清水俊二
テンプレート:Portal 清水 俊二(しみず しゅんじ、1906年11月27日 - 1988年5月22日)は、日本の映画字幕翻訳家、映画評論家、翻訳家。東京帝国大学経済学部卒業。
約2,000本の映画字幕の他、ウイリアム・サロイヤン『わが名はアラム』、ミッキー・スピレイン『大いなる殺人』、アガサ・クリスティ『そして誰もいなくなった』などアメリカ文学、ミステリ小説、映画関連本の翻訳をした。特にレイモンド・チャンドラーが多く、『さらば愛しき女よ』、『かわいい女』、『長いお別れ』他、伝記など。日本エッセイスト・クラブ賞受賞。
経歴
東京府立第一中学校、第二高等学校、東京帝国大学経済学部卒業後、MGM映画大阪宣伝部に勤務。1931年、楢原茂二の勧めで渡米、パラマウント映画の字幕製作を始める。以後2,000本近い映画の字幕翻訳を行う。高瀬鎮夫らと共に字幕翻訳界を牽引し続けた。
キャサリン・ヘプバーン主演『旅情』(1955年)の「ステーキが食べたくても、ペパロニを出されたらペパロニを食べなさい」という意味の台詞にあてた字幕「スパゲティを出されたら、スパゲティを食べなさい」が当時流行した。これは、当時ペパロニが今ほど知られておらず、直訳すると台詞の意図が伝わらなくなるという翻訳者としての判断の結果だった。
戸田奈津子、細川直子は弟子である。戸田が担当したフランシス・フォード・コッポラ監督『地獄の黙示録』(1979年)の字幕を立花隆が批判した時や、同じく戸田によるスタンリー・キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』(1987年)の字幕に対し「卑猥語、罵倒語が忠実に訳されていない」と監督からクレームがつき、字幕担当者が映画監督原田眞人に変更された時、清水は『日本ペンクラブ会報』、『翻訳の世界』それぞれの記事で字幕の本質・限界と、正しい字幕翻訳の姿勢を説き、戸田を擁護した。1984年、映画翻訳者協会(現: 映画翻訳家協会)を設立する。
自伝『映画字幕(スーパー)五十年』は、日本の映画史を振り返る上でも一級の資料で、1985年に日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
1988年5月22日、食道癌のため亡くなった[1][2]。亡くなる前日まで取り組んでいたチャンドラーの『高い窓』の翻訳は未完のまま残されたが、戸田が後を引き継ぎ完成させた[3]。
著書
翻訳
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- テンプレート:Cite book月曜書房、1951年。晶文社、1980年。他
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- テンプレート:Cite book〈ハヤカワ文庫〉、1978年。
- テンプレート:Cite book〈ハヤカワ文庫〉、1972年。
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- テンプレート:Cite book〈ハヤカワ文庫〉、1976年。
- テンプレート:Cite book〈ハヤカワ文庫〉、1976年。
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- テンプレート:Cite book〈創元推理文庫〉、1959年。
- テンプレート:Cite book〈創元推理文庫〉、1960年。
- テンプレート:Cite bookハヤカワ文庫、1976年。
- テンプレート:Cite bookハヤカワ文庫、1977年。
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- テンプレート:Cite book〈ハヤカワ文庫〉1977年。マイケル・クライトン名義、〈ハヤカワ文庫〉1993年。
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- テンプレート:Cite book〈文春文庫〉、1985年。
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- テンプレート:Cite book〈ハヤカワ文庫〉、1984年。
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