マルゼンスキー

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox マルゼンスキー1974年 - 1997年)は日本競走馬種牡馬。ずば抜けた能力などから「超特急」や持込馬ということから「スーパーカー」との愛称で競馬ファンから呼ばれた。1990年、顕彰馬に選出。

年齢は当馬の現役時代に合わせ旧表記(数え年)にて記載

出自

母シルはイギリスクラシック三冠ニジンスキーの子供を腹に宿した状態で、アメリカキーンランドセールで購買され、日本へ輸入された。そして日本で生まれたのがマルゼンスキーである。いわゆる持込馬であった。

生産者は早来のマルゼン橋本牧場の橋本善吉で、馬主でもある。スピードスケートおよび自転車競技の元オリンピック代表選手で参議院議員橋本聖子はその娘[1]

橋本善吉は「牛のハシモト」として日本国外でもその名が広く知られた牛の仲買商であるが、幼少時から馬の生産を夢見ていたこともあり、国外まで牛を買いに行った際に馬を購入してくることがときおりあった。その代表的な成功例がマルゼンスキーの母親であるシルと、同時期(1974年)に日本に輸入したばんえい競馬の名種牡馬マルゼンストロングホースベルジャン種)とされる[2]

橋本がシルを購入した経緯はさまざまな偶然に満ちていた。このセリの開催時に橋本がアメリカに滞在していた理由は、馬の購入が第一ではなく、キャンセル料が馬鹿にならない国外研修旅行の欠員穴埋めのために、そこにすぐに参加できる橋本が呼ばれた[3]』ことであった。そのため、研修の内容も目的地への移動の最中で知るという状態での参加であった。このようにして参加した研修旅行で、のちにマルゼンスキーを預けることになる本郷重彦調教師と運命的出会いをする。

意気投合した橋本と本郷は連れ立って、サラブレッド種のセリのなかでも大規模かつ有名なもののひとつであるキーンランドセールを見学。そこで偶然目に止まった繁殖牝馬がいた。一見した限り大した馬には見えなかったが、牛仲買商として培ってきた動物を見る目とカン[4]から、この牝馬を購入しようと決意する。これこそがマルゼンスキーの母馬となるシルである。

シルが名種牡馬バックパサーと全米牝馬チャンピオンである名牝クィルの間の仔であり、しかも三冠馬ニジンスキーの仔を受胎していることは、馬を見たあとで知ったという。この優れた血統背景からセリの値はどんどん競り上がったが、橋本はシルの落札に見事成功した。もっとも、あくまで牛仲買商が本業の橋本によるこの良血牝馬の落札劇は、ほかの牛畜産関係者から見れば常識外れの大暴挙以外の何物でもなく、情報は日本とアメリカの同業者たちにたちまち知れ渡り、仲間内どころか取引のある米国の畜産業界の関係者の間にまで「牛のハシモトが馬の競売で発狂したらしい」という噂が立ったほどであった[5]

社台グループ総帥の吉田善哉もシルのセリに参加していたが、値段が予想より上がったために早々と降りており、シルを競り落とせなかったことを後悔していたという。その後、吉田は個人的興味から橋本牧場へマルゼンスキーを見に行き[6]、生まれつき脚が外向していることを差し引いてもなお素晴らしいその馬体を見て、さらに後悔を深めたと伝えられている。

現役時代

快進撃

1976年に購入時の縁から東京競馬場の本郷重彦厩舎に入厩。買い手がつかず橋本自身が馬主となる原因となった外向を抱えていた上、本郷は購入の経緯を知っている事もあり、故障発症を考え思う様な調教が出来ず六分程度の仕上がりで初戦を迎えたが、デビュー戦でタイプアイバー[7]等を相手に大差勝ちしたのである。続くいちょう特別も完璧とは程遠い仕上がりで9馬身差圧勝。しかし、3戦目の府中3歳ステークスは将来を考え、中団に抑える競馬をしたのが裏目に出て、一瞬前に出たヒシスピードを辛くも差し返し3連勝を飾ったものの、ハナ差という苦戦であった。そして大一番の朝日杯3歳ステークスは、生涯最高にして唯一の80%程度の仕上げで出走[8]。レースはほぼ馬なりで1600mを1分34秒4というタイムで走破し、着差は2着ヒシスピード鞍上の小島太に『バケモノだ』と言わしめた程の13馬身差の圧勝(いわゆる大差勝ち)であった。その上、本気で追っていたら後2秒は速いタイム[9]を出せたと言わしめる程の内容であった。この2歳レコードタイムは、14年後の1990年リンドシェーバーに破られるまで朝日杯のレコードであった。

明けて1977年、4歳の初戦も2馬身半差をつけて勝利した。その後は骨にヒビが入り、休養を余儀なくされるも、その休み明け初戦も7馬身差。余りの強さに他の調教師が恐れをなしてか、マルゼンスキーの出走予定レースは登録が少なく、常に成立が危ぶまれていた[10]。4歳の初戦も、不成立になったら朝日杯の優勝レイをかけ、パドックでファンにお披露目するプランさえ真剣に考えられていたという。幸い、服部正利[11]が自身の管理馬からリキタイコー他1頭を出走させ、何とかレースを成立させている。

持込馬としての不運

しかし、持込馬であるマルゼンスキーには当時の外国産馬と同様に東京優駿(日本ダービー)を初めとするクラシックへの出走資格がなかったのである。これ以前には持込馬の出走が認められており、また、1984年に再びこの規制は解除されたのだが、ちょうどこの馬の時代(1971年の活馬輸入自由化以降)には内国産馬の保護政策による規制が行われていた。なお、規制解除後、1992年桜花賞ニシノフラワーが、持込馬によるクラシック制覇を達成しているが、過去には1957年ヒカルメイジが東京優駿に、1970年にはジュピックが優駿牝馬(オークス)に優勝するなど、持込馬のクラシックホースが存在していた。

東京優駿の前、主戦騎手中野渡清一(後にJRA調教師→引退)は、『28頭立ての大外枠でもいい。賞金なんか貰わなくていい。他の馬の邪魔もしない。この馬の力を試したいからマルゼンスキーに日本ダービーを走らせてくれ[12]』と語った有名な逸話がある。しかし、東京優駿への出走は叶わなかった。

他方、マルゼンスキー不在の3歳クラシック路線は、皐月賞を前にして早くも『敗者復活戦』と蔑まれる有様であり、前年のトウショウボーイテンポイントを中心軸に繰り広げられた激しい東西対決と比較すれば、なおさらに興味を殺がれるものとなった。その様な状況では当然として馬券の売上にも少なからぬ悪影響を及ぼすこととなった[13]

次に出走したのは日本短波賞で、2着となった後の菊花賞優勝馬プレストウコウに7馬身差を付けて優勝。しかもハロン棒をゴール板と勘違いしてペースを落としたものの、それに気付いて再加速をしたマルゼンスキーは直線だけで7馬身突き放すという驚異的な内容であった。返し馬の時、鞍上の中野渡騎手が雨で4コーナーの内馬場が荒れているのをチェックするために止まったことをマルゼンスキーが本番でも覚えていてスピードを緩めた、という逸話もある。

猛暑を避けるように札幌競馬場へと移動したマルゼンスキーは、札幌競馬場の短距離ステークス(ダート1200m)を1分10秒1のレコードで2着ヒシスピードに10馬身差で優勝。この当時、同じく札幌に来ていた1歳上のトウショウボーイとの対戦が噂されるようになったが、実現はしなかった。

その後、巴賞→京都大賞典(どちらもを持込馬の出走が可能)の出走を予定し、年末の有馬記念を目標に調教されていたが、ここにきて先天的な脚部の外向を原因とした屈腱炎を発症し、前記2レースを回避。一時はダービー卿チャレンジトロフィー(当時は秋の開催。1977年度は11月20日に開催)を叩いて有馬記念に出走するプランもあったが、最終的には落馬負傷した中野渡に代わって跨った加賀武見を背に調教中に不安が決定的なものとなり、引退に追い込まれる。この年の有馬記念はテンポイントとトウショウボーイのマッチレースとして有名になったレースだが、このレースへの出走は叶わなかった[14]

同世代のダービー馬であるラッキールーラなどは、マルゼンスキーとの対戦がなかったために、対戦のあった馬(ヒシスピード・プレストウコウ等)を使った机上の比較から競走馬としての評価を極めて低く貶められることとなった。それが祟って後に種牡馬としては良質な牝馬を集められずに失敗・韓国輸出される原因の1つにもなっている。また、皐月賞馬ハードバージもやはり種牡馬としては成功できずに乗馬となり、最後には観光施設でショーや馬車に用いられる使役馬となり斃死する末路を辿るなどしたため、後に競馬マスコミがこの世代を総括する際、マルゼンスキーがクラシックに出走できなかった事も含めて、『悲運の世代』として語られることとなった。

競走成績

年月日 競馬場 競走名 距離

人気 着順 タイム 着差 騎手 斤量 勝ち馬 / (2着馬)
1976 10. 9 中山 3歳新馬 芝1200m(良) 8 1 1人 テンプレート:Color 1.11.0 大差 中野渡清一 52 (オリオンダーダ)
10. 30 中山 いちょう特別 芝1200m(良) 9 1 1人 テンプレート:Color 1.10.5 9馬身 中野渡清一 52 (シャダイエッセイ)
11. 21 東京 府中3歳S 芝1600m(重) 5 3 1人 テンプレート:Color 1.37.9 ハナ 中野渡清一 54 ヒシスピード
12. 12 中山 朝日杯3歳S 芝1600m(良) 6 6 1人 テンプレート:Color テンプレート:Color 大差 中野渡清一 54 (ヒシスピード)
1977 1. 22 中京 オープン 芝1600m(良) 5 2 1人 テンプレート:Color 1.36.4 2 1/2馬身 中野渡清一 57 (ジョークィック)
5. 7 東京 オープン 芝1600m(良) 5 2 1人 テンプレート:Color 1.36.3 7馬身 中野渡清一 57 (ロングイチー)
6. 26 中山 日本短波賞 芝1800m(不) 7 2 1人 テンプレート:Color 1.51.4 7馬身 中野渡清一 58 プレストウコウ
7. 24 札幌 短距離S ダ1200m(良) 5 4 1人 テンプレート:Color テンプレート:Color 10馬身 中野渡清一 54 (ヒシスピード)

主な勝鞍

  • 3歳時 府中3歳ステークス 朝日杯3歳ステークス
  • 4歳時 日本短波賞 短距離ステークス

現役引退後

昭和53 (1978) 年1月15日、引退式がおこなわれ種牡馬入りした。なお、この引退式では当時としては珍しく、「さようなら、マルゼンスキー。語り継ごう、おまえの強さを[1]と書かれた横断幕を出したファンがいたなど、当馬の人気が偲ばれる。

マルゼンスキーは、種牡馬として、初年度産駒のホリスキー1982年の菊花賞を、サクラチヨノオー1988年の東京優駿を、レオダーバン1991年の菊花賞を制して、自身は出走することすらかなわなかったクラシック競走に勝利した。その他にも宝塚記念を勝ったスズカコバン、ダート戦線で活躍したカリブソングらを輩出。しかし、社台自慢の種牡馬・ノーザンテーストが君臨していた事もありリーディングサイアーは取れず、生産者の橋本は「マルゼンスキーがノーザンテーストの交配相手と同じ質の牝馬さえ集められれば」と悔しがったという。また母の父としても、ウイニングチケットライスシャワースペシャルウィークメジロブライトなどを輩出した。ブルードメアサイアーとして1995年から2003年まで9年連続2位、2004年3位、2005年4位となっているが、やはりこの部門でも17年連続1位のノーザンテーストが立ちはだかった。1990年には顕彰馬に選ばれた。トウショウボーイとは対照的に牡馬やステイヤーの活躍馬が多かった。特に牡馬の活躍は顕著であり、牝馬は3頭のG3勝ち馬と桜花賞2着のホクトビーナスがいるにすぎない。

1997年8月21日に心臓麻痺により死去。後日営まれた葬儀には母シルも参列した。現在、故郷である北海道安平町の橋本牧場に墓がある。死亡から7年後の2004年7月JRAゴールデンジュビリーキャンペーンの名馬メモリアル競走の1つとして「マルゼンスキーメモリアル」が福島競馬場芝1800m行われた。この日はかつて優勝したラジオたんぱ賞の施行日で準メイン競走として行われた。

自身の産駒は数多く種牡馬入りしたものの、目立った後継種牡馬に恵まれず、孫世代でG1を勝ったのはネーハイシーザーのみであった。そのネーハイシーザーも種牡馬としては実績を残せず、曾孫の世代から種牡馬入りした産駒もなく、マルゼンスキーの父系は衰退していった。2011年5月28日にチクシダイオスキーが死亡した時点でマルゼンスキー系の種牡馬は生産界からすべて退くこととなった[15]

代表産駒

ブルードメアサイアーとしての代表産駒

評価・エピソード

その爆発的なスピードと、海外から来たというイメージからスーパーカーと呼ばれたが、逆に自身のスピードと、生まれつき外向していた前脚が負担となり、引退を余儀なくされてしまった。通算8戦8勝で大差勝ちが2つあり、これらを含めた全成績を走破タイムから着差に換算すると、2着につけた差の合計が61馬身。

  • 2着につけた着差の合計数や競走成績(全戦全勝)から同じく全戦全勝のトキノミノル(トキノミノルは10戦10勝)と比較されることがある。
  • 競馬雑誌『優駿』創刊50周年記念増刊号の史上最強馬アンケートにおいて、マルゼンスキーは5位タイの得票を得ており、競馬評論家の井崎脩五郎はそこではマルゼンスキーに投票している。井崎は、日本短波賞におけるマルゼンスキーの走りを「重賞を遊んで勝てる唯一の馬」と評し、このレースの存在ゆえに史上最強馬に推すという趣旨の発言をしている。この馬を日本史上最強馬と推す競馬専門家も数多く存在する。2000年に日本中央競馬会が実施した「20世紀の名馬大投票」では32位にランクされている。
  • この馬の種牡馬としての大成を受けニジンスキー系の種牡馬が大量に輸入されニジンスキーブームが生産地で発生した。ヤマニンスキーヤエノムテキの父)はマルゼンスキーと母父も同じ、ラシアンルーブルイソノルーブルの父)は母父どころか母母父も同じという理由で生産地でマルゼンスキーを種付けできない生産者から人気があった。
  • 引退後、馬産地では「マル」という愛称で呼ばれていた。

血統表

 マルゼンスキー血統ニジンスキー系) / Menow 4×4= 12.50%、Blue Larkspur 5×5=6.25%、Bull Dog 5×5=6.25%)

Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Flaming Page
1959 鹿毛
Bull Page Bull Lea
Our Page
Flaring Top Menow
Flaming Top

*シル
Shill
1970 鹿毛
Buckpasser
1963 鹿毛
Tom Fool Menow
Gaga
Busanda War Admiral
Businesslike
Quill
1956 栗毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Quick Touch Count Fleet
Alms F-No.5-g

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:日本中央競馬会・顕彰馬 テンプレート:JRA賞最優秀2歳牡馬

テンプレート:朝日杯フューチュリティステークス勝ち馬
  1. マルゼンスキー誕生当時は小学生であった。
  2. 橋本によるマルゼンストロングホースの日本への導入は、同時期に輸入され種牡馬として成功したジアンデュマレイとともに、それまで明治期の大種牡馬イレネー以来のペルシュロン種やブルトン種、それらと在来馬の半血種が中心であったばんえい競馬の世界に、新たにベルジャン種の血をもたらすという、ある種の革命的な出来事のきっかけとなった。マルゼンストロングホースは代表産駒に農林水産大臣賞典を制したマルゼンバージなどがおり、ばんえい競馬の歴史的名馬スーパーペガサス母の父でもある。
  3. 当時は為替レートの関係から行楽目的の国外渡航はまれで、パスポートを所有しているのは外国と取引のあるビジネスマン貿易商などに限られていた。
  4. 橋本いわく「おしりの大きなメスはいい子を産む」とのことだった。これは牛によくみられることである。
  5. 先述のマルゼンストロングホースも、橋本が牛の買い付けのために国外に行ったはずが馬を買ってきたという、シルと似たような経緯で日本に導入されている。
  6. テンプレート:要出典範囲
  7. 吉田牧場が高額で購入したタイプキャストの初年度産駒で、天皇賞馬・プリテイキャストの半兄である。
  8. 100%で無いのは、『其処まで仕上げたら脚が持たないと思われたから』と言われている。
  9. 現レースレコードが33秒台である事や当時の馬場を考えると、32秒台は驚異的予想タイムである。なお、鞍上の中野渡清一いわく『このレースでも、自分は跨っていただけ』だった。
  10. 大差を付けられタイムオーバーを食らうとしばらく出走できなくなるため、レースを成立させるべく調教師仲間に『タイムオーバーにはしない』ことを条件に出走を頼み込んだこともあった。現在は、中央競馬のオープンクラスの競走においては(定量戦や減量騎手の恩恵が受けられる)一般競走は皆無(平地競走に関して。障害競走ではオープンクラスの一般競走が存在する)であり、重賞競走ではタイムオーバーは適用されない。
  11. 後年、ニホンピロウイナーを管理している。
  12. テンプレート:要出典範囲が、明らかに不利な戦法で常識的に考えれば勝算は薄い。テンプレート:要出典範囲
  13. これらマルゼンスキーに関する一連の出来事は、後の1988年地方競馬出身でクラシック登録が無かったために同様の問題を競馬界に引き起こしたオグリキャップと共に、平成期以降に行われたクラシック競走の制度改善のきっかけの一つとなっている。
  14. 後年、主戦を務めた中野渡は『出走出来ていれば、恐らくテンポイントとトウショウボーイの前を走っていただろう』と語っている。この有馬記念は、他の出走馬が存在しないかのごとく、この二頭が後続を大きく引き離して逃げ、競り合ったことで有名で、中野渡はそのさらに前をマルゼンスキーが行ったという意味で発言している。
  15. 2011年供用停止種牡馬一覧