淀川長治
テンプレート:Mboxテンプレート:Infobox 作家 淀川 長治(よどがわ ながはる、1909年(明治42年)4月10日 - 1998年(平成10年)11月11日)は、日本の雑誌編集者、映画解説者、映画評論家である。約32年にわたって「日曜洋画劇場」の解説を務め、ヨドチョーさん、ヨドさんの愛称のほか、その独特の語り口からサヨナラおじさんとして親しまれた。
目次
プロフィール
少年時代
兵庫県神戸市にて芸者置屋の跡取り息子として父・又七、母・りゅうのもとに生まれる。実母は、父の本妻の姪にあたった。長く病身で、自分に子ができないことを悔いた本妻が、妾として姪を夫に推薦したのだった。本妻は、生まれてまもない淀川を病床で抱かせてもらい、安心したように数日後に永眠。実母がその後、本妻になった。姉が二人と、弟が三人いる。
映画館の株主だった親の影響で子供の頃から映画に精通。母・りゅうは湊川の活動写真館で喜劇映画を見ていたときに産気づいたという。旧制の兵庫県立第三神戸中学校(現兵庫県立長田高等学校)を卒業後、慶應義塾大学文学部の入試に失敗し、日本大学法文学部美学科予科に籍を置くが出席せずに中退。なお、中学時代には、自ら企画して毎月の全校生徒による映画鑑賞を実現させている。
映画人に
日大に入学のため1927年(昭和2年)に上京した際、かねてから投稿を行っていた雑誌『映画世界』(南部圭之助編集長)の社員募集を見て、編集部へ出向きそのまま採用され、編集者として活動。しかし1929年(昭和4年)に神戸の実家へ戻され、姉の経営する輸入美術品店「ラール・エヴァンタイユ」で勤務する。
その後、知人を介して1933年(昭和8年)にUA(ユナイテッド・アーティスツ)の大阪支社に入社する。なお、大阪支社勤務時代の1936年(昭和11年)2月に、来日したチャールズ・チャップリンとの会談に成功している。その後、淀川は日本におけるチャップリン評論の第一人者と言われる。その後1938年(昭和13年)に「モダン・タイムス」封切に伴う宣伝体制強化を受けて東京支社に移り、ジョン・フォード監督の『駅馬車』の宣伝などを担当する。
1941年(昭和16年)12月の日米開戦後の1942年(昭和17年)に東宝映画の宣伝部に就職。この時期、後に世界的な映画監督となる黒澤明と出逢い、生涯の親友となった。1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終結後には、アメリカ映画の配給会社セントラル映画社(CMPE)のレクチャー部に勤務する。その後、1947年(昭和22年)に雑誌『映画の友』に入社し[1]、編集長を経て、映画解説者・映画評論家として活動を開始。『映画の友』時代の部下には小森和子、写真部長には有名なカメラマン早田雄二がいた。
なお、1951年(昭和26年)に『映画の友』の仕事でハリウッドに向かった淀川は、東京国際空港からホノルル国際空港へ向かうパンアメリカン航空のボーイング377の機内でクラレンス・ブラウン監督と邂逅し、機内のラウンジで話し込んだほか、ハリウッドに滞在していた際には、アカデミー賞にノミネートされていた黒澤明の「羅生門」の代理出席者として、授賞式に招待された。
1948年(昭和23年)には映画好きの若者を集めて「東京映画友の会」(当初は「『映画の友』友の会」)を結成。[2]1993年(平成5年)まで映画の魅力を教え続けた(「友の会」は現在も、他メンバー主催で継続)。この「友の会」には以下の3つのスローガンがあり、淀川も著書内で「自分の信条」として書いていた。だが晩年、「ぼくがモットーにしてた三か条なんだけれど、実は大嘘なの。ぼくは年中、三か条に反する生き方をしていた」と弟子に打ち明けた[3]。
- 「私は未だかつて嫌いな人にあったことはない」[4]
- 「苦労歓迎」
- 「他人歓迎」
お茶の間の顔に
1960年(昭和35年)から1963年(昭和38年)まで、NETテレビ(現:テレビ朝日)で放送された海外ドラマ『ララミー牧場』の解説で脚光を浴びる[5]。その後、1966年(昭和41年)から始まった同局の長寿番組『日曜洋画劇場』(当初は『土曜洋画劇場』)の解説者として、番組開始から死の前日までの32年間、出演し続けた。
特に「怖いですねえ、恐ろしいですねえ」や番組末尾の「それでは次週をご期待ください。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ...」は淀川の名台詞として語り草とされており、子供たちやタレントの小松政夫がこれをものまねするなど一躍お茶の間の人気者となった(ドラえもんが大晦日のスペシャル版でマネをしたこともある)。1968年のアニメ『怪物くん』(TBS)では、番組途中の解説やエンディングのナレーターとして起用されている。
かつては「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたが、ある日、小学生の少年から直接電話を受け、「淀川さんが『サヨナラ』と何回言うかが友達の間で毎週賭けられている」との話を耳にした。実際は、賭といってもただ当たったら自慢するだけのたわいのないものではあったが、淀川は少年に「賭けをするのは良くないことだ」と諭し、それからは「サヨナラ」の回数は3回だけにすると決めた。なお、それまで「サヨナラ」の回数が毎回異なっていたのは、単に放送終了まで「サヨナラ」と連続して言い続けたからで、意図したものではないと本人は語っている。おまけに、解説では正面を向かっていたが、この「サヨナラ」を連呼する時だけはなぜか斜めを向いていた。
その死、その後
1998年(平成10年)9月6日、生涯の親友であった黒澤が死去。通夜に参列した淀川は、すでに自らの死も近いことを悟っていたのか、棺の中の黒澤に向かって「僕もすぐに行くからね」と語りかけていたという。それからわずか2ヵ月後の1998年(平成10年)11月11日午後8時11分、腹部大動脈瘤破裂に伴う心不全により死去。享年89。奇しくも父・又七と同じ命日であった。生涯独身で子供がいなかったため、喪主は姪である編集者の淀川美代子が務めた。彼は死の前日(1998年(平成10年)11月10日)にも車椅子で『日曜洋画劇場』のスタジオに入り、『ラストマン・スタンディング』の解説収録を行っていた。
淀川が亡くなる前日に行った収録を、黒柳徹子が見学していた。スタッフが淀川の体調を気遣って1回でOKを出したところ、淀川はそれを不満として「汚ない!」と言い、2回目のOKでうなずいて、(病院からのスタジオ入りのため)車椅子でスタジオを出た。[6]淀川の最後の出演となった1998年(平成10年)11月15日の『日曜洋画劇場』の放送では、冒頭に特別企画として「サヨナラ 淀川長治さん 89年の輝ける映画人生」のタイトルで、追悼番組が約30分間流された。そして、最後の解説の映像が流れた後に「淀川 長治さん 永い間、本当にありがとうございました。」というテロップが出た。ただ、淀川が死去する数年前から、『日曜洋画劇場』のプログラムは視聴率が容易に取れる近来のアクション映画が中心になっており、淀川が繰り返し語っていた「良い映画」を同番組で解説する機会は減っていたと言える。
淀川が亡くなってから1ヶ月後の12月13日、青山葬儀所で一般のファンを含めた約三千人が参列して「淀川長治さん さよならの会」が開かれ、淀川との最後の別れを惜しんだ。また、彼が生前に書き残した原稿を元に、遺著が年末から翌99年にかけ、[7]相次いで出された。なお、彼の著書は没後も新編で再刊され続け、現在までに100冊を超えている。
晩年の淀川は、映画だけではなく、歌舞伎の美に感動し、文楽の世界に酔い、バレエの著作も出している。[8]また宝塚のオールドファンでもあった。大好物のステーキを味わい、温泉旅行を楽しみながらも、新作映画を一本でも多く観ることが長寿のクスリだった。戒名は「長楽院慈悲玉映大居士」で、慈しみの眼で映画を長く楽しみ、すべての映画を珠玉の名作として鑑賞した人という意味合いであった[9]。
淀川の死から8年後の2006年(平成18年)12月20日、自身の代名詞ともいえる『日曜洋画劇場』が放送開始から40周年を記念して、『淀川長治の名画解説』と銘打った前代未聞の『映画本編は一切収録されない解説者の解説のみが入ったDVD』が発売されている。このDVDには『スター・ウォーズ』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』といったSF作品から、『ローマの休日』のような古典作品も解説されており、特典映像として最期の解説となった『ラストマン・スタンディング』の解説も収められている。このDVD以後、淀川の解説付映画DVDも頻繁に発売され、5年後の2012年には『淀川長治の名画解説DX』という4枚組のボックスセットも発売されている。
「特殊な部落」発言糾弾事件
1973年9月5日(東京では9月4日付夕刊)、サンケイ新聞の夕刊シリーズ企画「こんにちは」に淀川長治のインタビュー記事(聞き手・兼子昭一郎)が掲載された[10]。この記事で淀川が
と述べた後、兼子記者の聞き書きとして
とあり、つづいて淀川が
と述べた[10]。
インタビューの内容は差別に反対する立場で貫かれていたにもかかわらず、部分的に不用意な発言が部落解放同盟から問題視され、1973年秋から1974年初頭にかけて3回の糾弾会がおこなわれた[10]。
1973年12月14日の第2回糾弾会には、部落解放同盟大阪府連合会の副委員長の西岡智や書記次長の山中多美男ら約100名が出席し、淀川やサンケイ新聞編集局長の青木彰たちを吊るしあげた[10]。
淀川は「私は神戸出身で差別の問題はよくわかっているつもりだった」「私が16歳ごろ、隣の奥さんが差別を受けたのを知っている」と弁解したが、部落解放同盟は「ヒューマニズムの観点から部落問題をみるから、今度のような同情・融和の思想が出てくるのだ。あなたのヒューマニズムは単なる"あわれみ"だけであって、なぜ差別があるのかを根本から追及していない。まさにエセのヒューマニズムだ」「あんたのヒューマニズムは矛盾を追及しないエセの平等思想だ」と反発[10]。
部落解放同盟は淀川に対し、第3回の糾弾会で
- この差別事件の分析と責任と今後の決意を表明すること
- 部落解放同盟大阪府連合会の西岡智らが製作した映画『狭山の黒い雨』を部落問題の観点から批評すること
- これまでの一連の差別評論を明らかにし、分析すること
を要求し、淀川も了承した[10]。
サンケイ新聞もまた社内啓発を要求され、その後、1974年暮に差別問題をテーマにした連載記事を掲載している[10]。テンプレート:See also
エピソード
- 生涯独身を貫いたのは、自身の性的指向(後述)の他に、「淀川家の血筋を絶やさぬためだけに妾にさせられた実母を哀れみ、辛い思いをさせた淀川家に復讐するため、結婚せずに子供をつくらないことで血筋を絶やした」ということを著書『私はまだかつて嫌いな人に逢ったことがない』の中で記述している。母は息子の将来を案じ、一度は花嫁候補の女性を家に連れてきて1週間一緒に住まわせたこともあるが、本人が全く相手にしない為に帰られてしまったと後に自身が語っている。他にも数度は結婚のチャンスがあり、一度は相手の女性にプロポーズしたが、相手に子供がいたことが分かり、苦悩の末に断念したという。自伝では「じっさい私には女性的なところがあって、女性とのセックスは全うするも、セックスの相手よりも女性をベスト・フレンドにしてしまう。これは私があまりにも女系家族で芸者屋育ちで、祖母、母、姉二人に盲愛されて自然にそのぬるま湯にべっとりつかって、キャッチボールよりも、おままごとのほうを好むようになったためである」と語っている。淀川はまた、いつも母と一緒に入浴していたとも語っている[11]。
- 1996年(平成8年)に『男と男のいる映画』で、「子どもの頃から男が好きだった」と同性愛者であったことを告白している。1990年(平成2年)の著書『銀幕より愛をこめて』でも、若かりし頃、映画館で少年が中年男性の懐に手を入れて捕まり、騒ぎになった出来事を目撃したことを記し「あのときは財布の窃盗だと騒ぎになって少年は捕まったが、私はそのころからそのケがあったのでわかっていた。あの少年は窃盗をしようとしたのではなかったことを」とも書いている。また、マーティン・シャーマンの同性愛が主題となった戯曲『BENT』について「私はこれまでに映画や芝居でどれだけのラブ・シーンを見てきたかは数えきれないが、『BENT』のラブ・シーンくらい痛ましく悲しく美しく強烈なラヴ・シーンに接したことはなかった」と言ったコメントも残している。また、アーノルド・シュワルツェネッガーが来日した際に長寿の秘訣を聞かれた際にも「わかりました。じゃあ、お風呂でお聞きしましょう」とコメントしている。1991年(平成3年)に『ターミネーター』が放送されたときの解説では冒頭から全裸で登場するシュワルツェネッガーの尻についてほめたたえている。特に太った男性が好みで、『トプカピ』や『スパルタカス』で知られるイギリス俳優のピーター・ユスティノフや『スーパーマン』のネッド・ビーティなど太めの俳優が大のお気に入りであった。また、アラン・ドロン主演のフランス映画『太陽がいっぱい』について、「主人公と、彼に殺害される友人はホモセクシャルな関係にあり、そのことがわからないとこの映画の魅力はつかめない」と終始、主張したが、あまり賛同者はいなかった[12]。逆に女性のインタビュアーは非常に嫌っていた。
- 横浜市鶴見区に自宅があったが、体調を崩したのをきっかけに1987年(昭和62年)からは日曜洋画劇場の収録を行っていたテレビ朝日アーク放送センターと同じアークヒルズ内にある東京全日空ホテル34階のスイートルームで暮らしていた。その際、「棺桶がちゃんと入るかどうか、エレベーターの大きさを調べて決めた」と『徹子の部屋』で明言している。スイートルームの広い部屋の中は映画に関する書籍や資料で埋め尽くされていたという。
- 「名作映画は、人類にとって最高の総合芸術である」などの言葉を残している。
- 「どの映画にも見所はある」というのが持論で、どんなB級映画でも決して悪口を言わず、「このセリフ回しが素晴らしい」、「女性の脚の組み方がいい」など、一般人は見過ごしそうな箇所を見つけては褒めていた。一方でテレビ解説に限っては、淀川はつまらない映画の解説の時はその映画とは全く関係ない部分を無意味に褒め、その映画が駄目なものか良質のものであるかを暗に示していた。
- 『日曜洋画劇場』での物腰が柔らかい姿とは対照的に、こと評論においては次項の通り非常に舌鋒鋭く映画に踏み込んでいた。何度か対談したことがあるビートたけしによると、「こうすれば売れるだろう」といういい加減な計算の作品をすぐに見抜き、酷評していたと言う。
- 著書『男と男のいる映画』において「男しか出ていない映画に駄作無し」と格言を残している。
- 1992年(平成4年)から雑誌「ROADSHOW」(集英社)主催で、映画文化の発展に功績のあった人・団体に贈られる賞「淀川長治賞」が創設される。第1回は字幕翻訳家の戸田奈津子が受賞。賞は淀川の死後も続いている。
- 日本におけるシュワルツェネッガーの愛称「シュワちゃん」は淀川が命名したものである。
- 「日曜洋画劇場」は基本的に洋画を放送する番組だが、編成などの都合で「特別企画」と銘打ち邦画が放送される場合もある。その場合、淀川は「こういうこと(邦画の放送)を了承すると、(映画会社との関係などで)どんどんなし崩しに(邦画ばかり放送するように)なっていくから」と邦画解説を担当せず、筋を通した。しかし、例外的に『戦場のメリークリスマス』と『夢』の2本だけは解説を行った。特に『夢』は親友でもある黒澤明の追悼放送であり、喪服を着て解説に臨んだ(本人の意思か局側の要請かは不明)。ただしこの2本は日本を含めた各国の合作映画であるため、一種の洋画とも取れる。
- 淀川が若かりし頃、ある所へ講演に行った際、会場の出口で出待ちをしていたファン達と握手を交わした後、車に乗ろうと歩いていたら列の最後尾に居た一人の少年が「握手して下さい」と左手を差し出してきた。西洋では、左手で握手を求めることは決闘の申し込みを意味するとされ、非常に失礼な行為とされているため、腹を立てた淀川は「君、握手は右手でするもんだよ。左手で握手を求めることほど失礼なことは無い!」と言い放ち、少年と握手することなく車に乗り込んだ。しかし、車を発進させた直後、ルームミラーに少年の寂しそうな表情と、右腕が無い様子が目に入った途端、すぐに車を止めさせた。大慌てで車から飛び降りて少年のもとに駆け寄った淀川は、泣きながら自分の非礼を詫び、驚いた少年もその場で泣きだした。少年は、不慮の事故で右手を失ったことと、講演が聴けなかったので、せめて握手だけでもしたいと思い、淀川と握手がしやすいよう、列の最後尾にいたことを、淀川に語った。淀川は次の講演会の予定をキャンセルして、その少年と長い時間語らいを続けた。この日、事情を確かめようともせずに障害者の少年を罵倒してしまった自分の不甲斐なさを、淀川は晩年まで後悔し続けていたという[13]。
- 日曜洋画劇場の解説を降板せず亡くなったが他に映画番組の映画解説を降板せずに亡くなった映画評論家の例では『月曜ロードショー』の荻昌弘がこれに該当する(ただし映画解説としてお茶の間のテレビに出たのは死去2ヶ月前までである)。
淀川長治のベスト集
その折々で選出する作品等が異なる為、これらが決定稿とはいい難い。
- 一本の映画
- 「キネマ旬報」1967年10月上旬号
- ミュージカル映画この一本
- 「キネマ旬報」増刊「ミュージカル・スター」(1968年)
- 日本映画史上のベスト3
- 「キネマ旬報」1979年11月下旬号
- 外国映画史上のベスト3
- 「キネマ旬報」1980年12月下旬号
- 黄金狂時代(チャールズ・チャップリン)
- 戦艦ポチョムキン(セルゲイ・エイゼンシュテイン)
- グリード(エリッヒ・フォン・シュトロハイム)
- 大いなる幻影(ジャン・ルノワール)
- ベニスに死す(ルキノ・ヴィスコンティ)
- オールタイム・スター ベスト5
- 「キネマ旬報」1985年1月上旬号
(男優)
(女優)
- 松竹映画 オールタイム・ベスト10
- 「キネマ旬報」1986年8月下旬号
- 戸田家の兄妹(小津安二郎)
- 浪華悲歌(溝口健二)
- 祇園の姉妹(溝口健二)
- 春琴抄・お琴と佐助(島津保次郎)
- 父ありき(小津安二郎)
- 秋刀魚の味(小津安二郎)
- 彼岸花(小津安二郎)
- 二十四の瞳(木下惠介)
- 女(木下惠介)
- 東京物語(小津安二郎)
- 張込み(野村芳太郎)
- 復讐するは我にあり(今村昌平)
- マダムと女房(五所平之助)
- 元禄忠臣蔵 前・後編(溝口健二)
- 男はつらいよシリーズ(山田洋次)
- 天一坊と伊賀亮(衣笠貞之助)
- みかへりの塔(清水宏)
- 浅草の灯(島津保次郎)
- 生まれてはみたけれど(小津安二郎)
- 転校生(大林宣彦)
- その他のベスト
- あるテレビ番組(NHK「この人淀川長治ショー」)では、一本の映画で「黄金狂時代」を挙げている。
- ある本では、映画史上の悪役で「ジャッカルの日」のジャッカル(エドワード・フォックス)を選んでいる。
受賞歴
- 1985年(昭和60年):第10回キネマ旬報読者賞(『淀川長治自伝』)
- 1986年(昭和61年):第4回川喜多賞受賞、日本映画ペン倶楽部賞受賞
- 1988年(昭和63年):朝日賞受賞
- 1999年(平成11年):第36回ゴールデン・アロー賞特別賞受賞
著書
- 『淀川長治自伝』上下 中央公論社/中公文庫
- 『私の映画遺言』 中央公論社/中公文庫 元版は「私の履歴書」
- 『わが映画人生に悔なし』 ハルキ文庫 1997年
- 『映画が教えてくれた大切なこと』 扶桑社文庫 1999年 他多数、※文庫のみで20数冊。
- 『名作はあなたを一生幸せにする サヨナラ先生の映画史』 近代映画社 1999年、遺作の1つ
脚注
参考文献
- 『映画千夜一夜』 蓮実重彦、山田宏一との鼎談、中央公論社/中公文庫上下
- 『映画は語る』 山田宏一と対談 中央公論新社 1999年
- 『徹子と淀川おじさん 人生おもしろ談義』(徹子の部屋での対談を纏めた本)NTT出版、2002年。光文社〈知恵の森文庫〉、2006年。
- 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』 清流出版、2000年。「東京映画友の会」の開催を淀川に依頼し、のちに「映画の友」編集部で部下となった、淀川の弟子的人物の回顧談。
- 共著に『ビデオ・DVDで観たい名画200選』 新版が光文社知恵の森文庫 2004年
- 岡田喜一郎『淀川長治の映画人生』中央公論新社、2008年。「淀川長治の部屋」を担当し、後半生の淀川と親しかった著書による回顧談。
関連項目
- 植草甚一:戦前東宝宣伝部時代の同僚で生涯の親友。淀川は彼の死に際して弔辞を読んだ。
- 双葉十三郎、野口久光:若き時代からの長年に渡っての親友。
- 清水俊二:友人
- 戸田奈津子:清水の弟子で友人
- 黒澤明:東宝宣伝部時代、黒澤がまだ監督になる前からの親友。
- 池波正太郎:一時は非常に親しかったが、「グルメだった池波」と「食にこだわらなかった淀川」との違いか、後に仲違いしたという。(岡田喜一郎『淀川長治の映画人生』より)
- おすぎ:淀川を母と慕う。杉浦孝昭名義で共著『おしゃべりな映画館』をシリーズ出版。講談社+α文庫 『淀川長治とおすぎの名作映画コレクション』で再刊。
- 黒柳徹子
- 永六輔
- 渥美清
- 大野裕之
- ACジャパン:関西公共広告機構(当時)発足後、初のテレビCMに出演。
- この映画を見なきゃシネマせん:バラエティ番組めちゃ×2イケてるッ!の一コーナー。矢部浩之が扮する矢部川長治が登場。
- 土曜日 (週刊紙):戦時期に京都を中心に刊行された反ファシズムの大衆文化批評紙で執筆の経験あり。
- ホラーマン:淀川本人をモデルにしたキャラクターで、淀川の口癖だった「サヨナラ、サヨナラー」「怖いですね〜、ホラーですね〜」などの言葉を多用する。
- 怪物くん:1968年から1969年にTBSで放映したモノクロアニメで、本編中の登場怪物の解説及びエンディングのナレーションを淀川本人が担当した。
外部リンク
- 産経新聞 ENAK 淀川長治の銀幕旅行
- anan・淀川長治の新シネマトーク
- 淀長フォーエバー
- IVC 淀川長治のクラシック名画撰集
- 淀川おじさん。 - ほぼ日刊イトイ新聞
- 淀川長治携帯サイト - 淀川長治携帯サイト
- ↑ 1948年(昭和23年) - 1964年(昭和39年)まで編集長。1965年(昭和40年) - 1968年(昭和43年)の廃刊まで顧問。
- ↑ 永六輔は結成当初から顔を出していた。なお、淀川は和田誠も永と一緒に参加していたものと思っており、生前そう語っていたが、和田誠自身の回顧によると、和田は高校生の時に2度だけ参加したが、先輩メンバーの心ない発言のため参加をやめてしまったという。佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。
- ↑ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
- ↑ 淀川のオリジナルではなく、合衆国の俳優でコメディアンだったウィル・ロジャースの言葉で“I never yet met a man that I dident like.”である。
- ↑ 初期は「おかしな関西弁をしゃべる解説者」として不評だった、が「西部こぼれ話」と題した「西部劇の舞台」についての詳しい解説ぶりが徐々に人気を呼んだ。佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。
- ↑ 参考文献および当時の放送より。なお映画『ラストマン・スタンディング』はギャング映画としての『用心棒』のリメイクである、1996年(平成8年)
- ↑ 講談社+α文庫で、『ぼくが天国でもみたいアメリカ映画100』、集英社で『最後のサヨナラサヨナラサヨナラ』が、河出書房新社で『映画監督愛』と編書『淀川長治、黒澤明を語る』、平凡社で『淀川長治ぼくの映画百物語』など約10冊
- ↑ 『私の舞踊家手帖』新書館 1996年
- ↑ 岡田喜一郎『淀川長治の映画人生』中央公論新社
- ↑ 10.0 10.1 10.2 10.3 10.4 10.5 10.6 『差別用語』(汐文社、1975年)p.53-55
- ↑ 日刊鼠小僧 2010-02-27 18:07:04 サヨナラ、サヨナラ、サヨナラー65
- ↑ 佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)
- ↑ 「映画少年・淀川長治」荒井魏 著 ISBN-13:978-4005003563