レアル・マドリード
テンプレート:サッカークラブ レアル・マドリード・クルブ・デ・フトボル(テンプレート:Lang-es-short)は、スペインの首都 マドリードに本拠地を置くサッカークラブチーム。
目次
概要
1902年に創設。現在のホームスタジアムはエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ。現在はリーガ・エスパニョーラのプリメーラ・ディビシオンに所属し、同リーグにおいて32回の最多優勝記録を持つほか、FCバルセロナとアスレティック・ビルバオと共にリーガ・エスパニョーラの創立以来、一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがない世界を代表する名門クラブである。さらに、UEFAチャンピオンズカップおよびUEFAチャンピオンズリーグにおいても合計10回の最多優勝記録を持つ。FIFAには20世紀最高のクラブに[1]、国際サッカー歴史統計連盟からはヨーロッパにおける20世紀最高のクラブに認められた[2]。2014年には、世界有数の経済誌『フォーブス』によるスポーツチームの資産価値の格付けにおいて34億4000万ドルと算出されており、世界一の資産価値のクラブとなっている[3]。
スペインサッカー連盟は1909年に創設されたものであり、同チーム創設当初のスペインにはサッカーを統括する団体が存在しなかった。また、同チームが唯一のサッカー団体であったため、スペインを代表してFIFAの創設メンバーに名を連ねた。
同じスペイン3大名門クラブに並び称されるFCバルセロナとアトレティコ・マドリードの両クラブとはライバル関係にある。FCバルセロナとの対戦はエル・クラシコ (El Clásico) と呼ばれ、100年以上に渡り因縁の対決を続けている。同じマドリードを本拠地とするアトレティコ・マドリードとの対戦はマドリードダービー (El Derbi Madrileño) と呼ばれる[注 1]。首都マドリードに本拠地を置いているレアル・マドリードは、歴史的な背景からカタルーニャやバスクなどの地域のクラブから強い対抗心を抱かれている[4]。
また、サッカーのクラブチームのほか、バスケットボールのクラブチームも持つ総合スポーツクラブである。スペインバスケットボールリーグ1部ACBのレアル・マドリード・バロンセストがそれであり、優勝回数1位を誇る屈指の名門クラブである。
下部組織
Bチームであるレアル・マドリード・カスティージャを始めとするユースチームも運営しており、これまで国内外で活躍する多くの選手を輩出している。カスティージャは、1980年にコパ・デル・レイ決勝に進出してレアル・マドリードのトップチームと決勝戦を戦い、下部組織出身者をチームの中心に据えた1980年代はリーガ・エスパニョーラ5連覇を果たした。
しかし、レアル・マドリードは他のクラブから有名選手を獲得することが多く[5]、2000年にフロレンティーノ・ペレスが会長に就任して以降はその傾向が特に顕著となったため、トップチームに定着する下部組織出身者は非常に少ない。元カスティージャ出身の選手であり、下部組織の総責任者を務めていたミチェルは、2008年にクラブのカンテラ軽視を理由に職を辞している[6]。
経営について
デロイト・フットボール・マネー・リーグによれば世界一収入のあるフットボールクラブであり[7]、経営収入は1999年から2011年まで毎年平均14%ずつ増加している。その内訳はスタジアム収入、テレビ収入、マーケティング収入の3つがほぼ均等となっている[8]。クラブブランドや潤沢な資金力を活かして、これまで多くの大物選手の獲得に成功している。
特筆すべきものとして、レアル・マドリードはいち早くプレシーズンのワールドツアーを採用し、PRも兼ねて大きな資金を得た。また、多くの場合選手に対して肖像権の半分をクラブ側が持つという契約を提示するため[9][10]、ユニフォームなどのグッズ売り上げ以外にも所属選手による収入がある。リーガ・エスパニョーラの放映権収入に関しては、現在レアル・マドリードとFCバルセロナの2クラブで約半分を独占する形になっており、経済格差やそれを背景としたリーグの2強化も相まってこの分配システムには不満の声が多く上がっている[11]。
イギリスメディアが2012年に公表した調査によると、レアル・マドリードの平均年俸は約779万ドルであり、FCバルセロナに次いで、世界で2番目に平均年俸が高いクラブであることが判明した。これはアメリカのスポーツチームで最も平均年俸が高いロサンゼルス・レイカーズやニューヨーク・ヤンキースよりも高い給与水準である[12]。
呼称
当クラブの日本語公式ウェブサイトでは、「レアル・マドリードC.F.」および「レアル・マドリード」を用いている[13]。しかし、Real Madrid Club de Fútbol を一般的なスペイン語では「レアル・マドリー・クルブ・デ・フッボル」と発音することや、欧州サッカー連盟 (UEFA) の日本語公式ウェブサイトで「レアル・マドリーCF」および「レアル・マドリー」を使用している[14]ため、「レアル・マドリー」を用いるマスメディアもある[注 2]。その他、英語風に「レアル・マドリッド」と表記するマスメディアもあり[15]、日本語表記は統一されていない。なお、当クラブが所在するマドリード首都圏では「レアル・マドリース」と発音する(→マドリード#名称参照)。Real は「王の」「王立の」という意味で、英語のroyalにあたる。
愛称・略称は、チームカラーの白をとってエル・ブランコ(El Blanco)やメレンゲ(Merengue)。その他にも、年代ごとにそれぞれ特殊な愛称も存在する。アルフレッド・ディ・ステファノらスタープレイヤーを擁してUEFAチャンピオンズカップ5連覇を成し遂げた1950年代後半は一般的にエポカ・ドラダ(Epoca Dorada, 黄金時代)と表現され[16]、8度のリーガ・エスパニョーラ優勝を成し遂げた1960年代はビートルズの楽曲、シー・ラヴズ・ユーの歌詞より[17]イエイエ・マドリード(Yé-yé Madrid)[注 3]、リーグ5連覇を成し遂げた1980年代後半のチームは、エミリオ・ブトラゲーニョの愛称である「エル・ブイトレ(El Buitre)」からキンタ・デル・ブイトレ(Quinta del Buitre, ハゲワシ部隊)と呼ばれた。2000年代前半の第一次ペレス会長時代は、在籍している選手の豪華さからロス・ガラクティコス(Los Galácticos)とも呼ばれていた。日本のメディアではレアル、「エル・ブランコ」を意訳した「白い巨人」、「ロス・ガラクティコス」を訳した「銀河系軍団」や「スーパースター軍団」という呼び名も用いられる。 スペインのマスコミ表記では定冠詞をつけて「El Madrid」(エル・マドリード)が多く使われる。
クラブの歴史
創成期
1895年、オックスフォード大学やケンブリッジ大学の卒業生がマドリードにフットボール・スカイ(Football Sky)というクラブを設立。1900年に分裂し、ニュー・フットボール・クラブ(New Foot-Ball de Madrid)とフリアン・パラシオス会長のエスパニョール・デ・マドリード(Club Español de Madrid)という2クラブが新たに生まれた。そして、1902年にフアン・パドロスが会長となり、レアル・マドリードの前身のクラブであるマドリード・フットボールクラブ(Madrid Foot-Ball Club)が誕生した。
1905年には初のタイトルであるコパ・デル・レイ優勝を達成[注 4]。1912年にはクラブ史上初のホームスタジアムであるオドネル・スタジアムが建設されたほか、サンティアゴ・ベルナベウが選手としてデビューした。1920年、アルフォンソ13世によってクラブ名がレアル・マドリードとなり、クラブのエンブレムにもブルボン家を象徴する王冠が加えられた[18]。「レアル」の名を授けられたことによりクラブ会員が急増したため、オドネル・スタジアムよりも大きなスタジアムを建設[19]。1924年に、エスタディオ・チャマルティンが完成する。1929年からリーガ・エスパニョーラが開幕し、初シーズンとなった1929-30シーズンは2位に終わった。
1930年代にはリカルド・サモラ、ジョゼップ・サミティエール、ジャシント・キンコセス、シリアコ・エラスティらを獲得。1931-32シーズンはシーズン無敗を記録して初のリーガ・エスパニョーラ優勝、1932-33シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たした。しかし、1936年にスペイン内戦が起こり、1939年までリーガ・エスパニョーラは中断を余儀なくされた。また、1931年にアルフォンソ13世が国外に亡命したことによって、その後10年強の間エンブレムの王冠と共に「レアル」の名を外された。
サンティアゴ・ベルナベウ会長時代
UEFAチャンピオンズカップ 1959-60 決勝のスターティングメンバー |
1943年にサンティアゴ・ベルナベウが会長に就任。1944年には、スペイン内戦の影響で廃墟と化した[20]エスタディオ・チャマルティンに代わるスタジアムであるヌエボ・エスタディオ・チャマルティンを起工した[注 5]。1953年にはアルフレッド・ディ・ステファノを獲得し、アトレティコ・マドリード、FCバルセロナ、アスレティック・ビルバオの3強だった当時のスペインサッカーの勢力図を塗り替えた[21]。1953-54シーズンと1954-55シーズンにかけてリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。その後、リーガ・エスパニョーラを1956-57シーズンと1957-58シーズンにかけて2連覇、さらに1955-56シーズンから始まったUEFAチャンピオンズカップにおいて1955-56シーズンから1959-60シーズンまで5連覇を達成した。
1960-61シーズンはリーガ・エスパニョーラ、また同シーズンから始まったインターコンチネンタルカップにて優勝を達成した。その後、1964-65シーズンまでリーガ・エスパニョーラ5連覇、1965-66シーズンはUEFAチャンピオンズカップ優勝を果たし、さらに1966-67シーズンから1968-69シーズンまでリーガ・エスパニョーラ3連覇を記録したうえ、1961-62シーズンと1969-70シーズンはコパ・デル・レイ優勝を果たした。フランシスコ・ヘントがキャプテンを務め、これらの実績を残した当時のチームはイエイエ・マドリードと称された。
1971年にはサンティリャーナらを獲得し、1971-72シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たす。ギュンター・ネッツァーが加わり、カスティージャCFからホセ・アントニオ・カマーチョを昇格させた1973-74シーズンはコパ・デル・レイ優勝を果たすも、リーガ・エスパニョーラでの成績不振から13年6ヵ月にわたって監督を務めたミゲル・ムニョスは解任された。パウル・ブライトナーを獲得した1974-75シーズンはリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイにて優勝を達成し、1975-76シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。フアニートやウリ・シュティーリケが加わった1977-78シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を達成した。なお、1978年6月2日にベルナベウは死去した。
ルイス・デ・カルロス会長時代
1978年、ルイス・デ・カルロスが会長に就任。1978-79シーズンはリーガ・エスパニョーラ2連覇を達成。1979-80シーズンはリーガ・エスパニョーラ3連覇、コパ・デル・レイ優勝を達成した。1981-82シーズンはチェンドをレアル・マドリード・カスティージャから昇格させ、コパ・デル・レイ優勝を達成。1983-84シーズンはマヌエル・サンチス・オンティジュエロをレアル・マドリード・カスティージャから昇格させた。1984-85シーズンはUEFAカップ優勝を達成した。
ラモン・メンドーサ会長時代
1985年、ラモン・メンドーサが会長に就任。エミリオ・ブトラゲーニョ、ミチェルらをレアル・マドリード・カスティージャから昇格させ、1985年夏の移籍市場ではウーゴ・サンチェスらを獲得。1985-86シーズンはリーガ・エスパニョーラの優勝とUEFAカップ2連覇を達成し、1988-89シーズンはリーガ・エスパニョーラとコパ・デル・レイ、スーペルコパ・デ・エスパーニャにて優勝を達成。1989年夏の移籍市場ではフェルナンド・イエロらを獲得し、1989-90シーズンはクラブ史上3度目となるリーガ・エスパニョーラ5連覇、さらに1990-91シーズンにはスーペルコパ・デ・エスパーニャ3連覇を達成した。これらの実績を残した当時のチームはキンタ・デル・ブイトレと称された。
1992-93シーズンはコパ・デル・レイにて、1993-94シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャにてそれぞれ優勝を達成。1994年夏の移籍市場ではフェルナンド・レドンド、ミカエル・ラウドルップらを獲得したほか、レアル・マドリード・カスティージャからラウル・ゴンサレスを昇格させ、1994-95シーズンはリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。しかし、1992年からエスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウの改修を行い、この改修費用などでレアル・マドリードは多額の負債を抱えることとなり、1995-96シーズン途中の1995年11月20日にメンドーサは会長職を辞任した。
ロレンソ・サンス会長時代
ラモン・メンドーサの退任後、クラブの副会長を務めていたロレンソ・サンスが会長に就任。1995-96シーズンは無冠に終わるも、1996-97シーズンはファビオ・カペッロを監督に招聘し、1996年夏の移籍市場ではプレドラグ・ミヤトヴィッチ、ダヴォール・シューケル、クラレンス・セードルフ、ロベルト・カルロスらを獲得。同シーズンはリーグ史上最多となる勝ち点92を記録してのリーガ・エスパニョーラ優勝を果たすも、シーズン終了後にカペッロは解任される。
1997年夏の移籍市場ではフェルナンド・モリエンテスらを獲得し、1997-98シーズンは32季ぶりとなるUEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成。1998-99シーズンはインターコンチネンタルカップ優勝を果たす。
1999年夏の移籍市場ではミチェル・サルガド、イバン・エルゲラらを獲得し、レアル・マドリード・カスティージャからイケル・カシージャスを昇格させた。1999-2000シーズンはシーズン途中にビセンテ・デル・ボスケが監督に就任し、UEFAチャンピオンズリーグ優勝を達成する。一方、クラブの負債は悪化の一途を辿った。
第一次フロレンティーノ・ペレス会長時代
フロレンティーノ・ペレスは会長職に就任すると、旧練習場敷地であるシウダード・デポルティバの売却で前会長時代までに膨らんだ負債を完済(シウダード・デポルティバの跡地は再開発されてクアトロ・トーレス・ビジネス・エリアとなった)。さらに「毎年一人はビッグネームを獲得する」と宣言し、銀河系軍団と称されるチームを形成した。
トヨタカップ2002のスターティングメンバー。 |
2000年夏の移籍市場ではルイス・フィーゴらを獲得し、2000-01シーズンは4季ぶりとなるリーガ・エスパニョーラ優勝を果たす。さらに2001年夏の移籍市場ではジネディーヌ・ジダンを獲得し、2001-02シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャとUEFAチャンピオンズリーグにて優勝を果たした。2002年夏の移籍市場ではロナウドらを獲得。2002-03シーズンはリーガ・エスパニョーラ、UEFAスーパーカップ、インターコンチネンタルカップにて優勝を果たすも、シーズン終了後に監督のビセンテ・デル・ボスケは解任された。
2003年夏の移籍市場ではデビッド・ベッカムらを獲得。2003-04シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ制覇を果たした。続く2004-05シーズンと2005-06シーズンは2季連続の無冠に終わり、2005-06シーズン途中の2006年2月27日にペレスは会長職を辞任した[22]。
その後、会長職に就任したフェルナンド・マルティン・アルバレスは、ペレス会長時代の銀河系軍団の構想を真っ向から否定し、クラブへの貢献度を給料査定の基準にしたうえで、「給料分働かない者はクラブから出て行ってもらう」と発言したが、2か月で会長職を辞任した。
ラモン・カルデロン会長時代
ラモン・カルデロンは会長職に就任すると、ファビオ・カペッロを監督に招聘。2006年夏の移籍市場ではファビオ・カンナヴァーロ、ルート・ファン・ニステルローイらを獲得し、2007年冬の移籍市場ではマルセロ、フェルナンド・ガゴ、ゴンサロ・イグアインを獲得。2006-07シーズンは4季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝を果たすも、シーズン終了後にカペッロは解任される[23]。
2007年夏の移籍市場ではペペ、ヴェスレイ・スナイデル、アリエン・ロッベンらを獲得。2007-08シーズンは18季ぶりとなるリーガ・エスパニョーラ2連覇を果たし、2008-09シーズンはスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を果たした。なお、2009年1月にカルデロンはクラブ総会での不正投票操作疑惑が浮上[24]してその責任および混乱収拾のため会長職を辞任。その後は副会長だったビセンテ・ボルダが暫定的に会長を務めた。
第二次フロレンティーノ・ペレス会長時代
2011-12シーズンのリーガ・エスパニョーラ第35節、FCバルセロナ戦のスターティングメンバー。 |
2009年6月14日に会長選が行われる予定だったが、元会長のフロレンティーノ・ペレス以外の候補者が出馬条件を満たせなかったため[25]、同年6月1日付でペレスが会長に返り咲いた[26]。ビジャレアルをトップクラブに押し上げた実績を買われ、マヌエル・ペジェグリーニが監督に就任し、同年夏の移籍市場ではサッカー界史上最高額の9400万ユーロで手に入れたクリスティアーノ・ロナウドを含め、カカ、カリム・ベンゼマ、シャビ・アロンソらを獲得。しかし、2009-10シーズンはリーガ・エスパニョーラは国内リーグ史上最多の107ゴールとクラブ史上最多の勝ち点96を記録するも2季続けてバルセロナの後塵を拝する2位、コパ・デル・レイでは、当時2部Bだったアルコルコンに4回戦で敗退。UEFAチャンピオンズリーグでは、フランス・リーグ・アンでは不調ながら過去4戦勝ちの無いリヨンに敗れて6年連続ベスト16敗退。4季ぶりとなる無冠に終わり、シーズン終了後にペジェグリーニは任を解かれた。
その後、イタリア・セリエAのインテルミラノをイタリア史上初の3冠に導いたジョゼ・モウリーニョが監督に就任。2010年夏の移籍市場ではアンヘル・ディ・マリア、リカルド・カルヴァーリョ、サミ・ケディラ、メスト・エジルらを獲得。2010-11シーズンは3季連続の2位ながら、18季ぶりのコパ・デル・レイ優勝を果たし、UEFAチャンピオンズリーグは2002-03シーズン以来8季ぶりのベスト4。2011-12シーズンは2季前の107を上回る総得点121を記録し、リーグ史上初の勝ち点100を達成し、4季ぶりのリーガ・エスパニョーラ制覇を果たす。2012-13シーズンは4季ぶりとなるスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝を果たしたものの、リーガ防衛に失敗し2位、UEFAチャンピオンズリーグでは三度ベスト4の壁を破れず、コパ・デル・レイでは決勝でアトレティコ・マドリードに14季ぶりに敗れて準優勝。モウリーニョはシーズン終了後に監督を退任した。
2013-14シーズンはカルロ・アンチェロッティが監督に就任。2013年夏の移籍市場ではイスコ、アシエル・イジャラメンディ、ガレス・ベイルらを獲得し、ヘセ・ロドリゲスらをレアル・マドリード・カスティージャから昇格させた。同シーズンはリーガ・エスパニョーラこそ2003-04シーズン以来の3位に終わったものの、決勝でバルサとのコパ・クラシコを制して3季ぶりのコパ・デル・レイ優勝の他、UEFAチャンピオンズリーグで、初対戦のシャルケ、2012-13シーズンの同大会準決勝で敗れたドルトムント、世界王者バイエルンと歴史上初めて決勝トーナメントだけでドイツ・ブンデスリーガの3チームを全て倒し、アトレティコとの決勝史上初のダービーマッチも制し優勝。12季ぶり10回目の制覇を成し遂げ、悲願のラ・デシマを達成した。
2014年7月7日、名誉会長を務めていたディ・ステファノが心臓発作のため88歳で亡くなり、クラブに激震が走った[27][28]。
2014年の移籍市場ではワールドカップ優勝国ドイツ代表のトニ・クロース、得点王に輝いたコロンビア代表のハメス・ロドリゲス、チーム史上初のコスタリカ人として2014 FIFAワールドカップでコスタリカ代表ベスト8躍進の立役者であり、正守護神であるケイロル・ナバスを獲得した。
タイトル
国内タイトル
- プリメーラ・ディビシオン : 32回
- 1931-32, 1932-33, 1953-54, 1954-55, 1956-57, 1957-58, 1960-61, 1961-62, 1962-63, 1963-64, 1964-65, 1966-67, 1967-68, 1968-69, 1971-72, 1974-75, 1975-76, 1977-78, 1978-79, 1979-80, 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89, 1989-90, 1994-95, 1996-97, 2000-01, 2002-03, 2006-07, 2007-08, 2011-12
- コパ・デル・レイ : 19回
- 1904-05, 1905-06, 1906-07, 1907-08, 1916-17, 1933-34, 1935-36, 1945-46, 1946-47, 1961-62, 1969-70, 1973-74, 1974-75, 1979-80, 1981-82, 1988-89, 1992-93, 2010-11, 2013-14
- コパ・デ・ラ・リーガ : 1回
- 1984-85
- スーペルコパ・デ・エスパーニャ : 9回
- 1988, 1989, 1990, 1993, 1997, 2001, 2003, 2008, 2012
- コパ・エバ・ドゥアルテ : 1回
- 1947
国際タイトル
- 1955-56, 1956-57, 1957-58, 1958-59, 1959-60, 1965-66, 1997-98, 1999-00, 2001-02, 2013-14
- ラテン・カップ : 2回
- 1955, 1957
- コパ・イベロアメリカーナ : 1回
- 1994
- UEFAカップ : 2回
- 1984-85, 1985-86
- UEFAスーパーカップ : 2回
- 2002, 2014
- 1960, 1998, 2002
- スモールワールドカップ : 2回
- 1952, 1956
親善大会
- 2013
過去の成績
リーグ戦 | P | W | D | L | Pts | カップ戦 | スーパーカップ | UEFA EL | UEFA CL | 監督 | チームキャプテン | チーム得点王[注 6] | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1955-56 | 3位 | 30 | 18 | 2 | 10 | 38 | ベスト4 | - | - | 優勝 | ホセ・ビジャロンガ | ルイス・モロウニー | アルフレッド・ディ・ステファノ |
1956-57 | 優勝 | 30 | 20 | 4 | 6 | 44 | ベスト16 | - | - | 優勝 | ミゲル・ムニョス | アルフレッド・ディ・ステファノ | |
1957-58 | 優勝 | 30 | 20 | 5 | 5 | 45 | 準優勝 | - | - | 優勝 | ルイス・カルニグリア | アルフレッド・ディ・ステファノ | |
1958-59 | 準優勝 | 30 | 21 | 5 | 4 | 47 | ベスト4 | - | - | 優勝 | フアン・アロンソ | アルフレッド・ディ・ステファノ | |
1959-60 | 準優勝 | 30 | 21 | 4 | 5 | 46 | 準優勝 | - | - | 優勝 | マヌエル・フレイタス | フェレンツ・プスカシュ | |
1960-61 | 優勝 | 30 | 24 | 4 | 3 | 52 | 準優勝 | - | - | ベスト16 | ミゲル・ムニョス | ホセ・マリア・サラガ | フェレンツ・プスカシュ |
1961-62 | 優勝 | 30 | 19 | 5 | 6 | 43 | 優勝 | - | - | 準優勝 | フェレンツ・プスカシュ | ||
1962-63 | 優勝 | 30 | 23 | 3 | 4 | 49 | ベスト4 | - | - | ベスト16 | フランシスコ・ヘント | フェレンツ・プスカシュ | |
1963-64 | 優勝 | 30 | 22 | 2 | 6 | 46 | ベスト8 | - | - | 準優勝 | フェレンツ・プスカシュ | ||
1964-65 | 優勝 | 30 | 21 | 5 | 4 | 47 | ベスト16 | - | - | ベスト8 | ラモン・グロッソ | ||
1965-66 | 準優勝 | 30 | 19 | 5 | 6 | 43 | ベスト8 | - | - | 優勝 | フランシスコ・ヘント | ||
1966-67 | 優勝 | 30 | 19 | 9 | 2 | 47 | ベスト8 | - | - | ベスト8 | ラモン・グロッソ | ||
1967-68 | 優勝 | 30 | 16 | 10 | 4 | 42 | 準優勝 | - | - | ベスト4 | アマンシオ・アマロ | ||
1968-69 | 優勝 | 30 | 18 | 11 | 1 | 47 | ベスト16 | - | - | ベスト16 | アマンシオ・アマロ | ||
1969-70 | 5位 | 30 | 13 | 9 | 8 | 35 | 優勝 | - | - | ベスト16 | アマンシオ・アマロ | ||
1970-71 | 4位 | 30 | 17 | 7 | 6 | 41 | ベスト32 | - | - | ピッリ | |||
1971-72 | 優勝 | 34 | 19 | 9 | 6 | 47 | ベスト4 | - | ベスト32 | イグナシオ・ソコ | サンティリャーナ | ||
1972-73 | 4位 | 34 | 17 | 9 | 8 | 43 | ベスト16 | - | ベスト4 | サンティリャーナ | |||
1973-74 | 8位 | 34 | 13 | 8 | 13 | 34 | 優勝 | - | ベスト64 | オスカル・マス ピッリ | |||
1974-75 | 優勝 | 34 | 20 | 10 | 4 | 50 | 優勝 | - | ミリャン・ミリャニッチ | アマンシオ・アマロ | ロベルト・フアン・マルティネス サンティリャーナ | ||
1975-76 | 優勝 | 34 | 20 | 8 | 6 | 48 | ベスト16 | - | ベスト4 | サンティリャーナ | |||
1976-77 | 9位 | 34 | 12 | 10 | 12 | 34 | ベスト32 | - | ベスト16 | ピッリ | ピッリ | ||
1977-78 | 優勝 | 34 | 22 | 3 | 9 | 47 | ベスト16 | - | ルイス・モロウニー | サンティリャーナ | |||
1978-79 | 優勝 | 34 | 16 | 15 | 3 | 47 | 準優勝 | - | ベスト16 | サンティリャーナ | |||
1979-80 | 優勝 | 34 | 22 | 9 | 3 | 53 | 優勝 | - | ベスト4 | ヴヤディン・ボシュコヴ | サンティリャーナ | ||
1980-81 | 2位 | 34 | 20 | 5 | 9 | 45 | ベスト8 | - | 準優勝 | ミゲル・アンヘル | フアニート | ||
1981-82 | 3位 | 34 | 18 | 8 | 8 | 44 | 優勝 | - | ベスト8 | フアニート | |||
1982-83 | 2位 | 34 | 20 | 9 | 5 | 49 | 準優勝 | 準優勝 | アルフレッド・ディ・ステファノ | サンティリャーナ | |||
1983-84 | 2位 | 34 | 22 | 5 | 7 | 49 | ベスト4 | フアニート | |||||
1984-85 | 5位 | 34 | 13 | 10 | 11 | 36 | ベスト16 | 優勝 | アマンシオ・アマロ | ホルヘ・バルダーノ | |||
1985-86 | 優勝 | 34 | 26 | 4 | 4 | 56 | ベスト4 | 優勝 | ルイス・モロウニー | ウーゴ・サンチェス | |||
1986-87 | 優勝 | 44 | 27 | 12 | 5 | 66 | ベスト4 | ベスト4 | レオ・ベーンハッカー | サンティリャーナ | ウーゴ・サンチェス | ||
1987-88 | 優勝 | 38 | 28 | 6 | 4 | 62 | ベスト4 | ベスト4 | ウーゴ・サンチェス | ||||
1988-89 | 優勝 | 38 | 25 | 12 | 1 | 62 | 優勝 | 優勝 | ベスト4 | ホセ・アントニオ・カマーチョ | ウーゴ・サンチェス | ||
1989-90 | 優勝 | 38 | 26 | 10 | 2 | 62 | 準優勝 | 優勝 | ベスト16 | ジョン・トシャック | チェンド | ウーゴ・サンチェス | |
1990-91 | 3位 | 38 | 20 | 6 | 12 | 46 | ベスト16 | 優勝 | ベスト8 | アルフレッド・ディ・ステファノ | エミリオ・ブトラゲーニョ | ||
1991-92 | 2位 | 38 | 23 | 8 | 7 | 54 | 準優勝 | ベスト4 | ラドミル・アンティッチ レオ・ベーンハッカー |
フェルナンド・イエロ | |||
1992-93 | 2位 | 38 | 24 | 9 | 5 | 57 | 優勝 | ベスト8 | ベニト・フローロ | イバン・サモラーノ | |||
1993-94 | 4位 | 38 | 19 | 7 | 12 | 45 | ベスト8 | 優勝 | ビセンテ・デル・ボスケ | マヌエル・サンチス | イバン・サモラーノ | ||
1994-95 | 優勝 | 38 | 23 | 9 | 6 | 55 | ベスト16 | ベスト16 | ホルヘ・バルダーノ | イバン・サモラーノ | |||
1995-96 | 6位 | 42 | 20 | 10 | 12 | 70 | ベスト16 | 準優勝 | ベスト8 | アルセニオ・イグレシアス | ラウル・ゴンサレス | ||
1996-97 | 優勝 | 42 | 27 | 11 | 4 | 92 | ベスト16 | ファビオ・カペッロ | ダヴォール・シューケル | ||||
1997-98 | 4位 | 38 | 17 | 12 | 9 | 63 | ベスト16 | 優勝 | 優勝 | ユップ・ハインケス | フェルナンド・モリエンテス | ||
1998-99 | 2位 | 38 | 21 | 5 | 12 | 68 | ベスト4 | ベスト8 | フース・ヒディンク ジョン・トシャック |
ラウル・ゴンサレス | |||
1999-2000 | 5位 | 38 | 16 | 14 | 8 | 62 | ベスト8 | 優勝 | ビセンテ・デル・ボスケ | ラウル・ゴンサレス | |||
2000-01 | 優勝 | 38 | 24 | 8 | 6 | 80 | ベスト64 | ベスト4 | ラウル・ゴンサレス | ||||
2001-02 | 3位 | 38 | 19 | 9 | 10 | 66 | 準優勝 | 優勝 | 優勝 | フェルナンド・イエロ | ラウル・ゴンサレス | ||
2002-03 | 優勝 | 38 | 22 | 12 | 4 | 78 | ベスト8 | ベスト4 | ロナウド | ||||
2003-04 | 4位 | 38 | 21 | 7 | 10 | 70 | 準優勝 | 優勝 | ベスト8 | カルロス・ケイロス | ラウル・ゴンサレス | ロナウド | |
2004-05 | 2位 | 38 | 25 | 5 | 8 | 80 | ベスト16 | ベスト16 | ホセ・アントニオ・カマーチョ マリアノ・ガルシア・レモン |
ロナウド | |||
2005-06 | 2位 | 38 | 20 | 10 | 8 | 70 | ベスト4 | ベスト16 | ヴァンデルレイ・ルシェンブルゴ フアン・ラモン・ロペス・カロ |
ロナウド | |||
2006-07 | 優勝 | 38 | 23 | 7 | 8 | 76 | ベスト16 | ベスト16 | ファビオ・カペッロ | ルート・ファン・ニステルローイ | |||
2007-08 | 優勝 | 38 | 27 | 4 | 7 | 85 | ベスト16 | 準優勝 | ベスト16 | ベルント・シュスター ファンデ・ラモス |
ラウル・ゴンサレス | ||
2008-09 | 2位 | 38 | 25 | 3 | 10 | 78 | ベスト32 | 優勝 | ベスト16 | ラウル・ゴンサレス ゴンサロ・イグアイン | |||
2009-10 | 2位 | 38 | 31 | 3 | 4 | 96 | ベスト32 | ベスト16 | マヌエル・ペジェグリーニ | クリスティアーノ・ロナウド | |||
2010-11 | 2位 | 38 | 29 | 5 | 4 | 92 | 優勝 | ベスト4 | ジョゼ・モウリーニョ | イケル・カシージャス | クリスティアーノ・ロナウド | ||
2011-12 | 優勝 | 38 | 32 | 4 | 2 | 100 | ベスト8 | 準優勝 | ベスト4 | クリスティアーノ・ロナウド | |||
2012-13 | 2位 | 38 | 26 | 7 | 5 | 85 | 準優勝 | 優勝 | ベスト4 | クリスティアーノ・ロナウド | |||
2013-14 | 3位 | 38 | 27 | 6 | 5 | 87 | 優勝 | 優勝 | カルロ・アンチェロッティ | クリスティアーノ・ロナウド |
現所属メンバー
- 2014年8月10日現在
基本フォーメーション
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テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 ★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手★ テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。
レンタル移籍
- in
テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
- out
テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了
歴代所属選手
歴代監督
歴代会長
氏名 | 国籍 | 期間 |
---|---|---|
フリアン・パラシオス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1900-1902 |
フアン・パドロス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1902-1904 |
カルロス・マドロス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1904-1908 |
アドルフォ・メレンデス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1908-1916 |
ペドロ・パラヘス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1916-1926 |
ルイス・デ・ウルキホ | テンプレート:Flagicon スペイン | 1926-1930 |
ルイス・ウセラ | テンプレート:Flagicon スペイン | 1930-1935 |
ラファエル・サンチェス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1935-1936 |
アドルフォ・メレンデス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1936-1940 |
アントニオ・サントス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1940-1943 |
サンティアゴ・ベルナベウ | テンプレート:Flagicon スペイン | 1943-1978 |
ルイス・デ・カルロス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1978-1985 |
ラモン・メンド-サ | テンプレート:Flagicon スペイン | 1985-1995 |
ロレンソ・サンス | テンプレート:Flagicon スペイン | 1995-2000 |
フロレンティーノ・ペレス | テンプレート:Flagicon スペイン | 2000-2006 |
ラモン・カルデロン | テンプレート:Flagicon スペイン | 2006-2009 |
ビセンテ・ボルダ | テンプレート:Flagicon スペイン | 2009 |
フロレンティーノ・ペレス | テンプレート:Flagicon スペイン | 2009- |
クラブ記録
出場試合数
順位 | ポジション | 選手名 | 所属期間 | 試合数 |
---|---|---|---|---|
1 | FW | テンプレート:Flagicon ラウル・ゴンサレス | 1994-2010 | 741 |
2 | DF | テンプレート:Flagicon マヌエル・サンチス・オンティジュエロ | 1983-2001 | 710 |
3 | GK | テンプレート:Flagicon イケル・カシージャス | 1999- | 678 |
4 | FW | テンプレート:Flagicon サンティリャーナ | 1971-1988 | 645 |
5 | FW | テンプレート:Flagicon フランシスコ・ヘント | 1953-1971 | 602 |
6 | DF | テンプレート:Flagicon フェルナンド・イエロ | 1989-2003 | 601 |
7 | DF | テンプレート:Flagicon ホセ・アントニオ・カマーチョ | 1973-1989 | 577 |
8 | MF | テンプレート:Flagicon ピッリ | 1964-1979 | 561 |
9 | MF | テンプレート:Flagicon ミチェル | 1981-1996 | 559 |
10 | MF | テンプレート:Flagicon グティ | 1995-2010 | 542 |
総得点数
順位 | ポジション | 選手名 | 所属期間 | 得点数 |
---|---|---|---|---|
1 | FW | テンプレート:Flagicon ラウル・ゴンサレス | 1994-2010 | 323 |
2 | FW | テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon アルフレッド・ディ・ステファノ | 1953-1964 | 308 |
3 | FW | テンプレート:Flagicon サンティリャーナ | 1971-1988 | 290 |
4 | FW | テンプレート:Flagicon クリスティアーノ・ロナウド | 2009- | 252 |
5 | FW | テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon フェレンツ・プスカシュ | 1958-1966 | 242 |
6 | FW | テンプレート:Flagicon ウーゴ・サンチェス | 1985-1992 | 208 |
7 | FW | テンプレート:Flagicon フランシスコ・ヘント | 1953-1971 | 182 |
8 | MF | テンプレート:Flagicon ピッリ | 1964-1980 | 172 |
9 | FW | テンプレート:Flagicon エミリオ・ブトラゲーニョ | 1983-1995 | 171 |
10 | FW | テンプレート:Flagicon アマンシオ・アマロ | 1962–1976 | 155 |
メモリアルゴール
得点 | 選手名 | 対戦相手 | 試合日時 |
---|---|---|---|
1st | テンプレート:Flagicon アーサー・ジョンソン | FCバルセロナ | 1902年5月13日 |
1000th | テンプレート:Flagicon パイーニョ | アスレティック・ビルバオ | 1950年11月5日 |
2000th | テンプレート:Flagicon フランシスコ・ヘント | ポンテベドラCF | 1963年11月9日 |
3000th | テンプレート:Flagicon フアニート | UDサラマンカ | 1982年1月20日 |
4000th | テンプレート:Flagicon イバン・サモラーノ | レアル・バリャドリード | 1994年12月22日 |
5000th | テンプレート:Flagicon グティ | CDヌマンシア | 2008年9月14日 |
各種クラブ記録
- 最多得点差勝利 11-1 1942-43 コパ・デル・レイ、FCバルセロナ戦
- 最多得点差敗北 1-8 1929-30 リーガ・エスパニョーラ、RCDエスパニョール戦
- リーグ最多勝利 32試合/38試合 2011-2012
- リーグ最少勝利 7試合/18試合 1929-30
- リーグ最多得点 121得点 2011-12
- リーグ最少得点 24得点 1930-31
- リーグ最多失点 71得点 1950-51
- リーグ最少失点 15得点 1931-32
- リーグ最多勝ち点 100ポイント[注 7] 2011-12
- リーグ最少勝ち点 17ポイント[注 8] 1929-30
- 公式戦連勝記録 15試合 1960-61 ほか
各種個人記録
- 1シーズン最多得点者 60得点 クリスティアーノ・ロナウド 2011-12
- 1試合最多得点者 6得点 フェレンツ・プスカシュ レアル・ベティス戦 1961年6月18日 ほか
- 最年少得点者 17歳117日 アルベルト・リベラ セルタ・デ・ビーゴ戦 1995年6月10日
- 最年長得点者 38歳233日 フェレンツ・プスカシュ FCセビージャ戦 1965年11月21日
- 最速得点者 14秒 ロナウド アトレティコ・マドリード戦 2003年12月3日
- 最速ハットトリック 8分 ペピーリョ レアル・ソシエダ戦 1960年4月10日
ユニフォーム
チームカラーは白、青。2013年からドバイを本拠地とする航空会社のエミレーツ航空が胸スポンサーとなっている。メーカーはアディダス。
白いユニフォームは、コリンシアンFCをモデルにしている。また、イングランドの古豪リーズ・ユナイテッドのユニフォームも白であり、1960年代前半にドン・レヴィーが監督に就任したときに青と金のユニフォームから変更になった。これは、当時UEFAチャンピオンズカップ5連覇などを成し遂げたレアル・マドリードにあやかってチーム作りをしようとしたためだと言われている[29]。スペインのクラブとして初めて背番号があるユニフォームを着用したクラブでもあり、1947年11月23日のアトレティコ・マドリード戦で背番号入りのユニフォームを導入した[30]。
レアル・マドリードのセカンドユニフォームは青や紺、黒などの比較的落ち着いた色を使用することが伝統であった。しかし、2011-12シーズンのチャンピオンズリーグ用セカンドユニフォームには、上下とも赤という明るい色を38年ぶりに採用した[31][32]。また、その翌シーズンにはユニフォームのサードカラーを緑とすることが決定。過去にレアル・マドリードが公式戦で緑のユニフォームを着用したことはなく、親善試合などを含めても1965-66シーズン前の南米遠征でベネズエラのカラカスにてCAリーベル・プレートとの試合で着用して以来およそ半世紀ぶりとなる[33]。
背番号7は特別な番号とされており、レイモン・コパやアマンシオ・アマロ、フアニート、エミリオ・ブトラゲーニョなどそれぞれの時代のクラブを代表するアタッカーが背負ってきた。特に近年ではラウル・ゴンサレス、クリスティアーノ・ロナウドによってその価値はさらに高められた[34]。また、背番号9もアルフレッド・ディ・ステファノやサンティリャーナ、ウーゴ・サンチェス、ロナウドといった名手に背負われてきた[35]。
メーカーと胸スポンサー
年度 | メーカー | 胸スポンサー |
---|---|---|
1980–1982 | adidas | - |
1982–1985 | Zanussi | |
1985–1989 | ヒュンメル | Parmalat |
1989–1991 | Reny Picot | |
1991–1992 | Otaysa | |
1992–1994 | Teka | |
1994–1998 | KELME | |
1998–2001 | adidas | |
2001–2002 | - | |
2002–2005 | Siemens mobile | |
2005–2006 | Siemens | |
2006–2007 | BenQ Siemens | |
2007–2013 | bwin.com | |
2013– | Fly Emirates |
ファン
レアル・マドリードのファンはマドリディスタ(madridista)と呼ばれている[注 9]。2000年にフロレンティーノ・ペレスが会長に就任したときに、スペインサッカーの実体を理解するためにスペイン各地でスペイン人2000人に応援しているクラブを尋ねたところ、29.2パーセントがレアル・マドリードのファンであると答え[36]、2007年の社会意識調査では国内の32.8パーセントがレアル・マドリードのファンであることが明らかになった[18]。2006年にハーバード大学が行った調査によると世界中に2億2,800万人いるとされており、この数字はマンチェスター・ユナイテッドFCを6,000万人上回り、世界一の数字である[1]。同じくマドリードを本拠地とするアトレティコ・マドリードは主に労働者階級の支持を受けているのに対し、レアル・マドリードは富裕層の支持を受けているのが特徴である。現地サポーターはレアル・マドリードがタイトルを獲得した際、シベーレスの噴水に集まり祝福する。
攻撃的なサッカーを好む傾向にあり、ファビオ・カペッロは2度監督に就任し、その2度ともリーガ・エスパニョーラ優勝を成し遂げたにもかかわらず、あまりに守備的すぎるという理由から1年で解任されている。1989-90シーズンにレアル・マドリードを率いて、最多得点記録を更新してのリーグ優勝を果たしたジョン・トシャックや、2010-11シーズンから2012-13シーズンまで指揮し2011-12シーズンは史上最多勝ち点と史上最多得点を記録して優勝したジョゼ・モウリーニョも守りすぎだと批判された[37]。
2005年11月20日のエル・クラシコ、2008年のUEFAチャンピオンズリーググループステージ、対ユヴェントスFC戦などでは、対戦相手にスタンディングオベーションを送っている[38][39]。
レアル・マドリードの下部組織に所属していたビセンテ・デル・ボスケやフリオ・イグレシアスのほか、プラシド・ドミンゴ、ラファエル・ナダル、フェルナンド・アロンソ、セルヒオ・ガルシアらスペインの著名人がクラブの名誉会員に名を連ねている[40][41]。
メディア
1999年2月14日からはレアル・マドリードTVが始まり、選手やスタッフのインタビューや過去のものを含む試合を放送している。2005年にはクラブ初の正式公認映画である[42]レアル・ザ・ムービーが制作され、当時の所属選手も多数出演した。その他、GOAL!シリーズの主人公であるサンティアゴ・ムネスは、GOAL!2にてレアル・マドリードに移籍。この作品にも、所属選手が出演した。
クラブ会員やファンクラブのメンバーには、Hala Madridというファンクラブ誌が毎月発行される[注 10]。試合のレポートや下部組織の情報、インタビューなどを掲載している。
2012年、アラブ首長国連邦に“レアル・マドリード・リゾートアイランド”なるアイランドリゾートを10億ドルをかけて建設することを発表した[43]。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
- レアル・マドリード・カスティージャ、レアル・マドリードC - - レアル・マドリードの下部組織。
- フランシスコ・フランコ - スペインの独裁者。
- トロフェオ・サンティアゴ・ベルナベウ - プレシーズンに行われる親善試合。
- G-14 - ヨーロッパビッグクラブ連合体。
外部リンク
- レアル・マドリード公式サイト テンプレート:Es icon
- テンプレート:Facebook - テンプレート:Es iconテンプレート:En icon
- テンプレート:YouTube channel - テンプレート:Es icon
- テンプレート:Google+
テンプレート:レアル・マドリードのメンバー テンプレート:IFFHS大陸別20世紀最優秀クラブ テンプレート:Navbox テンプレート:Navbox テンプレート:欧州クラブ協会メンバー
テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA テンプレート:Link GA
テンプレート:Link GA- ↑ 1.0 1.1 106 years of history Real Madrid C.F.、2008年3月6日
- ↑ Europe's Club of the Century IFFHS
- ↑ Soccer Team Value Business of Soccer Forbes 2014年8月現在。
- ↑ 特集 各国歴代最強イレブン【20】スペイン(1) - 時事ドットコム
- ↑ ボール 2004 265頁
- ↑ マドリー、カンテラのトップが辞任 goal.com、2008年12月5日
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ テンプレート:Cite web
- ↑ 2012年にイギリスメディア『sportingintelligence.com』が調査した、世界のスポーツチームの平均年俸ランキング
- ↑ レアル・マドリードC.F.
- ↑ 欧州サッカー公式ウェブサイト
- ↑ 海外サッカー - リーガ・エスパニョーラ - レアル・マドリッド - スポーツナビ
- ↑ ボール 2002 182頁
- ↑ ボール 2002 174頁
- ↑ 18.0 18.1 テンプレート:Cite web
- ↑ ボール 2004 99頁
- ↑ ボール 2004 144頁
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- ↑ ペレス会長が推し進めるR・マドリーの歴史的な大改革 - ocn sports
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- ↑ 公式声明 realmadrid.com 2014年7月7日閲覧
- ↑ レアルの“伝説”ディステファノ氏が死去 スポーツ報知 2014年7月7日閲覧
- ↑ ボール 2002 151頁
- ↑ Real Madrid turns 106 (V)Real Madrid C.F.
- ↑ La segunda camiseta de la Champions es roja as.com、2011年8月11日
- ↑ テンプレート:Cite web
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- ↑ コラム:ラウールの背番号7を継ぐべきは? goal.com、2010年8月8日
- ↑ R・マドリー、C・ロナウドの背番号を認定?! livedoor スポーツ、2009年5月9日
- ↑ ボール 2004 62頁
- ↑ ボール 2004 40-41頁
- ↑ 2005年のロナウジーニョから2009年のメッシへ livedoor スポーツ、2009年1月8日
- ↑ ベルナベウの観客を魅了したデル・ピエロ uefa.com、2008年11月5日
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- ↑ レアル ザ・ムービー. real-movie.jp
- ↑ テンプレート:Cite web
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