元勲

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元勲(げんくん)は、明治維新に功績があり、以降の政治に重きを為した政治家たちのこと。

概要

明治維新を実現し、明治政府の樹立・安定に寄与した一群のカリスマ的な人物たちが「元勲」と呼ばれた。

維新政府において朝令暮改を一掃し廃藩置県を断行するため木戸孝允西郷隆盛をトップとする参議内閣制が確立された1871年(明治4年)6月25日以降、公家出身の三条実美太政大臣岩倉具視右大臣に任ぜられ、薩長土肥出身士族の主だった者たちは実質的な最終決定責任者としての参議職に任じられるようになった。木戸・西郷の合意により、まず土佐板垣退助肥前大隈重信が木戸・西郷の参議内閣に加えられた。

明治六年政変後、大久保利通主導で、参議内閣の「参議」が各省の官僚の長である「」をも兼任することが定着し始める。

明治8年(1875年)の大阪会議後の土佐の板垣退助の再度の下野、明治十四年の政変による肥前の大隈重信の下野により、明治政府は薩長土肥主体の政府から薩長主体の「薩長政府」へと移行していく。

西南戦争後、明治政府が安定し始め、明治16年(1883年)、薩長土肥あるいは薩長の上で元締め的な役割を果たしていた公家出身の岩倉具視が逝去すると、太政官制に基づく参議内閣制は、1885(明治18)年、内閣総理大臣を首班とする内閣制度に置き換わる。実質的な最終決定責任者としての「参議」が同じく実質的な最終決定責任者としての「大臣」に置き換わったものの、「内閣」の誰が「首班」であるかだけは制度上も明確化されるようになった(つまり、この当時の内閣総理大臣は「首班」「筆頭」の大臣を意味するに過ぎず、昭和戦後の内閣総理大臣とは異なって他の大臣を罷免できるような絶対的優越権を少なくとも法的には全く持っていない。持つわけにもいかなかった。あくまで対等な関係での集団指導体制のリーダーという立場であった)。なお、この時、もう一人の公家出身の元締め的な存在であった三条実美は内大臣という役職に棚上げされることになる。

第1次伊藤博文内閣出身閣僚は、元勲のなかでも後に元老となる中核的メンバーであった。

第1次伊藤内閣よりもバランスよく元勲が揃った第2次伊藤博文内閣は「元勲内閣」と呼ばれた。

元勲の資格は、維新における功績が前提とされたため、以後の世代に継承されることはなかった。そのため、時代が下るに従い、元勲であること自体が希少価値を持つこととなり、元勲という言葉が彼らの歴史的・社会的な重要性を示す用語として新聞、書籍などで殊更に用いられるようになった。明治年間にあっては「維新の元勲」であり、大正年間に入り「明治維新の元勲」と呼ばれるようになる。戦後に至り「明治の元勲」なる用例が出てくる[1]

なお、「元勲」の語は普通名詞としても用いられ、他国の革命クーデターや独立運動で成立した政治体制の主要メンバーを指して使われることもある[2]

明治日本の元勲

※ 各出身内での順番は生年順

公家出身

薩摩出身

長州出身

土佐出身

肥前出身

肥後出身

紀州出身

幕府出身


脚注

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関連項目

参考文献

  • 「明治の元勲」の確認できる初出は、朝日新聞東京本社版1973(昭和48)年10月29日2面「時の流れか雨も響き閑散 ワンマンしのぶ会」で、「明治の元勲らを祭った「七賢堂」の例祭が二十八日、神奈川県大磯の故吉田茂氏邸で行なわれた。表向きは三条実美、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文西園寺公望の六人に、戦後の吉田元首相を加えた「七賢」をしのぶ会だが、実際は佐藤前首相による「吉田学校」の同窓会。」とある。
  • 例示すれば、読売新聞1920年(大正9年)8月11日5面「独逸のヴ元帥逝く 独逸陸軍界の元勲である」、同1924年(大正13年)6月19日3面「ムソリニ首相 元勲内閣を推薦 首相は平大臣となる 拉致事件意外に展開」などがある。
  • 読売新聞1926年(大正15年)4月22日「生ける国宝!! 唯一人現存する明治維新の大元勲」。