ザ・フー

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ファイル:Who - 1975.jpg
シカゴで撮影した1975年当時のザ・フー

ザ・フーThe Who)は、イギリスロックバンドビートルズローリング・ストーンズと並び、イギリスの3大ロックバンドの一つに数えられる[1]

デビュー当初はスモール・フェイセス(のちフェイセズに改名)と並びモッズ・カルチャーを代表するバンドと評された。1969年に発表されたアルバム『ロック・オペラ “トミー”』でロック・オペラというジャンルを確立。また1971年発表の『フーズ・ネクスト』では、当時貴重なシンセサイザーを、後のテクノにも影響を与えたミニマル・ミュージック風に導入するなど、先進的な音楽性を持つバンドに成長するに至る。また、ギターを叩き壊しドラムセットを破壊する暴力的なパフォーマンスと文学性豊かな歌詞世界とのギャップが魅力のひとつでもあった。

「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第29位。

メンバーと主な担当楽器

正式メンバー

サポートメンバー

来歴

原形は、ロジャー・ダルトリーのバンド、The Detours。テレビで同じ名前のバンドが存在するのを知り、バンド名をザ・フーに改めた。

1964年、当時のマネージャー、ピート・ミーデンのアイデアでバンド名をザ・ハイ・ナンバーズに改名する。同年7月、そのバンド名義でデビュー・シングル「アイム・ザ・フェイス」を発表するが不発に終わり、ミーデンは解任される。バンドはザ・フーに戻り、翌年1月、デッカ系列のブランズウィック・レーベルからシングル「アイ・キャント・エクスプレイン」で再デビューした。同年11月、「マイ・ジェネレーション」の全英チャート2位のヒットによって現在までの評価を決定づける。この曲中の「年寄りになる前に死んでしまいたい」などの内容が、当時のイギリスの若者、特に労働者階級の不満を代弁したものとして、バンドは以後、同世代の代弁者的な役割を担うことになる。 その後、ピート・タウンゼントはクラシックの楽曲技法をロックに取り入れ、「ロック・オペラ」と称される楽曲を発表するようになる。

1967年6月、モンタレー・インターナショナル・ポップ・フェスティバルに出演。

1969年8月、ウッドストック・フェスティバル及び第2回ワイト島フェスティバルに出演。

1970年8月、第3回ワイト島フェスティバルに出演。

1978年9月7日キース・ムーンアルコール依存症を治療するための薬の過剰摂取により他界。同年5月25日に英シェパートン・スタジオで行われた、ザ・フーのドキュメンタリー映画『キッズ・アー・オールライト』用の演奏がオリジナルメンバーによる最後のライブ演奏となった。

ムーンの後任に元フェイセズのケニー・ジョーンズを迎え、活動を続行。1979年に入って、キーボードを担当するサポートメンバーのジョン “ラビット” バンドリックを含んだ新生ザ・フーとしてのツアーに臨むが、同年12月3日米オハイオ州シンシナティでのコンサートで開場時に観客が入場ゲートに殺到し、将棋倒しとなって11人が死亡するという悲劇が起きてしまった。同年12月28日、カンボジア難民救済コンサートに出演。

新体制においても、1981年にシングル「ユー・ベター・ユー・ベット」とアルバム『フェイス・ダンシズ』がヒットするなどある程度の成功は収めたものの、バンドとしての勢いの衰えは否めなかった。1982年にアルバム『イッツ・ハード』をリリースし、ライブバンドとしての解散ツアーを行った後、1983年には正式に解散。

1985年7月13日ライブ・エイド及び1988年2月8日の英国レコード産業協会 (BPI) 特別功労賞受賞時のライブ演奏のために単発の再結成がなされたのち、1989年に結成25周年記念ツアーが行われた。ツアーバンドとして、1985年から1986年にかけてピート・タウンゼントのライブ時に編成されたディープ・エンドという名のバックバンドが流用される形となり、ドラムを担当したサイモン・フィリップスもその中の一人であった。また、聴力障害の影響でタウンゼントは多くの曲でアコースティックギターを弾くことになり、それを補うためにセカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンが起用される。

1990年ロックの殿堂入り。

1996年、英ハイドパークでの英チャールズ皇太子が主催するプリンス・トラスト・コンサートにおける『四重人格』全曲ライブ演奏を契機に本格的なツアー活動を再開。ドラムにリンゴ・スターの息子であるザック・スターキー、また、ギターとボーカルでピート・タウンゼントの実弟であるサイモン・タウンゼントが加入するなどツアーバンドに変更があった。1997年までツアーは続く。

1999年10月から12月にかけてiBash '99及びニール・ヤング夫妻が主催するブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートへの出演を含め計7回のライブを行う。ジョン“ラビット”バンドリック、ザック・スターキーを含めた5人の基本的なバンド編成に戻り、ピート・タウンゼントもほぼ全ての曲で再びエレクトリックギターを弾くようになる。2000年に北米・全英ツアー、11月27日にはロジャー・ダルトリーが支援している青少年のがんや白血病患者の支援団体であるティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートが英ロイヤル・アルバート・ホールで開催され、ポール・ウェラーオアシスノエル・ギャラガーパール・ジャムエディ・ヴェダーなどと競演。

2001年2月、グラミー賞特別功労賞を受賞。10月20日、アメリカ同時多発テロ事件被害者のための支援コンサートとして米マディソン・スクエア・ガーデンで行われたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演。ジョン・エントウィッスルのザ・フーとしてのアメリカにおける最後のライブ演奏となる。


2002年2月7日と8日の両日、英ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートに出演。ジョン・エントウィッスルのザ・フーとしてのイギリスにおける最後のライブ演奏。6月27日、北米ツアー開始前日にエントウィッスルが公演予定地の米ネバダ州ラスベガスで薬物摂取に起因する心臓発作で急死。後任にピノ・パラディーノを迎え、7月1日からツアー続行。当初から予定されていたとおり、サイモン・タウンゼントもツアーに参加。

2004年6月12日、復活版ワイト島フェスティバルに出演。7月24日および25日、横浜大阪で開催されたロック・フェスティバルPOCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004への出演のため初来日。

2005年7月2日、英ハイドパークで行われたLIVE 8に出演。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーに出ていたため、代役としてデーモン・ミンチェラとスティーヴ・ホワイトがそれぞれのパートを担当。

2006年6月17日、ヨーロッパとそれに続く世界ツアーの初日として1970年以来36年ぶりに英リーズ大学でライブを行う。11月、1982年の『イッツ・ハード』以来24年ぶりのスタジオ録音フルアルバムになる『エンドレス・ワイヤー』を発表。2007年6月24日、グラストンベリー・フェスティバルヘッドライナーとして出演。

2008年11月に二度目の来日公演が行われた。バンド単独の来日公演はこれが初であった。

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第44回スーパーボウルハーフタイムショーで演奏するザ・フー

2010年2月7日、マイアミで行われた第44回スーパーボウルのハーフタイムショーを行った。

2012年ロンドンオリンピック閉会式に出演。

ライブパフォーマンス その後の影響

ライブバンドとして知られ、演奏は初期から大音量で行われていたと言われている。オリジナル曲の多いバンドだが、結成当時は主にモータウンR&Bのカバー・バンドであった。その後、ピート・タウンゼントのクリエーターとしての才能が開花し、ザ・フーのほとんどの曲は彼の作詞作曲によるものとなる。ベーシストのジョン・エントウィッスルも、いくつかの優れた楽曲をバンドへ提供した。

このバンドは、ステージ上の派手なアクションでも知られている。ロジャーはマイクを振り回し、ピートは縦横無尽に飛び跳ね、腕を振り回してコードを弾いた(=ウインドミル奏法。風車弾きともいわれるこの弾き方は、ローリング・ストーンズキース・リチャーズを参考にした)。キース・ムーンは、全身を投げ出すようにドラムを叩きまくるその破天荒なプレイスタイルで、デビュー当初から評判だった。3人のアクションとは対照的に、ベースのジョンは黙々とプレイし、バンドの動きに大きなコントラストをつけた。ステージ終盤には、ギターやドラム、機材などをステージ上で破壊したことでも知られる。こうしたステージパフォーマンスは、後にパンク・ロックのアーティストら(セックス・ピストルズパール・ジャムなど)に大きな影響を与えた。

派手なアクションが注目されがちではあったが、ライブバンドとしての名声を獲得し得たのは、確かな個々の演奏技術であった。リードベースと言われるジョン・エントウィッスルの高度なテクニック、全編フィルインとも言える手数の多い津波のようなキース・ムーンのドラムは、他に類を見ない物であった。また、ピート・タウンゼントのギターは、リズムギターとリードギターを合体させたパワー・コードといわれる奏法で、独自のスタイルを確立した。彼はまたフィード・バックをはじめとしたエレキ・ギター創世記の技術を積極的に取り入れる一方、アコースティックギターでも、非常にすぐれた演奏をみせている。ロジャー・ダルトリーのボーカルは、バンド初期はジェームス・ブラウンなど、R&Bの影響を強く感じさせるものであったが、やや器楽のパワーに押され気味であった。しかし『ロック・オペラ “トミー”』の頃になると、ややハスキーな声質を生かした独自の唱法を獲得し、ボーカリストとしての評価を確立した。以降、彼は繊細さと力強さの振幅の激しいザ・フー(ピート・タウンゼント)の楽曲に極めてすぐれた解釈をみせ、今日に至るまで歌い続けている。

ザ・フーのほとんどの曲を作詞作曲したピート・タウンゼントは、サウンド・クリエーターとしても評価が高い。クラシックの作曲技法である対位法を取り入れた『ロック・オペラ “トミー”』などのドラマティックなロックオペラ、シンセサイザーのシークエンスフレーズと同期させた演奏など、ロックの枠を広げる画期的な試みも多い。

ディスコグラフィ

オリジナル・アルバム

サウンドトラック盤

  • 1975年 トミー - Tommy (Soundtrack) (Polydor)
  • 1979年 さらば青春の光 - Quadrophenia (Soundtrack) (Polydor)

ライヴ・アルバム

編集盤、ベスト盤など

  • 1968年 ダイレクト・ヒッツ - Direct Hits (Polydor)
  • 1968年 マジック・バス - Magic Bus
  • 1971年 ミーティ・ビーティ・ビッグ・アンド・バウンシー - Meaty Beaty Big And Bouncy (Polydor)
  • 1976年 ストーリー・オブ・ザ・フー - The Story Of The Who (Polydor)
  • 1974年 オッズ&ソッズ - Odds And Sods(Polydor)
  • 1983年 Who Rarities Volume 1 (Polydor)
  • 1983年 Who Rarities Volume 2 (Polydor)
  • 1984年 The Singles (Polydor)
  • 1985年 Who's Missing (Polydor)
  • 1985年 Two's Missing (Polydor)
  • 1988年 フーズ・ベター、フーズ・ベスト - Who's Better, Who's Best (Polydor)
  • 2002年 アルティメイト・コレクション - The Ultimate Collection
  • 2004年 The 1st Singles Box (Polydor)
  • 2004年 Then and Now 1964-2004 (Polydor)

[2]

日本公演

  • 2004年 THE ROCK ODYSSEY 2004(初来日)
7月24日 横浜国際総合競技場、25日 大阪ドーム
  • 2008年 (2度目の来日。単独公演としては初)
11月13日(木)大阪城ホール
11月14日(金)横浜アリーナ
11月16日(日)さいたまスーパーアリーナ
11月17日(月)・19日(水)日本武道館

参考文献

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外部リンク

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  1. The Who Biography The Rolling Stone
  2. WhiteFang's Who Site -The Who Discography