ジャパニーズ・メタル

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ジャパニーズ・メタルは、1980年代に流行した音楽のジャンルで、日本人によるヘヴィメタルを指す。ジャパメタと略して呼ばれることもある。

ほぼ同様の意味で用いられる言葉として、和製ヘヴィメタルがある。

ジャパニーズメタルの歴史

1960年代

ザ・ゴールデン・カップスザ・モップス内田裕也とフラワーズパワーハウスなど一部の洋楽志向(言い換えるなら、洋楽に匹敵する演奏技術を修得することを第一の信条とする考え方)のグループ・サウンズ・バンドがジミ・ヘンドリックスクリームアニマルズ等の曲をカヴァーしていた。グループサウンズのブームも終わりかけた頃(1960年代末)、日本ではニューロックを手掛けるバンドが急増した。

ただし、1ドル=360円の対ドル固定相場制経済の時代の海外ミュージシャンのアルバムは高価で貴重な舶来の“資料”であり、この頃の日本のハード・ロック/ヘヴィ・メタルはそれらの資料を礎にとした、まだ海外の模倣から始まった段階で、言うなればジャパニーズ・メタルにとってはまだ先史時代である。先史時代の技巧派バンドであるゴールデン・カップスパワーハウスは神奈川県横浜市界隈で誕生しているが、これは横浜が洋楽の最新輸入レコードという“資料”が集中して集まる米軍基地のある土地だったことと関係している。彼らの演奏技術が並外れていたのは、彼らの演奏活動がロックの本場の米兵を相手にすることが多く、日本にいながら本場の人間たちに揉まれたことと関係しているが、これは1970年代に沖縄で誕生するコンディション・グリーンにしても同じである。

「ハード・ロックは本場に限る。日本のバンドはそのモノマネに過ぎない」といった現代に通じる国内のハード・ロック/ヘヴィ・メタル・バンドへの偏見というものは、海外のブルース/ハード・ロックのコピー曲がその作中の半数~全数を占めていたザ・ゴールデン・カップス『THE GOLDEN CUPS ALBUM』(1968年)、パワーハウス『ブルースの新星』(1969年)、内田裕也とフラワーズ『CHALLENGE!』(1969年)といったアルバムの存在からも見えてくるだろうが、バンドの成り立ちが洋楽のコピーから出発し、コピーの完成度を競っていたバンドが多かったこの時代に醸成されたものと推測される。当時は洋楽バンドのコピーの巧さこそが一流バンドの証でもあったのだ。

1970年代

日本のハードロック/ヘヴィメタルの創世記は、内田裕也のプロデュースによって1970年に結成されたフラワー・トラベリン・バンドの存在なくしては語れない。ブラック・サバスキング・クリムゾン等のコピー曲が大半だった1stアルバム『ANYWHERE』(1970年)ののち、バンドは米アトランティック・レーベルと契約を結び、オリエンタリズム溢れる独創的なハード・ロックの2nd『SATORI』(1971年)等を発表、日本のハードロック/ヘヴィメタル系バンドで初めて海外でもライブ・ツアーを行っている(※ ミッキー・カーチス&サムライは1960年代後期にヨーロッパで活動を行なっているが、このバンドの音楽性はサイケデリック・ロックであって、ハード・ロックではない)。しかしながら、海外レーベルの契約とともに活動拠点をカナダに移したことによって日本国内での活動の空白期を作ったことや、そもそもが外来語である英語の歌詞にこだわった彼らに対して、当時の日本が演歌歌謡曲フォークソングなど日本語歌詞で情緒に訴えかける音楽が全盛だったことなど、複数の要素が絡み合い、1973年の帰国後間もなくして解散してしまう。

1970年ザ・ハプニングス・フォークニ河内内田裕也率いるザ・フラワーズからフラワー・トラベリン・バンドに移行する前の石間秀樹ジョー山中らは『クニ河内とかれのともだち』名義で、すべて日本語で構成されたアルバム「切狂言」を録音している(発売は、フラワートラベリンバンドのファーストアルバムの発売より後)。

同年、元ザ・フィンガーズ成毛滋はヴァニラ・クリームを経て、ジプシー・アイズを結成。1971年にはつのだひろ柳ジョージらと共にストロベリー・パス名義で、ジミ・ヘンドリックスやレッド・ツェッペリン、ELP等からの影響が色濃く出たハードロック/プログレ・アルバムを発表。その後、柳に代わり高中正義をベーシストに迎え入れたストロベリー・パスはフライド・エッグへと発展する。当時の舶来物のロック・レコードのコピーに明け暮れたと思しき成毛のギターの腕前は日本人離れしており、ギター・メーカーのグレコとタイアップした教則本ではリッチー・ブラックモアやジミー・ペイジ等の当時のロック・ギターの最新テクニックをレクチャーする等、1970年代の日本のハード・ロック・ギタリストへ与えた功績は大きい。成毛は海外でロック・コンサートを観覧した折にロック・サウンドを大音量で鳴らすことの出来るPAシステムの存在を知り、PAシステムを日本国内に持ち込んだ第一人者としても著名である。

タレントとして活躍する鈴木ヒロミツ井上陽水の初期~中期キャリアの音楽パートナーである星勝らが在籍し、1960年代にグループ・サウンズ・バンドとして活躍したザ・モップスは、1970年代の幕開けとともにレッド・ツェッペリン風の本格的なハード・ロック・バンドへと移行。1971年に発表されたアルバム『御意見無用』に収録された「御意見無用(いいじゃないか)」では、ブリティッシュ・ハード・ロックと阿波踊りのリズムを掛けあわせた和のハード・ロックを鳴らし、1990年代以降の人間椅子陰陽座らを始めとする和のハード・ロック/ヘヴィ・メタルの先鞭をつけている。

ヘヴィ・メタルという観点でいえば、竹田和夫率いるブルース・クリエイションが、ブラック・サバスから着想を得たと思われる「原爆落し」「悪魔と11人の子供達」という曲を1970年にはすでにステージで演奏しており、現在では主に海外においてヘヴィ・メタルのプロトタイプの1つとして認知されている。1971年には2ndアルバム『悪魔と11人の子供達』と、カルメン・マキとのコラボ・アルバム『カルメン・マキ/ブルース・クリエイション』を発表するが、このアルバムは当時知名度のあったカルメン・マキのおかげもあって好セールスを記録。その後、ブルース・クリエイションは解散するが、のちにメンバーを一部刷新したクリエイションとして再編され、本格的なブルース・ハード・ロック・バンドとしての道を歩むこととなる。クリーム (バンド)のプロデューサーやマウンテン (バンド)のメンバーとして著名なフェリックス・パッパラルディにその実力が認められたことで、1976年には日・東芝EMI/米・A&Mからマウンテン直系のハード・ロック作『CREATION WITH FELIX PAPPALARDI』がリリースされ、全米20か所にも及ぶライヴ・ツアーへと繋がった。フェリックスとバンドはこの時期に日本武道館公演も敢行しており、1970年代に商業的に成功した唯一の日本のハード・ロック・バンドと言えるかもしれない。

1970年代初期の日本ではハード・ロックが人気がなかったがゆえ、日本のハード・ロック・バンドは不遇な活動を強いられたとする説があるが、当時の海外のハード・ロック・バンドの日本での認知度を考えた時、ディープ・パープルの日本公演録音盤『MADE IN JAPAN』(1972年)や、1971年にレッド・ツェッペリンが、1973年にマウンテンが日本武道館公演を行なっている事実等を総合的に判断すると、1970年代の日本国内ではハード・ロックという音楽そのものが不人気だったわけではないことは明らかであり、単に日本のハードロックが人気無かっただけの話である。事実、1981年にデビューしたLOUDNESSがデビューコンサートのチケットが完売するまで、当時の音楽業界での認識は「日本のハードロックは売れない」とまで言われていた程であった[1]グランド・ファンク・レイルロードの1971年の後楽園球場でのライヴは、日本における伝説的な来日公演として今も語りぐさになるほどだ。

1973年に結成、1977年にデビューしたLAZY(バンド名は、ディープ・パープルの同名曲に由来する)は、当初、事務所の営業方針でアイドル・バンドとして活動をさせられていたが、コンサート会場では海外のバンドのカヴァー(UFOなど)を演奏し、特に高崎晃の卓越したギター・プレイについては、当時現役高校生で、しかもアイドルという立場であったにもかかわらず、この時既に注目を集める事になっていた。

この時代の他のハード・ロック・バンドに関しても言及すると、1970年代初期にはブルース・ヘヴィ・ロックのスピード・グルー&シンキトゥー・マッチ、プログレ・ハード・ロックのコスモス・ファクトリー、ハード・ロックンロールの外道等がいる。中期に入ると、カルメン・マキ&OZ、現在も現役で活動しているBOW WOW、沖縄版ディープ・パープルと言わしめた、紫と同じく沖縄のバンドでニワトリの首を切るなど残虐なパフォーマンスでその名を轟かせたコンディション・グリーンらがデビューを飾り、日本のハード・ロック・シーンが少しずつ盛り上がっていく。とはいえ、当時はまだ国内のハード・ロックは渾然としたものであった。

1970年代が終わりに近づくにつれ、洋楽志向で技巧至上主義だったハード・ロック・ミュージシャンの多くは、その高いミュージシャンシップを発揮する場として(当時、世界的にも退潮にあった)ハード・ロックを選択せずに、ジャズ・フュージョン系のサウンドに流れていった(高中正義や、竹田和夫等)。他にも、歌謡ロックやレゲエのジョー山中、ニューミュージック系のアレンジャーとなった星勝、ブルースマンの柳ジョージトランザムを経て萩原健一のバックを務めた石間秀機、ハード・ロックのルーツの1つであるニュー・ロック(サイケ・ロック)を志向していたエイプリル・フールのメンバーだったが、その後アメリカン・ロック風のはっぴいえんどを経てテクノ・ポップ・バンドYMOに関わった細野晴臣など、1970年代のハード・ロッカーの転向は枚挙にいとまがないが、彼らの音楽的な転向が、1970年代と1980年代の日本のハード・ロック/ヘヴィ・メタル・アーティスト及びファンの世代間の断絶を生み出したとも考えられる。

1970年代に登場した日本のハード・ロック・バンドや、関わったミュージシャンのその後を歴史を客観的に考えると、彼らの多くはハード・ロック・サウンドという音楽形態を心から愛していたわけではなく、流行の最先端の音楽としてハード・ロックを選択していたのではないか、という疑念は生まれて当然であろう(例外は、LAZYBOWWOWといったごく限られた後発組)。

1980年代前期

1980年、英国でのアイアン・メイデンらを筆頭とするNWOBHMムーヴメントに感化されるようにして、アイドルグループとして活動していたLAZYが「ヘヴィ・メタル宣言」を行い、アルバム「宇宙船地球号」をリリース。しかし、そのLAZYは音楽的方向性を巡るメンバー間の意見の相違が表面化し1981年5月31日に解散となる。これを機に、高崎と樋口宗孝が本格的なヘヴィ・メタルバンド「LOUDNESS」を結成し、1981年11月にアルバム「誕生前夜」でデビュー、12月には浅草国際劇場でデビューコンサートを開く。

LAZY同様、営業面の問題から歌謡曲路線を取らされていたBOW WOWが本来のヘヴィメタルバンドに戻ることを宣言し、1982年 - 1983年には海外のロック・フェスティバルレディング・フェスティバル)に参加した。この他では、のちに俳優として活躍するうじきつよし率いる子供ばんども活発なライブ活動をし、各地のイベントの常連となっていた。

ヘヴィメタル」の項目でも触れているが、この頃から音楽雑誌の「YOUNG GUITAR」と「ロッキンf」が日本のヘヴィメタルバンドの為にフェスティバル等を開いたりと積極的にヘヴィメタルシーンを盛り上げていた。

1983年から翌1984年にかけて、関西ではEARTHSHAKER44MAGNUMMARINOX-RAYMAKE-UP、東京からもBLIZARDAROUGEなどのヘヴィメタルバンドが次々とデビューを果たす。また、この頃はアイドル的な女性メタルシンガーを次々と出す傾向もあり、樋口宗孝のプロデュースで浜田麻里が、高崎晃のプロデュースで本城未沙子がデビューを飾り、それに続いて早川めぐみ橋本みゆきアニメソング歌手の橋本みゆきとは同姓同名の別人)等のイニシャルが「H.M.」(つまりHeavy Metal)の女性シンガーが次々とデビューを飾るが、長期にわたって継続的に活動したのは浜田だけであった。

1980年代中期 -第2世代の登場・海外進出-

1984年には伝説のイベント「GRAND METAL」が大阪城野外音楽堂で開催され、当時活躍が期待されていた若手バンドが出演した(出演バンドはAROUGERAJAS本城未沙子BLIZARDMAKE-UPMARINOX-RAYACTION44MAGNUMAROUGEは後に筋肉少女帯に加入する橘高文彦が在籍していたバンドであり、当時の橘高は19歳だった)。

LOUDNESSは1983年にはアメリカ、1984年にはヨーロッパを中心にライブ活動を行い、夏には海外へのアピールとしての「DISILLUSION 〜撃剣霊化〜」英語ヴァージョンをリリース。翌年、1985年には米アトランティック傘下のアトコ・レーベルと契約し「THUNDER IN THE EAST」で世界デビューを果たすが、このアルバムより米国でのLAメタルを意識したサウンドに変化している。これに続いて、BOW WOWがメンバーチェンジを機にバンド名をVOW WOWに改め、LOUDNESSと同様に海外での活動を展開してゆく。

1984 - 1985年頃になるとMötley CrüeRATT等を筆頭に世界中で盛り上がり始めたLAメタルの影響もあってか、インディーズのメタルバンドの殆ど多くにただ単にLAメタルのように派手な格好でポップなメロディを導入すればそれで受けてしまうと言う風潮が生まれる。その一方で、東京で結成されたANTHEMは当初はNWOBHMの影響を単純に受けたバンドであったが、福田洋也加入後にACCEPTMANOWARに代表されるパワーメタル的な音楽的要素を取り入れて先鋭化し[2]SABBRABELLSBlack SabbathAlice Cooperを彷彿とさせるシアトリカルかつ悪魔崇拝的なステージングとヘヴィなサウンドで、北海道から登場したFLATBACKERはヴェノムと日本のハードコア・パンクを混ぜたような過激なサウンドと放送コードギリギリの過激な歌詞で日本のヘヴィメタルシーンを盛り上げていった。1984年にはインディーズながらANTHEMやSABBRABELLSを始めとした関東のバンド、SNIPERといった名古屋のバンドが集まり、オムニバスアルバム「HEAVY METAL FORCE Vol.1」を木箱入りでリリースしたりと積極的なアピールを展開する。その後、ANTHEMとFLATBACKERは1985年に、SABBLABELLSは1986年にメジャーデビューを果たす。

1985年8月にシングル「素敵にダンシング」でデビューしたSHOW-YAは、メンバー全員が女性という当時としては異例のバンドであった。初期は秋元康が楽曲を手掛けているなどいわゆる“歌謡メタル”的なテイストを多分に含んでいたが、徐々にサウンドのハードさが増していき、1989年に昭和シェル石油のCMタイアップ曲となった「限界LOVERS」が大ヒットし日本のヘヴィメタル界に新風を巻き起こす。また、SHOW-YAは1987年から年に1回の割合で女性ロッカーだけを集めたロックイベント「NAONのYAON」を開催し、女性ロッカーの地位向上に大きく貢献する。

聖飢魔IIがメジャーシーンに登場したのもこの1985年のことである。元々は早稲田大学フォークソングクラブに発祥の由来を持つバンドであり、9月にアルバム「聖飢魔II〜悪魔が来たりてヘヴィメタる」でデビューしたが、日本のバンドに対してはやたら冷酷な評価をする事で有名なヘヴィメタル雑誌の「BURRN!」では0点の酷評をされた。もっとも、これについては採点者である酒井康の全く個人的な価値観に基づいたもので客観性には乏しい面があり、このアルバムの評価が0点だからと言って単純に駄作と切って捨てられる様なものではなく、BURRN!編集部の藤木昌生はこのアルバムを高く評価している。とはいえ、聖飢魔IIは酒井の0点レビューも1つのきっかけとなり既存のメタルファンよりもJ-POPファンに訴求の中心軸を置く販売戦略を選び、結果的に(酒井の願望とは裏腹に)音楽業界で一定の成功を掴み取ってゆくこととなる。

同年10月10日、「JAPAN HEAVY METAL FESTIVAL」が東京の日比谷野外音楽堂で開催された。これには新進気鋭のANTHEM、FLATBACKER、聖飢魔II、RAJAS、ベテラン格になっていたMARINO、海外からの招待ゲストとしてスウェーデンのシルヴァー・マウンテンが出演。当時のYOUNG GUITAR誌の記事にはMARINOが登場した頃に会場が盛り下がり始め、デビューしたばかりのANTHEMやFLATBACKERなどの新しい血を求めたファンが圧倒的に多かったと記載している[3]。実際、バンドとしての全盛期を過ぎていたMARINOはこの1985年、X-RAYは翌1986年にレコード会社から契約を打ち切られ、解散の道を選ばざる得ない状況にまで追い込まれている。

1980年代後期

1980年代後半は、LOUDNESS、VOW WOWに続いてANTHEMがLAでライブを行い、1987年にFLATBACKERが『E・Z・O』へ名前も音楽性も変えてジーン・シモンズプロデュースによるアルバム『E・Z・O』で世界デビューし、全米チャート入りを果たした[4]。同年にはVOW WOWの楽曲「DON'T LEAVE ME NOW」が全英シングルチャートのトップ100に3週チャート・インした[5]。そして、聖飢魔IIを脱退したギタリスト大橋隆志も渡米後にアメリカ人と結成した日米混成バンド「Cats In Boots」で1989年に世界デビューを果たすなど、日本発のHR/HMシーンが開花し、ひとつの頂点を極めようとしていた時期であった。だが、この時代の海外進出組のバンドの音楽性を客観的に見ていくと、どれもが洋楽バンドに匹敵する演奏やサウンドこそがウリであり、彼らの鳴らしていた「日本のバンド」というアイデンティティを軽視しての無国籍なメタル・サウンドは、本質的には舶来物の代用品であった。これは1970年代の日本のハード・ロック・バンドの多くと何ら違わない傾向である。

この時期、日本国内のジャパメタシーンはその足元から徐々に失速の兆しを見せていた。1987年、レコード会社移籍をきっかけに44MAGNUMが「ヘヴィメタルなんかもう古い」という理由でポップなロック路線への転換を行う。だが、それまでのファンから猛反発を喰らい人気は急降下、結局はバンドそのものが方向性を見失い、1988年に打ち込みの導入に反発したドラムの宮脇“JOE”知史が脱退、その後立て直せぬままに翌1989年解散。MAKE-UPも1986年にテレビアニメ聖闘士星矢』の主題歌「ペガサス幻想」でヒットを飛ばしたものの翌年解散。その一方、この時期には元LAZYの影山ヒロノブがアニメ・特撮の主題歌を数多く手掛ける様になるなど、少なからぬメタル系ミュージシャンが自身の生活と芸能活動の維持の為に、メタル系以外への芸域の拡大を模索し始めていた。影山は1990年代以降、一部の楽曲でゴールド・ディスクを獲得したりミリオンヒットを飛ばすなど、アニメソングの分野で兄貴分としてのポジションを確立しジャンルの牽引者の1人となる。ヘヴィメタル・クイーンと呼ばれた浜田麻里も1989年に「Return to Myself 〜しない、しない、ナツ。」のリリースを機に脱ヘヴィメタルを宣言[6]し、転じたJ-POPシーンでブレイクし、1990年代前半まで安定した人気を保つ事となる。

他方で、ANTHEMは1987年にボーカル坂本英三が脱退し後任に森川之雄が加入、またこの時期から音楽性の幅が広がっていったにも関わらず人気は鈍化傾向で、興行面という意味においての苦戦が続いていた。海外に展開していたFLATBACKER改めE・Z・Oも活動順調とは言い難く、アメリカで苦戦を続けるメンバーは、所属事務所の戦略により隈取を施した“忍者メタル”などという一種のキャラクター路線まで模索を余儀なくされていた。同じく海外進出していたLOUDNESSは1989年にボーカリスト二井原実を解雇し、アメリカ人のマイク・ヴェセーラを起用した。ボーカルが交替したLOUDNESSはアルバム「SOLDIER OF FORTUNE」をリリースする。このアルバムは、プロモーションに際してバンドの顔であるボーカルが日本語を話せないという大きな難があった事も悪影響したか、日本国内ではセールス的に失敗となってしまう。

この1989年には、聖飢魔IIがメタル系バンドとして初めて年末の『NHK紅白歌合戦』に選出され「白い奇蹟」を披露したが、「白い奇蹟」はメタル・ナンバーではなくバラード・ナンバーである。 しかし、これもXなどヴィジュアル系となったバンドを除外した場合には後続が無く、現在に至るまで実質的に史上唯一のメタル系バンドの紅白出場となっている。

1980年代後期 -インディーズ・メタルブーム-

他方で、この1980年代後半の日本のロックシーンには、バンドブームイカ天ブームが起こり、そのブームは1990年代初頭まで継続した。バンド・ブームではその後に元AROUGEの橘高文彦が加入することとなる筋肉少女帯や、LAメタル系のハード・ロックンロール・バンドZIGGYらがその恩恵を受け、イカ天からは1970年代初期系和風ハード・ロックの人間椅子やグラム・ハード・ロックのマルコシアス・ヴァンプらが登場している。

ヘヴィメタルバンドも多分に漏れず、例えば関東ではプロージョン系(ライヴハウス「エクスプロージョン」を中心に活動するバンド等を意味する)や鹿鳴館系(ライヴハウス「鹿鳴館」を中心に活動するバンド等を意味する)などと主に女性ファンから呼ばれ、どのライヴハウスも女性客で溢れ返った。

この当時、インディーズシーンの牽引役となった主なヘヴィメタルバンドとしては、REACTIONMEPHISTOPHELESDEAD ENDD'ERLANGERXCASBAHHELLENDEMENTIAJURASSIC JADEJEWELMURBASUNITEDURGH POLICETILTSNIPEROUTRAGEPRESENCEMEIN KAMPFSAVER TIGER(横須賀)等が「ロッキンf」誌で挙げられている。

この時期のジャパメタの新鋭は、モトリー・クルーなどのLAメタルからの影響でポップさや奇抜なルックスを追求するバンド(REACTION、D'ERLANGER、DEAD ENDなど)がいる一方で、メタリカスレイヤー等のスラッシュ・メタルからの影響を大きく受けてサウンドを先鋭化させるタイプ(OUTRAGE、UNITEDなど)もいるが、前者はその後のヴィジュアル系へと受け継がれていった。興味深いのは、その双方の要素を極端な形で飲み込んでいったXの存在であろう。

これらのバンドで後にメジャーシーンでのデビューまで辿り着けたのはREACTION、DEAD END、X、OUTRAGE、UNITED、TILT、PRESENCEくらいで、特に大成功を収めたのはXであるが、デビュー前のXの評価はDEMENTIA、SAVER TIGERと共に「関東三大粗大ゴミバンド」という、ありがたくない評価を受けている存在であった。その他のメジャーデビューに至らずに終わったバンドでも、MURBASには廣瀬洋一、URGE POLICEには吉井和哉といった後に大成功を収める「THE YELLOW MONKEY」のメンバーが在籍していたり、DEMENTIAにはX - LOUDNESS - DTRの沢田泰司や現UNITEDの吉田“HALLY”良文(g)、後にハウリング・ブル・エンターテイメントを立ち上げる小杉茂(Vo、当時のステージネームはGEESS)、現TOKYO YANKEESのU・D・A(Ds)が在籍、JEWELには後にmedia youthhideのバンドに参加したKIYOSHIが在籍、MEIN KAMPFには後にCRAZEに加入する藤崎賢一やAIONIZUMIが在籍、HELLENには後に六三四Musashiに加入し、アニメ業界でも活躍する高梨康治など、後年様々な音楽シーンで活躍する人物が在籍していた。

また、MEPHISTOPHELESは1987年に解散しているが、2001年に再結成した際にVAPよりアルバム「METAL ON METAL」でメジャーデビューしている。

Xはメジャーレーベルでのデビューを目指してテレビなどへの積極的なメディア露出を始める。その一方で、Xのリーダー・YOSHIKIは当時の「ロッキンf」や「BANDやろうぜ」等の音楽雑誌編集部に「Xがテレビに出演する理由」という内容のFAXを送り付けた。だが、Xも当初はそのキャラクター的な過激さを期待したバラエティ番組への出演が中心で、実際のところは「ちょっと過激な音楽もできるイロモノ芸人」という扱いであった。Xはもとよりメタル自体がまだ邦楽の中での歴史も浅くビッグヒットも無い、テレビ業界的には“売れ線”ではないジャンルであり、「ロック音楽の中のイロモノ」に過ぎなかったのである。

そのXがインディーズバンドとして活動していた頃、パンクスによる「メタル狩り」と呼ばれるメタルファンとメタルバンドに向けた暴力行為が横行していた時代でもあった。その中でもXはG.I.S.M.GAUZEMASAMIと言ったハードコア・パンク系のバンドやミュージシャンとの繋がりがあった為、パンクスと喧嘩になりそうな場合、Xと繋がりのあるバンドや関係者であると知ると丸く収まると事があり、いかに当時のXがインディーズメタル界で影響力があったかと言うことを後年、ライブハウス「目黒鹿鳴館」の関係者が明かしている[7]

その後、Xはメディア露出を地道に重ねて着実に知名度を得ていき、ソニーとの契約に成功し1989年にメジャーデビューを果たす。当初はヘヴィメタルの範疇として扱われていたが、これが後々のヴィジュアル系に繋がってゆく。

他方で、従来のメタルミュージシャンやファンはXの過激なテレビ露出をメタルのイメージを破壊するものとして嫌っていたが、メタルの業界で当時発言力が大きかった「BURRN!」の編集スタイルなどの影響もあり、メタルの世界では音楽一筋・メタル一筋というイメージを至上とし、メタルミュージシャンがテレビなどのメディアでのパフォーマンスで名前を売ることを良しとしない風潮があった。また、この様なことを行うヘヴィメタルやロックのミュージシャンを蔑視する風潮もあったと言われており、和製メタルの本流を自負するバンドやミュージシャンがメタル専門誌以外のメディアに露出することも少なかった。一般マスコミの持つ大衆への影響力を軽視していたといえばそこまでであるが、メタルに関する情報が全般的に不足気味であった間に、Xのパフォーマンスが、音楽的な興味や知識を持たないバラエティ番組や女性週刊誌などで興味本位的に弄り回され、ヘヴィメタルのアイコンとされた事が原因で、それまでヘヴィメタルという言葉さえ知らなかった世間一般には、ヘヴィメタルの人たちは染髪している、ガリガリに痩せていなければならない、やたら火を吹く、凶暴なキャラクター性、などといった誤ったパブリック・イメージが定着してしまう事となった。

これ以前の1980年代中盤から、初期の聖飢魔IIをさらに過激にしたようなイメージがヘヴィメタルを示すある種の記号としてマスコミやサブカルチャーでは用いられていたが、この時期以降になると、XやさらにXの影響を色濃く受けた初期ヴィジュアル系の様な偏ったイメージをさらに誇張表現した極端なキャラクター様式がそれに混ぜ込まれ、さらにはメタルと同様にヴィジュアル系に影響を与えたパンク・ロックともない交ぜにされ、漫画やドラマでヘヴィメタルを表現する際の視覚的フォーマットとして定着してしまった。2000年代に入ってからでも、デスメタルをテーマとしたギャグ漫画ではあるが「デトロイト・メタル・シティ」がこのフォーマットを利用して作品の形成と人気獲得に成功し、映画化などメディアミックス展開もなされている。

1990年代 -冬の時代-

世界的にはグランジのブームであったが、日本に限ればXを端緒としたヴィジュアル系の全盛期の幕開けであった。

このヴィジュアル系の一大隆盛の到来は、ジャパニーズメタルの視点から見た場合には「メタル氷河期」などとも称される未曾有の暗黒時代の到来でもあった。特に1990年代に入ってからの邦楽のメタルはジャンル全体として衰微傾向が顕著となり、1990年にE・Z・O、VOW WOW、DEAD END、Cats In Boots、1992年にANTHEM、1993年にBLIZARD、1994年にEARTHSHAKERと、1980年代のメタルシーンを第一線で支えたバンドがその役目を終えたとばかりに次々と解散・消滅してゆく。女性バンドSHOW-YAはすぐには解散しなかったものの、サウンドの中核であったボーカルの寺田恵子が1991年に脱退、その後は新ボーカルにアメリカ人シンガーのステファニー・ボージェスを迎えたもののセールス的に退潮傾向を食い止められず、インディーズに場を移したものの全盛期の輝きは戻らず結局1998年に解散。海外を中心に活動にしていたバンドや日本人ミュージシャンを見ても、E・Z・Oは日本への凱旋を果たせぬまま1990年に現地解散。VOWWOWはアルバム『Mountain Top』の海外での売り上げが伸びなかった事と厚見玲衣の脱退により解散、一時はアメリカで成功したかに見えた日米混成バンドのCats In Bootsもマネジメントのトラブルやメンバー間の不和が続き1990年に解散し、大橋隆志は活動の場を求めてニューヨーク、ロサンゼルスと渡り歩くも1995年帰国。

1992年、元E・Z・OのMASAKIと、元XのTAIJIこと沢田泰司がLOUDNESSに加入し、これと同時にLOUDNESSの楽曲はPANTERAのような過激なスタイルに変貌した。それにも関わらず、その話題性の高さでオリコンチャート初登場2位という記録を打ち立てたが、1990年代前半を見渡してもジャパメタの明るい話題はこれぐらいであり、翌年には所属事務所の契約上の問題や沢田と樋口の脱退といったトラブルが相次ぎ、第3期LOUDNESSはたった1年で幕を閉じた。音楽シーン全体を見渡せば、Xの影響をまともに受けたヴィジュアル系バンドが雨後の筍の如く次々と登場し全盛を極め、その勢いに呑み込まれる形でライブハウスもまたヴィジュアル系を中心軸に据えた興行体制に移行してゆく。これらとは対照的に、メタルバンドはCDセールスもライブの観客動員も全般的に伸びなくなる。

ジャパメタ・バンドの多くが解散やメンバーの脱退に見まわれ、尻つぼみになっていく状況下の1994年、EARTHSHAKERLOUDNESSBLIZARDの元メンバーによるスーパー・バンドSLYが結成されメジャー・デビューを果たしている。また、戸城憲夫新美俊宏横関敦らによるLANCE OF THRILLも同1994年にメジャー・デビュー。このSLYとLANCE OF THRILLは世界的なグランジ/オルタナティヴ・ロック・ムーヴメントに呼応するメタル・サウンドをそれぞれ独自に展開していったバンドだが、この1990年代中盤~後半におけるOUTRAGELOUDNESSの音楽的な変貌もこのグランジ/オルタナ・ムーヴメントを意識したものであった。

メジャーシーンでどうにか生き残ったバンドとしては聖飢魔IIがおりメタルバンドとしてのバンド構成は健在であったが、1990年代の同バンドはサポートメンバーによる電子楽器を多用し、ハードロックを主軸としてプログレッシブ・ロックから果てにはポルカフォークソングまで多種多様なジャンルの音楽の取り込みを積極的に試みるなど、純然たるヘヴィメタル様式の楽曲は少なくなり、主にハードロックバンドに分類される様になった。

また、バブル景気崩壊後の急激な日本経済の縮小の中、業態再編や利益性・費用対効果の向上に追われた企業体質の変化の過程の中で、メタル系はメガヒットが出ない事などから収益性が低いジャンルと見なされ、メジャーレーベルの多くがメタルバンドに対して契約解除を行った。契約解除の理由については、契約(期間・内容)の満了・CDの売上不振・レコード会社側の経営戦略の見直しの一環・レコード会社とバンドの方向性の不一致・バンドメンバーの不祥事や性格的問題など色々と付けられていたが、いずれの理由にしたところで結局は、新旧数多くのメタルバンドがメジャーレーベルを追われ、新たな契約先を求めて音楽業界をさまよう、あるいはインディーズでの活動への転換など、苦難の道を強いられる事になってゆく。だが、メジャーレーベルから契約を解除された後、他のメジャーレーベルで新たな契約を得てメジャーシーンで活動を継続できたバンドはそれほど多くはなく、むしろこの時期に解散や活動休止に追い込まれたバンド、活動の基盤を失ったメタルミュージシャンは数多い。

この様な厳しい状況下で、1980年代のジャパメタシーンを第一線で支えたミュージシャンですら、メタル一筋では生活してゆくことすらままならなくなる者が続出した。これらの中には生活費と音楽活動の資金・コネクションを確保・維持するため、あえてメタルの看板を外して、J-POP系やアニメ関連楽曲の作曲やプロデュース、バックバンドに活動の軸足を移し、活動範囲を拡大していった者も少なくない。その他、音楽関係の仕事を続けるにしても、専門学校などの講師や、ライヴハウス録音スタジオのスタッフになり、現在ではそちらが事実上の主業になっている者もいる。また、メジャーシーンから姿を消した者の中にはメタルとおよそイメージのかけ離れた世界に生活の糧を求めた者もいる。実際、元ANTHEMの坂本英三が後述するアニメタルでブレイクするまでは会社員やタクシー運転手を主業としながら音楽活動を続けたり、商業音楽の世界に失望した元VOW WOWの人見元基が「コマーシャルな世界で歌いたくない」という理由で音楽業界から引退した後に地方公務員高校英語教師)に転職した事などはよく知られている。但し坂本は現在もANTHEM(2014年2月に再脱退)やソロ活動の傍ら、音楽学校の講師としても活動しており、人見も業界からは遠ざかっているが学校が夏休みや冬休み等がある時期は大谷令文らを率いてカヴァー曲を中心にライブ活動を行っている。

新進のメタルバンドについても苦難を耐え忍ぶ時代となった。元来は本格的なメタル系の音楽を志向・追求していたものでも、メジャーデビューを目指すにあたってはその販売戦略上の各方面からの要求などでヴィジュアル系に近い路線を取らざるを得ず、音楽性・ルックスすらもヴィジュアル系のファンに迎合する形への路線変更に追い込まれてゆくケースや、さらには「メタルだから」という理由でライブハウスから門前払いにも等しい扱いをされるなど、演奏の場を確保する事すらままならない者さえ出てくるという、大変に過酷な状況が見られる様になった[8]

これらの結果として、音楽性としてヘヴィメタルを前面に押し出すスタイルのバンドは影を潜め、本流のジャパニーズメタルバンドとしてほぼ唯一安定した活動を続けていたLOUDNESSでさえ、1990年代の終わりまでは高崎晃以外のメンバーチェンジを繰り返しながら細々とした活動を余儀なくされる事となる。

もっとも、この様な状況を形成する一因となったXもまた、順風満帆とは到底言い難い活動状況に陥ってゆく。1992年、TAIJIを解雇すると同時に海外進出を企図して「海外の同名バンドとの商標問題(名称競合)の回避」という理由でバンド名をX JAPANへと改め、以降も新曲をリリースすればオリコンチャートでは必ず5位以上の上位に食い込んだものの、様々な事情によりシングルのリリースですら1年に1枚がやっとというスローペースであり、アルバムに至っては5年間もリリースできない状態に陥る。また、X JAPAN改名後も様式としてメタルバンドのフォーマットを維持し続けたものの、この頃になると「X=ヘビメタ」というイメージは消え、ヴィジュアル系の始祖として「メタル系バンドともヴィジュアル系バンドとも異なる別格中の別格の存在」として特別視される事が一般的となり、いつしかヘビメタというメタルにとっての蔑称すら聞かれなくなった。また、そのファン層の一部の熱狂ぶりのあまりの凄まじさゆえ、X JAPANを批判することはある意味で危険極まりない行為となり、結果的にメタルファンやメタル系音楽マスコミにとってはX JAPANに触れる事自体が一種のタブーとなった。かくして、X JAPANとそのメンバーはメタルの世界からは切り離された存在になってゆく。また、Xを解雇されたTAIJIこと沢田泰司は、上述した様にLOUDNESSへの電撃加入という形でメタルの世界に舞い戻ったものの、彼もまた著しいスランプや公私のトラブルが重なり、1990年代後半の一時期にはホームレスも同然という状態にまで転落していった。

なお、この時期に凄まじい勢いでメジャーシーンを席巻した数多くの「ヴィジュアル系バンド」の中にも、音楽性で本格的なメタル様式の流れを汲んでいたものは若干見られ、とりわけ市場的成功を収めたバンドとしてはLUNA SEASIAM SHADEが挙げられるが、これとてヴィジュアル系の巨大なムーヴメントとマスメディアの要求には逆えるはずもなく、結局は過激なリズムのヴィジュアル系バンドとして時流に呑み込まれることとなる。

この時代に広義的な意味でのハード・ロック/メタル的なサウンドを鳴らして、最も商業的に成功した日本のバンドはB'zであろう。冬の1990年代にミリオンヒットを連発し、ハード・ロック/メタルとは無縁だったはずの一般大衆の耳をディストーション・ギター・サウンドに耐えうる耳に調教してしまったB'zおよび松本孝弘が果たした役割は見逃せない。彼らは、ハード・ロック・ギター・サウンドを日常的なサウンドにしたのである。

1990年代後半

一時期はいつまで続くのか際限が見えなかったジャパメタの氷河期は、1996年末、誰にも想像できなかった形で一応の終焉を迎える事となった。

きっかけを作ったのはギタリストの野村義男とプロデューサーの久武頼正で、2人の軽い冗談の会話からアニメソングをヘヴィメタル様式で演奏するアニメタルが企画された事による。アニメタルのボーカリストとして元ANTHEM(当時)の坂本英三を迎えようと考えた久武は早速交渉し、当時会社員生活をしていた坂本も承諾。そして1996年末にアニメタルは「さかもとえいぞう」名義のソロ活動という形でデビュー。従来ヘヴィメタルを扱っていた音楽マスコミやFMラジオのみならず、テレビなどの一般マスコミからも大きな注目を集めブレイクした。翌年にはバンド体制で活動を開始し、デビューアルバム「アニメタル・マラソン」をリリースする。

この「アニメタル・マラソン」がヘヴィメタルファンだけでなくアニメファンからの支持も得られ、また宴会芸ソングとしてカラオケについても一定規模の需要の創出に成功し、この種の企画性のあるものとしてはジャパメタ史上類を見ない30万枚という売り上げを記録したが、この現象も含めてアニメタルをどう扱うべきかとメタル系専門の音楽マスコミは大いに頭を悩ませる事になったし、ジャパメタを応援してきたリスナーの側からもアニメタルという芸能界の企画物へ参加するメタル・ミュージシャンは、結果として日本のメタルシーンやメタル・ミュージシャンの品位を貶めることになりはしないのか、といった疑念が生まれた。

だが、アニメタルの商業的成功は当時のメタル業界にとって非常にインパクトのある出来事であり、影響は程なくして現れた。果たして、これを見た数多くのメタルミュージシャンが一斉に追随したのである。かくて、これ以降の数年間にわたり「○○メタル」などと銘打った似たような企画型メタルバンドの乱立が続くこととなる。その中には1980年代、正統派ヘヴィメタルとしてイロモノや企画ものを嫌う言動をしていた者も少なからず混じっていたのは、当事者のみならず、その時代を知る者にとっても皮肉な光景であったというより他にない。だが、これは同時に、メタルの世界で知名度の高い正統派メタルミュージシャンでさえ正統派ヘヴィメタルの音楽一筋だけでは生活していけない者が当たり前にいた、当時のメタル氷河期の現実を如実に見せつけた光景でもあった[9]。また、このアニメソングを利用した企画盤の制作という手法はメタル分野以外からもさらなる追随者を生み出し、テクノユーロビートなど1990年代後半に市場的退潮に悩んでいたものを中心に幅広いジャンルで「アニ○○」などと銘打った企画盤CDが数多く作り出されることとなった。

また、メタルミュージシャンでもバンド解散後にスタジオミュージシャンとして活動していた者などを中心に、アニメ特撮主題歌イメージソングテレビゲームアダルトゲームの主題歌・サントラなどの作曲やプロデュース業へと本格的に進出する流れは1990年代前半からあったが、こちら側で注目を集める者が次々と現れたのもこの1990年代半ば以降のことである。彼らの進出によりそれまではあくまでアイドル歌謡子供向け音楽の延長線上的な色合いが比較的濃かったアニメ・ゲーム業界の音楽が、音楽番組などでそのまま流しても違和感の無いレベルまで洗練・先鋭化され、時として単なる劇伴や販売促進の域を超える話題性を持つものも現れる様になった。なお、このメタルミュージシャンとアニメ・ゲーム業界が繋がる流れは現在もなお続いており、1980 - 90年代のメタルミュージシャンとして知られる者の中には、現在ではこちらが事実上の活動の中心となっている者も存在する。また、ニトロプラスの様にアダルトゲームのメーカーながらも主題歌にハードなメタルの曲を使用して、メタルファンにまでその名を知られる様になったメーカーも存在している[10]。その他、この様なスタイルで現在音楽活動を行っている若手・中堅のミュージシャンの中にも、1980年代から90年代のジャパメタのフォロワーとしてのスタイルを時折見せる者が存在している。

1997年9月、X JAPANがTOSHIの脱退を理由に解散を発表、同年の大晦日の東京ドーム公演を最後に解散する。それから約半年後の1998年5月2日、Xの元メンバーでも当時最も好調な活動を見せていたはずのhideが不慮の死を遂げる。[11]hideの告別式は築地本願寺に関係者・ファンなど約5万人が参列した大規模なものとなった(詳細はhideの項目参照)。 また、同じ時期に、1980年代のヘヴィメタルシーンをリードしたギタリストとして知られる、元BLIZARDTWINZER松川敏也が、音楽シーンから姿を消している。[12]

他方で、1998年になると、8月にバップから正統派のネオクラシカル系ヘヴィメタルバンドのConcerto Moonがデビューを飾り、5月にはコミカルな歌詞とパフォーマンスかつ本格的なメタルサウンドが特徴のSEX MACHINEGUNS東芝EMIシングル「HANABI-la大回転」、10月にはアルバム「SEX MACHINEGUN」でデビューした。

コンチェルト・ムーンは比較的コアなメタルファンにしか浸透できなかったものの、SEX MACHINEGUNSは露出するための戦略としてあえてヴィジュアル系のようなメイクをしたことの他、「みかんのうた」のようなコミカルで特徴的な歌詞などからカラオケでの需要などが大きく発生し、2000年以降「HEY! HEY! HEY!」や「堂本兄弟」などの音楽番組にも数多く出演していた。これが奏功してメタルファン以外にも受け入れられていったが、そういったバンドの姿勢を嫌うある意味では保守的な思想のメタルファンの存在も、彼らの登場によって再び表面化する事となった。

1999年4月、メタル氷河期をメンバーチェンジもなくメジャーシーンで耐え抜いた数少ないバンドの一つである聖飢魔IIが、デビュー当時の公約どおりに同年末をもっての解散を予告し、解散前に怒涛のアルバムリリースラッシュと7月から大晦日までの長期ツアーを敢行、年末の東京ベイNKホールのライヴを最後に活動に終止符を打った。[13]

1999年の12月には、筋肉少女帯を脱退した橘高文彦SLYが活動停止となった二井原実、そして爆風スランプファンキー末吉バーベQ和佐田の4名によって結成されたX.Y.Z.→Aが1980年代から続くピュアなジャパニーズ・メタルを旗印にするデビュー・アルバムをリリースしているが、自主レーベルを立ち上げての発売であった(販売網はキング・レコードに委託)。この布陣をもってしても音楽性が「メタル」ではメジャー・レーベルとの契約は困難な、厳しい時代だったのだ。

2000年代 - ベテランバンドの再結成と、オズフェスト世代の登場 -

メタル業界を覆い隠したヴィジュアル系の大ブームが終息し、アニメタルなどによってメタルという音楽が徐々に再認知を得て最悪の氷河期をどうにか脱した状況下、 1998年のLAZY、BOW WOW、1999年のEARTHSHAKER、2000年のLOUDNESS、2001年の44MAGNUM、ANTHEM、2005年のSHOW-YAなど、ベテラン格のバンドが次々と再結成を果たした。その他、期間限定ながら全盛期のメンバーが再集結して活動を行うバンドも、2005年の聖飢魔IIを始めとして幾つか見られている。極めつきは2007年のX JAPANの再結成であり、前述のHIDEの死、TOSHIの宗教絡みのトラブルやYOSHIKIの迷走などを背景に再結成が絶対不可能なバンドとしてまず第一に名が挙がる存在であっただけに、世間の驚きは大きなものがあった。

これらの影響か、2000年代中ごろからは、既に解散しているバンドについてベスト盤発売やライブ・セッションでの元メンバーの共演・ゲスト参加などをきっかけとして、マスコミやインターネットなど様々な経由で再結成の噂が聞かれる事も多く見られている。しかし、実際には単なる流言の域から出ないものであったり、検討されても現在の活動の多忙や、現在志向している音楽との方向性の違い、解散以前に発生した人間関係の齟齬などがネックとなり主要メンバーが揃わずに企画倒れに終わるものも多い。また、再結成を果たしたものでも、全盛期を支えた重要なメンバーが不参加のまま活動するバンドや、再結成の背景としてメンバーが抱える経済的な問題や困窮などの噂がつきまとうものも往々に見られる。そもそもメタルに限らず音楽業界全般の常として、過去のバンドの解散では多くのケースで大きな内輪揉めなどが起きており、それにも関わらず再結成して活動を行うのは、メンバーの多くが解散後に経済的困窮に陥り当座の収入を求めて過去のネームバリューに頼るために妥協をせざるを得なくなったか、あるいは喧嘩別れの解散後に関係が修復できたか、このいずれかであるのが実態であるという[14]

この時代には、1990年代終盤からのKORNリンプ・ビズキットレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンらを筆頭とするアメリカのラップ・メタルや、メタル界の帝王であるオジー・オズボーンが1990年代後半から開催するオズフェストに登場していたニューメタルのバンドに影響を受けた新鋭バンドが、1990年代末期から2000年代にかけて続々登場している。山嵐RIZE宇頭巻らがその先陣を切り、その流れにマキシマムザホルモンなどが続いていった。筋肉少女帯を脱退した大槻ケンヂNARASAKIらと結成した特撮や、樋口宗孝山下昌良横関敦らが結成したBLOOD CIRCUS、元桜っ子クラブANZA率いるHEAD PHONES PRESIDENTなども、この新しい潮流を受けて誕生したものである。この新世代は1980~1990年代のジャパニーズ・メタル・バンドとの繋がりはほぼ皆無に等しかったものの、俳優でミュージシャンの押尾学が結成したラップ・メタル/ニュー・メタル・バンドLIVの2ndアルバムにはLOUDNESS山下昌良がゲスト参加するなど、新旧メタル・アクト同士の交流も一部ではあった。

1990年代からのアニメ・ゲームなどサブカルチャーとメタル業界の関係は2000年代に入ってもさらに発展が続いている。現在ではその影響はアニメのみならず特撮作品にも幅広く浸透しており、これら分野でジャパメタ分野でベテラン・中堅格として知名度を持つボーカリストが起用されるケースがしばしば見られる。

他方では、この時期、日本国内においてもメタル氷河期以前からメジャーシーンで活動していたミュージシャンについてはその多くが中高年の域に入ってきており、その加齢と共にガンなどの大病を患っての長期療養や訃報などの情報が聞かれるようにもなってきた。とりわけ2008年11月、LAZY・LOUDNESSなどでジャパメタシーンを支え続けた功労者の1人である樋口宗孝が49歳で肝細胞癌により死去した際には、その衝撃はメタルのみならず幅広い音楽ジャンルに及んだ。

2000年代中期~後期 -若手の伸び悩み、V系メタル-

テンプレート:Seealso 2000年代以降にデビューし、目立った活動をした主なバンド、アーティストには陰陽座GalneryusCloud Nine夜叉BLOOD STAIN CHILD等がいる。

しかし、それらの大半はセールス・興行という観点で成功とは言いがたい、あるいは一応成功しているにしてもそこから伸び悩む状況に終始しているのが実情である。日本産ヘヴィメタルバンドのCDが売れず観客動員数も少ない背景として、当時のライブハウスの関係者は「バンド側が“自分達の音楽がわかってくれる人にだけ”やっている」「外の社会にそういう閉鎖的な見方でやっているから、結局自分達も閉鎖的なカテゴライズされた世界に入ってしまっている」と分析し、ある大手レコード店の店長は、メタルのCDが国に関係なく売り上げが厳しいことを踏まえて、洋楽は純度の高いメタルは受け入れられているが邦楽は純度が高いと受け入れられない、陰陽座やSEX MACHINEGUNSの様な他の要素が入ったバンドは成功していると分析し、「80年代のジャパメタのカッコ良かったところはヴィジュアル系だと思うんですよね。視覚的なところ、フレージングひとつにしてもね。実際にメタルをやっている人はそこをないがしろにしているような気がします」とも語っている[15]

2006年には、1997年にヴィジュアル系バンドとしてデビューしていたがその後ヴィジュアル系から脱却したDIR EN GREYが海外進出し、日本のメタルバンドとして海外では認知されるようになったものの、海外デビュー当時は日本のメタル専門マスコミの関係者たちの間にはDIR EN GREYをメタルバンドとして認めない風潮が根強く存在しており、実際、2006年のLOUD PARK06に出演した際に音楽評論家の伊藤政則が「BURRN!」誌上で「なぜ、LOUD PARKにヴィジュアル系が出演するのか?」と批判を繰り返しているなど、日本と海外での評価が大きく分かれていた。ただし、時間を経て状況は少しずつ変わり、2011年現在は「BURRN!」でもDIR EN GREYのインタビューが普通に掲載されている。

DIR EN GREYの成功が影響したのか2000年代後半にはヘヴィメタル的要素を色濃く持つバンドが続々と登場し、例として2008年にデビューしたVersailles、元Galneryusのメンバーが在籍するDELUHI、現「BURRN!」編集長の広瀬和生が高く評価を与えていたNoGoD等が音楽雑誌やネット上で注目を集めることとなったが、サム・ダン監督のドキュメンタリー映画「グローバル・メタル」でマーティ・フリードマンがヴィジュアル系のファンとヘヴィメタルファン同士の対立の激しさを証言しているように[16]、ひと度ヴィジュアル系として認知されたバンドについてはその後に国産メタル以上に純度の高いヘヴィメタルを演奏しても認めない風潮があり、同映画でインタビューを受けたSighの川嶋未来はサム・ダンの「ヴィジュアル系がメタルではないと思う理由は?」との質問に「メタルがクールだから、それが答えだ」と答えている[17]

その他、音楽ライターの土屋京輔は上記のバンドだけでなくマキシマム・ザ・ホルモン9mm Parabellum BulletFACTのようなバンドも新世代のメタルバンドとして高く評価している。

また、かつてはSHOW-YAに代表された女性ボーカルのメタルバンドや女性メタル系シンガー、つまりフィメールメタルについても、2000年代に入ってからはヘッド・フォン・プレジデントHIGH and MIGHTY COLORLIV MOONなどの若手・中堅世代が散発的に登場している。とはいえ、日本国内では女性のメタルシンガーはそもそも絶対数が少ないという事情からメタルとハードロックの境界線は男性ボーカルのそれよりも遥かに曖昧である。また海外に活路を求めたり、サブカルチャーとのタイアップに市場を見出そうとする傾向も強い。また、いとうかなこ栗林みな実中野愛子の様にそもそもアダルトゲーム主題歌やアニメソングなどのサブカルチャーの分野から表舞台に登場し、周囲のメタル系ミュージシャンからHR/HMに近い様式の楽曲の提供を数多く受けているシンガーも見られる。いずれにしても、現在メタルやハードロックを歌う女性シンガーには、単純にジャンルの枠にとらわれることなく幅広いジャンルを手掛け、その中でHR/HMの楽曲も歌っているという者が多い。

2008年にはSHOW-YAを中心とした女性ロッカーのためのイベント「NAONのYAON」の復活開催が行われ、かつての出演者以外にも新たに相川七瀬長澤奈央平野綾中川翔子などHR/HM系の内外から幅広くミュージシャン、女優、シンガーが集まり、一時休止したものの、2013年代以降も継続的に続けている。

2010年代

2000年代より台頭してきたヴィジュアル系ヘヴィメタルバンドのうち、DELUHIが2011年4月1日のエイプリルフールの日に解散を宣言。2000年代後半に同人メタルシーンで注目を集めていたDragon Guardian、2010年にはガールズバンド「Aldious」、2011年には女性ドラマーにパーカッションを加えた6人組バンドEach Of The Daysが海外デビュー、また女性ボーカルを擁するLIGHT BRINGERFEEL SO BADのギタリストである倉田冬樹プロデュースのUNDER FORESTがデビューしている。変わったところではアイドルグループさくら学院重音部所属のダンスユニット「BABYMETAL」が海外で注目を集める他、[18]BiSが「IDOL」をリリースするなど女性Voを擁したメタルバンドやグループの活躍が目立っている。 また、21世紀に於いても正統派HM/HRを貫きつつ、IRON-CHINOの独特の世界観で、いよいよ(欧米人の真似ではなく)日本人としてのアイデンティティを強烈に発するLIGHTNINGは、AVALONレーベルとディールを獲得している。

ジャパニーズ・メタルアーティスト一覧

参考文献及び関連書籍

  • YOUNG GUITAR ARCHIVES Vol.4 JAPANESE METAL ヤング・ギター アーカイブ Vol.4 「特集ジャパニーズ・メタル」(2005年 シンコーミュージック・エンタテイメント)ISBN 4-401-61956-0
  • THE DIG presents ジャパニーズ・メタル(2013年 シンコーミュージック・エンタテイメント)ISBN 978-4-401-63875-8
  • Ultimate LOUDNESS アルティメイト・ラウドネス(2002年 リットー・ミュージック)ISBN 4-8456-0751-4
  • ANTHEM BIBLE アンセム・バイブル(2005年 ドレミ楽譜出版)ISBN 4-285-10531-4
  • ロッキンf1986年3月号「総力特集 JAPANESE METAL NEW POWER!」71~80P

関連項目

脚注

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  1. Ultimate LOUDNESS(2002年 リットー・ミュージック)18p
  2. 柴田直人によると、ANTHEMのパワーメタル路線は事務所社長であった伊藤政則の提案であるとの事。 「ANTHEM BIBLE」(2005年 ドレミ楽譜出版社) 16p
  3. YOUNG GUITAR 1985年12月号 8P
  4. EZO - Awards : AllMusic
  5. ChartArchive - Vow Wow
  6. 浜田によれは、本人はその様な事は一切発言していないと否定しているが、『ザ・ベストテン』に出演した際に黒柳徹子から「脱!ヘヴィメタル宣言」と紹介されてしまった事から広まったのではないかと述懐している。 参考『ヘドバン』Vol.3 74~75p
  7. 『ヘドバン』 (シンコーミュージック・エンタテイメント 2013年7月)105p
  8. 当時のジャパメタ氷河期の厳しさを物語るものとして、SEX MACHINEGUNSのフロントマンのANCHANGの発言が知られる。インディーズ時代の彼らがライブハウスで売り込みに行った際に「今時ヘビメタなの?」と言われライブハウスで演奏させて貰えなかった時期があったと、メジャーシーンで活躍できる様になった後に様々なメディアで告白している。その後のSEX MACHINEGUNSは、少しでも自分達の楽曲を聴いてもらいたいが為に、あえてヴィジュアル系を踏襲した路線で活動を行ってゆく事になる。
  9. アニ○○、○○メタルと言った企画に参加したミュージシャンの中には柴田直人モスラメタル)、森川之雄(まんが日本メタル話)、福田洋也(演歌メタル)と言った坂本以外の元ANTHEMのメンバーもいた。但し、坂本はアニメタル結成以前に「力王」や「黄龍の耳」等のサウンドトラックやイメージアルバムに参加していたり、柴田は『柴田直人プロジェクト』名義でコナミの「パーフェクト・セレクション・シリーズ」に参加するなど、アニメやゲーム音楽の世界での活動も経験している。
  10. もっとも、ニトロプラス作品の主題歌については、ジャーマンメタル調の楽曲や荘厳なバラードなど、聞いただけではアダルトゲームの主題歌とは信じにくい、ゲームの内容が想像できないとまで言われるものが多く、ニトロプラス自体もアダルトゲーム業界の中でも一種独特のポジションにあるメーカーである。
  11. さらに不運な事には、hideの葬儀の参列に向かっていた、ヴィジュアル系インディーズバンド「Deshabillz」が交通事故を起こし、そのベーシスト「美歪」が死亡するという事態も発生した。
  12. 松川は1994年にhideのツアーに参加している。
  13. 聖飢魔IIはそのパフォーマンスにおいて保守的なメタルファンからは解散まで一貫して批判され続けた存在であったが、その一方で、ジャパニーズ・メタル氷河期の最も厳しい時期にあってすらホール会場規模でのライヴを概ね満員にする事が可能であったという点では、希有な成功を修めたバンドであった。
  14. メンバー不仲、宗教トラブル......再結成ブームでも「絶対に復活しないバンド」とは? - 日刊サイゾー
  15. 2005年発行 ロッキンf Vol.17「関係者が本音で語るシーンの真相 メタルの現状」41P~46Pより
  16. ただし、マーティは「ヴィジュアル系のファンがメタリカすら知らない」、つまりはヴィジュアル系のファンは専らヴィジュアル系しか見ておらず、ジャパメタやヴィジュアル系にとっても遡ればルーツのジャンルである洋楽ヘヴィメタルへの知識や興味に乏しい点についても指摘し、苦言を呈している。
  17. 川嶋はサム・ダンの映画「メタル・ヘッドバンガーズ・ジャーニー」のDVD特典映像にて「LOUDNESS以外の日本のバンドには興味がない」とも答えている。
  18. 12~13歳女の子の「ヘビメタアイドル」 「さくら学院 BABYMETAL」に世界が大注目 j-castニュース 2011年12月16日

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