岩崎忠雄
岩崎 忠雄(いわさき ただお、1909年1月8日 - 1990年3月30日)は、日本の実業家で、三菱モンサント化成(現・三菱樹脂)の元社長。
人物
林董の孫として東京府(現・東京都)に生まれ[1][2][3]、岩崎小弥太の婿養子となった[4][5]。淑子夫人は岩崎俊弥の次女で小弥太の養女[4][5]。俊弥は小弥太の弟なので淑子は伯父の養女になり忠雄を婿養子として迎えたことになる[4][5]。なお順天堂大学の基礎を作った医師・佐藤泰然は忠雄の曾祖父にあたる[6]。忠雄の祖父・林董は泰然の五男で林洞海の養子となったが[6]、泰然の長女・つる(董の姉にあたる)が林洞海の妻なので、董は義兄の養子となったといえる。また泰然の次女・きは(林董の姉)は三沢精確に嫁いだが、精確・きは夫妻の三女・もとが啓蒙思想家・箕作麟祥に嫁いでいる。麟祥・もと夫妻の三女・操子(岩崎忠雄の又従姉にあたる)は物理学者・長岡半太郎に嫁いだが、半太郎・操子夫妻の次男が三菱グループの光学機器メーカー・ニコンの社長を務めた長岡正男である。三菱財閥の創業者一族・岩崎家は佐藤家・三沢家・箕作家を通じて学者一族でありながら三菱系企業の経営者を輩出した長岡家と姻戚関係で繋がることになった。
慶應義塾大学卒業後オックスフォード大学に留学し、帰国後は実業界で活動し、三菱モンサント化成の社長に就任した。財閥解体後岩崎家の人物が三菱系企業の役員になるケースは他にもあったが、社長に就任したのは忠雄ただ1人であり、「岩崎家の人物で唯一戦後に三菱系企業の社長に就任した人物」ということで話題になった。
忠雄・淑子夫妻は2女をもうけたが男子に恵まれなかったので[4][7][8]、長女に婿養子を迎えた[4][7][8]。忠雄の婿養子は慶應義塾大学経済学部卒業後麒麟麦酒に入社し[7][8]、忠雄の死後岩崎弥之助家の当主となった人物である[4][7][8]。なおその婿養子の兄は三菱自動車工業の社長を務めた舘豊夫の姪と結婚した。
参考文献
- 早川隆 『日本の上流社会と閨閥』 角川書店 1983年 56-63頁
- 佐藤朝泰 『門閥 旧華族階層の復権』 立風書房 1987年4月10日第1刷発行 ISBN 4-651-70032-2
- 神一行 『閨閥 - 新特権階級の系譜』 講談社(講談社文庫) 1993年10月第1刷発行 ISBN 4-06-185562X