手(ス)」を繋いだ「跆手道(テスドー)」という名称に決定。組織名は「大韓テスドー協会」に改称される。
  • 1962年 - 蔡命新中将が初代大韓テスドー協会会長に就任。黄琦、智道館の尹快炳(ユン・ケビョン)を伴い、大韓テスドー協会から正式に脱退。崔泓熙、軍職を解かれマレーシア初代韓国大使に任命される。
  • 1964年 - 韓国に帰国した崔泓熙は大韓テスドー協会の会長に就任。テコンドーの名を復活させる活動を開始。
  • 1965年 - 崔泓熙、英文によるテコンドーの教本を発刊。
  • 1965年3月18日 - 崔泓熙、統合宣言式を開催し「大韓テコンドー協会」を主張。式には黄琦も参加したが統合の無効を主張、独自に「大韓手搏道会」を活動させる。
  • 1965年8月5日 -大韓テスドー協会、「大韓テコンドー協会」に改称される。

系統の分岐

再び会長職についた崔泓熙も1年あまりでその地位を退き、新たに創立された国際テコンドー連盟 (ITF) の総裁に就任。一方、大韓テコンドー協会は韓国国技を担う位置付けを獲得していく。こうしてテコンドーは2つの系統に分かれて発展していくことになる。

  • 1966年 - 崔泓熙、大韓テコンドー協会会長を理事らによる不信任によって退陣。第5代会長に松武館館長の盧秉直(ノ・ピョンジク)が就任。同年、韓国、アメリカ、西ドイツ、イタリアなど9カ国の組織の承認を得て、国際テコンドー連盟(ITF)が創設され、総裁に崔泓熙が就任。式典はソウルの朝鮮ホテルで行われた。
  • 1967年 - 朴正煕大統領の意思の下、大統領警護室補佐官の金容彩が大韓テコンドー協会の第6代会長に就任。
  • 1968年 - 大韓手搏道会、ソウルで第1回世界大会を開催。
  • 1971年 - 朴正煕大統領により、テコンドーが国技の揮毫を受ける。
  • 1973年 - 世界テコンドー本部総本部道場国技院が開館。同年、 崔泓熙がカナダへ亡命、その際ITF本部をトロントへと変更し、これを受けて韓国が独自に世界テコンドー連盟 (WTF)を設立。
  • 1973年5月 - WTF、ソウルで第1回世界大会を開催。
  • 1974年10月 - ITFカナダモントリオールで第1回世界大会を開催。

オリンピック競技化

1970年代に韓国国技の位置付けを確立したWTFテコンドーは、1980年代に入りオリンピック競技化への一途を辿る。

近年

団体

テコンドーの主要団体として、ITFと、WTF の2つがあり、異なるシステム(級位・段位等)とスタイル(技、型、試合ルール等)を持っている。また、特に欧米ではいずれかにルーツを持ちながら独自に派生した団体や教室も数多く存在している。

ITF

ファイル:ITF Taekwondo Sparring Gear.jpg
ITF の代表的なスタイルの防具

国際テコンドー連盟 (International Taekwon-Do Federation) は、1966年3月22日に9ヶ国の承認を受けて韓国ソウルで発足。初代総裁は崔泓熙ライトコンタクト制のルールで、下段攻撃は禁止されているが顔面への拳攻撃は許容されている。防具は手足のみに着用し、ベースとなった空手により近い。

1974年10月、ITF第1回世界大会開催(カナダモントリオール)。以後、2009年まで16回の世界大会を開催。

2002年、初代総裁の崔泓熙没後、ITFはトラン・クァン派、張雄(チャン・ウン)派、崔重華(チェ・ジュンファ)派の3派に分裂。最終的にトラン・クァン派が従来のITFを公式に継承する連盟として承認された。

WTF

ファイル:Proteccionestkd.JPG
WTF の公式防具 (胴、上腕、脛部用)

世界テコンドー連盟 (World Taekwondo Federation) は、1973年5月28日韓国国技院でおこなわれた設立会議を以って設立。限定フルコンタクト制のルールだが、防具は手足のみならず頭部、胴部にも着用する等安全性が考慮され、よりスポーツ性が高い。また、下段攻撃(ローキック等)や顔面への拳攻撃は禁止されており、連続の突きは点数にならないなど、より蹴り技に重点が置かれている。「足のボクシング」とも形容される[3]

オリンピック正式種目になっているのはスパーリング競技(キョルギ)のみだが、世界選手権では(プムセ; 品勢)、試割(キョッパ; 撃破)等の種目もおこなわれている。

日本における主要団体

日本での主な団体として、WTF の全日本テコンドー協会(AJTA)、ITF3団体、日本の ITF から派生・独自に発展した 日本テコンドー協会(JTA)が存在する。

WTF

ITF

  • 1982年 - パク・チョンテによりITFテコンドーの日本への普及が開始。
  • 1983年7月4日 - ITF より認可を受け、日本国際テコンドー協会(ITF-JAPAN)が設立。
  • 2001年 - ITF-JAPAN から日本テコンドー協会(JTA)が派生・独立。「フルコンタクト・テコンドー」を掲げ、独自に発展した。
  • 2004年 - ITFが3つに分裂したことを受けて、日本のITFも3つに分裂。

主な選手

WTF

ITF

  • 朴禎賢
    国際師範、国際審判員、六段。日本国際テコンドー協会理事。ファラン・テコンドー朴道場代表。日本初のITF競技委員であり、2009年第16回世界大会(ロシア)では、最優秀審判員をアジアで初めて受賞した。1999年第11回世界大会(アルゼンチン)団体型で銀メダル。
  • ピア・ゲネット
    世界大会のヘビー級で幾度もの優勝を飾ったカナダ出身の選手。K-1に参戦し、アンディ・フグ中迫剛と対戦したことがある。K-1での戦績は2戦2敗。
  • 稲守朋子
    卵巣癌に侵されながらも、世界大会のシニア団体女子トゥルで優勝を飾った日本の選手。

テコンドーには空手と同様に「」がある。ITFの型は「トゥル」、WTFの型は「プムセ(品勢)」と呼ばれる。

ITF

ITFには24の型(トゥル)があり、その名称は、朝鮮半島の歴史や神話の人物に因んだものとなっている。「サインウェーブ」と呼ばれる、移動時に上下に波打つ独特の動作が特徴。

  • 9級~1級 - 天地(チョンジ)、檀君(タングン)、島山(トサン)、元曉(ウォニョ)、栗谷(ユルゴク)、重根(チュングン)、退渓(テェゲ)、花郎(ファラン)、忠武(チュンム)
  • 初段から - 廣開(クワンゲ)、圃隠(ポウン)、階伯(ケベク)、義菴(ウィアム)、忠壮(チュンジャン)、主体(チュチェ)、三一(サミル)、庚信(ユシン)、崔瑩(チェヨン)、淵蓋(ヨンゲ)、乙支(ウルチ)、文武(ムンム)、西山(ソサン)、世宗(セジョン)、統一(トンイル)

WTF

WTFの型(プムセ)には、章立てされた「太極(テグ)」や、韓国の地名に因んだ名称を持つ「高麗(コリョ)」「金剛(クムガン)」などがあり、国技院による統一教本に準じて標準化されている。

  • 8級~1級 - 太極 1章~8章 = (八卦の型)
  • 初段から - 高麗(コリョ)、金剛(クムガン)、太白(テベク)、平原(ピョンウォン)、十進(シップシン)、地胎(チテ)、天券(チョンゴン)、漢水(ハンス)、一如(イルリョ)

オリンピック競技テコンドー

テンプレート:See also

2000年シドニーオリンピックWTFテコンドーが正式競技種目として採用された際、競技開催上の変更・制約が適用された。

  • 階級の集約。本来、WTFテコンドーには男女それぞれ8階級存在するが、それぞれ4階級(男女あわせて8階級)に集約された。
  • 国ごとの出場枠の設定。1ヶ国の代表選手数は男女それぞれ2名までに制約された。その結果、韓国がメダルを独占していた状況から転じて、多彩な国々がメダルを獲得することとなった。オリンピックでこのように国ごとの出場枠が設定されている競技はテコンドーのみである。

起源

テコンドーの源流には、日本空手がある。創始者である崔泓熙は、松涛館空手を学んでテコンドーを創始したとしている。また、韓国国技院副院長はテコンドーは空手から派生したものであり、蹴りを主眼に置いて競技化したことで空手との差別化を図ったとしている。[4][5]

テコンドーの起源を韓国の古武術テッキョンに求める見方もあったが、韓国の伝統武術として普及させることを名目に宣伝されてきた経緯に依るところがある。[6]李氏朝鮮時代にはは盛んだったものの、文尊武碑体制化により武は軽視されており[7]、テコンドーの前身となる武道の普及が活性化した1940年代中盤の朝鮮半島に独自の武術が残っていたかは定かではない。

地域的な起源・国籍に関する補足

テコンドーの地域的な起源はWTFITFともに韓国である。稀にWTF韓国系、ITF北朝鮮系と紹介されることがあるが、これは誤りである。

  • 創始者崔泓熙韓国籍であり、韓国からカナダに亡命している。彼の故郷は現在の北朝鮮にあたるが、朝鮮戦争以前に来日しており、戦後は韓国軍の高級将校であった。
  • 北朝鮮ではITFテコンドーが広まっているが、伝わった時期は1981年と、ITFの発足から実に15年も後のことである。
    WTFテコンドーは1973年のWTF発足以降、韓国の国技として学校教育から軍隊格闘技に至るまで国を挙げて奨励された。北朝鮮に紹介されることはあまりなかった。
    ITFテコンドーは1981年に北朝鮮に伝えられ、「民族伝統の武術」として軍隊を中心に盛んに奨励された。北朝鮮の大きなイベントの際にマスゲームと共に大規模な演武がおこなわれることもある。
  • 日本ではITFの認可を受けた団体として1983年に日本国際テコンドー協会 (ITF-JAPAN) が発足した。同協会には朝鮮籍をもつ在日の競技者がいるが、彼らは朝鮮半島が分裂する以前(1948年)からの日本在住者およびその子孫にあたる。

メディアにおけるテコンドー

映画

  • 2011年に公開された韓国・タイ合作映画『The Kick』(邦題: 『チョコレート・バトラー』)では、WTFテコンドーが題材に扱われた。
  • 2004年に公開された韓国映画『Spin Kick』(邦題: 『まわし蹴り』)では、WTFテコンドーが題材に扱われた。
  • 2014年に公開された日本映画『テコンドー魂』では、ITFテコンドーの全面協力によってアクション内容が作成された。これは、日本国内では初の本格テコンドー映画となる。主演俳優の井上正大氏自身も前述の朴禎賢国際師範に師事したITFテコンドーの有段者であり、撮影にあたっては共演者も同様にテコンドーの指導を受けている。そのため、アクションとしては見応えのあるものに仕上がっているが、ストーリー展開は出演俳優陣のファン層を意識したためか、ファンタジー色の濃いものになっており、これは主演の井上氏が仮面ライダーディケイドで主演され、人気を博していたことに影響されたとも考えられる。ちなみに、冒頭の大会試合の場面は実際の全日本大会会場でロケが行われ、審判員の中には黄秀一師範などの技術指導関係者もエキストラとして参加している。

ゲーム

脚注

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外部リンク

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テンプレート:武道・武術

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 岩上安身世界を席巻するか"テコンドー"「スポーツ批評 4」窓社 1987年
  2. International Taekwon-Do Federation Taekwon-Do History
  3. テンプレート:Cite
  4. テンプレート:Cite
  5. テンプレート:Cite
  6. テンプレート:Cite
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