キング・クリムゾン

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テンプレート:Infobox Musician キング・クリムゾン (King Crimson) は、イギリスプログレッシヴ・ロックバンド

概要

1968年末結成。アルバムクリムゾン・キングの宮殿』で1969年にデビュー。以降、リーダーのロバート・フリップはバンドのメンバーを次々と替えていき、音楽性も多様に変遷を辿った。日本では俗に「クリムゾン」などと呼ばれることもあるが、本国ファンにはCrimso(クリムソ)の略称が根強い。

来歴

結成まで(第1期)

  • 註:キング・クリムゾンの活動時期の分類については諸説ある。構成メンバーを基準に、“第1期”、“第2期”、...などと分類する点は共通しているが、「デビュー~ファースト・アルバムのリリース当時」のメンバーを“第1期”、サード・アルバム『リザード』のころを“第2期”、4thアルバム『アイランズ』のメンバーを『第3期』、...とする分類や、『リザード』までを“第1期”、『アイランズ』のころを“第2期”、『太陽と戦慄』から1974年解散までを“第3期”、...とする分類などといったように、「アルバム自体や、その時のメンバー単位で分類する方法」と、「デビュー〜1974年の解散時まで」を“第1期”、「1980年代再結成からの活動期間」を“第2期”、「1994年からの活動期間」を“第3期”...と、「連続活動期間で分類する方法」などがあり、統一がなされていない。音楽評論家の市川哲史は、『太陽と戦慄』の時期を「再結成」、1980年代の『ディシプリン』から『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の時期を「再々結成」、1990年代のダブル・トリオの時期を「再々々結成」として、キング・クリムゾンのCDのライナノーツでもその様に記述している。ここでは、前者の分類方式に準じて述べていくが、「デビュー当初の“第1期”」後については、極力、構成メンバーやアルバム・タイトルなどで記述することとする。

1968年、ジャイルズ兄弟(マイケル・ジャイルズピーター・ジャイルズ)とロバート・フリップの3人によるバンド「ジャイルズ・ジャイルズ&フリップ」から発展し、6月にマルチプレイヤーイアン・マクドナルド、作詞・ライブ時の照明担当のピート・シンフィールド、女性ボーカルのジュディ・ダイブルが加わったが、翌月の7月にダイブルが抜け、12月にベースのピーター・ジャイルズが抜けている。フリップの古くからの友人であったボーカリストベーシストグレッグ・レイクが参加して、第1期のメンバーが揃うこととなった。バンド名は加入前にマクドナルドとシンフィールドが共作した曲「クリムゾン・キングの宮殿」からで、シンフィールドがメンバーの反対を押し切って付けたとインタビューに答えている。1969年初頭からリハーサルと曲作りが行われ、公開リハーサルの後、ライブ活動とアルバム制作が行われていった。

ファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』は、当時からよく雑誌のレコード・レビューなどで、「1969年に、ビートルズの『アビイ・ロード』を1位から転落させたアルバム」といった内容で紹介されることが多かった[1]。英国音楽誌NMEでは最高位は5位。このファースト・アルバム制作当初、プロデュースしたトニー・クラークは自ら手掛けるムーディ・ブルース同様のサウンド作りを要求したためにバンドと決裂し、スレッショルド・レーベルからのリリースは破談となり、バンドがセルフプロデュースして、アイランド・レーベルからのリリースとなった。

キング・クリムゾンでは、一貫してフリップがリーダーシップを握っている。しかし、この当時は作曲やアレンジを含めた音楽面では、マクドナルドが優勢であったとされる。特に、キーボード(メロトロン)、サックス、フルートを導入し、新たな音楽を創造した功績は大きいとされている。この後にマクドナルドとジャイルズは脱退し、共同名義のアルバムをリリースした。そのなかで、1970年リリースのキング・クリムゾンのセカンド・アルバム『ポセイドンのめざめ』の、一部収録曲の「ネタばらし」をした。マグドナルドは後の1976年フォリナーのメンバーとなり、ギターやキーボードなどを担当している。

セカンド・アルバムでピーター・ジャイルズが参加(復帰)している。レイクはベースからギターにシフトしたが、すぐに脱退して、結成したエマーソン・レイク・アンド・パーマーで成功することになる。

メンバーチェンジ以降(1970年代)

セカンド・アルバムのリリース以降、サード・アルバム『リザード』、その後の『アイランズ』や『太陽と戦慄』に至るまで、キング・クリムゾンはメンバー・チェンジを繰り返した。1971年オーディションでベースが決まらないため、ボーカリストのボズ・バレルに対し、フリップはベースギターの奏法を教授し担当させ、アルバム『アイランズ』収録前にドイツ等でツアーを行っている。シンフィールドは71年8月にニュー・ミュージカル・エキスプレス誌に脱退を予告し年末に解雇された。険悪化した関係のシンフィールドをクビにすることで印税を4等分すると約束したフリップだったが、年明け早々のリハーサルでフリップは孤立し、バンドは解散したが、マネージメントは契約を楯に残り3ヶ月のツアー続行を強行した。音質の悪いライヴ・アルバム『アースバウンド[2]を廉価版にてリリース。この時のメンバーは72年4月に解散した。

ツアー終了後、フリップのみ英国へ帰国し、残りの3人は共演したアレクシス・コーナーとバンドを組んでツアーをした。その後、ボズはポール・ロジャースのバンドバッド・カンパニーのベーシストとして参加することとなる。シンフィールドもレイクの呼びかけに応じ、エマーソン・レイク&パーマーに作詞で協力したりソロ・アルバム『スティル』を制作した。フリップはこの時期のバンド解消を「彼らとではアイディア(太陽と戦慄)を具体化できなかったから」と説明している。

再結成以降

1972年には、ドラマーのビル・ブルーフォードイエスから参加した。また、ファミリーのベーシスト兼ボーカリストでフリップの大学時代の友人ジョン・ウェットン、クリムゾンへ影響を与えた即興集団デレク・ベイリー主宰カンパニーのパーカッショニスト、ジェイミー・ミューア、そしてデヴィッド・クロスが集結。ここで再びバンドとしてのピークを迎え、『太陽と戦慄』『暗黒の世界』『レッド』の3枚のアルバムを一部メンバー脱退を経ながらもリリースし、ライヴ・ツアーも精力的にこなす。この当時のアメリカでのライヴの様子を収録したライヴ・アルバム『USA』が解散後の1975年にリリースされた。元音源にはバイオリン兼キーボード(主にメロトロン)担当のデヴィッド・クロスが参加していたのだが、いくつかが編集段階でエディ・ジョブソンの演奏に差し替えられている。1974年制作されたアルバム『レッド』は、ウェットンの呼びかけで数名のOBが参加したが、リリース後フリップは突然解散宣言を出す。その直前には、フリップとウェットン、ブルーフォードの3人となったバンドに『レッド』にも参加したかつてのメンバー、マクドナルドを再度迎えて、バンド継続計画を発表していたが、フリップには継続の意思は無かったとされる。

この頃、アルバム『太陽と戦慄』に収録されている曲「太陽と戦慄 パート2」が無断引用された曲(盗作と言われている)が映画「エマニエル夫人」で使用され、フリップの訴えによる裁判が行なわれている。(後に和解)

再々結成(1980年代)

1981年、かつてのメンバーであるビル・ブルーフォードを加えて、「ディシプリン」というバンド名でフリップはライブ活動を始めた。アメリカ人ベーシスト、トニー・レヴィンが加入[3]。また、2人目のギタリスト、兼ボーカリストにアメリカ人のエイドリアン・ブリューが参加した。この4人からなるバンド「ディシプリン」が改名してキング・クリムゾンとなった。このような形での再結成には批判が高まり、「キング・クリムゾンがトーキング・ヘッズ化した」という批判も一部から出た。ウェットンも「英国人以外が参加しているこのラインナップをクリムゾンとして認めていない」旨の発言をしている。当初のバンド名をタイトルとしたアルバム『ディシプリン』リリース後、1981年12月に初来日し、渋谷公会堂浅草国際劇場を始めとする全国ツアーを行なった。その後、『ビート』『スリー・オブ・ア・パーフェクト・ペアー』の2枚のアルバムとライヴ・ビデオ2作品をリリースし、1980年代半ばに解散した。

この時期のキング・クリムゾンは、2本のギターとスティックによる複雑なアルペジオの絡みがバンドの音楽を特徴的なものにしている。

後にフリップは、「(レコード)レーベル会社との契約上、1枚のアルバムを出したいがために、結局3枚のアルバムを出さざるをえなくなってしまった」と、インタビューで述べている。1970年代までの楽曲のうち、このラインナップで演奏されたのは、「太陽と戦慄 パート2」(この頃に「パート3」が作られ、以降、「太陽と戦慄」の続編が作られることとなる)と「レッド」のみであった。

再々々結成(1990年代)

1994年に再々々結成をした。1980年代のキング・クリムゾンのメンバーにさらにメンバーを追加し、6人編成となり、「2つのトリオ編成」(通称ダブルトリオ)となった。このラインナップでも「ヴルーム」「スラック」の2作を発表し、ライヴ・ツアーを行っている。ツアーを終え休息後に集合したバンドはリハ段階で内紛になり、6人編成を棚上げにしてプロジェクト単位の活動に一時シフトした。

この頃、グレッグら4人が打ち合わせたオリジナル・メンバーでのキング・クリムゾンの再結成と、もう一つのマクドナルド、ウェットン、ジャイルズにフリップの4人での活動は、共に計画段階で頓挫している。

キング・クリムゾン事件

1995年にTOKYO FM出版は書籍『キング・クリムゾン』〈地球音楽ライブラリー〉を発行したが[4]、キング・クリムゾンのメンバーに無断で発行したため、ロバート・フリップパブリシティ権を侵害されたとして出版元のTOKYO FM出版を訴えた。これを「キング・クリムゾン事件」という[5]。第1審ではフリップの勝訴となったが[6]、控訴審ではTOKYO FM出版が逆転勝訴し[7]、以後記載内容の多くのミスが修正されないまま2007年にも再版されている[8]

2000年以降

2000年以降、ブルーフォードは自らのバンド、アースワークスの活動に専念、レヴィンはピーター・ガブリエルとのセッションがあったため脱退のアナウンスはなかったものの実質的にはクリムゾンのメンバーとしての活動はなかった(待機状態)。フリップはキング・クリムゾンの活動以外にも、断続的にソロ活動や様々なプロジェクト、他のミュージシャンのプロデュースなどを手がけていた。2003年の終わり頃、1990年代の「ダブル・トリオ」編成のメンバーだったトレイ・ガンが正式な脱退を表明。レヴィンはスケジュールの都合で2000年以降不参加であったが、2004年復帰しガンと入れ替わってリハーサルに参加した。なお、ブルーフォードは2009年に現役引退を表明し、結局はキング・クリムゾンに復帰することはなかった。

2008年4月、新ラインナップにて今後の活動計画を話し合う会合とリハーサルが再開。更に新メンバーとしてポーキュパイン・トゥリーのドラマー、ギャヴィン・ハリソンの加入が明らかになった。

同年8月にアメリカ・ツアーが行われ、その後、さらなるツアーが予定されていたが、エイドリアン・ブリューが自身のソロツアーとダブルブッキングしてしまったことでフリップが機嫌を損ね、以降のツアーは白紙になった。現在のところクリムゾン名義での活動は、前述のツアー以降に行われていない。

2011年にフリップが音楽業界からの引退を表明し一旦活動終了するも、2013年にDGM Live上でフリップがかつて主催したギタークラフト参加者のビル・リーフリンの加入、つまりトリプルドラム編成での再始動が発表された[9]

2014年までにバンドとしての動きはなかった。同年6月に発表されたメンバー構成は、フリップ、メル・コリンズ、トニー・レヴィン、パット・マステロット、ギャヴィン・ハリソン、ビル・リーフリン、ジャッコ・ジャクジグ。ドラマーが3人いる7人編成である。

特記

  • 所属事務所 EG はフリップが知らぬ内にボーカリストのオーディションを企画し、エルトン・ジョンブライアン・フェリーが参加した。ジョンは落選、フェリー「キング・クリムゾンのボーカリストとしてはマッチしないが、惜しい人材」とフリップに評価され、後にロキシー・ミュージックの結成のきっかけとなる。
  • 1970年に一時的にクリムゾンが活動停止していた時、イエスを脱退したピーター・バンクスの後任としてフリップはイエスへの参加を要請されたが、事務所の問題で実現しなかった。この時に交流ができた縁で、イエスのジョン・アンダーソンがキング・クリムゾンのサード・アルバム『リザード』の「ルーパート王子のめざめ」にボーカルでゲスト参加している。ジョン・アンダーソンによると、「ロバートにイエスに入らないかと言ったら、逆に、君こそキング・クリムゾンに入れよと言われた」とのこと。
  • 1976年にキング・クリムゾン再起動に失敗し、リック・ウェイクマンとのトリオ結成を断念したウェットンとブルーフォードは、アラン・ホールズワースエディー・ジョブソンU.K.を結成する。ウェットンのインタビューによると、「フリップがバンドを解散したので、残ったリズム隊の2人がキング・クリムゾンのリズムのコンビネーションを維持し展開するために結成した」といった主旨のことを述べていた。
  • 1990年代のキング・クリムゾンの正式結成直前に、フリップはデヴィッド・シルヴィアンとプロジェクト「シルヴィアン・アンド・フリップ」を組み、アルバムをリリースし、来日公演も行っている(この際、マイケル・ブルックと共にトレイ・ガンとパット・マステロットが参加している)。インタビューでは否定していたが、当初「デヴィッドが新しいクリムゾンのボーカリストとして参加する」と噂された。シルヴィアンはフリップに勧誘されたが拒否したとインタビューで述べている。
  • これとほぼ前後して、オリジナル・メンバーで再結成されたエマーソン・レイク・アンド・パーマーCDボックスセットに、同メンバーの演奏による「21世紀のスキッツォイド・マン」の独自のバージョンが収録されていた(この曲は、1980年代初頭に、グレッグ・レイクがゲイリー・ムーアと共に行ったライヴ・ツアーでも、「クリムゾン・キングの宮殿」と共に演奏された。この2曲のオリジナルは、キング・クリムゾンのファースト・アルバム『クリムゾン・キングの宮殿』に収録)。
  • 1996年、元ジェネシスのギタリスト、スティーヴ・ハケットが来日した際のメンバーとしてマクドナルド、ウェットンが参加しており、第1期の曲から「クリムゾン・キングの宮殿」と「風に語りて」(共にファーストアルバム収録の曲)を演奏した。この様子は、『Tokyo Tapes』としてCD、ビデオなどで正式発売されており、その後DVD化もされている。
  • 2001年トゥールの前座としてツアーを行う。このツアーの最終日、「レッド」の演奏に、トゥールのドラマーであるダニー・ケアリーがゲスト参加した。
  • 2002年、マクドナルドとジャイルズ兄弟が新バンド結成のために再集結、さらにメル・コリンズジャッコ・ジャクスジクを加え、21stセンチュリー・スキッツォイド・バンドが結成された。フリップにも公認され、初期のクリムゾン・ナンバーを演奏してのライヴ・ツアーをこなす。同年及び翌2003年の2回の来日公演も実現した。同バンドはキング・クリムゾンのアルバムの1作目から4作目までの曲をレパートリーの中心としていた。マイケル・ジャイルズは結成後1年足らずで脱退、代わってイアン・ウォーレスが参加し2006年まで活動した。しかし、2007年2月のウォーレス病死で活動再開のめどはたっていない。
  • 2006年9月、スペインの自宅アパートでリハーサル中に心臓発作で急逝したボズ・バレル[10]は、生前クリムゾン時代を語ることを拒否し続けたと言われているがOB達との交友はあり、1980年にはシンフィールドのテレビ出演の際にマイケル・ジャイルズ、メル・コリンズゲイリー・ブルッカーらと共に演奏している。
  • 2011年、キング・クリムゾン・プロジェクト(King Crimson ProjeKct)としてアルバム「A Scarcity of Miracles」をリリース。フリップ自らが参加しているのが大きな特徴であり、他にコリンズとジャクスジクが正式メンバーとして、またレヴィンとハリソンがサポートで参加している。2013年、この5人にドラマー2人を追加した形でのキング・クリムゾン再始動が発表された。
  • 2011年以降、ブリューのバンド「エイドリアン・ブリュー・パワー・トリオ」とレヴィンのバンド「スティックメン」(マステロットも参加)のメンバーが合流する形で6人編成の「クリムゾン・プロジェクト」(Crimson Projekct)として活動。この名称はロバート・フリップの命名によるとのこと。

ディスコグラフィー

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オリジナルアルバム

ミニアルバム

ライブ

公式ベストアルバム

主要ラインナップ(主な担当パート)

        
        
        
        
  • Lineup #6『ザ・コンストラクション・オブ・ライト』〜『ザ・パワー・トゥ・ビリーヴ』
    • エイドリアン・ブリュー - Vocals & Guitars
    • トレイ・ガン - Warr Guitars(2007年エディー・ジョブソンやその他のミュージシャンとともにUKZを結成)
    • パット・マステロット - Drums & Percussion
  • Lineup #8 (2013年以降)
    • ジャッコ・ジャクスジクen:Jakko Jakszyk) - Vocals, Guitars
    • メル・コリンズ - Saxophones
    • トニー・レヴィン - Bass, Chapman stick & Vocals
    • パット・マステロット - Drums & Percussion
    • ギャヴィン・ハリソン - Drums & Percussion
    • ビル・リーフリンen:Bill Rieflin) - Drums & Percussion

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関連項目

脚注

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関連文献

外部リンク

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  1. 英国音楽誌DISC誌1969年11月8日号デヴィッド・シューズの記事「遂にデビューアルバムがアビーロードをトップから引きずり降ろした。」を紹介したものと言われる。そのことについては、複数の日本の評論家が「デマとまではいえないが、ありえるとしたなら、地方の、あるいは、マイナーなチャートではないのか」といった見解を共通して述べていた。
  2. ミキサー・コンソールに繋がれたカセットテープレコーダーで録音した
  3. フリップとはピーター・ガブリエルのレコーディングで競演したことがある。
  4. テンプレート:Cite journal
  5. テンプレート:Cite book
  6. 東京地方裁判所 平成10年(1998年)1月21日 判決。
  7. 東京高等裁判所 平成11年(1999年)2月24日 判決。
  8. テンプレート:Cite book
  9. http://www.dgmlive.com/news.htm?entry=4335
  10. テンプレート:Cite web