岩崎家
岩崎家(いわさきけ)は、三菱財閥の創業者一族。創始者・岩崎弥太郎とその弟で2代目当主の岩崎弥之助の2家系からなる。
目次
岩崎家の起源
岩崎家は、俗に三井、住友とともに三大財閥家系であるが、三井、住友が300年以上の歴史を持つ御用商人なのに対して、三菱は、岩崎弥太郎が幕末・明治の動乱期に政商として、一代で巨万の利益を得、その後に繋がる礎を築いたという違いがある。
弥太郎は天保5年、土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人(半農半士)・岩崎弥次郎とその妻・美和の長男として生まれた。地下浪人とは、郷士の株を売って居ついた浪人のことである。曽祖父弥次右衛門の代に郷士の株を売ったといわれている。弥太郎が生まれた時代には、相次ぐ飢饉と一揆の影響を受け没落していた。岩崎家は甲斐源氏武田・岩崎一族の末裔を称するが、日本古来の原住民、山祇族の流れを汲む久米氏族ないし三好の同流だったとする説がある[1]。岩崎家が土佐に移った時期は不詳だが、当地では安芸氏、長宗我部氏、次いで山内氏に仕えた。弥太郎の上には姉・はつ、下には妹・さき、弟・弥之助がいる。本名は敏(のちに寛)というが、一生を通称の弥太郎で通した。母美和の実家が医師の家だったことから、幼少の頃から学問的環境に恵まれ、土佐藩随一の学者・吉田東洋の知遇を得、その門下生である後藤象二郎らとの交際を経て、坂本龍馬率いる海援隊での経理を担当し、出世の糸口となった。
三菱グループのシンボル「スリーダイヤ」は、岩崎家の家紋である「三階菱」をバラした3つの菱型を土佐藩主山内氏の家紋丸に土佐柏「丸に土佐柏」の柏葉と置き換えたものである。
三菱財閥における岩崎家
三菱財閥の本社たる三菱社(三菱合資会社、三菱本社)の社長の地位は、弥太郎→弥之助→久弥→小弥太と、兄弟家の長子系男子が交互に就いていた(久弥の長男・彦弥太も、一旦は小弥太に代わる三菱本社社長就任が内定していた)。このように、弥太郎、弥之助の兄弟家系で世襲し、同族で発展したことから、「独裁政治」と言われる。ちなみに三井は「番頭政治」、住友は「法治主義」と言われている。岩崎家の同族主義が強かった三菱財閥に対し、有能な人材を多く配したことから三井財閥は、「人の三井」、住友家長・住友吉左衛門を財閥の象徴として、総理事を筆頭に傘下企業社長が実務を執り行った住友財閥は、「結束の住友」と言われている。
岩崎両家当主は常に実権社長としてリーダーシップを維持し、本社役員や傘下企業社長がその下に結集し、一丸となって事に当たるというのが三菱の人的な特徴で、これが「組織の三菱」といわれる所以となった。
岩崎家の親族・姻戚関係
岩崎弥太郎家
弥太郎は喜勢夫人(高芝玄馬の次女)との間に長女・春路(元内閣総理大臣・加藤高明の妻)、長男・久弥、次女・磯路の1男2女をもうけ[2]、さらに郷純造(実業家・郷誠之助の父)の四男・昌作を養子とした[3]。昌作は岩崎家の養子となると同時に豊弥と改名し[3]、後に分家した。豊弥の姉・幸子は2代目川崎八右衛門に嫁いでおり[3]、郷家を通じて三菱財閥と東京川崎財閥は姻戚関係となった。豊弥の妻・武子は旧大和国郡山藩主・柳沢保申の三女で、豊弥・武子夫妻の長女は長く昭和天皇の侍従長を務め、エッセイストとしても知られる入江相政(藤原北家の支流御子左家の流れを汲む入江為守子爵の三男)に嫁いだ[4]。入江の姉は高木正得子爵に嫁いだが[3][4]、その次女・百合子が三笠宮崇仁親王と結婚して三笠宮妃となったので[3][4]、岩崎家は入江家・高木家を通じて皇室とつながった[3][4]。郷純造の異母妹の息子に帯広市議会議長を務めた中島武市がいるが[3]、武市の孫娘がシンガーソングライターの中島みゆきなので[3]、みゆきは岩崎豊弥の従弟の孫ということになる[3]。
磯路は元京都府知事・木内重四郎との間に3男2女をもうけている。そのうち次男は経済評論家の木内信胤である[5][6]。また次女の夫は渋沢栄一の孫で、第一銀行副頭取・日本銀行総裁・大蔵大臣を歴任し、民俗学者でもあった渋沢敬三である[5][6]。なお木内重四郎・磯路夫妻の長男・良胤とその長男、すなわち重四郎の孫で岩崎弥太郎の曾孫にあたる昭胤はともに外交官で[5]、生活の党所属の元衆議院議員・木内孝胤は昭胤の次男で、岩崎弥太郎の玄孫にあたる[7]。
この他に弥太郎は6人の妾との間に6人(8人ないし9人という説もある)の子供をもうけている。庶子のうち弥太郎の四女にあたる雅子は外務大臣・内閣総理大臣・衆議院議長を歴任した幣原喜重郎と結婚した。喜重郎の兄は東洋史学者の幣原坦で[8]、坦の孫が天体力学者で文化功労者の古在由秀(群馬県立ぐんま天文台名誉台長[9]、東京大学・国立天文台・総合研究大学院大学名誉教授)である[8]。また、喜重郎・雅子夫妻の次男は野村財閥の野村元五郎(初代野村徳七の子・2代徳七の弟。財閥解体時の野村合名会社代表社員)の娘と結婚した。同じく庶子で弥太郎の三男にあたる康弥は慶應義塾医学所の初代校長を務めた医師・松山棟庵の四女・としと結婚した。地球科学者で熊本大学の教授を務めた岩崎泰頴は康弥・とし夫妻の嫡孫で、弥太郎の曾孫にあたる[7][10]。また、泰頴と同じく地球科学者で京都大学名誉教授の鎮西清高は泰頴の妹を娶っており、鎮西は康弥の孫娘、すなわち弥太郎の曾孫と結婚したといえる[10]。
岩崎久弥は寧子夫人(旧上総国飯野藩主・保科正益の長女)との間に長男・彦弥太(元三菱地所取締役)、次男・隆弥(元三菱製紙会長)、三男・恒弥(元東京海上火災保険常務)、長女・美喜(エリザベス・サンダースホームの創立者)ら3男3女をもうけた[11][12]。なお、隆弥の長女と三女は船舶工学者・元良誠三と三菱商事の社長を務めた槙原稔にそれぞれ嫁いでおり[10]、恒弥の妻は海軍中将・清河純一の長女である[13][14]。また、美喜の次男澤田久雄は歌手の安田祥子の夫、すなわち由紀さおりの義兄となる。
久弥の次女・澄子は甘露寺受長の弟・方房に[14][15]、久弥の三女・綾子は福澤諭吉の孫・堅次に嫁いでいるが[14][15]、甘露寺受長と保科正昭(正益の三男で岩崎久弥の義弟)はともに北白川宮能久親王の王女と結婚しているため、岩崎家は甘露寺家及び保科家を通じて旧皇族の北白川宮家と二重の姻戚関係にあるといえる。また福澤堅次・綾子夫妻の長男・雄吉は山武ハネウェル(現・アズビル)の社長・会長を歴任した山口利彦の長女と結婚しているが[10]、山口の妻の甥すなわち雄吉の妻の従兄に作家の藤島泰輔がいる[16][17]。
岩崎彦弥太は佐竹東家(旧出羽国秋田藩主佐竹氏の分家)当主・佐竹義準男爵の次女にあたる操子夫人との間に長男・寛弥ら1男3女をもうけた[18][19]。寛弥は元三菱銀行取締役で、2008年7月23日に78歳で没するまで小岩井農牧の親会社・東山農事の社長を務めていた。また彦弥太の三女が嫁いだ高島家は三菱鉛筆(企業自体は三菱グループとは一切の資本・人的関係がない)と縁の深い一族である近藤家(後述する近藤廉平の一族とは無関係)や数原家と繋がっている(このことについては別に1節を立てて後述)。
なお、操子の兄・佐竹義利は三菱重工業を経て東洋製作所(三菱重工業とニチレイの合弁で設立。後に三菱重工業の完全子会社となる)社長に就いたが[18]、義利の妻・厚は天文学者・平山信の三女である[20]。平山家は坪井家(学者一族)、正田家(日清製粉グループのオーナー一族)、川上家(元東京電気保全社長家)と姻戚関係にあり[21]、岩崎家 - 佐竹家 - 平山家は坪井家を通じて箕作家(日本最大の学者一族)と、川上家を通じて中曽根家(政治家一族)と、正田家を通じて皇室と繋がっているといえる。また、前述のように岩崎家は入江家及び高木家を通じて現皇族の三笠宮家と姻戚関係にある上、甘露寺家及び保科家を通じて旧皇族の北白川宮家と二重の姻戚関係にあるので、岩崎家と皇室は四重に結ばれているといえる。
また、操子の姉(義準の長女)・高子は泉高勅に嫁いだが、泉は三井十一家の一つ「伊皿子家」の7代目当主・三井高寛の次男であり、ここで、三菱と三井という二大企業集団の創業家が姻戚関係で結ばれた事になる。
また岩崎家は佐竹家を通じて岩崎豊弥の実家・郷家とも姻戚関係で結ばれている。岩崎彦弥太の義父・佐竹義準は肥前国平戸藩第12代藩主・松浦詮の四男として生まれ佐竹東家の養嗣子となったが、松浦詮の三男、すなわち佐竹義準の三兄・稲葉正縄(山城国淀藩12代目藩主・稲葉正邦の養嗣子)の三女・英子が豊弥の末弟・郷朔雄(純造の九男で朔雄の次兄・誠之助の養嗣子となる)に嫁いでいる。すなわち彦弥太の妻と豊弥の弟の妻が従姉妹同士という関係であり、岩崎家と郷家は二重の姻戚関係にあるといえる。
2014年現在の当主の岩崎透(1950年 - )は岩崎輝弥の孫、岩崎英二郎の息子、岩崎寛弥の養嗣子で、慶應義塾大学卒業後、三菱商事勤務を経てブラジル東山農場株式会社取締役社長をつとめている。
岩崎弥之助家
弥之助は早苗夫人(明治の元勲・後藤象二郎の長女)との間に長男・小弥太、次男・俊弥(旭硝子創業者)、三男・輝弥(日本における鉄道ファンのパイオニア)ら3男1女をもうけた[5][22][23]。長女・繁子は松方正義の次男で外交官の松方正作に嫁いでいる[5][24]。
弥之助の長男・小弥太は島津久光(旧薩摩国鹿児島藩(薩摩藩)藩主・島津斉彬の弟)の孫・孝子を嫁に取る[5][19][22][25]が、子宝に恵まれなかったため[19][25]、弟・俊弥の次女・淑子を養女に迎え[5][22]、さらに元外務大臣・林董の孫で三菱モンサント化成の社長を務めた忠雄を婿養子に迎えた[5][22]。また三菱自動車工業常務の岩崎寿男は俊弥家の婿養子である[22]。キャピタリストの岩崎俊男は寿男の長男で、俊弥の孫にあたる。
弥之助の三男・輝弥は櫻井房記(造船学者・櫻井省三、化学者・櫻井錠二の長兄)の次女・須美と結婚しており[22]、輝弥・須美夫妻の次男・英二郎(ドイツ語学者、慶應義塾大学名誉教授)は北原白秋の長女と結婚している。また、輝弥・須美夫妻の長女・妙子は第13代岸和田藩主・岡部長職の八男で侍従を務めた岡部長章に嫁いでいるが[24][26]、長章の長兄・長景(長職の長男)は加藤高明・春路夫妻の長女と結婚しているため[24][26]、岸和田藩主家の岡部家は岩崎弥太郎家・岩崎弥之助家の双方と姻戚関係にあるといえる[24][26]。
吉村家・藤岡家・豊川家
岩崎弥太郎の2人の姉妹の嫁ぎ先及び従弟の豊川良平(父は弥太郎の母・美和の兄)の家も三菱開業当時は、一門として同じ家計をなしていた。その後、それぞれ別家として独立していったが、三菱系企業の要職を占める者を輩出していった。吉村家は弥太郎の姉・はつが嫁いだ家、藤岡家は弥太郎の妹・さきが嫁いだ家である[5][27][28]。さきとその夫・藤岡正敏の間には3人の娘があり[5][27][28]、それぞれ荘田平五郎(福澤諭吉の愛弟子、麒麟麦酒を創業、三菱の最高経営者)[27][28][29]、志村源太郎(元日本勧業銀行総裁、貴族院議員)[5][27][28]、各務鎌吉(元東京海上会長、三菱・財界の重鎮、貴族院議員)に嫁いだ[27][28][29]。また、豊川家は岩崎弥太郎・弥之助兄弟の従弟・豊川良平(財界の重鎮、元三菱銀行頭取、貴族院議員)の家であり、創業より三菱を助けた。良平の妹・従子は近藤廉平(元日本郵船社長、男爵)に嫁いだが、近藤廉平・従子夫妻の長女・栄は大久保利通の子大久保利武侯爵の妻、三女・貴子は上杉憲章伯爵(旧米沢藩14代当主)の後妻、次男・廉治は樺山愛輔の長女・泰子と結婚した。樺山愛輔の次女・正子は終戦連絡中央事務局次長や貿易庁長官などを歴任した白洲次郎に嫁いだため、岩崎家は豊川家・近藤家(岩崎彦弥太の三女の夫の祖父である近藤賢二の一族とは無関係)・樺山家を通じて白洲家とも縁続きとなった。また良平の長男は初の国産車を開発した豊川順弥であり、次男・二郎は兄・順彌の事業を手伝い、三男・良幸は各務幸一郎(各務鎌吉の兄、実業家)の養子となりアルプス登山世界初ルート(現カガミルート)を開拓し、五男・斎は斎藤実(元海軍大将、内閣総理大臣、子爵)の養子となった。
岩崎家と三菱鉛筆関係者との間の親族・姻戚関係
岩崎家は大名家・公家・政財界の名門家系などと姻戚関係を結んできた。高島家・近藤家・増岡家・数原家との間の親族・姻戚関係については三菱グループと三菱鉛筆の混同を生む原因の1つになっている。
岩崎彦弥太の三女・美智子は日本カーボンや東洋麻糸紡績(トスコの前身)、眞崎大和鉛筆(三菱鉛筆の前身)等の社長を務めた近藤賢二の孫にあたる高島孝之と結婚した[15][30]。その姪・美砂子(高島孝之の兄・信之の次女)は鉄鋼ビルディング取締役・増岡隆一(元増岡組社長・増岡重昂の長男)と結婚したが、増岡隆一の従姉・真理子(政治家・増岡博之の次女)が三菱鉛筆社長・数原英一郎に嫁いでいる。
旧三菱財閥の流れを汲む企業集団・三菱グループと三菱鉛筆は三菱の文字も使用する上、ロゴマークも同じであるものの、一切の資本・人的関係がないが、岩崎家は高島家を通じて元三菱鉛筆社長家である近藤家と、さらに高島家と姻戚関係にある増岡家を通じて現在三菱鉛筆のオーナーとなっている数原家と姻戚関係で繋がることになった。この岩崎家 - 高島家 - 近藤家と岩崎家 - 高島家 - 増岡家 - 数原家という2つの姻戚関係の存在が三菱グループと三菱鉛筆の混同を生んでいる理由の1つになっている。
財閥解体と岩崎家
1947年3月14日、内閣総理大臣は持株会社整理委員会の上申に基づき、岩崎家の11名をいわゆる「財閥家族」に指定した。対象は弥太郎家からは久弥、彦弥太、隆弥、恒弥、康弥、勝太郎(豊弥の長男)、弥之助家からは孝(小弥太の妻)、輝弥、八穂(俊弥の妻)、忠雄、淑子(俊弥の次女で小弥太の養女、忠雄の妻)である。
持株会社整理委員会の集計では、指定時点で11人が保有する有価証券の総額は1億7730万7000円に達し、彦弥太、隆弥、恒弥の3兄弟は傘下企業など8社から12社の役員に就任していた。
岩崎家とブラジル
三菱グループの事業ではなく、岩崎家固有の事業として1927年にブラジルサンパウロ州カンピーナス市郊外に岩崎久弥が3,700haの土地を購入、東山農場(ポルトガル語ではFazenda Monte D’este)が創設された。「東山(とうざん)」は岩崎弥太郎の雅名である。
この東山農場は今でも岩崎家が運営、コーヒーの栽培や「東麒麟」と呼ばれる日本酒の製造を手がけている。2008年に日本ブラジル移民を描いたNHK放送80周年記念ドラマ 『ハルとナツ 届かなかった手紙』の撮影現場でもあり、その施設は今は観光の一環として保存されている。
参考文献
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年9月10日初刷発行 56-63頁
- 佐藤朝泰 『閨閥 日本のニュー・エスタブリッシュメント』 立風書房 1981年10月30日第1刷発行
- 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房 1987年4月10日第1刷発行 ISBN 4-651-70032-2
- 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』 日本図書センター 1987年10月5日 ISBN 4-8205-0693-5。
- 『昭和人名辞典II 第1巻 東京編』 日本図書センター 1989年2月5日 ISBN 4-8205-2036-9。
- 神一行 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 講談社(講談社文庫) 1993年10月第1刷発行 ISBN 4-06-185562X
- 小谷野敦 『日本の有名一族 近代エスタブリッシュメントの系図集』幻冬舎〈幻冬舎新書〉 2007年9月30日第1刷発行、ISBN 978-4-3449-8055-6
- 「『龍馬伝最終回でNHKvs三菱の遺恨再燃ぜよ!』」 『週刊ポスト』2010年12月17日号 小学館 134-135頁
- 石井妙子 「現代の家系 第5回 中島みゆき 哀しき父への鎮魂歌」 『文藝春秋』2011年10月号 文藝春秋 386-402頁
脚註
関連項目
- 旧岩崎邸庭園 - 旧岩崎家茅町本邸
- 殿ヶ谷戸庭園 - 旧岩崎家別邸
- 清澄庭園 - 岩崎家深川別邸跡
- 六義園 - 岩崎家駒込別邸跡
- 国際文化会館 - 岩崎家鳥居坂別邸跡
- 開東閣 - 旧岩崎弥之助家高輪本邸・非公開
外部リンク
- 三菱財閥の初代から4代目の当主の伝記。
- 「岩崎家 歴代社長」に岩崎家の系図が載っている(ただし、初代から4代目の当主しか載っていない)。
- 岩崎弥之助の次男で旭硝子の創業者・岩崎俊弥のページ。
- ↑ 久米氏一族と伊予国
- ↑ 岩崎家傳記刊行会 編纂 『岩崎久彌傳』 152頁 東京大学出版会 1961年12月2日発行
- ↑ 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 3.6 3.7 3.8 『文藝春秋』2011年10月号掲載「中島みゆき 哀しき父への鎮魂歌」、389頁、392頁。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 早川 『日本の上流社会と閨閥』 56-57頁、62頁。
- ↑ 5.00 5.01 5.02 5.03 5.04 5.05 5.06 5.07 5.08 5.09 5.10 早川 『日本の上流社会と閨閥』 56-57頁。
- ↑ 6.0 6.1 小谷野 『日本の有名一族』 32頁、34-35頁。
- ↑ 7.0 7.1 『週刊ポスト』2010年12月17日号掲載「『龍馬伝最終回でNHKvs三菱の遺恨再燃ぜよ!』」
- ↑ 8.0 8.1 新・未知への群像 古在由秀氏 1
- ↑ 職員名簿 - 古在 由秀
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 佐藤 『門閥』 262-263頁。
- ↑ 佐藤 『門閥』 270-273頁。
- ↑ 神 『閨閥』 400頁、402-403頁。
- ↑ 佐藤 『門閥』 262-263頁、272-273頁。
- ↑ 14.0 14.1 14.2 神 『閨閥』 403頁。
- ↑ 15.0 15.1 15.2 佐藤 『門閥』 262-263頁、273頁。
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- ↑ 『昭和人名辞典II 第1巻 東京編』、870頁。
- ↑ 18.0 18.1 佐藤 『門閥』 262-263頁、272頁。
- ↑ 19.0 19.1 19.2 神 『閨閥』 402頁。
- ↑ 佐藤 『閨閥』 312-313頁、317頁。
- ↑ 『昭和人名辞典 第1巻 東京編』、831-832頁。
- ↑ 22.0 22.1 22.2 22.3 22.4 22.5 佐藤 『門閥』 264-265頁。
- ↑ 神 『閨閥』 401頁。
- ↑ 24.0 24.1 24.2 24.3 佐藤 『門閥』 264-265頁、276頁。
- ↑ 25.0 25.1 佐藤 『門閥』 264-265頁、275頁。
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- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 佐藤 『門閥』 262-263頁、269頁。
- ↑ 28.0 28.1 28.2 28.3 28.4 神 『閨閥』 399-400頁。
- ↑ 29.0 29.1 早川 『日本の上流社会と閨閥』 56-57頁、60頁。
- ↑ 佐藤 『閨閥』 304-305頁。