金曜10時!うわさのチャンネル!!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 テレビ番組

金曜10時!うわさのチャンネル!!』(きんようじゅうじ うわさのチャンネル)は、日本テレビ系列局で放送された日本テレビ製作のバラエティ番組和田アキ子タモリが最初に共演した番組でもある。製作局の日本テレビでは1973年10月5日から1979年6月29日まで、毎週金曜 22:00 - 22:54 (JST) に生放送。遅れネット局では録画放送。

番組開始の経緯

当初この時間帯では、渡辺プロ制作による第2の『シャボン玉ホリデー』と言えるバラエティ番組の放送を予定していたが、月曜20時台の番組を巡っての日本テレビと渡辺プロの対立(→それに関連する記述)によって頓挫。再度企画を練り直して生まれたのがこの番組である。

この渡辺プロとの抗争の矢面に立った井原高忠が制作(チーフプロデューサーと同義)で参加。彼がスタッフに「この番組は何が何でも当てろ!」と猛烈にハッパを掛けたせいか、当時のバラエティ番組としては類の無い型破りでエネルギッシュなものとなった。

番組の歴史

初回(1973年10月5日放送分)の視聴率は4.7%だったが、和田とザ・デストロイヤーせんだみつおらの掛け合いが人気となり、1か月も経つと20%を突破[1]。井原は後年「この番組がヒットして正直ホッとして胸をなで下ろした」と述懐している。

全盛期には視聴率30%を超える人気番組となったが、和田がゴッド姉ちゃんのイメージが定着してしまったのを嫌ったことや、『翔べ! 必殺うらごろし』(朝日放送製作、テレビ朝日系列ネット)への出演、また歌手に専念したいとの意向で日本テレビへ強引に降板を申し入れたことから、番組は1979年6月に終了。この一件が原因で、以後2年間和田は日本テレビへの出入りが禁止されるなど両者は折り合いが悪くなった(後に和解し、『歌のトップテン[2]や『ミンナのテレビ』などに出演した)。 本番組は、同局の人気オーディション番組『スター誕生!』の出身歌手たちをサポートする役割も果たしていた。また、ほとんどの期間においてはモノラル放送だったが、1978年10月から最終回まではステレオ放送で行われていた。

番組内容

アっコのゴッド姉ちゃん

このコーナーは、和田アキ子が、ガキ大将的存在の「ゴッド姉ちゃん」、せんだみつお、ザ・デストロイヤー(なぜかドイツ軍兵士のヘルメットを被っている)らが、仲間の悪ガキどもに扮したメインコーナー。和田は連中をひたすらののしり、ハリセンでどつき倒したが、犬やヘビには弱く、せんだらがたまにダレ犬をけしかけて逆襲したり、相撲の回しをしたザ・デストロイヤーが回しからヘビのおもちゃを出して悲鳴を上げさせたりする場面もあった。この番組への出演を機に、和田の「姉御肌」のキャラクターが定着した。

このコーナーの中で、ゲストがザ・デストロイヤーに4の字固めをかけられて悶絶することがよくあったが、それがきっかけでブレイクしたタレントも多い。当時日本テレビアナウンサーの徳光和夫はそれまではスポーツ関係のアナウンサーという印象でしかなかったが、このコーナー出演をきっかけにバラエティへも進出し、後の「おもしろまじめ」で小林完吾と共演するきっかけにもなっている。また、ガッツ石松がまだ現役の世界チャンピオンの時にこのコーナーに出演して、「ぼくさーボクサーなの」というギャグを発していた。 和田は、ゲストの女性タレントをだまして、卑猥なことばをいわせたりもした。たとえば「どんぐりころころ」の替え歌で「借金たまってさあ大変~」をリハーサルでは皆が歌ったのに、本番では「借」で皆が口をつぐんだので、ゲストの女性タレントだけが「キンタマ」と発声してしまった。

三日月刑事・暁にほえろのコーナー

警察の取調室のコント。山城新伍扮する三日月刑事が、毎回謎の容疑者役であるせんだみつお(謎の中国人・萬 江仙、自称コウダ氏など)を取り調べて、痴漢マンゴローという名の正体が暴かれるまでを描いていたコーナー。

ダイヤモンドチャレンジ

視聴者が電話で参加するおいちょかぶ。コーナー担当はせんだみつお。上段に表になっているトランプ札が5枚、さらに中段には裏になっている札が5枚あった。せんだは5人の参加者に1人ずつ「いりませんか?」と問い掛け、「いります」と相手が言ったら3枚目を出し、「いりません」と言ったらそのまま。そして、せんだの「とんがれ、とんがれ、とんがれェーッ」の声で裏向きの札をオープンし、点数を出していった。点数の1桁目が「9」か「9」に近い者が優勝となり、ダイヤモンドの指輪を獲得できた。

タモリのなんでも講座

サングラスではなくアイパッチを着用していた頃のタモリが、毎回怪しげな芸をふんだんに披露していたコーナー。4ヶ国語麻雀、中洲産業大学のタモリ教授(もともとはオールナイトニッポンの企画)、タモリ神父、イグアナの物真似などがレパートリーにあった。

ザ・ニュースコミック!

末期において徳光和夫が担当していたニュース風のコントコーナー。徳光はその後、1979年3月から『ズームイン!!朝!』を担当することになったため、小山田春樹(当時日本テレビアナウンサー)と交代した。小山田は毎週、「以上で、デタラメニュースを終わります」と言ってコーナーを終わらせた。

レコード

  • うわさの小唄(栗咲ジュン、1975年) - B面「音頭 No.5」
  • もしも音頭(栗咲ジュン、1975年) - B面「はたちの渡り鳥」
  • うわさのベースボール 巨人編(葵三音子) - B面「うわさの音頭」
  • マグネット・ジョーに気をつけろ(作詞:阿久悠 作曲:川口真 編曲:馬飼野康二 唄:ギャル) - 1978年頃の番組終盤に使用。番組ではギャルが歌うバックに、全出演者が振りまねをするシーンが合成された。2012年には星屑スキャットによってカバー。

出演者

レギュラー

準レギュラー

スタッフ

ネット局と放送時間

  • 日本テレビ系列各局
  • なお、系列局によっては時差放送になっていたため、特記が無い限り題名から「金曜10時!!」のクレジットを外して単に「うわさのチャンネル!!」と表示していた。
    • フジテレビ系列とクロスネットだった広島テレビは、本来の時間帯に『ゴールデン洋画劇場』(21:00 - )をフジテレビと同時ネットしていたため、金曜日23時台の遅れネットだった(テレビ新広島開局後は同時ネット)。
    • また、静岡県に日本テレビ系列局がなかった時代にフジテレビ系列局のテレビ静岡が1974年4月から土曜日の23時45分 - 24時40分で、1974年10月からは日曜日の12時 - 12時54分、1975年10月からは日曜日の13時 - 13時54分で放送していた(但し1976年2月29日で放送打ち切り)。静岡第一テレビではサービス放送期間の1979年6月29日に最終回のみ放送された。
    • 愛媛県では、日本テレビ系列の南海放送が事実上TBS系列とのクロスネット状態だったため、フジテレビ系列のテレビ愛媛で放送された。
    • 同様方式として、山形放送は本来の時間帯に『ナショナル劇場』を時差ネットしていたため、こちらも1週遅れの時差ネットだった。(放送日時は金曜日の17時 - 17時54分 → のちに土曜日の14時 - 14時55分で、金曜日の遅れネット時代のタイトルは「金曜5時!うわさのチャンネル!!」だった。土曜日移行後は「うわさのチャンネル!!」に改題前後の各局と同じタイトルに)
    • 中京テレビは、当時本来の時間帯に東京12チャンネル(現在のテレビ東京)の『大江戸捜査網』を放送していたことから、この番組については土曜深夜に放送していた。
    • またテレビ岩手福島中央テレビミヤギテレビ東日本放送開局後は同時ネット)も、番組放送期間中は日本テレビ系列とテレビ朝日系列のクロスネットだったため、本来の時間帯にテレビ朝日の番組を放送し、この番組については時差ネットで放送していた(放送日時はテレビ岩手が土曜日の12時 - 12時54分 → 後に土曜日の22時 - 22時54分、ミヤギテレビ、福島中央テレビが土曜23時台の遅れネットだった)。
    • 当時日本テレビ系列単独局だった青森放送では、1974年10月5日土曜日から23:45~24:45に放送。
    • テレビ長崎では15日遅れの22:30~23:30に放送していた。
    • テレビ大分では、日曜日22:30~23:30に放送。
    • フジテレビ系列・テレビ朝日系列・日本テレビのクロスネットだったテレビ熊本では、金曜日の21時からフジテレビの『ゴールデン洋画劇場』を同時ネットしていたため、金曜24時25分からの遅れネットだった
    • 南日本放送では、1976年3月まで遅れネットで放送していた(南日本放送の社史『生き生き25年 南日本放送のあゆみ』にその記述あり)。

脚注・出典

テンプレート:Reflist

関連項目

  • お姐ちゃんお手やわらかに - 当番組継続中の1975年4月東宝系で公開された、和田主演映画。せんだみつお・ザ・デストロイヤー・ラビット関根・伊藤一葉といった、当番組共演者が助演。
  • 今夜は最高! - この番組の終了後にタモリが司会を務めた日本テレビのバラエティ番組・コント番組・トーク番組。

テンプレート:前後番組

テンプレート:Navboxes
  1. 1993年7月7日日刊スポーツ「連載 プロレス グッバイ、ザ・デストロイヤー(5)ボケ役で主婦に人気」
  2. 1987年4月から1990年3月の番組終了まで、島田紳助とともに司会を務める
  3. 日刊スポーツ 1973年10月12日掲載の広告