ポルトガル海上帝国
ポルトガル海上帝国(ポルトガルかいじょうていこく、ポルトガル語:Império Português)は、15世紀以来ポルトガル王国が海外各地に築いた植民地支配及び交易体制を指す。新大陸発見後はトルデシリャス条約によりスペインと世界を二分した。領域支配より交易のための海上覇権が中心であったので、このように呼ばれる(オランダ海上帝国も同様である)。それゆえ、メキシコ、ペルーにおける領域支配を中心としたスペインの場合は「海上帝国」とは言わない(スペイン帝国)。
概説
ポルトガルの海上発展の基礎を築いたのは航海王子と称されるエンリケ王子(生没年1394年 - 1460年)であった。航海術や探検に興味をもったエンリケ王子は航海学校を興して、多くの航海者を育て、大西洋上のカナリア諸島(現スペイン領)、アソーレス諸島の探検に派遣、またアフリカ西海岸の探検を着実に進めて行った。
1488年にアフリカ大陸南端に到達したポルトガルは東洋の香料貿易独占とキリスト教布教を目的としてインド洋に進出、沿岸各地に拠点を築いてムスリムと戦い、インド洋の覇権を握った。このため、エジプトのマムルーク朝などイスラム勢力から香料を仕入れて欧州での供給を独占していたヴェネツィア共和国の経済は大打撃を蒙った。ポルトガルはさらにマレー半島における香料貿易の重要な中継地であったマラッカ占領以後、東南アジアや東アジアにまで貿易網を拡大し、世界的な交易システムを築き上げた。キリスト教の布教は日本において最も成功し、当時人口2,000万程度であった日本で、約70万人の信者を獲得したとされる。
しかし17世紀に入ると、新教国オランダやイギリスも七つの海に進出を始め、ポルトガルと競合するようになる。特にオランダはスペインに対する独立戦争を展開しており、当時スペインと同じ君主を戴いていたポルトガルのガレオン船を拿捕したり、マラッカなどのポルトガル植民地を占領して行った。日本の禁教と鎖国も新教国オランダの反ポルトガル陰謀と言えなくもない。このため17世紀後半以後ポルトガルのアジア貿易は衰退したが、南米大陸ブラジルの植民に力を注ぎ、18世紀にはブラジルで金が盛んに産出されてポルトガルは再び黄金時代を迎えることになる。しかし、1703年にイギリスと結んだメシュエン条約は、結果として金の流出を招き、ポルトガル本国には、それ程、経済的な恩恵を与える事が出来なかった(非公式帝国)。
19世紀になるとブラジルの金生産も低迷し、テンプレート:仮リンク自体が独立を達成してポルトガルから離れていく。ナポレオン戦争後はイギリス帝国が世界の海に覇権を唱え、ポルトガルに残されたのは旧時代の名残りともいえるアンゴラ、モザンビークなどのアフリカ植民地とインドのゴアとディウ、マカオとティモールなどとなるが、これらの植民地も第二次世界大戦後、1960年代に独立戦争が勃発し、最終的に1974年のカーネーション革命をきっかけにしてポルトガルはこれらの植民地の独立を承認した。
主要年表
- 1415年 - 北アフリカの港セウタ占領
- 1444年 - カーボベルデ、ヴェルデ岬、ゴレ島に到達。
- 1445年 - 西アフリカのテンプレート:仮リンク(テンプレート:Lang-pt-short)に商館設立、
- 1480年 - ポルトガル人、西アフリカ内陸のマリ王国トンブクトゥに達する
- 1482年 - 西アフリカ黄金海岸に要塞建設
- 1488年 - バルトロメウ・ディアス、喜望峰を回航
- 1490年 - アンゴラ海岸部ルアンダに植民(奴隷貿易の拠点)
- 1494年 - トルデシリャス条約
- 1498年 - ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊インドのカリカットに到着
- 1500年 - インドに向かっていたペドロ・アルヴァレス・カブラル艦隊、ブラジルに漂着
- 1505年 - 東アフリカのソファラとキルワに要塞建設
- 1507年 - 東アフリカのモザンビーク島に要塞建設。オルムズ占領(en:Capture of Ormuz (1507))
- 1508年 - マムルーク朝エジプト艦隊、チャウル沖でポルトガル艦隊を破る(en:Battle of Chaul)
- 1509年 - ポルトガル艦隊、ディーウ沖でエジプト艦隊を撃破(en:Battle of Diu (1509))
- 1510年 - アフォンソ・デ・アルブケルケ、インドのゴア占領(en:Portuguese Conquest of Goa (1510))
- 1511年 - アルブケルケ、マラッカ占領(en:Capture of Malacca (1511))
- 1513年 - ポルトガル人初めて中国の広東に来航
- 1515年 - アルブケルケ、ペルシャ湾岸ホルムズ占領
- 1517年 - テンプレート:仮リンクの使節団、北京入り(後、投獄される)
- 1518年 - セイロン島のコロンボに要塞建設
- 1526年 - カリカット占領(en:Fall of Calicut (1526))
- 1531年 - Battles at Chaliyam Fort(en:Vettattnad#Battles at Chaliyam Fort)
- 1537年 - インドのディーウ[1]獲得
- 1538年 - ポルトガル艦隊、オスマン帝国艦隊をディウ沖で撃破(en:Siege of Diu)
- 1543年 - ポルトガル人日本来航(鉄砲伝来)
- 1549年 - フランシスコ・ザビエル、日本到着。
- 1549年 - 初代ブラジル総督テンプレート:仮リンクがブラジルに着任、首都サルヴァドール・ダ・バイーアを建設
- 1552年 - オスマン帝国のホルムズの戦い(en:Ottoman campaign against Hormuz)
- 1557年 - 中国南部マカオに居留権獲得
- 1571年 - 長崎に商館設立
- 1578年 - アルカセル・キビールの戦い
- 1580年 - ポルトガル本国、ハプスブルク家のスペイン王の支配下に入る
- 1599年 - ビルマ傭兵となっていたポルトガル人テンプレート:仮リンク、シリアムを支配( - 1613年)
- 1602年 - テンプレート:仮リンク( - 1663年)
- 1630年 - オランダ、ブラジル北東部占領( - 54年)
- 1639年 - 日本、ポルトガル船の来航を厳禁
- 1640年 - ポルトガル本国、スペインの支配から離脱(ポルトガル王政復古戦争)
- 1641年 - オランダ、マラッカ占領。オランダ、アンゴラ海岸部ルアンダ占領
- 1648年 - ブラジル植民地軍、ルアンダ奪回、アンゴラ内陸部へ侵攻
- 1658年 - オランダ、セイロン占領
- 1661年 - テンプレート:仮リンクでオランダがブラジル北東部とアンゴラから撤退
- 1703年 - イギリスとメシュエン条約。イギリスに経済的な従属を強いられる(非公式帝国の傘下)
- 1750年代 - ブラジルの金生産絶頂期
- 1763年 - ブラジル植民地首府がサルヴァドール・ダ・バイーアからリオデジャネイロに移転
- 1808年 - ナポレオン戦争のため、ポルトガル宮廷がリオデジャネイロ遷都
- 1815年 - ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国成立
- 1821年 - ポルトガル宮廷リスボン帰還
- 1822年 - テンプレート:仮リンク(ブラジル帝国)
- 1849年 - ポルトガル、居留地マカオの植民地化を宣言
- 1859年 - 西チモールをオランダに割譲
- 1942年 - 日本軍、チモール全島を占領( - 45年)
- 1943年 - 日本軍、中立港マカオを保護領化( - 45年)
- 1954年 - インドの民族義勇団(RSS)がダドラ・ナガルハベリを占領[2]
- 1961年 - インド軍がゴア、ダマン[3]、ディウを占領。ポルトガル領アンゴラでテンプレート:仮リンクが始まる。ダオメー軍サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダを占領[4]。
- 1962年 - ポルトガル領ギニアでテンプレート:仮リンクが始まる
- 1964年 - ポルトガル領モザンビークでモザンビーク独立戦争が始まる
- 1974年 - カーネーション革命によりファシスト政権が崩壊。新政権は植民地独立を確約する
- 1975年 - アフリカ植民地が独立(アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウ、カーボ・ヴェルデ、サントメ・プリンシペ)、ポルトガル領ティモールが独立を宣言
- 1976年 - インドネシアが東ティモール併合(東ティモール紛争化)
- 1999年 - マカオが中国に返還される
- 2002年 - ポルトガルが東ティモール独立承認(最後の植民地を公式に喪失)
関連項目
- ポルトガル語諸国共同体
- ルゾフォニア
- ポルトガル
- ブラジル
- マラッカ
- ゴア州
- マカオ
- 海洋国家
- 大航海時代
- スペイン帝国
- イギリス帝国
- フランス植民地帝国
- オランダ海上帝国
- デンマーク海上帝国
- ドイツ植民地帝国
- アメリカ大陸諸国の独立年表
- アジア・アフリカ諸国の独立年表
脚註
外部リンク
- ↑ ディウ世界飛び地領土研究会
- ↑ ダドラ&ナガルハベリー世界飛び地領土研究会
- ↑ ダマン世界飛び地領土研究会
- ↑ サン・ジョアン・バプティスタ・デ・アジュダ世界飛び地領土研究会