びっくり日本新記録

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テンプレート:基礎情報 テレビ番組

びっくり日本新記録』(びっくりにほんしんきろく)は、日本テレビ系列局ほかで放送された読売テレビ製作の視聴者参加型スポーツアトラクションバラエティ番組。製作局の読売テレビでは1975年10月5日から1985年10月6日まで(途中休止していた時期あり)、毎週日曜 19:00 - 19:30 (JST) に放送。

概要

毎回参加者たちが風変わりな競技で記録を競いあっていた番組である。

  • 前期(1975年10月5日 - 1978年3月26日)ではIVSテレビ制作が制作(なお、テリー伊藤こと伊藤輝夫が、初めてADとしてついた番組)。前期はスタジオ放送であり、後に屋外ロケの収録となった。またこの時期のみ、司会の橋本てつや(現・橋本テツヤ)による「ナポレオンもビックリ!不可能を可能に変える30分!」という前口上が有った。
  • 中期・後期(1978年10月1日 - 1979年3月30日、1979年8月5日 - 最終回)にはオフィス・トゥー・ワンが制作。

挑戦者が志生野温夫の実況(アフレコ)のもと、競技するのが番組のメインであった(初代司会者橋本テツヤは、ロケ現場にも出かけ、実況も行っていた)。優勝者には番組が公認した日本記録公認証と豪華賞品が贈られ、表彰式ではアシスタント役の女優が、花のレイとキスをプレゼントし、最後に男性司会者が「おめでとう!!日本一(荒川強啓のみ「やったぜ日本一、おめでとう!!」)」と叫び、その競技のハイライトシーンとナレーションで締めくくる形であった。なお志生野は、時々収録に参加し、顔を出して自己紹介もしていた。

中期以降のエンディングは毎回、エンディングテーマが流れると同時に、「記録…それはいつも儚い。一つの記録は一瞬ののちに破られる運命を自ら持っている。それでも人々は記録に挑む。限りない可能性とロマンをいつも追い続ける。それが人間なのである。次の記録を作るのは、あなたかも知れない」のナレーションで締めくくられ、その間は挑戦者達が記録ならずといったシーンがスローモーションで流れていた。最後に、認定された日本記録のテロップが「日本新記録」と表示される(ただし、次週引き続き競技が放送される場合には「本日の最高記録」と表示された。また、以前にも登場した競技で前回とタイ記録だった場合に「日本タイ記録」と表示されたこともある)。

なお、大野しげひさが司会を務めていた頃のオープニングでは、「日本一、なんとすばらしいことだろう。しかし、あなたにもそのチャンスはある。さあ、人間のロマンと可能性に挑戦しよう!」というナレーションをバックに後述のテーマ曲が流れていた。

初期は記憶力など知的能力を争う内容も多かったが、中期以降は肉体能力を争う方向に特化していった。

ハンググライダーで高い所から飛んで、その飛んだ距離を競う企画『鳥人間コンテスト』は、本番組終了後は特番として独立し、毎年制作される長寿番組となった。なお、大会の回数は本番組の企画として放送された回から通算してカウントされており、2006年には30回を数えるに至っている。

参加者は基本的に一般人のみだったが、大野時代からは春・秋の期首特番や正月特番として、過去に行われた競技を芸能人が行う『スターが挑戦!びっくり日本新記録』も放送されていた。

テーマ音楽は小林亜星筒井広志が共同で作曲した。

番組開始時は三洋電機グループ一社提供番組であったが、第1期終了後の『スターウルフ』の番組途中で降板し、第2期〜第4期は複数社提供、第5期はタイガー魔法瓶をメインとした複数企業の協賛番組となっていた。なお三洋電機グループ一社提供時代は、オープニングキャッチが存在していた。三洋電機及びタイガー魔法瓶メイン提供時代は優勝者への商品提供も行っていた。

1985年10月6日の放送をもって終了した。最終回は10年間の名シーン(ただし映像は中・後期がほとんど)を振り返る総集編で、当初は9月中旬に放送される予定だったが、日曜ナイター雨傘番組が故に放送が度々延期され、10月6日も当初組まれていたナイター中継が雨天中止となったため、ようやく放送された。

出演者

歴代司会者

実況

記録発表

  • 現在、皇室ジャーナリストの高清水有子がアシスタントディレクター時代に担当していた。

レギュラー挑戦者

チャレンジボーイとして、轟二郎が本名の「三浦康一」を名乗り参加していた。ただし、「スターが挑戦!」の時には「轟二郎」として参加した。1984年にチャレンジボーイを引退した。

スタッフ

※いずれも1980年代前半

  • 監修:赤尾健一
  • 構成:出倉 宏、鵜沢茂郎
  • 技術:エキスプレス
  • 美術:シミズ舞台工芸
  • 演出:長谷川美夫ほか
  • プロデューサー:河村シゲル(オフィス・トゥー・ワン)、豊永幸男(読売テレビ)
  • チーフプロデューサー:山田英雄(読売テレビ)

放送局

系列・略称は放送終了時・ネット終了時のもの。

放送対象地域 放送局 系列 ネット形態 備考
近畿広域圏 よみうりテレビ(YTV) 日本テレビ系列 製作局
関東広域圏 日本テレビ(NTV) 同時ネット
北海道 札幌テレビ(STV)
青森県 青森放送(RAB) 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
岩手県 テレビ岩手(TVI) 日本テレビ系列 1980年3月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
宮城県 ミヤギテレビ(mm34)
秋田県 秋田放送(ABS)
山形県 山形放送(YBC) 1980年3月まで
山形テレビ(YTS) フジテレビ系列 1980年4月から
山形放送のテレビ朝日系列とのクロスネット局化に伴う移行[1]
福島県 福島中央テレビ(FCT) 日本テレビ系列 1981年9月まではテレビ朝日系列とのクロスネット局
山梨県 山梨放送(YBS)
新潟県 新潟放送(BSN) TBS系列 遅れネット 1978年3月まで
新潟総合テレビ(NST) フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
遅れネット

同時ネット
1979年8月から[2]
テレビ新潟(TNN) 日本テレビ系列 同時ネット 1981年4月開局から
長野県 信越放送(SBC) TBS系列 遅れネット 1980年9月まで
テレビ信州(TSB) テレビ朝日系列
日本テレビ系列
同時ネット 1980年10月開局から
静岡県 静岡放送(SBS) TBS系列 遅れネット 1978年3月まで
静岡けんみんテレビ(SKT) テレビ朝日系列
日本テレビ系列
同時ネット 現・静岡朝日テレビ
1978年10月から1979年6月まで
静岡第一テレビ(SDT) 日本テレビ系列 1979年7月開局から
富山県 北日本放送(KNB)
石川県 北陸放送(MRO) TBS系列 遅れネット 途中打ち切り
石川テレビ(ITC) フジテレビ系列 1984年10月から
福井県 福井放送(FBC) 日本テレビ系列 同時ネット
中京広域圏 中京テレビ(CTV)
鳥取県島根県 日本海テレビ(NKT) 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
広島県 広島テレビ(HTV) 日本テレビ系列
山口県 山口放送(KRY) 日本テレビ系列
テレビ朝日系列
1978年9月までは日本テレビ系単独加盟局
徳島県 四国放送(JR→JRT) 日本テレビ系列
香川県

香川県・岡山県
西日本放送(RNC) 当初はは香川県のみ
1983年4月の電波相互乗り入れで岡山県でも放送
愛媛県 南海放送(RNB)
高知県 高知放送(RKC)
福岡県 福岡放送(FBS)
長崎県 テレビ長崎(KTN) フジテレビ系列
日本テレビ系列
熊本県 テレビ熊本(TKU) フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
遅れネット 1982年3月まで
くまもと県民テレビ(KKT) 日本テレビ系列 同時ネット 1982年4月開局から
大分県 テレビ大分(TOS) フジテレビ系列
日本テレビ系列
テレビ朝日系列
宮崎県 テレビ宮崎(UMK)
鹿児島県 鹿児島テレビ(KTS) フジテレビ系列
日本テレビ系列
1982年9月まではテレビ朝日系列とのトリプルネット局
沖縄県 沖縄テレビ(OTV) フジテレビ系列 遅れネット 1984年3月打ち切り

番組内では、司会者の紹介のあとにネット局の紹介テロップが表示された。

関連項目

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:前後番組

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  1. 1980年4月から1993年3月までの山形放送における日曜19:00 - 20:54枠が日本テレビ系同時ネット枠からテレビ朝日系同時ネット枠に変更されたため。同時に山形テレビの日曜19:00 - 20:54枠はフジテレビ系同時ネット枠から日本テレビ系同時ネット枠となった。なお、山形放送における日曜19時台における同時ネットは、1993年4月の山形テレビのテレビ朝日系列へのネットチェンジに伴い、『おしえて!ガリレオ』(事実上の枠交換)で13年ぶりに復活している。
  2. 1979年8、9月は7日遅れの朝9時30分からの遅れネットだった。同年10月7日 - 1981年3月29日までは同時ネット。このため、1979年10月7日には、同じ日に同じ局で同番組が、7日遅れの分と同時ネットの分の2回も放送されるという事態が起こった。