江藤新平

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江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日1834年3月18日) - 明治7年(1874年4月13日)は日本の武士佐賀藩士)、政治家。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、胤風とも、は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら の たねお)。維新の十傑の1人。

生涯

出生

肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)に佐賀藩士の江藤胤光と妻・浅子の間に長男として生まれる。江藤家は肥前小城郡晴気保の地頭千葉常胤の末裔を称する。父は「手明鑓」という身分の下級武士であったとされる。嘉永元年(1848年)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分となったため生活は困窮し外生課程に進学せずに弘道館教授で儒学国学者であった枝吉神陽の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。このころ新平は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたという。嘉永3年(1850年)に枝吉神陽が義祭同盟を結成すると、大隈重信副島種臣大木喬任島義勇らとともに参加した。

江戸時代後期の外国船の日本近海への出没やアメリカペリー艦隊やロシアプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、安政3年(1856年)には意見書である『図海策』を執筆する。安政4年(1857年)に結婚。藩の洋式砲術貿易関係の役職を務める。

志士活動

文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家姉小路公知らと接触する。2ヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では鍋島直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。

15代将軍・徳川慶喜大政奉還を行って幕府が消滅した慶応3年(1867年)の12月に新平は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。薩摩藩と長州藩は公家の岩倉具視と結び、慶応3年12月9日(1868年1月3日)王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し新平は副島種臣とともに京都に派遣される。

戊辰戦争で江藤は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸開城が決定するや、江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言する。旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い彰義隊勢を寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。明治2年(1869年)には、維新の功により賞典禄100石を賜っている。

明治新政府の官吏として

戊辰戦争が一段落した後、新政府が設置した江戸鎮台においては長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。7月には江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される。明治3年(1870年)1月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが後に中央に呼び戻され、同年11月に太政官中弁となる。12月、虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。明治4年(1871年)2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して30項目の答申書を提出する。近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め・四民平等警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であり「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。また官吏の汚職に厳しく新政府で大きな力を持っていた長州閥山縣有朋が関わったとされる山城屋事件井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で欧米的な三権分立の導入を進める江藤に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持つ政府内の保守派からは激しく非難された。また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省井上馨との確執を招いた。

下野から佐賀の乱まで

明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変で西郷隆盛・板垣退助後藤象二郎・副島種臣と共に10月24日に下野。明治7年(1874年1月10日に愛国公党を結成し1月12日民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。

大隈・板垣・後藤らは江藤が帰郷することは大久保利通の術策に嵌るものであることを看破し慰留の説得を試みる。しかし江藤はこれには全く耳を貸さず1月13日に船便で九州へ向かう。江藤は直ぐには佐賀へ入らず2月2日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見ることになる。この一方、大久保は江藤の離京の知らせを知った1月13日には佐賀討伐のための総帥として宮中に参内し、2月5日には佐賀に対する追討令を受けている。

2月11日、江藤は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い2月12日、佐賀征韓党首領として擁立された。そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し士族反乱である佐賀の乱が勃発する。佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着すると、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。しかし、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に佐賀軍は敗走する。

江藤は征韓党を解散して逃亡し、3月1日鹿児島鰻温泉福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。続いて3月25日、高知の林有造片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年(1872年)に確立したもので、皮肉にも制定者の江藤本人が被適用者第1号となった。

裁判とその最期

テンプレート:Hidden 4月8日、江藤は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれることとなった。4月13日に河野により、除族の上梟首の刑を申し渡され[1]、その日の夕方、嘉瀬刑場において処刑された。

判決を受けたとき「裁判長、私は」と言って反論しようとして立ち上がろうとしたが、それを止めようとした刑吏に縄を引かれ転んだため、この姿に対して「気が動転し腰を抜かした」と悪意ある解釈を受けた[2]。その後、江藤の首は嘉瀬川から4km離れた千人塚で梟首された。

辞世は「ますらおの 涙を袖にしぼりつつ 迷う心はただ君がため」。明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。大正5年(1916年)4月11日、贈正四位。墓所は佐賀県佐賀市本行寺墓碑銘書家としても知られる副島種臣が手がけた。同市の神野公園には銅像もある。

家族

逸話

  • 江藤は藩校の弘道館に入学した頃、髪の毛はぼさぼさでぼろぼろの服を着ていた。女中がひやかそうとすると高い声で書物を読み上げ、驚かせたという。
  • 明治政府に仕えていた頃、40人ほどの書生の面倒を見ていたといわれ、そのため、死後に借金が残った。
  • 江藤が出した意見書は非常に画期的で民主的である。その代表として「国の富強の元は国民の安堵にあり」という意見書の一文がある。他方、外交については積極的な対外進出を主張しており、明治4年(1871年)3月に岩倉具視に提出した意見書には清をロシアとともに攻めて占領し、機会を見つけてロシアを駆逐し、都をそこに移すといった内容のことが書かれている。
  • 江藤が処刑された後、佐賀では「江藤新平さんの墓に参拝すると百災ことごとく去る。」といわれ、参拝客が多かった。そのため、県庁が柵を設けて参拝を禁止した。従って、夜間に参拝する者がいたという。

資料・関連文献

伝記研究
小説
ドラマ

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 礼遇の慣習により武士に対しては梟首にすることは出来なかったため、まず士族の地位を剥奪する必要があった。
  2. 大久保利通は日記(4月13日付)において、江藤について「今朝江藤、島(義勇)以下十二人断刑につき罰文申し聞かせを聞く。江藤醜態笑止なり。朝倉、香月、山中らは賊中の男子と見えたり」と記している。