細川興元

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細川 興元(ほそかわ おきもと)は、安土桃山時代武将下野茂木藩主。のち常陸谷田部藩の初代藩主。

家系

細川幽斎の次男。実名を昌興(まさおき)とする史料(『武家事紀』など)もあるが、『寛政重修諸家譜』は興元のみを載せている。「興」は兄・忠興偏諱に由来、後者の「元」は細川氏通字である。母は足利氏の家臣で若狭熊川城主・沼田光兼の娘・麝香。正室は沼田勘由左衛門清延の娘、継室は後に再婚した立花宗茂の養女(高橋鎮種の娘)。

兄の忠興が細川輝経の養子になり奥州細川家を継いだため、興元は藤孝の和泉半国守護細川家の分家として家を興した。

生涯

永禄9年(1566年)、細川藤孝(幽斎)の次男として生まれる。

はじめ父や兄と共に織田信長に仕え、大和片岡城攻めなどで活躍した。信長没後は羽柴秀吉に仕えて小田原征伐文禄・慶長の役などでも活躍している。 1594年、忠興の次男細川興秋を養子とする。その際、興秋の母細川ガラシャの薫陶を受け、家臣加賀山隼人(洗礼名ディオゴ・高山右近の元家臣)の勧めを受諾して1595年にキリスト教の洗礼を受ける[1]。同時に、忠興の家臣5人も洗礼を受けている。


秀吉没後は徳川家康に仕えて関ヶ原の戦いでも軍功を挙げた。豊前小倉城代も勤めたが、兄・忠興と不仲になり、兄から離れて京都で隠棲した。慶長10年頃の京都には幽斎のもとに、長岡休無(細川忠隆)・細川興秋兄弟も暮らしている。

しかし徳川秀忠から関ヶ原での勇猛果敢さを認められ、幽斎死後の慶長15年(1610年)に下野国芳賀郡茂木に1万石を与えられて大名に列した。真実は定かでないが、秀忠は10万石を与えようとしたが不仲の兄・忠興の反対で1万石になったとの噂もある。

慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも功績を挙げて、元和2年(1616年)に常陸国筑波・河内両郡に6,200石を加増され、谷田部藩を立藩した。元和3年(1617年)、将軍・徳川秀忠の御伽衆に任命される。

元和5年(1619年)3月18日に53歳で死去した。跡を沼田氏の娘が慶長9年(1604年)に産んだ興昌が継いだ。

墓所は能持院。ただし、墓碑は存在せず、墓の上に杉の木が植えられたと伝わる[2]

脚注

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  1. キリシタンになった大名・284頁
  2. キリシタンになった大名・285頁

参考文献

  • 結城了悟『キリシタンになった大名』(聖母文庫) ISBN 4-88216-177-X

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