ディープ・パープル

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テンプレート:Infobox Musician ディープ・パープルDeep Purple)は、イギリスで結成されたハードロックバンド

代表作「ハッシュ」「ブラック・ナイト」「ハイウェイ・スター」「スモーク・オン・ザ・ウォーター」「バーン」など。

概要

ボーカルギターベースキーボード(特にハモンド・オルガン)/ドラムスという構成で、マイナー・コードと爆音の様なサウンドを使った演奏を繰り広げる、というハードロックの先駆け的存在である。

リッチー・ブラックモア在籍時の人気が高く、いわゆる第2期には商業的成功も収め、知名度の高い楽曲ギターリフ、そして名盤が多い。1976年に一度解散したが、1984年に再結成し、現在に至るまで10期のメンバーチェンジを行いながらも活動し続け、数多くのミュージシャンからの尊敬を集めている。

アルバムセールスは、1億枚を突破している。

バンドの歴史

結成

本バンドの前身となったのは、サーチャーズ (The Searchers)でドラムスとボーカルを担当していたクリス・カーティス (Chris Curtis) が結成を企図したラウンドアバウトというバンドである。

クリス・カーティスが最初にメンバーとして考えたのは、当時同じアパートに住んでいた[1]ジョン・ロードである。また、この時期の前後に、クリス・カーティスはトニー・エドワーズ (Tony Edwards) にマネージャーの就任を打診した。この当時、トニー・エドワーズはファッション関係の仕事をしていたが、同時にエイシアAyshea)という女性シンガーのマネージャーも手がけており、その関係でクリス・カーティスと知己があった。更にトニー・エドワーズの誘いによって、広告関係の仕事に携わっていたジョン・コレッタ (John Coletta) もマネージャーに加わり、ビジネス面での態勢は早くから整いつつあった(この当時、2人は5000ポンドをバンドに投資しており、以後もビジネス面で様々な貢献を遂げている。今日に至るまで、この2人のマネージャーがバンドに果たした役割は非常に大きいと評されている[2])。

一方、メンバーの人選は難航した。ジョン・ロードに続いて、当時ハンブルクで主にセッション活動をしていたギタリストのリッチー・ブラックモアにグループ加入を要請したものの、なかなか他のメンバーは定まらず、それでも特にマネージャーの2人が熱心にメンバー探しに奔走し、この3人に加えて、ベースにデイヴ・カーティス、ドラムスにボビー・クラークを加えることになった。しかし、この陣容での人間関係は不安定だったといわれており、更にバンドの発起人であるクリス・カーティスが行方をくらましたために、ラウンドアバウト結成の話は一旦消滅しそうになった。しかし、マネージャーの2人がロードとブラックモアを説得してオーディションを続け、ベースがジョン・ロードの元同僚だったニック・シンパーに交代、ボーカルがオーディションによってロッド・エヴァンスに決まった。このロッド・エヴァンスのオーディションに同行していたのが同じメイズ (The Maze) というバンドにいたイアン・ペイスである。ブラックモアがハンブルクでペイスのプレイに接しており、その力量を十分に把握していたため[2]、バンドはボビー・クラークを解雇してペイスを加入させた。

第1期 1968年 - 1969年

1968年3月、バンドのマネージメントを担当するヘック・エンタープライズ (HEC Enterprises)が設立され、同時にバンド名をディープ・パープルと改めた(バンド名は、ブラックモアの祖母が好んでいたピーター・デローズ(Peter De Rose)というピアニストの同名の曲(ラリー・クリントンとオーケストラ(Larry Clinton)が1939年にヒットさせた)から、引用し名付けた言われている。後述のデビュー・シングルや当時のロックの状況から、ドラッグとの関連で名づけられたという説もあるが、ディープ・パープル側は否定しているとされている)。だがレコード会社との交渉は難航し、結局はブラックモアの人脈から、プロデューサーのデレク・ロ-レンスを通じてテトラグラマトン・レコード (Tetragrammaton Records) というアメリカの小さなレコード会社と契約した。

1968年5月、デビュー・アルバムの『ハッシュ』(発売当時の邦題は『紫の世界』)が発売され、6月には、ジョー・サウス (Joe South) の曲をカバーした「ハッシュ (Hush) 」がシングル・カットして発売された。このシングルは9月のビルボード誌でシングル・チャート第4位を記録するヒットとなり、新人バンドとしては異例と言われるほどの順調なスタートを切った[3]

ディープ・パープルの初演は、1968年8月にイギリスで開催された『第8回ナショナル・ジャズ・アンド・ブルース・フェスティバル』と記録されている[2]

10月、セカンド・アルバムの『詩人タリエシンの世界』(発売当時の邦題は『ディープ・パープルの華麗なる世界』)がアメリカで発売された。同月には渡米して数々のライブ・ステージを行い、丁度フェアウェル・ツアーを行っていたクリームの前座も務めている。ハッシュのヒットによって必然的にアメリカでの活動が重視され、一時的な帰国を挟んで翌1969年3月までアメリカ・ツアーが行われた。『詩人タリエシンの世界』からもケンタッキー・ウーマンがシングル・カットされて38位まで上昇、アルバム自体も40位まで上昇した。なお、本国イギリスでは同アルバムは翌1969年6月にハーヴェスト・レコーズ (Harvest Records)からリリースされている。

バンド内で意見の対立が表面化したのは、1969年の前半からだと言われている[2]。コメントする者の意思や立場によって、状況の説明が著しく食い違うため、第三者による明確な把握は困難とされているが、その中にあって、同年3月頃に、ベースのニック・シンパーとヴォーカルのロッド・エヴァンスがバンドから「離れる」に至った点、及びニック・シンパーがそれを不服として訴訟を起こしたという点は万人が認める事実となった。また、これと平行してもうひとつの問題が浮上した。アメリカでは1969年6月にサード・アルバム『ディープ・パープル III 』(発売当時の邦題は『素晴らしきアート・ロックの世界』)がリリースされたが、その直後にテトラグラマトン・レコードが倒産し、ディープ・パープルはアメリカでのレコードの発売元を失った。この件もまた訴訟沙汰となっているが、同年暮れにワーナー・ブラザーズ・レコードと契約を結ぶことが出来、結果論ではあるにせよ、この事件が幸いして遥かに大きな規模のレコード会社への移籍が出来たことになる[1]

この当時の音楽性は、ヴァニラ・ファッジやクリーム、ジミ・ヘンドリックスに影響された幻想的かつ破壊的な世界観を持つサウンドをその魅力とし、ビートルズなどの楽曲をも独自の前衛的かつクラシカルなアレンジを施してカバーしていた。コンサートでは、ジャズやクラシックをベースとした20分以上もの圧倒的な即興演奏をこなし、プログレッシブ・ロックを初めとするロック音楽の世界にクラシカルな音楽性を加味させた。第1期ディープ・パープルが残した3枚のアルバムは、大衆性こそやや低いものの、その独自の世界観を構築しているが、一般的には、この当時のディープ・パープルはハッシュというヒット曲を持つバンドというだけの存在で、上記の大物と呼ばれるバンドに較べて、その市場価値はやはり小さいと言わざるを得ない[1]

第2期 1969年 - 1973年

1969年の中頃、リッチー・ブラックモアのジ・アウトローズ (The Outlaws ) 時代からの旧友であるミック・アンダーウッド (Mick Underwood) の紹介によってエピソード・シックス (Episode Six) のボーカリストであるイアン・ギランが新たにメンバーに加わった。また、同行していたベーシスト(兼プロデューサー)のロジャー・グローヴァーも同時加入が決まった[4]

この時期、アメリカのロック・シーンはレッド・ツェッペリンの衝撃的なコンサートとアルバムに注目が集まっていた。この流れを踏襲したブラックモアは、よりハードなサウンドをバンドに導入する事を提案したが、ロードは「せっかく軌道に乗り始めたクラシックとの協調路線を台無しにする必要はどこにもない」と猛反対し、第1期の流れをくんだ幻想的なサウンドをバンドに要求したと伝えられている[2]。最初に進むべき方向を提示したのはロードであり、1969年9月24日、ロード自身が作曲したコンチェルトを、ディープ・パープルとロイヤル・フィル・ハーモニック・オーケストラ とで演奏し、その演奏をライブ録音したアルバム『ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラ』が12月にリリースされた。このアルバムは翌年のメロディー・メーカー誌 (Melody Maker)のアルバム人気投票で9位に選ばれた。

話し合いでは根本的な解決が困難だと結論したブラックモアは、オーケストラとの共演アルバムが完成した後、一度だけハードロックを志向するアルバムを作ってファンの反応をみたいと提案した。ロードはそれを承服し、次回作の主導権をブラックモアに託した[2]。こうして1970年に入って新作アルバムのレコーディングが開始され、本国イギリスで6月20日に、『ディープ・パープル・イン・ロック』というタイトルで発売された。このアルバムはイギリスチャート4位に入り、さらにプロモーション用にレコーディングしたシングル曲の「ブラック・ナイト」がイギリスで2位を獲得した(ただしアメリカでは両方ともさっぱり売れなかった。日本ではこの曲がラジオでヒットし、新しいハードロックバンドとして人気を集めるようになり、21世紀の今でもテレビコマーシャルに使われるほど親しまれている)。

この結果、ディープ・パープルはハードロック路線を進むことが決定し、バンドの楽曲制作はブラックモアが主体となって行うことが自然に決まった。ロードは作曲面では基本的に身を引く形となり、逆に「ジェミニ組曲」や「ウィンドウ組曲」などのソロ作品に創作意欲を振り向けるようになった。

1971年9月、ハード・ロック・アルバムとしては第2弾となる『ファイアボール』 が発売され、全英で1位を獲得した。ただしブラックモアはこのアルバムに対して、スケジュールの厳しさによって録音期間もなければメンバーの健康状態も悪かったと不満の意を表している[2]。そのため、次のアルバムは納得のいく環境で制作する事を要求し、1971年12月、スイスのモントルーにあるジェネバ湖(レマン湖)のほとりにあるホテルでゆっくりと鋭気を養いながら、対岸にある6角形をしたカジノでモービル・ユニットを使って録音する予定だった。ところが12月4日、ディープ・パープルが使用する直前にこのカジノでフランク・ザッパとマザーズがコンサートを行っており、そこで興奮した観客のひとりが木製の天井に向かって銃(一説では発光弾と言われている)を撃ち、火災が発生してカジノは全焼してしまった。

見方によっては最悪の不幸とも思える事態だったが、ここでひとつの伝説的な逸話が生まれた。ホテルの窓から湖の上に煙が立ち込める様子を見ていたギランが、隣にいたグローヴァーに向かって不意に「スモーク・オン・ザ・ウォーター」という単語を発した。それを聞いたグローヴァーは、その時はドラッグを連想するからディープ・パープル向きでは無いと思ったと言われている(発した方と聞いた方が逆という説もある⇒DVD"Heavy Metal Pioneers"の中のインタヴューでは、グローヴァーが「朝、起き上がって"Smoke on the Water"とつぶやいた。他に誰もいない部屋の中で、誰に向かって?夢だったかもしれない。で、そのあとイアン(ギラン)にその話をした。」と発言している)。しかし、やがて彼らの中で次第にこの言葉が膨らみ始め、ブラックモアが書いた印象的なリフと融合して、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」が誕生した。この曲も含めて、12月6日から21日までに、宿泊していたホテルの廊下で録音された事でも有名な『マシン・ヘッド』が完成、翌年2月にアメリカで、イギリスでは3月に、ヨーロッパ各国や日本でも順次発売されてヒットを記録した。だが、人気が上昇するにつれてレコーディングとツアーは一段と過酷なものになり、メンバーの健康状態も次第に下降線を辿る事になる。5月に予定されていた来日ツアーは延期され、(この時、解散の噂が流れている)その後ようやく全員が健康を回復してツアーが再開されたものの、各自の不安と不満は募る一方だった。

1972年8月には来日を果たし、15/16日に大阪フェスティバルホールで、17日には日本武道館でコンサートが開催された。この日本公演を録音した『ライヴ・イン・ジャパン』は12月に日本限定で発売されたが、その出来の良さが気に入られ、海外でも『メイド・イン・ジャパン』というタイトルでリリースされ、プラチナディスクを獲得している。このアルバムからシングルカットされた「スモーク・オン・ザ・ウォーター」がアメリカで大ヒット(4位)し、ようやくバンドはアメリカでもブレイクした。

一方、マシン・ヘッドに続く新作のスタジオ・アルバム『紫の肖像』の制作は難航を極めていた。メンバーの疲労蓄積とスケジュールに対する不満が根底にあるといわれているが、それでもイアン・ペイスによってミキシングが行われ、ライブ・イン・ジャパンとほぼ同時期の1973年初頭にリリースされた。しかし評判は良くなく、最初にシングル・カットされた「ウーマン・フロム・トーキョー」も、かつてのブラック・ナイトやファイアー・ボール、ハイウェイ・スターなどと較べてヒットしたとは言えなかった[2]

メンバー間の不仲とツアーの連続による肉体的疲労は、もはや修復が不能な段階まで来ていたといわれている。まずグローヴァーがスケジュールの不満から脱退を口にする様になり、これと平行してブラックモアがギランのボーカルに不満を感じる様になっていた。ギランもマネージメント側に脱退を表明し、ブラックモアもペイスを誘って脱退することを考える。だが今までの成功を失いたくないペイスとロードに説得され、ブラックモアはバンドに留まることを決意する(その説得とは、ギランはまもなく辞めるし、グローヴァーもクビにするから、と言うものだったようだが、真相は明らかでは無い。またブラックモアがグローヴァーに対して音楽的な不満を持っていたという説は、後にグローヴァーがレインボーに加入した点を考慮すると説得力に欠ける。だが事実として、ギランとグローヴァーは1973年6月29日、二度目の日本公演最終日を最後に脱退している。また、後にブラックモアは「ロジャーにはすまないことをした。ロジャーは良い奴だ。」とコメントしている)。

第3期 1973年 - 1975年

新メンバー探しは1973年の3月頃より始まっていたと伝えられている[2]。まずイアン・ペイスとジョン・ロードが熱心に誘ったのが、トラピーズのベース兼ボーカルだったグレン・ヒューズだった。当初グレン・ヒューズはトラピーズを脱退出来ないという気持ちに加え、ボーカリストとして自信を持っていたため、勧誘の際にもボーカリストとして認めて欲しいと条件を出した。ただしこの時点でリッチー・ブラックモアは、グレン・ヒューズと発声も歌唱方法も異なる元フリーポール・ロジャースを理想のボーカリストとして考えており[2]、実際にポール・ロジャースに加入も要請した。この食い違いによってグレン・ヒューズとの交渉は難航。さらにポール・ロジャースが最終的に要請を断り、自身のバンドであるバッド・カンパニーを結成して活動を開始したため、ディープ・パープルは一歩間違えれば解散という状態に追い込まれていた。結局、ボーカリストは一般から募集することになり、4000人以上ともいわれる応募者の中から、当時はまったく無名だったデイヴィッド・カヴァデールが選ばれ、第3期ディープ・パープルがスタートする。

1974年2月、このメンバーによる初のアルバム『紫の炎』が発売された。後にリッチー・ブラックモアが「納得して制作できた」とコメントした数少ないアルバムであり、シングル・カットされた表題曲に加え、パープル解散以降もデイヴィッド・カヴァデールやレインボーロニー・ジェイムス・ディオらによって唄い継がれていく「ミストゥリーテッド」などが収録され、商業的にも成功を納めた。また、第2期のハード・ロック路線に加えて、グレン・ヒューズの主張が濃いとされるファンキー・サウンドの「ユー・フール・ノー・ワン」やシンセサイザーを大幅に導入した「A200('A' 200)」など、「新メンバーの力量や新要素が巧みに発揮された傑作」とされている。このアルバムの発売直後である4月、ロスアンゼルスのオンタリオ・モーター・スピードウェイで行われた「カリフォルニア・ジャム」に、日没後最初の出演バンド(エマーソン・レイク・アンド・パーマーの前)として登場し、約20万人と伝えられる聴衆の前で演奏を行った。この時の演奏は特に評価が高く、特に演奏の終盤で、リッチー・ブラックモアがテレビ・カメラにギターを叩きつけ、その後ステージが炎に包まれるというものであった[5]

しかし、この好調さも、1974年の8月に制作が開始された『嵐の使者』の頃には失われていた。特にハード・ロックを志向するリッチー・ブラックモアに対して、新加入のデイヴィッド・カヴァデールやグレン・ヒューズがディープ・パープルにソウル・ミュージックやファンキー・ミュージックの要素をより多く持ち込もうとしていたことがきっかけとなり[2]、リッチー・ブラックモアは次第にディープ・パープルでの活動に対して意欲を失っていった。このアルバムが発売された10月、予定されていたアメリカ公演が中止となって空白期間が生じたため、リッチー・ブラックモアはかねてより計画していたソロ・シングルの制作を開始。以前から気に入っていた「エルフ」と供に「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー/16世紀のグリーンスリーブス」を完成させるが、これがリッチー・ブラックモアにとって期待以上の出来だったため、脱退してエルフのメンバーと新バンド「レインボー」(当初はリッチー・ブラックモアズ・レインボーと名乗った)を結成することを決意した。「ブラック・シープ・オブ・ザ・ファミリー」はイギリスのバンド、クォーターマスの曲で、この曲をディープ・パープルにてカバーすることをリッチー・ブラックモアが提案したが、カバーはダメだとする他のメンバーとの意見の相違が彼の脱退のキッカケであったとされている。 最初にリッチー・ブラックモアから打ち明けられた当時のマネージャーであるロブ・クックジーも、そしてその後に打ち明けられたメンバーも、当然ながら慰留に努めたが、決意は変わらず、1975年4月7日のパリでのライブを最後に脱退した(1976年、ライブ・アルバム『メイド・イン・ヨーロッパ』が発売され、4月7日の演奏が収録されている[6]。第3期の公演が実現しなかった日本のファンの多くは、本作の発売をかなり喜んだと言われている[2]

リッチー・ブラックモアの脱退は、それ以後の方針が決定しなかったため6月まで公表されなかったが、一部の音楽マスコミは4月8日の段階でスクープとして報じていた[2]

第4期 1975年 - 1976年

  • ジョン・ロード
  • トミー・ボーリン(Tommy Bolin, ギター/コーラス)
  • イアン・ペイス
  • グレン・ヒューズ
  • デイヴィッド・カヴァデール

リッチー・ブラックモアの後任は、過日のデイヴィッド・カヴァデールやグレン・ヒューズ以上に難航し、元ハンブル・パイデイブ「クレム」クレムソン (Clem Clempson) がオーディションを受けたり、セッションは実現しなかったもののジェフ・ベックが候補に挙がるなど混乱を極めていた[2]。結局、デイヴィッド・カヴァデールの発案[1]で元ジェイムズ・ギャング (James Gang) のギタリストだったトミー・ボーリンが加入し、第4期のメンバーが決定した。ちなみにトミー・ボーリンは初めてのアメリカ人メンバーであった。

1975年10月、アルバム『カム・テイスト・ザ・バンド』が発表されるが、その音楽性の変転はファンに戸惑いを感じさせるのに十分だといわれ、多くの批判の声が挙がった。それでも11月のハワイでのコンサートを皮切りに、東南アジアまでを含めた大規模なツアーが敢行され、どこも盛況であったと伝えられている。ジャカルタでは2日で約10万人の観客が集まり暴動にまで発展、スタッフの1人が殺害されるという痛ましい事件も発生したが、ツアーは続行され、1975年12月、3度目の来日が実現した。客席は超満員だったが、トミー・ボーリンが左手を寝違えたため(と、当時はアナウンスされていた[1]が、実際は東南アジアで品質の悪いヘロインを注射したため)にほとんど動かず、ボトルネックギターの演奏に終始するという不本意な結果に終わった。続くアメリカン・ツアーは問題無く終了するも、本国イギリス公演にてマスコミやファンに激しく叩かれた彼らは、やがて空中分解状態となった。

まずデイヴィッド・カヴァデールが「こんな状態では何も出来ない」と言って1976年5月に辞意をジョン・ロードに伝え(ただしこの時点では正式には発表されていない)、さらに7月8日にトミー・ボーリンが脱退。グレン・ヒューズもトラピーズの再編を含めた別行動の意思を表していた。7月18日に、ジョン・ロードとパープル・オフィス間の話し合いで解散を決定。翌19日、どこで嗅ぎ付けたのか、イギリスの新聞デイリー・ミラーが“ディープ・パープル解散”をスクープ。こうして7月24日、事務所より解散が正式に発表された。[7]

解散時に正式なコメントを残していないジョン・ロードは、後に「ディープ・パープルを名乗るべきではなかった」との旨の発言をしている。

解散後のメンバーはそれぞれ別の道を歩み始めた。デイヴィッド・カヴァデールは、念願だったソロアルバムの発表を経てホワイトスネイクを結成、同バンドには後に、ペイス・アシュトン・ロードを経てジョン・ロードとイアン・ペイスが合流する。グレン・ヒューズはヒューズ/スロールで活動を開始した。そしてトミー・ボーリンはソロ・アルバムを制作し、自身のバンドを結成してライブ活動も展開するが、同年12月4日、ドラッグの過剰摂取により死去した。

こうしてディープ・パープルは、1984年の再結成まで、音楽シーンから姿を消すこととなる(なお、この空白期間中の1980年に、ロッド・エヴァンスが無名のミュージシャンを集めてディープ・パープルと名乗りライブ活動を行うという、いわゆる「偽ディープ・パープル事件」が発生した。詳細はロッド・エヴァンスを参照)。

再結成以降(1984年 - )

第5期(再結成第2期) 1984年4月 - 1989年5月

  • ジョン・ロード
  • リッチー・ブラックモア
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

約8年間のブランクを経た1984年、ディープ・パープルは「黄金期」といわれる第2期のメンバーで再結成した。この時期、世界的なヘヴィメタル・ブームが起こっており、その中でディープ・パープルはその元祖として歓迎された。

なお、この再結成によってメンバーを失ったバンドは相当の打撃を受けた。まず、リーダーであるリッチー・ブラックモアを引き抜かれたレインボーは解散を余儀なくされ、当時活動を再開したばかりのホワイトスネイクもジョン・ロードを失った。またホワイトスネイクのリーダーで、ディープ・パープル第3期のボーカルでもあるデイヴィッド・カヴァデールは、この再結成をかなり辛辣に批判している[2]

1984年11月、再結成アルバム第一作『パーフェクト・ストレンジャーズ』(Perfect Strangers)がリリースされた。内容的にも評判がよいアルバムで、更に1987年に『ハウス・オブ・ブルー・ライト』(The House of Blue Light)、1988年にはライブ・アルバム『ノーバディーズ・パーフェクト』(Nobody's Perfect) をリリースし、数年に渡って順調に活動が続いていた。

第6期 1989年12月 - 1992年8月

  • ジョン・ロード
  • リッチー・ブラックモア
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • ジョー・リン・ターナー(Joe Lynn Turner, ボーカル)

ここでまたメンバー間の不仲が起き、イアン・ギランが脱退。代わりに元レインボーのジョー・リン・ターナーが加入。彼を迎えたアルバム『スレイヴス・アンド・マスターズ』は現代的なハード・ロックアルバムとして安心して聴ける佳作に仕上がったと評された。

第7期(再々結成第2期) 1992年8月 - 1993年11月

  • ジョン・ロード
  • リッチー・ブラックモア
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

当初は第6期のメンバーで作成していたものの、ジョー・リン・ターナーが脱退(ジョーと他のメンバーの間に確執が起こり、リッチーもやむ無く了承したためと言われている)。後任のシンガー探しに紆余曲折あったが、バンド結成25周年の名目でイアン・ギランが復帰(これにはマネジメント側の意向が強くあったとされる)。この時点でアルバムはほぼ完成していたが、イアン・ギランとロジャー・グローヴァーが歌メロと歌詞を無理やり書き直し、1993年7月に『紫の聖戦』(The Battle Rages On) をリリースする。この段階でリッチー・ブラックモアとイアン・ギランの不仲は決定的になったと伝えられており、来日公演が翌月に迫っていた11月、リッチー・ブラックモアが脱退した。

第7.5期 1993年12月 - 1994年7月

  • ジョン・ロード
  • ジョー・サトリアーニ(Joe Satriani,ギター)
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

リッチー・ブラックモアが脱退した時点でツアーが目前に迫っていたため、代わりにジョー・サトリアーニが正式な後任が見つかるまでのツアーサポートとして参加。

第8期 1994年11月 - 2002年2月

  • ジョン・ロード
  • スティーヴ・モーズ(Steve Morse, ギター)
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

ソロ活動やディキシー・ドレッグスカンサスなどで高い評価を得ていたスティーヴ・モーズが、ディープ・パープル以外の活動を認める、という条件で加入。1996年2月には『紫の証』(Purpendicular)を、さらに1998年6月には『アバンダン』(Abandon)を発表。

なお、1999年、ロイヤル・フィル・ハーモニックとの共演30周年を記念したコンサートが、当時と同じくロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されたが、フォロー・ヴォーカルとしてロニー・ジェイムス・ディオが参加して「スモーク・オン・ザ・ウォーター」を歌った。この模様はDVD化されている。

第9期 2002年3月 - 現在(2014年3月)

  • ドン・エイリー(Don Airey, キーボード)
  • スティーヴ・モーズ
  • イアン・ペイス
  • ロジャー・グローヴァー
  • イアン・ギラン

肉体的な問題からジョン・ロードが脱退(イアン・ギラン、ロジャー・グローヴァーと対立したという説も)、オリジナルメンバーはイアン・ペイス唯一人となった。代わりにコロシアムII、レインボーやオジー・オズボーン・バンドなどの活動で有名なドン・エイリーが加入し現在に至る(余談だが、ジョン・ロードがホワイトスネイクを脱退して再結成ディープ・パープルに参加した時も、ドン・エイリーがホワイトスネイクに後任として招かれている)。 2012年、ジョンが膵臓癌の闘病中に肺塞栓症との合併症を引き起こし、死去。71歳没。 2013年、「ナウ・ホワット?!」(en:Now What?!)を発売。ドイツやロシアのチャートで1位を記録。 2014年4月、武道館公演を含む来日公演が実施された。

音楽性と影響

時期によってその音楽性は変転しているが、最も印象深く、商業的にも成功している第2期は、いわゆる「ハード・ロック」であり、また「ヘヴィ・メタル」の先駆的な存在であると思われる。クリームジミ・ヘンドリックスなどの先例はあるにせよ、疾走感を伴う曲想と、できる限り大きな音量を出すことが可能なアンプ / PAを使用して、観客を圧倒するパフォーマンスを展開するという、言ってみれば「形式としてのハード・ロック」を構築したのはディープ・パープルであると言われている(音量を参照)。

また、クラシック音楽の導入が特徴とされている。とりわけ国民楽派以降のそれに多大な影響を受けており、和声進行(ハーモニックマイナースケール)を楽式に導入している。代表曲である「ハイウェイ・スター」と「紫の炎」の間奏部分はバッハコード進行を引用したものであるとリッチー・ブラックモアは語っている。

また、リッチー・ブラックモアによるギターの速弾き、印象的なリフは非常に有名で、速弾きの元祖とも言われている。特に「ハイウェイ・スター」や「紫の炎」などに見られる速弾きのテクニックは、その後の多くのギタリストに影響を与えた。また、「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフは彼らの楽曲の中ではもっとも有名な楽曲となり、TVCMでそのリフが多用され、ロック・スターを夢見る多くのアマチュア・ミュージシャンに多大の影響を与えている。ストラトキャスター、もしくはそのコピー・モデルを手に入れて、まず「スモーク・オン・ザ・ウォーター」のリフを弾くギター・キッズは今も多い。他にも「ブラック・ナイト」のリフが有名。

さらに、イアン・ギランの金切り声を立てる超高音シャウトは当時のロック界を象徴するものであり、レッド・ツェッペリンのロバート・プラントとともに多方面に影響を与えた。なお、ロバート自身は「レッド・ツェッペリンはヘヴィ・メタルでは無い」という意味のコメントを発している。

日本での人気は凄まじく、アルバムや楽譜の売上がローリング・ストーンズを遥かに上回るほどで、レコード会社もレッド・ツェッペリンと並ぶ二大ハード・ロック・バンドと呼び、ロック雑誌もそれに倣った。後のパープルファミリーであるレインボーなども日本では格別の人気があり、来日時は「ビートルズのような扱いを受けた」とメンバーが語ったと伝えられている。日本のシンガーソングライター福山雅治の楽曲「vs. 〜知覚と快楽の螺旋〜」には「ハイウェイ・スター」のフレーズの一部が取り入れられている。

特記

音量

  • 1973年度版ギネスブックに"The loudest band in the world"(世界一の大音響バンド)として彼らが認定されている。ロンドンのコンサート・ホールにて最大117デシベルを計測し、しばらく記録を保ち続けたが、1976年に同じくイギリスのロック・バンド、ザ・フーが最大120デシベルを計測したため彼らの記録は破られた。しかし屋内ステージでの公演における音量としては、未だに世界一を保持している。
  • 第2期の彼らは、全員がマーシャル製のアンプ(ギター用は市販とは異なる特注品)を使い、PAシステムにも同社のものを使用していた。1972年の初来日公演ではボーカル用マイクロフォンシュア#565SD)2本をガムテープで束ねて歌っていたが、これは出力を高めるためではなく、PA用と録音用にそれぞれ1本ずつマイクを使用したためである。

その他

  • 1970年、プランプトン・フェスティバルにおける演奏中、リッチー・ブラックモアがギター・アンプを破壊し、燃え出したアンプを客席に投げつける。
  • 彼らは1974年から1975年頃にかけて特別仕様の専用飛行機ボーイング707を借りてツアーをしていた時期があった。“スター・シップ1号”と名づけられたその飛行機は、ボディ色を金、銀、茶に塗られ、機内にはソファ、暖炉、シャワー室、台所、テレビビデオ、書斎などが装備されたものであった。フランク・シナトラ、レッド・ツェッペリン、ボブ・ディランエルトン・ジョンなども同型のものを使用していた。また1976年にも小型のプロペラ機“ヴァイカウント号”を借りている。
  • 日本にて王様というミュージシャンが1995年に「深紫伝説」という、このバンドの曲の歌詞を日本語で直訳したカバーアルバムでデビューし、同年の第37回日本レコード大賞・企画賞を受賞している。同バンドのハード系のヒット曲や有名代表曲のほとんどがメドレー形式で網羅されている作品である。
  • 1973年6月25日、彼ら2度目の来日公演の際、会場である日本武道館でバンド側がアンコールを拒否したために暴動が起きる事件が発生した。一部の観客が椅子や場内設備などを破壊し花火を上げたりして大騒ぎしたため翌日も予定されていた同会場でのコンサートが中止になった。このエピソードは後々まで暗い話題として残り続けた。また、その荒らされた惨状を撮影した写真海賊版ジャケットなどに使われたりもした。

パープル・ファミリーの活動

メンバーの入れ替えも比較的多かったが、各メンバーの脱退後の活動やソロ活動も盛んで、常にロック界をリードしてきた。以下はそのほんの一部である。

イアン・ペイス、ジョン・ロードの2人にトニー・アッシュトンを加えたバンド。アルバム1枚を出して解散。
ニック・シンパーの結成したバンド。ボーカリストのアッシュリー・ホルトリック・ウェイクマンとの活動で知られる)はディープ・パープルのオーディションの最終選考まで残った人物。
第一期のボーカルであるロッド・エヴァンスが脱退した後に参加したバンド。ロッド・エヴァンス自身は2ndを発表した後に脱退するが、バンドはその後も活動を続け、2枚のアルバムをリリースする。
第1〜3期、5〜7期のギタリストであるリッチー・ブラックモアが、最初に脱退して結成したハード・ロック・バンド。後にロジャー・グローヴァーもメンバーとして加入する。ロニー・ジェイムス・ディオグラハム・ボネットジョー・リン・ターナーなど、その後もハード・ロック/ヘヴィ・メタル・シーンで活躍するボーカリストを何人も輩出している。また、コージー・パウエルとのコラボレイションも伝説的。なお、1978年の来日公演時、札幌公演で会場の混乱から観客1人が死亡する事故が起き、当時大きなニュースとなった(詳細はレインボー (バンド)#事件を参照)。
リッチー・ブラックモアが1997年に結成したデュオ。恋人キャンディス・ナイト(後に結婚)をボーカルにフィーチャー。中世からルネッサンス期の音楽を主なモチーフとし、ブラックモアはアコースティック・ギターを演奏することが多い。現在も活動中。
第3、4期のボーカルであるデヴィッド・カヴァデールが中心となって結成されたバンド。後に、イアン・ペイスとジョン・ロードも参加する。多くの著名なギタリストを輩出し、1980年代後半には全米チャートも制覇した。現在でも「紫の炎」「ミストゥリーテッド」といった、カヴァデールのディープ・パープル時代の楽曲を演奏。
デヴィッド・カヴァデールとレッド・ツェッペリンのジミー・ペイジとの1990年代前半のプロジェクト。アルバム1枚と、日本でのライヴツアーのみの活動にて解散している。
  • ヒューズ・スロール
グレン・ヒューズと、元パット・トラヴァースなどとともに活動していたギタリストのパット・スロールによるプロジェクト。以降、ヒューズはソロ活動中心だが、ゲイリー・ムーアのソロアルバムに全面参加するなど、ベーシストとしてばかりではなくボーカリストとして、現在も盛んに活動する。
イアン・ギランとロジャー・グローヴァーのユニット。88年にアルバム『アクシデンタリー・オン・パーパス』を発表。内容はハードロックではなくサイケデリックポップ。

ディスコグラフィ

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結成 - 解散宣言

結成 - 解散宣言、ライヴ盤、編集盤

再結成 - 現在

再結成 - 現在、ライヴ盤

参考文献

  • 吉田弘和編 『ディープ・パープル,ブリティッシュ・ロックの王者:紫神』 シンコー・ミュージック、1976年
  • クリス・チャールズ・ワース 『ディープ・パープル :フォト・バイオグラフィー』 内田久美子・成田寿恵子訳、シンコー・ミュージック、1984年
  • TORU FUJIWARA編: 『天才ギタリスト :リッチー・ブラックモア』 バーン・コーポレーション、1998年
  • Dave Thompson, Smoke on the water: The Deep Purple Story ,Canada:ECW Press, 2004

脚注

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 シンコー・ミュージック刊 『ディープ・パープル,ブリティッシュ・ロックの王者:紫神』吉田弘和編より。
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 2.13 2.14 シンコー・ミュージック刊『リッチー・ブラックモア,狂気の雷舞』より。
  3. ただし本国イギリスではアルバム/シングルとも時期遅れの9月にパーロフォン・レーベルより発売され、まったくヒットしなかった。
  4. そのため、エピソード・シックスはこの後自然消滅してしまう。
  5. この映像は現在でもDVDソフトとして購入する事が可能。
  6. ただし、どの曲かは記載されていない。ちなみに全ての演奏が4月4日 - 4月7日に収録されていると記載されている。
  7. メイド・イン・ヨーロッパ国内盤のライナーノーツより。なお、同ライナーノーツでは、イアン・ペイスがグレンとトミーを理解出来なかったとコメントしている。

外部リンク

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