佐呂間町
テンプレート:Infobox 佐呂間町(さろまちょう)は、北海道オホーツク総合振興局管内の常呂郡にある町。
町名の由来は、アイヌ語のサロマペッsar-oma-pet(葦原・にある・川)から。
目次
現況
佐呂間町はかぼちゃの生産も多く、「シンデレラ夢」というイベントが開かれる。
佐呂間町では、市町村合併協議については当初遠軽地区7町村(遠軽町、生田原町、丸瀬布町、白滝村、上湧別町、湧別町、佐呂間町)との協議を進める予定だったが、財政不安の理由で海側3町が離脱し、海側3町に常呂町を加えた協議を進める予定だったが、網走市、あるいは北見市を生活圏としてきた常呂町首脳が遠軽町に生活圏が変わることを恐れ離脱した。
3町での任意協議会が設立され、協議は順調に進めていた。ところが、新町名をめぐって佐呂間町と常呂漁協が対立。3町の合併後の新町名は「サロマ湖町」という案を発表したが、常呂漁協が生産地の混乱等を理由に反対。常呂町が離脱した以上、サロマ湖町と名乗るべきではあったのだが、佐呂間町は柔軟に対応し「サロマ町」とすることを決定し、常呂町は北見市と合併する。
ところが、住民投票で湧別町が「サロマ町」という名に反対。そのため湧別町が離脱し、協議会も解散。佐呂間町は今後、自立か北見市(または遠軽町)との合併を余儀なくされる。
地理
オホーツク総合振興局中部に位置。北部はサロマ湖に接する。南部は丘陵地帯。
- 山:
- 河川: 佐呂間別川
- 湖沼: サロマ湖
気候
オホーツク海沿岸部やサロマ湖畔では夏と冬の温度差は比較的少ないが、内陸は寒い。
歴史
- 1894年(明治27年) 青森県東津軽郡出身の鈴木甚五郎が浜佐呂間に入植する(佐呂間町の開基)。
- 1901年(明治34年) サロマベツ原野殖民地区割設定。
- 1911年(明治44年)4月21日 栃木県谷中村民がサロマベツ原野(現栃木地区)へ移住。※足尾鉱毒事件の被災者が入植。
- 1915年(大正4年)4月 二級町村制施行、鐺沸村(とうふつ)となる。
- 1915年(大正4年)11月 常呂村(のちの常呂町、現北見市)へ一部を分割、村名を佐呂間村に改称。
- 1948年(昭和23年)4月 若佐村(現若佐地区)を分村。
- 1950年(昭和25年)11月 下湧別村(現湧別町)の一部を編入。
- 1953年(昭和28年)4月 町へ昇格、佐呂間町となる。
- 1956年(昭和31年)9月 佐呂間町、若佐村廃止。両町村を合わせて新たに佐呂間町が設置される。
- 1971年(昭和46年)4月21日 栃木地区13戸の農家が集まり栃木県知事と県会議長宛に3回目の帰県請願書を提出。
- 1994年(平成6年) 開基100年。
- 2006年(平成18年)11月7日 午後1時20分ごろ、竜巻により佐呂間町若佐で作業用のプレハブ小屋数棟が巻き込まれ、建物とともに飛ばされ下敷きとなった9名が死亡、負傷者23名を出した(北海道佐呂間町竜巻災害参照)。
- 2007年(平成19年)11月2日 釧路信用組合佐呂間支店が同組合北見支店に業務継承し、遠紋エリアから撤退。
(時系列は全て、日本標準時)
経済
産業
サロマ湖沿岸部では漁業が発達、ホタテ、カキの養殖が盛ん。丘陵部では農業(畑作)、酪農、林業が発達。
特産品はカボチャ。
立地企業
- 東洋ゴム工業冬期タイヤテストコース(佐呂間町字西富)
- 森永乳業株式会社佐呂間工場
農協・漁協
- 佐呂間町農業協同組合(JAサロマ)
- 佐呂間漁業協同組合
- 常呂漁業協同組合佐呂間支所
金融機関
郵便局
- 佐呂間郵便局(集配局)
- 浜佐呂間郵便局
- 若佐郵便局
- 北見栄郵便局
- 富武士簡易郵便局
- 若里簡易郵便局
公共機関
警察
- 遠軽警察署佐呂間駐在所
姉妹都市・提携都市
海外
地域
人口
教育
- 中学校
- 佐呂間
- 小学校
- 佐呂間・浜佐呂間・若佐
交通
空港
鉄道
かつては湧網線が通っていたが、現在は廃止されている。町内には浜床丹仮乗降場、床丹駅、若里仮乗降場、佐呂間駅、堺橋仮乗降場、興生沢仮乗降場、知来駅、紅葉橋仮乗降場、仁倉駅、浜佐呂間駅が設置されていた。
バス
- 佐呂間町ふれあいバス - 佐呂間バスターミナルを中心に運行
- 町内各方面
- 遠軽方面
- 北見方面
- 常呂・網走方面
- 北海道中央バス・斜里バス - 若佐41号停留所発着
- イーグルライナー 札幌方面
網走バスが運行していた網走方面、中湧別方面(国鉄湧網線廃止代替バス)、北海道北見バスが運行していた留辺蘂方面、遠軽方面は2010年(平成22年)10月1日に廃止されている。
道路
名所・旧跡・観光スポット・祭事・催事
祭事
観光
その他
- 栃木神社 - 宇都宮二荒山神社から分霊。
- 栃木橋