清水エスパルス

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テンプレート:告知 テンプレート:サッカークラブ テンプレート:Infobox 清水エスパルス(しみずエスパルス、Shimizu S-Pulse)は、日本静岡県静岡市をホームタウンとする、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。

概要

1991年にJリーグへ加盟。ホームタウンは静岡県静岡市(合併前は清水市[1]。ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平[1]、練習場はエスパルス三保グラウンドである[1](詳細は#スタジアム・練習場を参照)。チーム名の「エス(S)」は「サッカー、清水、静岡」の頭文字で、「パルス(PULSE)」は英語で心臓の鼓動を意味する[1]

クラブマスコットは、パルちゃん(名前の由来はエスパルスとサポーターを結ぶ「友達(パル)」より。耳の羽は現代版羽衣を表す)[1]、パルちゃんの恋人で2012年7月に誕生した[2] ピカルちゃん(名前の由来は勝ち星およびタイトル獲得を示 す星より)[1]、パルちゃんの妹的な存在に当たる[3] こパルちゃん[1] である。なお、パルちゃんは「サッカーに要求される速さ、強さ、賢さをもち、かつ現代的で品格がある可愛く元気のよいキャラクター」と位置づけられ[3]、Jリーグのマスコットの中で屈指のパフォーマーとエスパルス公式サイトでは紹介されている[2]

歴史

Jリーグ加盟前 - 2008年まで

ファイル:Nabiscocup.final 2008-Shimizu.JPG
2008年ナビスコカップ決勝時のコレオグラフィー

地元のサッカー少年団である「清水フットボールクラブ」のOBが中心となって結成された静岡社会人リーグ所属の「清水FC」が母体である。1991年のJリーグ加盟時に清水FCエスパルスと名称を定めた(1996年に清水エスパルスへ名称を変更)。Jリーグ創設時からの加盟チーム「オリジナル10」の一つである。1992年のJリーグカップ7月4日長居陸上競技場にてガンバ大阪と初試合。公式サイトではこの日を「エスパルスの誕生日」としている。

発足当初の運営会社は株式会社エスラップ・コミュニケーションズ1991年5月設立)であり、約1割を出資した市民持ち株の他、テレビ静岡(静岡市)、中日新聞東海本社浜松市)、フジテレビジョンなどが株主であったが、1997年末に経営危機に陥った。鈴与の子会社で出版業を手掛けていたサッカーコミュニケーションズ株式会社(1995年11月設立)が1998年1月7日に株式会社エスパルスへ商号を変更し、1月14日に株式会社エスパルスが株式会社エスラップ・コミュニケーションズより営業権を譲り受け[4]、2月1日より株式会社エスパルスによる運営がスタートした[5]。なお、株式会社エスラップ・コミュニケーションズは2001年3月30日の臨時株主総会決議により解散[6]

エスパルス発足当初は、堀池巧大榎克己長谷川健太の「清水東三羽烏」などの地元出身の選手や、初代主将となる三浦泰年澤登正朗などが中心となった。1992年のJリーグカップで 準優勝を果たす。その後もナビスコカップ優勝(1996年)、J1 2ndステージ優勝(1999年)、天皇杯優勝(2001年)などのタイトルを獲得。

1993年Jリーグ開幕節三ツ沢球技場で前年カップ戦最下位の横浜フリューゲルスに2-3で敗戦。

その後、リーグ戦では2003年は11位、2004年は14位、2005年は終盤までJ1残留争いをして、15位で残留を決めるなど低迷期が続いた。その間にスカウトの充実や、ユース選手だけでなく外部からの選手の補強を図った。2005年度にデビューした枝村匠馬兵働昭弘青山直晃ら若手選手が主力として定着し、同年の天皇杯で準優勝の成績を収める。

2006年は新人の藤本淳吾が主力として定着し、青山直晃が日本代表に選出されるなど前年以上に若手選手が台頭。また、日本A代表経験者の前出市川、森岡隆三伊東輝悦斉藤俊秀らも復調して開幕から上位につけ、最終的に4位でシーズンを終えた。シーズン終了後には藤本が新人王を獲得。

2009年

横浜FCから太田宏介を、浦和から永井雄一郎を、名古屋からフローデ・ヨンセンを獲得し大型補強に成功。札幌期限付き移籍していた平岡康裕も復帰。その一方で、森岡隆三高木和道矢島卓郎西澤明訓などが移籍。

開幕戦の大宮戦ではスコアレスドローに終わり、リーグ開幕戦で初めて無得点に抑えられた。それでも夏場までは、引き分けが多い(28節までに11引き分け)ものの、負けないサッカーを展開。特にホームでは負けることがなく、前年から続くリーグ戦ホーム無敗記録を20まで伸ばした(ただし、その間にナビスコカップのホームゲームで山形に敗れている)。9月29日長谷川健太の監督続投が決定。10月3日の第28節広島戦で1対1で引き分けるも得失点差で鹿島を上回り首位に立ったが、第29節の負ければJ2降格となる大分にシーズン初の逆転負けをしたのを皮切りに、第30節にはFC東京戦ではシーズン初のリーグ戦ホームでの1対2での黒星になるなど、優勝はおろかACL出場権の得られる3位以内もなくなり、最終順位は7位。また、天皇杯は準決勝で名古屋にPK戦で敗れた。

2010年

ファイル:Emperor's Cup Final Shimizu S-Pulse 2011-01-01.JPG
2010年度天皇杯決勝時のコレオグラフィー

長谷川体制6年目。新戦力として千葉からボスナーを、VfLボーフムから小野伸二を獲得。に期限付き移籍していた杉山浩太東京Vに期限付き移籍していた廣井友信が復帰、ユースチームから鍋田亜人夢が入団した。第9節の浦和戦で、鹿島、磐田に続き3チーム目のJ1通算300勝を達成した。シーズン終了後に長谷川健太が監督を退任(事実上の解任)。

2011年

イラン代表監督(当時)のアフシン・ゴトビが監督に就任。伊東輝悦市川大祐甲府へ、青山直晃横浜FMへ、西部洋平湘南へ、フローデ・ヨンセンオッド・グレンランドへ、藤本淳吾が名古屋へ、本田拓也が鹿島へ、岡崎慎司VfBシュトゥットガルトへ、兵働昭弘へ、原一樹が浦和へ移籍した一方、東京Vから高木俊幸、湘南から村松大輔、韓国Kリーグ水原から元日本代表の高原直泰ギリシャ・スーパーリーグイラクリスから元日本代表の小林大悟全国高等学校サッカー選手権大会で優勝した滝川第二高校から得点王を獲得した樋口寛規AリーグシドニーFCからオーストラリア代表アレックス・ブロスケを獲得。

開幕戦の戦で0-3で大敗したが、小野、高原などの活躍もあり、その後は6勝4分け1敗と好調を維持し上位を伺う位置につけたものの、第6節C大阪、第19節広島、第20節新潟と続く夏場のアウェー3連戦全てを0-4で大敗し3連敗。8月にオランダ北京五輪代表のDFカルフィン・ヨン・ア・ピンと元スウェーデン代表フレドリック・ユングベリを獲得したが、上位に食い込むまでには至らず、終盤J2降格の決まっていた福岡に2点リードの状態から追いつかれて引き分けると、その後の残り3戦を3連敗と、守備に課題を残し、10位でシーズンを終了。

また、9月にはGKコーチの真田雅則が死去。

開幕直後に発生した東日本大震災によるリーグ戦の中断期間中にはJリーグクラブで唯一海外での被災者支援のチャリティーマッチを行なう為オランダに渡り、アヤックス・アムステルダムと対戦した。この試合の入場料などの収益と約2週間の募金活動で合計約600万ユーロ(約7億2600万円)が集まり、オランダ赤十字を通して義援金として寄付されている[7]

2012年

ファイル:Nihondaira Stadium 20120707.jpg
クラブ創設20周年のコレオグラフィー。第17節 川崎戦にて

ゴトビ体制2年目。

補強は、大分から姜成浩、甲府から吉田豊、ROCシャルルロワ=マルシェンヌ(ベルギー)から林彰洋、FCチョルノモレツ・オデッサ(ウクライナ)からジミー・フランサが完全移籍で加入、犬飼智也河井陽介八反田康平柏瀬暁白崎凌兵李記帝が新加入した。また、ユース登録の石毛秀樹が2種登録された。一方で太田宏介がFC東京へ、ボスナー水原三星ブルーウィングスへそれぞれ完全移籍、永井雄一郎が横浜FC、木島悠大分山本真希が札幌へ、児玉新がC大阪へ、岡根直哉山形へ、竹内涼北九州へ期限付き移籍、熊本へ期限付き移籍していた長沢駿京都へ、新潟へ期限付き移籍していた武田洋平G大阪へ期限付き移籍、熊本に期限付き移籍の廣井友信の期限付き移籍期間が延長。

1月、2012アジアスーパーチャレンジカップに出場して準優勝の成績を残した。3月15日、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による21世紀のアジアクラブ・ランクで21位となった。これはJリーグのクラブの中ではG大阪、鹿島、浦和に次いで4位。

リーグ戦は第10節終了時点で2位であったが、第11節セレッソ大阪戦から第19節横浜F戦まで9戦勝利なし(4分5敗)と失速する。シーズン途中に小野伸二ウェスタン・シドニー・ワンダラーズFCアレックスアル・アインFC辻尾真二が広島、岩下敬輔がG大阪、枝村匠馬がC大阪、橘章斗松本へ移籍、ジミー・フランサ東京Vへ期限付き移籍した一方、三吉聖王金賢聖、強化指定選手として筑波大学瀬沼優司が加入した。なお、第30節終了時点で4位につけていたが、その後、1分け3敗と4戦未勝利となり最終順位は9位。

ヤマザキナビスコカップは決勝に進出したが、鹿島に1-2で敗れて準優勝に終わった。なお、石毛秀樹がニューヒーロー賞に選出。

2013年

ゴトビ体制3年目。愛媛FCから内田健太、札幌から髙原寿康高木純平カタール1部アル・アラビからバレーを完全移籍で獲得。イ・ミンス湘南)、樋口寛規(FC岐阜)、橘章斗(松本山雅)、岡根直哉(山形)、竹内涼北九州)、廣井友信(熊本)が期限付き移籍先から復帰、三浦弦太六平光成藤田息吹加賀美翔が新加入。

一方で大前元紀ドイツ・ブンデスリーガフォルトゥナ・デュッセルドルフへ、高原直泰が東京Vへ、山本海人神戸へ、碓井健平千葉へ、小林大悟MLSバンクーバー・ホワイトキャップスへ移籍し、広島へ期限付き移籍していた辻尾真二が大分へ、G大阪へ期限付き移籍していた武田洋平がC大阪へ、岩下敬輔が期限付き移籍先のG大阪へ完全移籍、姜成浩が京都へ期限付き移籍、三吉聖王、東京Vへ期限付き移籍していたジミー・フランサ金賢聖が退団、京都へ期限付き移籍していた長沢駿が松本へ期限付き移籍、C大阪へ期限付き移籍している枝村匠馬の期限付き移籍期間が延長。

シーズン中に、バレーが中国スーパーリーグ天津泰達足球倶楽部へ完全移籍、林彰洋鳥栖へ、犬飼智也が松本へ、柴原誠、樋口寛規が岐阜へ、白崎凌兵富山へ、柏瀬暁NASLニューヨーク・コスモスへ夫々期限付き移籍した一方、を退団した三浦雄也、C大阪を退団した村田和哉、鹿島から本田拓也を完全移籍で、Kリーグ水原三星からラドンチッチ、デュッセルドルフへ移籍していた大前元紀を期限付き移籍で獲得。

第1節大宮戦は2-2で引き分け、ゴトビ体制初の開幕戦での得点と勝ち点を得る。しかしその後、横浜F・マリノス戦では5-0、サンフレッチェ広島戦では4-0と大敗する。4月は初勝利となった第5節鳥栖戦を含め無敗で乗り切るものの、5月はリーグ戦2勝3敗、カップ戦2敗と苦戦。

7月のリーグ戦再開後は復調。鹿島甲府名古屋、鳥栖戦と、ホームでは4試合連続逆転勝利。

最終的にはリーグ戦は9位、昨年準優勝だったヤマザキナビスコカップはグループリーグで敗退、天皇杯は4回戦で仙台に敗戦。

2014年

ゴトビ体制4年目。

補強はFCユトレヒトから高木俊幸の弟高木善朗を、町田から相澤貴志を、MLSD.C. ユナイテッドからカナダ代表ヤコヴィッチを、1.FCケルンから昨シーズン大宮のエースであったスロベニア代表ノヴァコヴィッチを完全移籍で獲得。長沢駿樋口寛規柏瀬暁が期限付き移籍から復帰。

移籍では橘章斗が退団、髙原寿康町田へ、伊藤翔が横浜FMへ、柴原誠福島へ完全移籍、内田健太が富山へ、瀬沼優司岡根直哉イ・ミンス栃木SCへ、八反田康平仙台へ、姜成浩が東京Vへ期限付き移籍、林彰洋が期限付き移籍先の鳥栖へ完全移籍、犬飼智也白崎凌兵の期限付き移籍期間が延長、C大阪へ期限付き移籍していた枝村匠馬は名古屋へ期限付き移籍、ラドンチッチが期限付き移籍期間満了で大宮へ移籍。

2014年7月、成績不振により監督のゴトビを解任し、後任監督にユース監督の大榎克己が就任。8月9日にホーム通算200勝を達成。

成績

テンプレート:Main

開幕戦戦績

年度 対戦相手 スコア 勝敗
1993年5月16日 横浜フリューゲルス 2-3 負け
1994年3月12日 横浜フリューゲルス 1-0 勝ち
1995年3月18日 柏レイソル 3-2 Vゴール勝ち
1996年3月16日 鹿島アントラーズ 1-4 負け
1997年4月12日 柏レイソル 1-0 勝ち
1998年3月21日 コンサドーレ札幌 4-1 勝ち
1999年3月6日 ヴェルディ川崎 3-1 勝ち
2000年3月11日 セレッソ大阪 3-2 勝ち
2001年3月10日 柏レイソル 1-2 負け
2002年3月3日 ヴィッセル神戸 1-0 Vゴール勝ち
2003年3月22日 名古屋グランパスエイト 2-2 引分
2004年3月13日 サンフレッチェ広島 1-1 引分
2005年3月5日 サンフレッチェ広島 1-1 引分
2006年3月5日 ヴァンフォーレ甲府 2-0 勝ち
2007年3月3日 ヴィッセル神戸 1-0 勝ち
2008年3月8日 大分トリニータ 1-2 負け
2009年3月8日 大宮アルディージャ 0-0 引分
2010年3月6日 サンフレッチェ広島 1-1 引分
2011年3月5日 柏レイソル 0-3 負け
2012年3月10日 名古屋グランパス 0-1 負け
2013年3月2日 大宮アルディージャ 2-2 引分
2014年3月1日 名古屋グランパス 3-2 勝ち

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

個人別

Jリーグ
ヤマザキナビスコカップ
アジアカップウィナーズカップ
  • 最優秀選手 (MVP)
    • 2000年 アレックス

その他受賞

  • 功労選手賞
    • 2002年 カルロス・サントス
    • 2006年 澤登正朗
  • フェアプレー特別賞
    • 1998年
  • フェアプレー賞 高円宮杯
    • 2008年

クラブ記録

連勝記録

  • リーグ戦
    • 9試合 【1993年7月31日 NICOS第2節 対広島 - 1993年11月6日 NICOS第10節 対広島】
    • 9試合 【1994年3月26日 サントリー第5節 対V川崎 - 1994年4月30日 サントリー第13節 対平塚】

連敗記録

  • リーグ戦
    • 7試合 【1996年5月4日 第12節 対浦和 - 1996年9月7日 第18節 対V川崎】

連続無敗記録

  • リーグ戦
    • 13試合 【2009年7月4日 第16節 対京都 - 2009年10月3日 第28節 対広島】
  • リーグ戦ホーム
    • 22試合 【2008年7月20日 第18節 対新潟 - 2009年10月3日 第28節 対広島】

連続未勝利記録

  • リーグ戦
    • 9試合 【2012年5月12日 第11節 対C大阪 - 2012年7月28日 第19節 対横浜FM】

最多得点記録

  • リーグ戦
    • 6-0 【1998年9月12日 2nd第4節 対福岡】
    • 6-3 【2001年10月13日 2nd第8節 対神戸】
    • 6-3 【2010年8月1日 第16節 対湘南】
    • 6-4 【2013年10月19日 第29節 対鳥栖】

最多失点記録

  • リーグ戦
    • 1-6 【1995年6月24日 サントリー第19節 対横浜F】

連続得点記録

  • リーグ戦
    • 21試合 【2009年5月5日 第10節 対千葉 - 2009年10月25日 第30節 対FC東京】

連続失点記録

  • リーグ戦
    • 16試合 【2005年7月13日 第16節 対FC東京 - 2005年11月20日 第31節 対柏】

連続無失点記録

  • リーグ戦
    • 6試合 【1993年8月4日 NICOS第3節 対横浜M - 1993年8月28日 NICOS第8節 対V川崎】

個人記録

リーグ戦通算出場記録

※2013年4月27日現在。他チームでの出場も含む。
※現在清水に所属中、もしくは、引退時に清水に所属していた選手のみ記載。

リーグ戦シーズン最多得点

リーグ戦通算最多得点

  • 85得点 - 澤登正朗

リーグ戦無失点記録

リーグ戦記念ゴール

  • 7,500得点目 - 久保山由清 【2001年11月3日 2nd第12節 対市原】
  • 15,000得点目 - 辻尾真二 【2011年5月22日 第12節 対大宮】

ハットトリック

スタジアム・練習場

ホームスタジアムはIAIスタジアム日本平(旧名称:静岡市清水日本平運動公園球技場)[1]であり、静岡県小笠山総合運動公園スタジアム(エコパスタジアム)で不定期にホームゲームを開催する。なお、過去のホームゲーム開催スタジアムは「当項目」を参照のこと。

練習場はエスパルス三保グラウンドである[1]が、過去は静岡市清水総合運動場等も使用していた。

Jリーグカップ・ACLにおける主催試合数

[8]

ACL=2001年までは「アジアカップウィナーズカップ(ACWC)」、「アジアスーパーカップ(ASC)」。2002年以後は「AFCチャンピオンズリーグ」。
年度 ナビスコ杯 ACL 備考
1992 日本平4 不参加 (ナ杯)予選のみ
1993 日本平2
札幌厚別1
草薙陸1
1994 栃木1 (ナ杯)準々決勝のみ
1995 非開催
1996 日本平8 (ナ杯)決勝T1含む
1997 日本平3
1998 日本平3 (ナ杯)決勝T1含む
1999 日本平2 (ACWC)
日本平2
2000 草薙陸3 (ACWC)
日本平2
(ASC)
日本平1
2001 草薙陸1 不参加
2002 日本平1
草薙陸2
2003 日本平1
草薙陸1
(主催なし) (ナ杯)ACL出場につき決勝Tにシード
(ACL)中立地開催
2004 日本平3 不参加
2005 日本平4 (ナ杯)日本平=決勝T1含む
2006 日本平3
2007 日本平3
2008 日本平5 (ナ杯)日本平=決勝T2含む 
2009 アウスタ5 (ナ杯)アウスタ=決勝T2含む
2010 アウスタ5 (ナ杯)アウスタ=決勝T2含む
2011 アウスタ2
2012 アウスタ5 (ナ杯)アウスタ=決勝T2含む
2013 アイスタ3

新スタジアム構想について

IAIスタジアム日本平は2013年から発効している「Jリーグクラブライセンス制度」の「スタジアムに関する規定」を満たしていない[9]

スタジアム規定では「観客席の屋根を競技場の1/3以上覆うこと」を求めている他「トイレ(洋便座)を1000人当たり5台以上設置する」ことを求めている。[注 1]現在の日本平にはメインスタンドの中央部の一部とバックスタンド(東側一部除く)しか屋根が敷設されておらず、基準を満たしていないことが問題になっている。

そこでエスパルスは静岡市に対してライセンス規格に沿ったスタジアムの建設を働きかけるべく、2014年7月、同市長田辺信宏に対し、要望書を提出した。このスタジアム計画については2015年度からの静岡市第3次総合計画の審議に組み入れられ、2014年11月までに具体化することを目指している[10]

キャッチフレーズ

年度 スローガン
1998年 Break Through
1999年 dream stadium 1999
2000年 big mission 2000
2001年 Dynamic Soccer 2001
2002年 Orange Fantasia 2002
2003年 EXCITING FIELD 2003
2004年 HARD & ATTACK 2004
2005年 2005 かける想い
2006年 かける想い S-PULSE 2006
2007年 かける想い S-PULSE 2007
2008年 WE BELIEVE 2008
2009年 WE BELIEVE 2009
2010年 THE CONFIDENCE
2011年 Spirit Up!
2012年 「一」 One Team,One Mission.
2013年 One team,One mission.FORWARD!
2014年 One team,One mission.RISING!

国際大会出場選手

オリンピック日本代表
  • 1996年アトランタオリンピックで、清水からの選出人数3人は、横浜マリノス(当時)、ジュビロ磐田サンフレッチェ広島と並び、最多タイである。
  • 1996年アトランタオリンピックのグループリーグ初戦のブラジル戦で、伊東が決勝ゴールをあげた(マイアミの奇跡)。
  • 2000年シドニーオリンピックでは、市川大祐と戸田和幸が予備登録メンバーに残った。
  • 2008年北京オリンピックで、清水からの選出人数3人は全クラブ中で最も多い。また、本大会出場は叶わなかったが、枝村匠馬が予備登録メンバーに残り、青山直晃がバックアップメンバーとして選出。岩下敬輔平岡康裕武田洋平なども代表合宿に招集を受けた。
  • 2012年ロンドンオリンピックで、林彰洋が、オーバーエイジ枠でバックアップメンバーとして選出。
U-20W杯日本代表
  • 1999 FIFAワールドユース選手権では、市川大祐が大会直前で疾病にかかり、本登録メンバーから外れた。
  • 2005 FIFAワールドユース選手権で、山本真希が飛び級ながら最終候補まで残った。
  • AFCユース選手権2006(兼2007 FIFA U-20ワールドカップアジア予選)には、山本真希が10番を背負い出場。
U-17W杯日本代表

ユニフォーム

テンプレート:ユニフォームの色

チームカラー

ユニフォームスポンサー

掲出箇所 スポンサー名 表記 掲出年 備考
鈴与 Suzuyo 2006年 - 2003年途中-2004年まで袖
背中 江崎グリコ glico 1992年 -
日本航空 JAL 2006年 - 2010年
2013年 -
1992年-2005年は胸
2011年 - 2012年はパンツ
パンツ 矢崎総業 YAZAKI 2014年 -

ユニフォームデザイン

  • チームカラーのオレンジは、静岡県の名産であるミカンの色であることに加え、喜び・希望・若さ・前進・元気などをイメージさせることい由来[5]
  • ユニフォームのトレードマークでもあったJALの広告の下に描かれていた世界地図(中世の世界地図がモチーフ)は、2007年のプーマの世界戦略モデルユニフォーム導入にともない一時消滅したが、2012年シーズンから復活[11]。2014年シーズンからは背面にプリントされる。
  • タイトル獲得球団であるが、タイトル獲得を表す星をユニフォームに入れていない[注 2]

ユニフォームサプライの遍歴

  • 1992年 - 1996年 リーグ戦はミズノ、カップ戦はプーマ
  • 1997年 - プーマ

歴代ユニフォームスポンサー年表

年度 背中 パンツ サプライヤー
1992 JAL glico HONEN PUMA
1993 Mizuno
/PUMA
1994
1995
1996
1997 PUMA
1998
1999
2000
2001
2002 豊年
2003 豊年/Suzuyo
2004 Suzuyo
2005 star☆ THE 3RD
PLANET
2006 Suzuyo JAL
2007 CRS
2008 SAN-AI
2009
2010
2011 アウト
ソーシング!
JAL
2012
2013 JAL -
2014 YAZAKI

エスパルス栄誉賞

1999年に「エスパルス栄誉賞」を制定した。受賞者は以下の通り。

  • 1999年 スティーブ・ペリマン、長谷川健太、堀池巧
  • 2000年 カルロス・サントス
  • 2002年 大榎克己
  • 2005年 真田雅則
  • 2006年 澤登正朗
  • 2010年 伊東輝悦、市川大祐

JALによる広告掲出

テンプレート:ページ番号 日本航空(JAL)によるユニフォームの胸部分への広告掲出(ゼッケンスポンサー)は他のクラブの先駆けとなるものであったが、次のような逸話がある。

Jリーグ初年度参加の10クラブが発表されたころ、日本航空宣伝部にいた欧州サッカー通の社員が次のようなことを考えた。

「欧州サッカーでは80年代からゼッケンスポンサーが始まった。日本で始まるプロサーカーの中に清水FCというクラブがある。他の9クラブは企業クラブだから胸に親企業の社名・商品名を入れるだろう。清水はどうするのか。ひょっとしたら空いているのかもしれない。空いているんだったら買いに行けば面白いんじゃないか…」

1991年月5月、清水FC代表に了解を取り付け、クラブ側営業担当と面会した。クラブ側営業担当は当初は「売りもしないのに勝手に日本航空が買いに来た」と面食らったが、「こういう商売もあったのか」と興味を持ち、水面下で話は進んでいった。

しかし1991年9月19日、日刊スポーツ紙に「JAL 清水エスパルスを援助」と大見出しですっぱ抜かれてしまう。 直属の上司からは「どこから漏れたのかはわからないが、漏れるような話じゃダメだな。あきらめろ」 と撤退を勧告された。またこのスクープによって「ゼッケンスポンサー」という広告の魅力に気付いた大企業は各クラブとの交渉を開始。

「日本初のゼッケンスポンサー」を考えた日航の宣伝部員は「このままではアイディアを他企業に横取りされてしまう」とノイローゼになり、退社をも考えたが、清水側の営業担当の笑顔に励まされた。 実は日刊スポーツ紙のスクープ以来、清水エスパルスには日本航空以外の企業からの売り込みがあった。しかし清水側は最初にゼッケンスポンサーの話を持ちかけた日本航空とその担当者に敬意を表し、他企業からのゼッケンスポンサーの申し出を断り続けていた。

1992年2月、日航の宣伝部員は再度上司にB4判5枚にも上る企画書を提出し、カケに出る。 企画書には協賛主旨として企業利益の社会還元、継続的な露出などの他にライバル企業である全日空対策(初年度参加チームのAS横浜フリューゲルスの親会社)として

Jリーグにおける全日空のイメージ独占を阻止できる。「JAL」対「ANA」として注目を集める中、「清水FC」は「全日空FC」に勝てる可能性は非常に高いクラブ。 プロクラブ所有と比較して十分の一以下の費用。更には移籍可能性のある選手としてスーパースター三浦知良(カズ)や北澤豪の名前を勝手に盛り込んだ。

数々の障害をはねのけ、ついに努力は実を結び、1992年5月16日、清水エスパルスは日本航空とのスポンサー契約を結んだ。 JALの機内ではエスパルスの勇姿がビデオに映し出され、機内誌には毎号選手紹介の特集ページが組まれ、空港には「頑張れ!エスパルス」のポスターが貼られ、各都市の繁華街にある「JALプラザ」ではJAL・エスパルスグッズが販売されるようになった[12]

2010年1月19日にJALが会社更生法を申請し、スポンサーを継続することが困難となったが、チーム創設以来継続してスポンサードが行われてきた事に敬意を表し、それ以降はクラブ側がJALに対し無償で広告スペースを提供している。

スポンサー

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出資会社

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サポーターの特徴

応援スタイル

サポーターによる応援では多くの楽器を用いてサンバを踊るなど、応援に関してはJリーグクラブの中でもかなり特徴的な応援である。静岡県は在日ブラジル人の比率が高く[注 3]、さらにサッカー少年団の遠征などでブラジルとの交流が深かったため、ブラジルの文化であるサンバが受け入れられやすい環境にあった上、清水エスパルスの発足当時は監督・コーチ・外国人選手もブラジル人が多かったテンプレート:Refnest事もあり、エスパルスではサンバ応援が定着し、その後も継承された。なお、Jリーグの発足直後はヴェルディ川崎横浜フリューゲルスでもサンバ隊による応援が行われていたが、横浜Fのサポーター有志が中心となって作られた横浜FCを最後に他のクラブではサンバによる応援が姿を消したため、Jリーグではサンバは清水独特のものとなった。

2011年からはサンバ応援の「エスパルスサンバ隊」がブログとツイッターを開始し、試合での活動やサンバ練習の予定などを公表している。一方、全てポルトガル語で歌われるサンバとは別に、日本語の歌詞が付いた応援歌やチャントも作られている。

また、日本平で試合に勝利すると公式応援歌「王者の旗」が流されるが(下記参照)、2008年からはサポーターが応援の一種であるロコロコ(通称:勝ちロコ。原曲はブラジルのサンパウロFCのサポーター“INDEPENDENTE”が歌っている)が踊るようになり、2009年以降選手・サポーター・ORANGE WAVE・パルちゃん含めて皆で踊るようになった。

公式応援歌

「王者の旗」
  • 作詞:一般公募作品
  • 作曲:林哲司
  • 2000年8月30日制定

ホームゲームでエスパルスが勝利した試合の後、場内に流され、サポーターが合唱する。CDでは高井治が歌っている。

また、サポーターズソングとしてribbonが歌う「"S"ENSATIONAL WIND」が存在していた。

関連施設

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注釈

注釈

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出典

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関連項目

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外部リンク

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  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「jleague」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 2.0 2.1 テンプレート:Cite web
  3. 3.0 3.1 テンプレート:Cite web
  4. 新会社「エスパルス」スタート 営業権譲渡を契約 朝日新聞、1998年1月15日、2014年4月8日閲覧
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  6. 官報、2001年4月10日、2014年4月8日閲覧
  7. 清水がオランダで慈善試合 義援金は約7億円 スポーツナビ 2011.4.14
  8. フットボールガイスト
  9. 新スタジアムを検討 委員会発足へ(静岡新聞2013年4月26日付け 2014年7月11日閲覧)
  10. 清水新スタジアム建設へ市長に要望書提出(日刊スポーツ2014年7月3日 同7月11日閲覧)
  11. 清水6年ぶり「地図柄」復活 クラブW杯出場見据え - スポーツニッポン、2011.11.18
  12. 田中孝一著 清水エスパルス Jリーグへの挑戦 第5章 情熱のゼッケンスポンサー「日本航空です。胸のスポンサードに興味があります」


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