細川忠興
細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前国小倉藩初代藩主。肥後細川家初代。
足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。
足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。
目次
生涯
幼少期
永禄6年(1563年)11月13日、室町幕府13代将軍・足利義輝に仕える細川藤孝(幽斎)の長男として京都で生まれる[1]。義輝の命により一族・奥州家の細川輝経の養子となるが、この養子縁組は系譜上のものであり、その後も実父・藤孝と行動をともにし、領国も継承した。
永禄の変の後、藤孝や明智光秀らは尾張・美濃の大名・織田信長を頼って義輝の弟・義昭を15代将軍に擁立したが、やがて信長と義昭が対立すると信長に臣従した。忠興は信長の嫡男・信忠に仕え、忠興の「忠」の字は信忠から偏諱を受けたものである[2]。
織田時代
天正5年(1577年)3月、15歳で紀州征伐に加わり初陣を飾るが、血気にはやって危うく命を落としそうになったりした事もあったとされる[1]。ただ、この武勇が信長に評価された[1]。10月に信長から離反した松永久秀の武将・森秀光が立て籠もる大和片岡城を父やその僚友・明智光秀と共に落とし(信貴山城の戦い)、信長直々の感状を受けたが、この際に忠興は敵方から投石を頭部に受けて歳をとってもその痕は消えなかったという[3]。これは後年の忠興が他人によく話したという[3]。
天正6年(1578年)に元服[2]。前述の通り、信長の嫡男・信忠より1字を拝領し「忠興」と名乗った[2]。
天正7年(1579年)には信長の命を受けて、父や光秀と共に丹後守護だった建部山城城主・一色義道を滅ぼした。
また、同年には信長の仲介を受けて、光秀の三女・玉子(ガラシャ)と結婚する[3]。この時、信長の命により九曜を定紋とし、これが細川家の家紋となった[1]。以前、忠興が信長の小刀の柄に九曜が描かれているのを大変気に入っていたことを、信長が覚えていたためと言われる[1]。
天正8年(1580年)、父・藤孝は功により丹後南半国の領主となる(北半国は一色満信の領国)。
天正9年(1581年)の京都御馬揃えにも若年ながら一色満信らとともに参加する。この際に信長が着た「蜀紅の錦の小袖」は、忠興が京で探し求めて信長に献上したものだという(『信長公記』)。
本能寺の変
天正10年(1582年)6月、岳父・明智光秀が本能寺の変を起こし、藤孝・忠興父子を味方に誘ったが[4]、細川父子はこれを拒否した上、玉子を丹後国の味土野(現在の京丹後市弥栄町須川付近)に幽閉した。幽閉されていた屋敷跡に「女城跡(御殿屋敷)」が現在も建っている。細川父子に協力を断られたことは、光秀の滅亡を決定的にしたといわれている(光秀は13日に山崎の戦いで敗死する)。このように本能寺の変において、忠興は早々に旗幟を鮮明にしたため、忠興と同じく光秀の婿だった津田信澄とは異なり、光秀との内通を疑われ討伐されることもなかった[3]。また忠興はこのとき、父が隠居したので領国である丹後南半国を譲られ、丹後宮津城主となった。
その後、次期天下人の地位を狙う羽柴秀吉に誼を通じ、織田政権下では実父・藤孝の同僚であった北丹後の一色満信を殺した後、一色家旧臣を攻め滅ぼし、秀吉から丹後全域の領有を許された。そして、北丹後の元一色方の諸城に軍勢を率いた重臣を派遣し、丹後一国の平定を成し遂げた。
豊臣政権下
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに参加し、翌13年(1585年)には従四位下・侍従に叙任し、秀吉から羽柴姓を与えられ七将に数えられた[5]。
その後も天正15年(1587年)の九州征伐、天正18年(1590年)の小田原征伐に従軍した。天正16年(1588年)、豊臣姓を下賜される。[6]文禄元年(1592年)からの文禄の役では九番隊に属して上陸し、慶尚道などの制圧を担当した。10月には長谷川秀一らと第一次晋州城攻防戦に参加し、前哨戦で慶尚右兵使の柳崇仁を討ち取ったが、攻城戦で晋州城を落とすことは出来なかった。翌文禄2年(1593年)6月の第二次晋州城攻防戦にも参加して晋州城を陥落させた。
文禄4年(1595年)の秀次事件では、秀吉の甥・秀次に借金があったために秀吉に嫌疑をかけられ、忠興は秀吉より閉門を命じられ、さらに切腹の沙汰も一時は取り沙汰されたという[7]。そのため、秀吉に人質を差し出し、家康から借財して秀次の借金を返済して潔白の証とし[7]、家臣・松井康之の計らいにより疑惑を解かれたという(『細川家記』『松井家譜』)。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、武功派大名の一人として石田三成ら吏僚派と対立し、徳川家康に誼を通じた。慶長4年(1599年)には加藤清正・福島正則・加藤嘉明・浅野幸長・池田輝政・黒田長政らと共に三成襲撃に加わった。
同年、豊臣家の大老の筆頭であった家康の推挙で、丹後12万石に加え九州豊後杵築6万石が加増された。これにより、都合18万石の大名となった。
関ヶ原の戦い
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与した。このとき、豊臣恩顧の有力大名である上、父と正室が在京していたため、その去就が注目されたが、東軍に入ることをいち早く表明したため、他の豊臣恩顧の大名に影響を与えたと言われている。
大坂城内の玉造の細川屋敷にいた妻の玉子(ガラシャ)は西軍の襲撃を受け、人質となることを拒んで自害を余儀なくされた。このことに関連して、忠興は嫡男・忠隆を廃嫡している。
また、弟の幸隆と父の幽斎は忠興の留守をよく守り、丹後田辺城に籠城したが(田辺城の戦い)、朝廷からの勅命により関ヶ原の戦いの前に開城し、敵将・前田茂勝の丹波亀山城に入った。豊後国では飛び地の杵築の杵築城が旧領主(元豊後国主)である大友吉統に攻撃されたが、松井康之と有吉立行が防戦に尽くし、やがて救援に駆けつけた黒田孝高により石垣原の戦いで吉統は打ち破られた。
9月15日の関ヶ原本戦で忠興は、黒田長政らと共に石田三成の本隊と激闘を演じ、首級を136上げたとされる。
慶長7年(1602年)、徳川家康から戦後の論功行賞で丹後12万石から豊前33万9,000石に国替のうえ加増となった。豊後杵築6万石は、そのまま細川領とされたので豊前中津藩39万9,000石の大大名となった[7]。豊前入りした忠興は九州の要とすべく小城であった小倉城の大規模改修に取り掛かる。
その後、黒田氏が築いた中津城から工事が完成した小倉城に藩庁を移し、小倉藩初代藩主となる。
また、幸隆を竜王城の城主として同じく弟の孝之(たかゆき)を香春岳城の城主としてさらにまた重臣の松井康之を杵築城の城主として配し、領内の守りを固めた。
徳川時代
慶長20年(1615年)の大坂夏の陣でも参戦する。戦後、松平の苗字の下賜を辞退する[8]。元和6年(1620年)、病気のため、3男の忠利に家督を譲って隠居する[9]。この頃、出家して三斎宗立と号し、以後は悠々自適の生活を楽しんだ[9]。
寛永9年(1632年)、忠利が豊前小倉藩40万石から肥後熊本藩54万石の領主として熊本城に加増・移封されると、忠利に44万5,000を残し、自らは八代城に入り[9]、9万5,000石を隠居領とし、北の丸を隠居所(本丸には忠興4男の立孝を入れる)とした。
この時、忠興に従って八代郡高田郷に移った上野喜蔵と長男の忠兵衛によって高田焼が創始された。
忠興は立孝に自分の隠居領9万5,000石を継がせて立藩させることを強く望んでいたようであるが、正保2年(1645年)閏5月に立孝が早世し、忠興も同年12月2日に死去したため[9]、叶わなかった。臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。享年83[9]。
八代城には孫で立孝の子・宮松(行孝)が残されたが、従兄の熊本藩主・光尚(忠利の子、忠興の嫡孫)はこれに宇土郡・益城郡内から3万石を与えて宇土支藩とし、筆頭家老・松井興長(長岡佐渡守、松井康之の次男)を八代城3万石の城主(正式には城代)とした。興長の跡は忠興の六男・寄之(よりゆき)がその養子となって嗣いでいる。
人物像
性格
大変な戦上手で、政治家としても優れていた。また戦国武将の中でも有数の冷徹さと気性の激しさを持っていた[10]。茶道四祖伝書の中で、忠興は「天下一気の短い人物」と書かれている[10]。また光秀から丹波平定の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と諭されている[10]。
足利将軍家、織田氏、豊臣氏、徳川氏と多くの主君に仕えながら細川氏を生き延びさせた政治手腕の反面、身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面もあり、関ヶ原の合戦中、父の幽斎が居城を敵に明け渡した(詳細は田辺城の戦いの項を参照)ことから一時不和になっている。また、弟の興元とも不仲であった。
丹後攻略戦では、同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵をみな殺しにするなど非常に残忍な手法も取った。
情報戦にも長けていたが、その背景には当代一流の文化人の一人として数多くの文化人や大名、公卿たちとの交流が盛んだったという事情があり、土井利勝や遠戚関係にあった春日局などを通して多くの情報を得ていたとされる。また隠居後も、忠利と交互に国許と江戸を行き来しており、忠利とは書状で頻繁に連絡を取っていた。ちなみに、忠興が生涯で書いた手紙の枚数は、関ヶ原の戦いの後だけでも約2,000通が確認されている。
短気な忠興であるが、晩年は角が取れて丸くなったという[11]。徳川秀忠から天下の政務について問われると「角なる物に丸い蓋をしたようになされませ」と答えた。さらに秀忠が「どんな人物を登用するのがよいか」と尋ねると「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう(明石の潮の流れは激しいが、その潮にもまれた蠣は味がいいから、人も人にもまれた者こそよき人柄になる)」と答えたという[11]。
文化人として
父と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。『細川三斎茶書』という著書を残している[9]。千利休に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、利休七哲の一人に数えられる[9]。利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされる。北野大茶会の折には松向庵という名の茶席を設け、それに由来して後年「松向殿」と呼ばれることもあった。
武具への造詣
幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に打刀の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、甲冑においては「越中具足」、「越中流具足」ないし「三斎流具足」と称される形式を確立したことで知られる。
肥後拵は忠興が修めていた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が反映されている点が大きな特徴である。また、忠興に召し抱えられて鍔など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、「信長拵」や「歌仙拵[12]」などが愛刀家の間で著名である[13]。
越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の当世具足のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの(黒糸威二枚胴具足[14])は勝利を収めた際の着料ということから「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された[15]。
夫婦仲・家族に対して
正室の玉子への愛情は深く、その父・明智光秀が本能寺の変を起こしたときも離縁せずに、幽閉して累の及ぶのを避けている。2人は当代第一の美男美女夫婦といわれたが、玉子が秀吉の禁教令発布直後にキリシタンになったとき、これに激怒して侍女の鼻をそぎ、さらに玉子を脅迫して改宗を迫ったと言われている[11](この頃から夫婦仲が冷めた可能性もある)。さらに、玉子の美しさに見とれた植木職人を手討ちにしたという話もある[3]。朝鮮出兵中、忠興は玉子に何通もの手紙を書いているが、その内容は「秀吉の誘惑に乗らないように」というものだったという。
二男の興秋が大坂の役で豊臣方に協力したため、戦後に忠興は自害させた[11]。家康は興秋を許したが、忠興は自らの意思で処断したとされる[11]。
後継者の3男・忠利に対して「家中の者どもは将棋の駒と思え。将棋の駒にはそれぞれの働きがある。桂馬は頭に歩をつかれると、取ることも逃れることもできない駒だが、一枚隔て筋違飛びの働きをする。それは飛車も角も及ばぬものだ。人もこのように、一つの役目では不調法でも、他のことで役立つことがある。何もかも、ただ一人でできる者は百人いてもおらぬものだ。主君たる者は、このことを心得ておくべきである[10]」と訓戒している(『名将言行録』)。
顔の傷
右の額に投石で受けた傷、鼻に刃物で切り裂かれた傷があった。妹婿の一色義有を暗殺した後、一色残党から救い出した忠興の妹であり義有の妻である伊也に対面の席にて懐剣で襲われる。首に突き付けられた刀を間一髪のところでかわすが鼻を真一文字に切り裂かれる。額の傷は初陣の城攻めで一番乗りを果たして信長より感状をもらっており自慢にしていた。しかし、伊也の恨みのこもった鼻の傷が残って以降、大名の間では忠興の前で顔の傷のことを話題にするのはタブーとなった。
子女および子孫について
- 男子
- 女子
玉子(ガラシャ)との間には3男2女が生まれているが、跡を継いだ忠利は三男である。忠利は関ヶ原の戦いに前後して、江戸に人質に出ており、その際に徳川秀忠やその家臣たちと親交を深めていたことも、嫡子として選ばれる際に有利に働いた。しばらくは忠利の子孫が嫡流家として続いたが、若くして死去した熊本藩7代藩主細川治年には男子がおらず、養子入りして嫡流家(熊本藩主家)を継いで熊本藩8代藩主となった細川斉茲は忠利の異母弟(忠興の四男)立孝の系統である支藩宇土藩からの養子である。従って斉茲の子孫となるそれ以後の熊本藩主やその子孫である細川護熙は、ガラシャの血をひく忠利の男系直系子孫ではない。
忠興の跡を忠利が継いだのは、長男の忠隆が廃嫡されたからである。忠隆の正室の千世は前田利家の娘であったが、関ヶ原の戦いの際にガラシャが大坂屋敷で自害した際に千世は脱出して生き延びていた。忠興はこれを咎め、千世を離縁して前田家と縁を切るよう忠隆に命じた。しかし忠隆は千世を庇い、離縁を承知しなかったため、忠興は忠隆を追放・廃嫡とした。そのため後に、忠隆は千世と長男を連れ、祖父である幽斎を頼って京都で隠居した。
次男の興秋は、一時叔父の興元の養子に出されていた背景もあって、やはり嫡子とされなかった。これに不満を抱いた興秋は慶長10年(1605年)、忠利に代わって江戸への人質に出される途中で細川家から出奔した。その後、元和元年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣方に与したため、戦後に父の命を受けて自害を余儀なくされている。
主な家臣
忠興が登場する作品
- 文学作品
- 浜野卓也『細川忠興 ギリギリの決断を重ねた戦国武将』(PHP文庫、2002年7月)
- 春名徹『細川三代 幽斎・三斎・忠利』(藤原書店、2010年)
- 智本光隆『細川忠興戦記 本能寺将星録』(学研歴史群像新書 2010年)
- テレビドラマ
- 大坂城の女(1970年、フジテレビ、演:根上淳)
- 国盗り物語(1973年、NHK大河ドラマ、演:石田信之)
- 黄金の日日(1978年、NHK大河ドラマ、演:柴田侊彦)
- 関ヶ原(1981年、TBS、演:竹脇無我)
- 徳川家康(1983年、NHK大河ドラマ、演:岩下浩)
- 春日局(1989年、NHK大河ドラマ、演:信達谷圭)
- 信長 KING OF ZIPANGU(1992年、NHK大河ドラマ、演:小林秀樹)
- 徳川剣豪伝 それからの武蔵(1996年、テレビ東京12時間超ワイドドラマ、演:木村元)
- 秀吉(1996年、NHK大河ドラマ、演:小林滋央)
- 葵 徳川三代(2000年、NHK大河ドラマ、演:佐々木功)
- 利家とまつ〜加賀百万石物語〜(2002年、NHK大河ドラマ、演:黄川田将也)
- 武蔵 MUSASHI(2003年、NHK大河ドラマ、演:夏八木勲)
- 国盗り物語(2005年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:古畑勝隆)
- 功名が辻(2006年、NHK大河ドラマ、演:猪野学)
- 寧々〜おんな太閤記(2009年、テレビ東京新春ワイド時代劇、演:石川栄二)
- 江〜姫たちの戦国〜(2011年、NHK大河ドラマ、演:内倉憲二)
- 漫画
- 山田芳裕 『へうげもの』
- ゲーム
脚注
出典
参考文献
- 書籍
- 泉秀樹『戦国なるほど人物事典』(PHP研究所、2003年)
- 楠戸義昭『戦国武将名言録』PHP研究所、2006年
- 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』(講談社文庫、1996年、講談社学術文庫、2004年) ISBN 4061596810、往復書簡を読み解く
- 米原正義『細川幽斎・忠興のすべて』(新人物往来社、2000年)
- 史料
- 『名将言行録』
関連項目
外部リンク
テンプレート:小倉藩主- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.495
- ↑ 2.0 2.1 2.2 米原、2000年、p.79。
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.496
- ↑ 光秀は藤孝・忠興父子に対しては「領地は摂津か、但馬・若狭を与え、他にも欲しいものがあれば必ず約束を履行する。100日の内に近国を平定して地盤を確立したら、十五郎(光秀嫡男の光慶)や与一郎(忠興)に全てを譲って隠居する」などと6月9日付で出された書状で誓約するといったように(『明智光秀』吉川弘文館。243頁・244頁)、破格の条件を提示し、味方になることを請うた
- ↑ 村川浩平『日本近世武家政権論』P27
- ↑ 村川、P36
- ↑ 7.0 7.1 7.2 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.497
- ↑ 村川、P103
- ↑ 9.0 9.1 9.2 9.3 9.4 9.5 9.6 泉秀樹 著『戦国なるほど人物事典』PHP研究所、2003年、p.498
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 楠戸義昭『戦国武将名言録』P316
- ↑ 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 楠戸義昭『戦国武将名言録』P317
- ↑ 永青文庫所蔵品 簡易データベース 歌仙拵(腰刻黒漆研出鮫打刀拵)、2014年7月26日閲覧。
- ↑ 小窪健一『図鑑 刀装のすべて』光芸出版、1971年、p. 55 - 56
- ↑ 永青文庫所蔵品 簡易データベース 黒糸威二枚胴具足、2014年7月26日閲覧。
- ↑ 山岸素夫『日本甲冑論集』つくばね舎、1991年、p. 242