国鉄10系客車
国鉄10系客車(こくてつ10けいきゃくしゃ)は、日本国有鉄道(国鉄)が1955年に開発・試作し、その後量産した軽量構造の客車である。
目次
概要
10系客車は、1950年代に軽量化設計で世界をリードしていたスイス連邦鉄道(スイス国鉄)の軽量客車(Leichtstahlwagen)の影響を強く受けて設計・開発された。[1]
既成概念を脱却した革新的な設計の導入により、従来の鉄道車両に比べて格段の軽量化[2]を実現し、輸送力増強や車両性能の向上に著しい効果を上げた。また外装面でも、大型の窓を備えるなどスイス流の軽快かつ明朗なスタイルが導入され、国鉄車両のデザインに新風を吹き込んだ。電車・気動車を含むその後の国鉄車両のほとんどは、この10系客車を基本にした軽量構造を採用しており、後続の旅客車両設計に大きな影響を与えた形式と言える。
車体軽量化
従来の鉄道車両の構造では、土台となる「台枠」に強度の相当部分を負担させたのに対し、10系では台枠中央部全長を貫通していた中梁を省略し、台枠側梁、構体、屋根、側板、妻板、そして波型鋼板(キーストン・プレート)の床を組んだ車体全体で衝撃を分散負担する「セミ・モノコック構造(準張殻構造)」を採用した[3]。
モノコック構造は、元来、重量制限の特に厳しい航空機のために考案されたものであり[4]、戦後の航空技術開発禁止に伴う技術者の移籍により、その理論及び設計ノウハウが鉄道車両開発にも移転され、日本の鉄道車両でも実現可能となったものである。
梁や柱は、重い形鋼の加工品から、薄い鋼板のプレス一体成型品[5]に置き換えられて軽量化と工数の低減が図られ、また溶接の最適化やひずみ除去技術の進歩等によって側板厚の削減(2.3mm→1.6mm)が実現[6]するなど、車体の大幅な軽量化が可能となった。
台車軽量化
車体構体に次ぐ重量部品である台車についても、第二次世界大戦後盛んになった高速電車用台車の研究開発成果を受けて、重い形鋼や一体鋳鋼に代えて、プレスした鋼板部材を溶接して組み立てることで重量の大幅な軽減を実現した、軽量構造の軸バネ式台車(TR50形またはTR200形)が採用された。
だが当時は中長距離輸送の殆どを国鉄が担っていたため、乗客の激しい混雑が当たり前であったこともあり、3等座席車は乗車率200%での使用も考慮され、枕ばねは軽い車重に不釣り合いな硬いものとされた。「すし詰め」の可能性がある以上、混雑度の低い欧州の鉄道車両のような柔らかいばねを採用することができなかったのである。逆にダンパーは歩留まりや耐久性ばかりが重視され、減衰力は完全に不足していた。これにより、従来型客車では見られない短周期の上下動が常時発生する結果となり、乗り心地について多くの不評が寄せられることとなった。
高速走行性能については、120km/hでの速度試験にも耐えたものの、量産時には高速性能よりも混雑時での使用に主眼を置いたため、試作車よりもばね定数が上げられ、より硬いセッティングとされたことで、問題をさらに悪化させている。
その他の軽量化
その他にも、従来は砲金や鋳鋼が当たり前であった内装金具の軽金属部品への置き換えや、アルミサッシの採用、それにプラスチック等の合成樹脂材料の多用などによって、新素材を活用した総合的な軽量化対策が施されている。この結果、内装から木材をほとんど廃した「全金属車体」となった。
構造
A:原形式 | B:緩急車化 | C:冷房化 | 備考 |
---|---|---|---|
ナロ10 | → | オロ11 | |
オロネ10 | オロネフ10 | - | Bは6両 のみ |
ナロハネ10 | → | オロハネ10 | |
ナハネ10 | ナハネフ10 | オハネフ12 | 一部直接 A→C |
ナハネ11 | → | オハネ12 | |
オハネ17 | → | スハネ16 | |
ナハネフ11 | → | オハネフ13 |
寝台車・特別2等車・食堂車では、板材をプレスした柱を用いて途中で曲げ、車体幅を2.9mに広げて裾を2.8mに絞った車両限界一杯の車体断面を導入して居住性を改善した[7]。この方式も、以後多くの車両に採用された。車体上部の雨どい付近の最大幅は2.95mである。これ以外の車種では、車体幅2.8m、車体最大幅2.86mとなっている。また寝台車のうち、旧形車の台枠再利用のオハネ17は車体長19.5mであるが、新製車は車体長20m(連結面間20.5m)を国鉄で初めて採用し、後の特急形電車などに受け継がれた。
スハ43系に引き続き、完全切妻形車体であるが、ウィンドウ・シル/ヘッダーはなくなっている。また寝台車通路側には下降窓を採用した。3等座席車の便・洗面所は、出入台より外の車端に設けられ、客室から離すことで臭気を防止した。
冷房・緩急車化改造
本系列は、当初はオロネ10以外非冷房であり、その後の冷房化(ナハ・ナハフを除く)により自重が増して重量記号が変更されたこと、また寝台車は多く緩急車に改造されたことで、多くの形式が一括して改造・改形式されている。その一覧は表の通り。細字の形式は改造により形式消滅した。詳細は各形式の項目を参照されたい。 テンプレート:-
運用経緯
全盛期
10系客車は1955年から1965年まで大量に製作され、座席車・寝台車をはじめとして多数の派生形式が生まれている。
初期には、2等座席車と食堂車が特急「つばめ」・「はと」に導入されたほか、新設の「かもめ」には2・3等座席車が、「はつかり」には2等座席車と食堂車がそれぞれ導入された。その後も急行列車を中心とする優等列車に多数導入され、気動車導入が最優先とされ新製配置が実施されなかった四国を除く、全国の主要路線で幅広く導入された。
特に信越本線には、牽引定数が換算36両(=360t)と非常に厳しい制約のあるアプト式区間(碓氷峠)での輸送力増強を目的に重点配備され、「在来車3両分の牽引定数で4両連結できる」軽量設計の強みを最大限に発揮し、同線の輸送力強化に大きく貢献した。
一方、戦前以来の復活となった3等寝台車は、利用者から大いに歓迎され、引き続き大量に増備された。
一部車両には、遊休化していた車両を改造したものも存在する。食堂車であるオシ17形は、占領軍からの返還や特急の電車化で余剰となった展望車など、3軸ボギー台車を履いた旧型優等客車の台枠流用による改造車として製造された。また、寝台利用者の増加に応える為、スハ32系二重屋根車など古い2等車や3等車の台枠と台車を流用したオハネ17形(後のスハネ16形)が多数製造され、高度経済成長期の輸送力確保に大きな成果を上げている[8]。
欠陥の露呈
しかし、極度に軽量化に徹しすぎたために短所も生じた。軽量車体に見合わないセッティングの台車ばねによる振動・動揺の大きさはその最たるものである。また断熱・保温が構体内に吹付けられたアスベストのみに依存し、窓も大型であるため、内装に木材を多用し窓も小さい従来型客車と比較して、保温性が悪いことも不評だった。
さらに1970年代以降、薄い鋼板を採用した事による外板の状態の劣化や、寝台車における一段下降窓[9]が災いした車体下部の腐食が急速に進行[10]、老朽化が目立つようになった。国鉄の労使紛争により保守環境が悪化したことも、状態の悪化に拍車をかけた。
1971年10月、山陽本線を走行していた急行「雲仙」の座席指定車として使用されていたナハ10形の洗面台から出火し、火元の車両を含む3両が焼失する事故が発生した。この時は屋外での火災だったが、逃げ遅れた乗客1名が煙に巻かれて窒息死した。しかし、この時点では車両に対して防火対策等は実施されなかった。
1972年11月、北陸トンネル火災事故が発生し、死者30名の大惨事となった。当初、出火原因が10系食堂車オシ17形の石炭レンジにあったとされたため、事故後、当時急行列車用として残存していたオシ17形はただちに営業運転から外された[11]が、検死の結果、全員の死因が一酸化炭素中毒による中毒死である事が判明し、前年の事故とともに、可燃性かつ有毒ガス発生の危険がある合成樹脂材を10系客車の内装材に多用している事による防災面での不備が問題視された。
国鉄では、実車を使用した火災試験を数度に渡り実施し、現状の内装では火災の危険が高い事、また防火対策を実施した車両の火災に対する防火性の高さが確認された為、合成樹脂材のアルミ合板への取替えなどの難燃化工事が実施されたが、老朽車の廃車が開始された為、全車完了せずに終了している。
晩年
座席車については、予想以上の老朽化の進行や隙間風などによる乗り心地の不評もあって、1970年代中盤には急行列車運用から撤退し、オロ11形など電気暖房のない車両を中心に廃車が進められた。残された車両は、もっぱら普通列車を中心に使用されたが、客車の根本的近代化を図った50系客車に追われる形となり、中央線飯田橋駅の中央快速線横の車両基地にオユ10、ナハフ11、オシ17、オロ11 22、オハ35とともに長期間使用されず放置され、当時、貨物専用駅として飯田橋駅のホ-ム南側にあった飯田町駅で引込線専用に使用されていたDD51に入れ替えされていた。1985年3月14日国鉄ダイヤ改正で、全車が営業車としての現役を退いている。
一方寝台車については、1975年3月の山陽新幹線全通によるダイヤ改正での急行列車の廃止や特急への格上げにより、西日本地区から大量廃車が開始された。1976年からは、一部列車が格下げされた20系客車によって置き換えられたが、そのほかの列車については適当な代替車も無い事から、結局1982年11月15日国鉄ダイヤ改正まで急行列車に使用され[12]、普通列車の寝台車として使用された車両も、山陰本線を最後に1985年3月14日国鉄ダイヤ改正で完全に運用を退いた。
その後は、ナハフ11形2両のみ(2021・2022)事業用車代用(控車)として東日本旅客鉄道の尾久客車区に車籍を残していたが、これらも1995年11月1日をもって除籍され、日本の営業路線上から完全に姿を消した。
形式各説
本系列に属する車輛として、以下の形式がある。
- ※等級は製造・改造時のもの(1960年以前は3等級制)
- ※年は製造・改造初年
- ※2000番台の番号は電気暖房付の車両に付される番号
座席車
- ナハ10形:三等車 1955年 (1 - 8初代→901 - 908、1 - 114)
- ナハ11形:三等車 1957年 (1 - 97、2098 - 2102)
- ナハフ10形:三等緩急車 1956年 (1 - 48)
- ナハ10形に対応する緩急車。定員80名、48両が製造された。
- ナハ10形に対応する緩急車。定員80名、48両が製造された。
- ナハフ11形:三等緩急車 1957年 (1 - 30)
- ナハ11形に対応する緩急車。定員80名、30両が製造された。
- ナハ11形に対応する緩急車。定員80名、30両が製造された。
- ナロ10形:特別二等車 1957年 (1 - 33)
- 定員48名、33両製造。後にAU13形分散式冷房装置(5台)を搭載し、低屋根化された。また、ディーゼル発電機セットの搭載で自重が増大し、オロ11形となる。
寝台車
- ナハネ10形:三等寝台車 1956年 (1 - 100、501 - 510)
- 第二次世界大戦後初の三等寝台車。10系初の量産車として設計され、ナハ10形試作車で収集されたデータが完全に解析される前に見切発車で製造が開始されたため、側扉や妻板などナハ10形試作車に準じた仕様のままで設計[16]され量産されている。2.9mの広幅および全長20mの車体を国鉄で初採用し、連結器まで含んだ全長は20.5mに伸びた。寝台は幅520mm、長さ1900mm、車両の片側に廊下を設け、枕木方向に3段寝台を向かい合わせに配置した区画とし、上下段は固定、中段を座席使用時に下げて背ずりとする戦前のスハネ31形と同様の方式で、10区画で定員60名、110両(一般型100両、北海道用500番台10両)製造。その後寝台券発券の都合上各寝台車の定員を揃える必要が生じ、1963年に寝台1区画をつぶして緩急車化されナハネフ10形に(定員は他形式同様の54名に減少)、さらに1967年から冷房化改造により自重が増大し、オハネフ12形となった。
- 第二次世界大戦後初の三等寝台車。10系初の量産車として設計され、ナハ10形試作車で収集されたデータが完全に解析される前に見切発車で製造が開始されたため、側扉や妻板などナハ10形試作車に準じた仕様のままで設計[16]され量産されている。2.9mの広幅および全長20mの車体を国鉄で初採用し、連結器まで含んだ全長は20.5mに伸びた。寝台は幅520mm、長さ1900mm、車両の片側に廊下を設け、枕木方向に3段寝台を向かい合わせに配置した区画とし、上下段は固定、中段を座席使用時に下げて背ずりとする戦前のスハネ31形と同様の方式で、10区画で定員60名、110両(一般型100両、北海道用500番台10両)製造。その後寝台券発券の都合上各寝台車の定員を揃える必要が生じ、1963年に寝台1区画をつぶして緩急車化されナハネフ10形に(定員は他形式同様の54名に減少)、さらに1967年から冷房化改造により自重が増大し、オハネフ12形となった。
- ナハネ11形:三等寝台車 1957年 (1 - 72、501 - 502)
- ナハネ10形よりも給仕室を拡大し、寝台間隔を広げるなどで9区画とし定員を54名に減じた形式。74両(一般型72両、北海道用500番台2両)製造。自重の関係から最後まで電気暖房は取付けられなかった。1965年から冷房改造により自重が増大し、オハネ12形となった。
- オハネ17形:二等寝台車 1961年 (1 - 2259、401 - 2405、501 - 514、2601 - 624)
- 主として戦前製の陳腐化した2軸ボギー式客車(一部に終戦直後製造の余剰優等車も含む)から台枠を流用、台車も在来型車両の台車を流用し、ナハネ11形に準じた車体を軽量構造で新製した車両。種車の台枠構造の関係で、新造車に比べて車体長が500mm短いが、ナハネ11に比して給仕室のスペースのみを500mm狭めることで、客室の広さは同等を維持している。寝台車需要の増強に応じて1966年までに計302両(一般型259両、種車がTR34装備車である400番台5両[17]、北海道用500番台14両、団体列車用600番台24両)が改造され、他の純新製10系客車よりも遙かに大量に製作される結果となった。車両の履歴簿上は改造扱いで、車籍は種車のものを引き継いでいる。
- 台車は当初、改造種車にかかわらず、一般仕様車では重いが乗り心地に優れるTR47形に交換、電気暖房装備車は種車の乗り心地が硬いが軽量なTR23形を流用した。電気暖房車は車重がややかさみ、TR47を装備すると車重が「オ」級から「ス」級に上がって、列車牽引定数の点で好ましくなかったためである。後年に0番台18両、600番台8両が電気暖房化改造された。その際、オハ47形やスハ32形と台車を交換しTR23形[18]を装着した。振替が行われた車両はそれぞれスハ43形とスハ33形1000番台に形式を変更している。さらに後年の冷房化改造でスハネ16形に形式を変更した際、車重増大で電気暖房の有無に関わらず全車「ス」級該当となったため、電気暖房車は重量増加余地が生じ、乗り心地改善のため台車がTR47形に統一された。
- 交換元の台車はスハ43形のものを使用し、TR23形との振替が行われた車両はオハ47形に形式を変更している。
- ナハネフ11形:二等寝台緩急車 1961年 (601 - 608、2609 - 2616)
- 国鉄利用債によって製造された団体列車用のオハネ17形600番台に対応したナハネ11形の緩急車仕様。全車が600(2600)番台である。定員54名、16両製造。1968年に冷房改造によりオハネフ13形となった。
- オロネ10形:二等寝台車 1959年 (1 - 91、501 - 506)
- ナロハネ10形:二・三等寝台車 1958年 (1 - 9)
- 勾配が多く、牽引定数の限られる亜幹線用の夜行列車に使用するための二・三等合造寝台車。車体中央部の二等室・三等室の境に出入台を設置している。定員42名(二等寝台12名、三等寝台30名)、9両製造。
- 二等寝台は後発のオロネ10形に比しやや簡素な内装であるが基本は同様なプルマン式配置である。当初は両室とも冷房装置を搭載していなかったが、1964年の5 - 7月に「ロネ」側に冷房装置を設置するとともに、複層固定窓化、重量増によりオロハネ10形へと改称され、二等室は「Cロネ」から「Bロネ」へ格上げされた。
- 北海道に配置されていたナロハネ10 6 - 9は、同時に寒冷地仕様への改造を実施し500番台(501 - 504)を付番した。後年に1両が追加改造(オロハネ10 2 → オロハネ10 505)されている。
- 1969年には「ハネ」側にも冷房装置を設置した。オロハネ10 4 のみ設置対象から外れ、後に新幹線工事用車両939-201形に改造されている。
食堂車
- オシ17形:食堂車 1956年 (1 - 25、2051 - 2055)
- 車幅拡大により、日本の食堂車で全テーブル4人がけ・定員40名とした初めての形式。その後の国鉄食堂車の基本構造を確立し、電車・気動車の食堂車にも大きな影響を与えた。従前の食堂車は片側のテーブルが2人がけで、最大定員30名であった[19]。
- 日米講和条約の発効に伴い占領軍から順次返還されつつあった展望車や食堂車など、戦前製3軸ボギー式客車の台枠を流用し、長野、高砂の両工場で車体を新製した。
- 4人がけ実現のため車両限界いっぱい(2,950mm)まで最大幅を広げ、裾を絞った車体断面で、当初より床下搭載のディーゼル発電機を電源とする冷房装置を搭載した。
- 厨房内については、マシ36形→カシ36形で試みられた電気レンジの失敗から、完全電化は時期尚早と判断され、マシ35形以前と同様の「石炭レンジ」を搭載し、冷蔵庫も旧来の氷冷却式であった[20]。
- 台車は、この形式にのみ採用された新造の近畿車輛製シュリーレン式(円筒案内式)台車[21][22]であるTR53形を装着するが、唯一10については、TR53形を基本として近畿車輌で試作された空気ばね式のTR57形を装着して竣工し、来日したタイ国皇太子のご乗用列車に連結されるという栄誉に浴した。
- 新製当初は、東海道本線の特急列車「つばめ」「はと」、そしてそれらに続いて東北本線・常磐線に新設された特急「はつかり」に導入されたが、1960年にこれらが電車・気動車化されたあとは全車急行列車用に転じ、増備車を含め、老朽化した戦前製3軸ボギー式食堂車の淘汰に充てられた。しかし1960年代後半には東海道新幹線の開業に伴う夜行急行の廃止、あるいは夜行急行の特急格上げに伴う20系客車への置き換えにより余剰車が出始め、1972年3月には東京 - 西鹿児島間の最長距離急行「桜島」からも連結が中止された。さらに同年11月には、本形式中の1両、2018が北陸トンネル火災事故の出火元となったことから、事故後は直ちに全車の使用が停止され、2両が教習車オヤ17形に改造された他は、すべて廃車された[23]。オヤ17形に改造されたうちの1両、2055が塗装と表記類のみ復元され、碓氷峠鉄道文化むらで保存されている。
- オシ16形:食堂車 1962年 (1 - 3、2004 - 2006)
- 夜行急行の寝台設置・解体中における、乗客の待避場所とするために製造された、テーブル席とカウンター席を併設したサロン室付きビュフェ車[24]。冷房付。オシ17形と同様に長野・高砂工場の手になる戦前製客車からの台枠流用・車体新製車であるが、こちらの台車はオハネ17と同様に、改造種車にかかわらず、一般仕様車である1 - 3は乗り心地の改善のために種車のTR23形をスハ43形に装備し、捻出したTR47形に交換。TR23形との振替が行われたスハ43形はオハ47形に形式を変更している。電気暖房装備車である2004 - 2006は種車のTR23形を流用した。電気暖房車は車重がややかさみ、TR47を装備すると車重が「オ」級から「ス」級に上がって、列車牽引定数の点で好ましくなかったためである。車体新製時から冷房付であったため、台車がTR47形に統一されることはなかった。 加熱調理器具は石炭コンロに代えて電気コンロと電子レンジが採用され、その電源として冷房用とは別に、床下にディーゼル発電機を1セット追加搭載した。だが、それでも発電容量の制約から電子レンジと電気コンロの同時使用はできなかった。この形式も急行列車の特急格上げが進んだことから、1972年3月のダイヤ改正で運用がなくなり、1973年2月までに全車廃車された[25]。なお当時は「サロンカー」とも称されていた。
郵便車
- オユ10形:1957年 (1 - 10、2011 - 2039、40 - 44、2045 - 2058、2501 - 2514)
- 郵政省所有の区分室(扱い便)郵便車で、車内に郵便物を区分するための設備を設けている。荷重は一般仕様車で8t(郵袋数600個)、北海道用及び冷房改造車は7t(郵袋数532個)である。車体塗色は当初はぶどう色2号、のちに青15号に変更された。
- 2501 - 2514 は北海道用で、耐寒装備を強化したほか、対本州運用を考慮し当初から電気暖房を併設する。後に一般車から3両が耐寒改造を実施し、2515 - 2517 として編入された。
- 当初は冷房装置を搭載していなかったが、1972年から冷房取付が開始された。改造は屋根高さを下げて分散式ユニットクーラーを3基搭載するもので、蒸気暖房のみの5両は1000番台(1001 - 1005)を付番、一般形に耐寒改造と電気暖房取付を行った33両は2550番台(2551 - 2583)を付番した。北海道仕様の 2501~2517 は1976年 - 1978年に冷房取付され、2520番台(2521 - 2537) を付番している。
- 現在、2555が東京都国立市の郵政大学校に、のと鉄道能登中島駅構内に2565が保存されている。なお、2565は2004年11月までのと鉄道能登線の甲駅に保存されていた車両を移設したものである。
- オユ11形:1957年 (1 - 11、101 - 105)
- 区分室付郵便車で、オユ10形に比べて区分室を拡大したため別形式とされたものである。荷重は7t(郵袋数532個)である。新製後は東京 - 門司間に限定運用された。車体塗色は当初はぶどう色2号、のちに青15号に変更。
- 100番台は1971年製の新製冷房車で、1 - とは当時新製中の12系に準じた車体形状や、区分室採光窓の形状などが異なる。1982年に北海道運用可能に改造され、2501 - 2505 を付番した。
- 1 - 11 についても1972年から冷房改造が実施され、1001 - 1011 に改番された。新製冷房車は屋根に分散式冷房装置を4基設けるが、改造冷房車はオユ10形と同様の3基設置である。
- オユ12形/スユ13形:1958年 (1 - 4、20 - 28、33 - 35/2005 - 2019、2029 - 2032、2036 - 2039)
- 区分室を持たない護送便専用郵便車である。オユ12形は蒸気暖房設備のみ。電気暖房の設置で自重が増え「ス」級にランクアップした車両がスユ13形に形式区分される。換算両数を「オ」級に収めるため、オユ12形の荷重は12t(郵袋数906個)とされたが、スユ13形については制限がなくなったことから、荷重13t(郵袋数977個)とされた。電気暖房設備の設置・撤去により、実際に形式が変更(オユ12形⇔スユ13形)となった車両もある。車体塗色は当初はぶどう色2号、後に青15号に変更。
- オユ14形/スユ16形:1972年/1973年 (1 - 4、201 - 205/2001 - 2013、2201 - 2207)
- オユ14形は区分室付郵便車で、オユ11形の後継として新製されたものである。車体そのものはオユ11 100番台とほぼ同形である。台車は空気バネのTR217形で、最高運転速度110km/hに対応しており、走行性能的には14系客車に準拠している。スユ16形は、オユ14形に電気暖房装置を取付けたものである。オユ11形に準じた構造のものを第1種(1 - /2001 - )、東京 - 門司間の拠点間輸送に適合した構造を持つものを第2種(201 - /2201 - )として区分している。荷重は自重増により6t(郵袋数532個)である。冷房装置は全車が新製時より搭載。車体塗色は青15号。
- オユ14形は区分室付郵便車で、オユ11形の後継として新製されたものである。車体そのものはオユ11 100番台とほぼ同形である。台車は空気バネのTR217形で、最高運転速度110km/hに対応しており、走行性能的には14系客車に準拠している。スユ16形は、オユ14形に電気暖房装置を取付けたものである。オユ11形に準じた構造のものを第1種(1 - /2001 - )、東京 - 門司間の拠点間輸送に適合した構造を持つものを第2種(201 - /2201 - )として区分している。荷重は自重増により6t(郵袋数532個)である。冷房装置は全車が新製時より搭載。車体塗色は青15号。
- スユ15形:1973年 (2001 - 2039)
郵便車は、1986年に鉄道郵便輸送が廃止されたため、すべて現役を退いている。オユ14・スユ15・スユ16形の後期製造車は、実働5年に満たない車両も存在した。
荷物車
- カニ38形:1959年 (1)
- 駅での荷役作業時間の短縮を目的として、占領軍から返還されたマハネ29 12の台枠・台車(TR71形)を流用して設計され、大井工場で改造された試作荷物車。通常の10系客車と比較して、自重が4ランク上の「カ」(超重量級)で、厳密には10系の区分から外れるが、車体の基本構造は10系のそれを踏襲しており、2.3m幅の巻上式シャッターを5台並べた、特徴的な側面レイアウトを持つ。品川客車区に配置され、同区所属の急行列車で試験が実施された。
- 荷物車としての後半は、主として急行「安芸」に連結して運用されたが、開口部の大きいその構造を生かし、大型美術品輸送に使用される機会も多く、特に奈良の寺院と東京の美術館の間で仏像が貸出・返却される場合には、日本通運の荷扱いで急行「大和」に併結して運用された。
- パレット式荷物車であるスニ40・41形の実用化でその役割を終え、1969年に救援車へ格下げされてスエ38 8となった(後述)。
職用車
- 939-201形:工事車 1972年
- 浜松工場でオロハネ10 4から改造された宿泊用の工事車。
- 旧A寝台室は12人分の寝台を持つ休憩室とし、他の部分は機材室とし、発電機、準備室、流し台、シャワー室、資材置場、推進運転時の前方監視室などを設置し、台車をTR8006Cに換装した。
- 車体塗色は、黄5号に青20号の側帯を窓上と窓下に1本ずつ巻いていた。1983年に廃車となった。
- オヤ10形:工事車 1974年 (1 - 3)
- オロネ10形から改造された宿泊用の工事車。車体塗色はぶどう色2号。
- 1、2は名古屋工場において改造した車両で、東京第二工事局三島操機区に配属され、オヤ41形と組んで使用された。外観は切妻形で、種車時代とあまり変化がないが、オヤ41形に冷風を送るためのダクトが妻面貫通扉上部に付いているのが特徴。また末期には、従来の固定窓からユニットサッシによる2段窓に改造された。車内は通路の両側に畳敷きの2段寝台3組、12人分が用意された寝室、事務室、折り畳みテーブルが窓際に備え付けられた食堂、調理室からなる[27]。
- 3は小倉工場において改造した車両で、鳥栖のレールセンターで単独で使用された。こちらは種車の2段A寝台を4組、16人分残し、厨房と一体化した食堂やシャワー室が設置されている[28]。
- オヤ17形:教習車 1974年 (1、2)
- 土崎、新津の両工場でオシ17形から改造された教習車。外観、室内は2両で異なっていた。
- 1は旧休憩室部分に出入口を追設し、旧厨房側の妻面に運転台用の3枚窓が設けられていた。室内は講習室、高圧機器室、シミュレータ運転台で構成されていた。
- 2の外観は種車時代とあまり変化がないが、室内は旧厨房側寄りからEF81形電気機関車のシミュレータ運転台を設置していた訓練室、講習室、信号取扱室、車掌室で構成されていた。
- 2両とも種車の冷房は撤去されていたが、室内に据置形クーラーを設置していた。車体塗色は1がぶどう色2号、2が青15号に黄1号の側帯を窓上と窓下に1本ずつ巻いていた。1987年に廃車となった。
- ナヤ11形:教習車 1976年 (1、2、3)
- 郡山、新津の両工場でナハフ11形(1、2)とオロネ10形(3)から改造された教習車であった。
- 1・2の2両は水戸に配置され、交直流電車の教習用車両として水戸鉄道学園で使用された。車端部には運転台のシミュレータが設置された為、外観は大きく変化している。
- 3は広島区に配置され、電気機関車の教習用として使用された。外観は種車時代とあまり変化がない。また冷房機は撤去されている。
- 車体塗色は、3両ともに青15号に黄1号の側帯を窓上と窓下に1本ずつ巻いていた。1987年に廃車となった。
試験車
- マヤ10形:1968年 (2001)
- 日本車輌で製造された車両性能試験用の試験車。この種の試験車にはマヤ38形(0番台)があったが車両の内外とも老朽化が激しく、また新しい技術を導入し速度や牽引性能を高めた車両には対応できなくなったことから製造された。外観は、10系客車をベースとして12系に準じた軽量構造の広幅車体が採用され、電化区間以外へも回送での運転等を考慮し入線線区を広げるため第1縮小限界で設計されており、屋根は、交直流関連機器を載せるため、1/3が低屋根構造になっている。低屋根部分には電源用パンタグラフ、避雷器、交直流切り替え器、遮断器等各種交直流機器が搭載されて交直流いずれも集電が可能な構造となっている。パンタグラフからの電気で車内電源の40kVA電動発電機を駆動し、屋根上に搭載されたAU12S形ユニットクーラー4基といった冷暖房機器には直接給電、照明や計測機器の電源としては静止インバータや予備の蓄電池を介して供給されている。測定装置はF級機関車の牽引・粘着試験に常時使用されるものを主体に装備しており、車端部には被測定車輌に設置した各種計測機器からのケーブルを接続するための端子が多数用意されている。ブレーキは中継弁付電磁自動空気ブレーキとし、台車も架線検測車たる495系電車に使用されたDT-37Xの付随車版といえる軸ばり式高速台車TR206を採用しており、これによって最高速度は120km/hに抑えられているものの、その一方で一般形客車や20系客車の他、国鉄において汎用の一般貨車、コキ10000系やレサ10000系といった高速貨車との連結運転が可能となっている。車体塗色は、青15号に黄1号の側帯を窓上と窓下に1本ずつ巻いていた。完成後は1968年(昭和43年)10月1日ダイヤ改正前に行われた20系客車および10000系貨車の牽引試験、EF66形、EF81形、ED78形、EF71形の性能試験に始まり、その後も電気機関車のブレーキ性能や誘導障害といった各種試験に供されたが、1980年に新製されたEF64形1000番台の性能試験後は使用されることも減り、1986年9月に奥羽本線で行われたED79形試運転[29]を最後にJRへも引き継がれず1987年に廃車された。
- スヤ11形:1970年 (2001)
- マヤ10形に続き日本車輌で製造された電気機関車・ディーゼル機関車・客車・貨車の強度振動試験用試験車。列車の高速化により営業用車両に直接機器を積んで行う性能試験は運転上の制限が増え、計測機器の準備にも問題があったことから専用の試験車として開発された。外観は12系客車を元にしているが車体幅は狭く、側面にはマヤ34形と類似する観測用の出窓、また機器の積み下ろし用扉が設けられた。計測機器は車両各部の応力や荷重、振動加速度に変位、車輪への横圧、輪重に脱線係数の測定を主体とし、ひずみ計や温度記録計を備えるほか、速度や走行距離を計測するためのパルス発生装置、台車や車輪の状態を観測するテレビカメラに各種データ処理用のコンピュータを搭載、車端部には被測定車からのケーブルを接続するための端子が設けられた。これらの計測機器の電源としては床下にディーゼル発電機が備えられ、屋根上のAU13A形ユニットクーラー(5基)といった冷暖房設備の電源も兼ねている。台車は高速性能を高めるため新幹線0系電車に使用されたDT-200を元にしたIS式軸箱支持、ディスクブレーキ使用の高速台車TR221を採用しており、これによって設計上の最高速度は150km/hとしている。なお、本車の車輪は車輪横圧・輪重測定のため1位軸と4位軸が特殊断面のスポーク車輪となっていた。完成後は1970年4月・5月に車両試験台を用いて最高170km/hまで定置状態での速度試験を行い、6月には本線上で110km/h運転試験・曲線通過試験を実施し走行性能を確認、同年に新製されたDE50形の性能試験から強度振動試験車としての運用を開始した。その後は車両性能試験以外にも狩勝実験線で脱線現象の研究に利用され、1987年に廃車された。
救援車
- スエ38形:1969年 (8)
- 大宮工場でカニ38形から改造された救援車。
- 改造後は佐倉客貨車区に配置されて待機していたが、同区廃止に伴い1981年に廃車され、解体処分されている。
- なお、該当車両は1両(8)のみ。他に7両(1 - 7)が存在したがオハ31系に属する。
- 国鉄オハ31系客車#救援車のスエ38形の項目も参照。
保存車両
- スユ15 2033 - 個人宅(北海道北見市)
- オロネ10 502、スハネ16 510 - 鉄路ハウス(北海道網走郡津別町)
- ナヤ11 1 - 軽食&喫茶とさくだえき(福島県いわき市。店舗として利用)
- ナヤ11 2 - 磐越東線小川郷駅前(車体が半分に切断されたうちの連結面側)
- オロネ10 88・90・91 - 紀州鉄道パルコール村内列車村(群馬県吾妻郡長野原町)
- オロネ10 2083・2085 - 自然休養村守門温泉SLランド(新潟県)
- オロネ10 27 - リニア・鉄道館(名古屋市港区[30])
- オロネフ10 1・2、オロネ10 30 - 由布院ねむの木キャンプ場跡(大分県。放置)
- オシ17 2055 : オヤ17 1から復元され、群馬県安中市の信越本線横川駅に隣接した碓氷峠鉄道文化むらに保存されている。ただし車内はオヤ17当時のままで、シミュレータ運転台やパンタグラフも残っている。
- ナハフ11 1、オハネ12 29- 碓氷峠鉄道文化むらに保存。
輸出車両等
タイ国鉄では、1960年代中頃から日本の国鉄軽量客車を基本設計とする客車を日本の鉄道車両メーカーから輸入し、その後1984年頃まで自社マッカサン鉄道工場でも同系車多数を製作して使用している[31][32]。2等寝台車、3等座席車、荷物車ほか複数のタイプがあり、これらの車両のおもな特徴は次のとおり。
- ウィンドウ・シル/ヘッダーのない車体側面、側窓を拡大し四隅にRを設ける等の特徴は日本の国鉄軽量客車と共通。
- 車体断面形状は、タイ国鉄の車両定規に合わせ、車体幅はやや狭く(3等座席車で2.7m)、全車種とも車体裾を絞っている。
- 車体長も19m(連結面間距離19.8m)とやや短い。
- 出入台は車端部に配置し、日本の国鉄オハ35系以前の客車と同様に出入台・妻部の幅は絞り込まれている。
- 自動連結器の周囲に枠状の緩衝器(バッファー)を装備。
近年、これらの車両のうち初期に導入されたものは、JR西日本から余剰となった12系・14系・24系などの冷房付き車両が中古導入されることにより置き換えられている。
脚注
参考文献
- 広田尚敬 写真『国鉄車両形式集8 栄光の国鉄車両哀惜のエピローグ 客車・貨車』(山と溪谷社、2007年) ISBN 978-4-635-06828-4
- 『鉄道ピクトリアル アーカイブス セレクション 10 国鉄客車開発記 1950』(電気車研究会、2006年)
- 林 正造「軽量3等車ナハ10形の概要」(初出:『鉄道ピクトリアル』1955年12月号 No.53) P.84 - P.88
- 星 晃「3等寝台車の復活」(初出:『鉄道ピクトリアル』1956年5月号 No.58) P.89 - P.94
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1999年6月号 No.670 特集:国鉄形(10系)軽量客車・座席車編
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1999年4月号 No.667 特集:国鉄形(10系)軽量客車・寝台車編
- 星野俊也「10系寝台車の形式を見る」、「10系寝台車の冷房改造」
- イカロス出版『季刊 j train』2007 Autumn Vol.27 特集:寝台急行・急行荷物列車 P.39 - P.49
- 西橋雅之・石橋一郎『荷物車・郵便車の世界 昭和50年代のマニ・オユの記録』(クリエイティブ・モア、2003年)
- 桜井貴夫「10系軽量客車 保存車について」
- 交友社『鉄道ファン』1999年1月号 No.453 P.113 - P.115
- 曾小川久和「新型車両性能試験車と測定装置」
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1970年9月号 No.241 P.30 - P.32
- 小西正一「強度振動試験車スヤ112001」
- 電気車研究会『鉄道ピクトリアル』1970年9月号 No.241 P.33 - P.35
- 交友社『鉄道ファン』1980年7月号 No.231 特集:国鉄の事業用車2
外部リンク
- 10系客車
- 東海道に新威力(昭和30年12月14日) - 日本映画新社・朝日ニュース昭和映像ブログ
テンプレート:国鉄・JRの客車 テンプレート:JR東日本の車両リスト
- ↑ スイス連邦鉄道の軽量客車は、1937年に試作車が製造され、1939年より量産が開始された。なお日本で10系客車の試作が開始された1955年の段階で、スイスでは既に1,000両を超える軽量客車が就役していた。
- ↑ 三等座席車の場合、ナハ10形900番台が自重23.0tで、量産車でも23.8tに収まった。それ以前の標準型であったスハ43形の自重が33.5tであるから、これと比較して約30%減、換算両数にして約1両減という驚異的な軽量化が実現した。折戸式の客用扉や寝台車通路側の下降窓は、設計陣が欧州視察の際に強く影響された箇所で、是非とも日本で実現したかったものといわれているが、欧州と比較して設計の経験が浅かったため、前者は破損頻発により量産時に見送りとなり、また後者は、雨水や鉄粉の進入を許し、車体腐食を早めることとなった。
- ↑ ただし、在来型客車から台枠を流用して製造されたオハネ17形、オシ17形、オシ16形は、完全新造軽量客車同様の上部車体を持つが、床部分の強度は在来型の中梁を持つ台枠に依存するため、波型鋼板床板は採用せず、中梁ありの台枠上に木材床板を張る在来工法を踏襲、その上から化粧床材を張っている。
- ↑ これを可能とするワグナーの張力場ウエブ理論などの重要な基礎理論は、日本でも航空界には早くから伝えられ、1930年代から航空機設計に広く用いられたが、航空技術を鉄道車両の軽量化に転用・応用しようと考える鉄道関係者は、戦前の日本にはほぼ皆無であった。軽量化技術が最も進んでいた気動車設計ですら、基本的な構想においては、台枠のみで強度を負担する従来の設計から一歩も踏み出しておらず、各部材のスリム化・薄板採用によって軽量化実現と強度・寿命の減少をトレードするレベルに留まった。
- ↑ さらなる軽量化のため、強度上不要な部分に軽め穴が開けられていた。これもスイス国鉄向け軽量客車で先行して採用されていた技術の一つである。
- ↑ もっとも、軽量化に対する要求が厳しかった気動車では1.6mm厚側板が戦前より標準的に用いられていたので、それを援用したともいえる。
- ↑ 『鉄道ピクトリアル』No.670、13頁。
- ↑ 台枠等流用車は完全新造の軽量客車に比して重量はかさむものの、国鉄工場での製作による労働力活用と既存部材流用で、メーカーへの新車発注よりも初期コストを抑えながら車両増備ができるメリットがあった。
- ↑ 水抜き穴が不十分で、溜まった水が抜けきらず腐食を招いた。
- ↑ 工場で検査のためジャッキアップしたところ、車体が崩れ落ちかけたこともあったという。
- ↑ 調査の結果、出火原因が喫煙室の暖房装置の過熱による火災であった事が判明したが、食堂車が再び連結される事は無く、オシ17形はそのまま営業運転に復帰せずに、事故にともなう保全命令が出された1両と事業用車に転用された2両を除いて廃車となった。
- ↑ 北海道地区では、置き換え対象の車両の工事が完了する1983年夏まで使用された。
- ↑ 枕バネが1列のTR50X形(川崎車輌・汽車会社製の4両はボルスタアンカー付き、日本車輌・日立製作所製はTR50と同様、擦り板式でボルスタアンカーなし)から、枕バネが2列のTR50形へ変更。
- ↑ アルミ合金製2枚折戸を鋼製1枚開戸へ変更。
- ↑ 補強リブ入りプレス鋼板一体成型品から通常構造へ変更。
- ↑ 検討段階では車体長22m・定員66名を予定していたが、15両編成に三等寝台車を2両組み込むとホーム長を越える事(当時の主要駅のホーム長が主に300mのため)から20mで設計される事となった。
- ↑ 4両は蒸気暖房装備車であるため、改造時にTR47に交換。2405のみ電気暖房装備車のため種車のTR34を引き継ぐ。
- ↑ このうちオハネ17 2618は、交換元がスハ32 277を復旧した折妻戦災復旧車で、TR34を装備したスハ32 876であるため、オハネ17の中で2両だけのTR34装着車だった。(もう1両はオハネ17 2405。)
- ↑ 導入当初は、厨房で皿が必要数並べられないなど、従来の定員での調理作業に慣れた従業員には混乱があったという。
- ↑ 電気レンジの搭載は20系のナシ20形で実現した。
- ↑ シュリーレン式は本家スイス国鉄のLeichtstahlwagen用台車で標準的に採用されていた軸箱支持機構であり、それゆえ本形式は日本の国鉄が製造した軽量客車のうち、台枠を除けばオリジナルの構造に最も忠実な仕様となった。
- ↑ なお当初は台車も種車のTR73形3軸ボギー台車を流用しようという案もあったが、重量や床下スペース占有の点で難があり、ボギーセンターを変更して2軸ボギー化されている。
- ↑ 事故車の2018は、事故の裁判で証拠物件となり、裁判終結後の1981年まで車籍があった。また2051は、除籍後に裁判用の参考資料として、1981年頃まで金沢運転所に留置されていた。この他、同時期まで2016が、龍ヶ森駅(現・安比高原駅)構内にあったヒュッテとして使用されていた。
- ↑ 但し、車両標記は他形式同様「食堂」である。
- ↑ 一部は新幹線36形食堂車の開発に際してのアコモデーションの参考として1975年頃まで尾久客車区に留置されていた。
- ↑ オユ12 7は1959年、東海道線真鶴 - 根府川間で土砂崩れの直撃を受け再生不能となったが、当時郵便車不足であったため翌年に「二代目」オユ12 7を汽車製造にて製造。このため「昭和33年汽車」「昭和35年汽車」の銘板を持つ事となった。
- ↑ 車輌工学44 (1975), p. 79
- ↑ 広田尚敬、国鉄車両形式集・8 客車・貨車―栄光の国鉄車両哀惜のエピローグ (8) 、山と渓谷社、2007(客車・貨車(国鉄車両形式集・8)、山と渓谷社、1987 を復刻したもの) p.188-189に写真あり。
- ↑ 『鉄道ファン』1986年12月号(No.308)p.66
- ↑ それ以前は、静岡県浜松市天竜区にあった佐久間レールパークで展示
- ↑ 『鉄道ピクトリアル』1999年6月号(No.670)p.80,p.86
- ↑ 『王国の鉄路 タイ鉄道の歴史』(柿崎一郎著、京都大学学術出版会、2010年) p.231