演歌

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テンプレート:複数の問題 演歌(えんか)とは、

  1. 明治時代の自由民権運動において政府批判を歌に託した演説歌の略[1]
  2. 日本歌謡曲から派生したジャンルの一つであり、日本人独特の感覚や情念に基づく娯楽的な歌曲の分類。歌手独自の歌唱法や歌詞の性向から、同じ音韻である「艶歌[2]」や「怨歌」の字を当てることもある。

ここでは1.2ふくめて概説する。

特徴

音階法(ヨナ抜き音階)

演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた音階を平均律に置き換えた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。この音階法は古賀正男、後の古賀政男(1904年(明治37年)-1978年(昭和53年)) による古賀メロディとして定着し、以降演歌独特の音階となる。ただし、ヨナ抜き音階そのものは演歌以外の歌謡曲などでもよく使われる音階である。古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡したが、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。

歌唱法

歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法(メリスマとほぼ同義)が多用される。又、必ずと言ってよいほど「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。

衣装

演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。

歌詞・テーマ・曲想

歌詞の内容は“海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ”がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない情愛や悲恋などを歌ったものが多い。美空ひばり「悲しい酒」、都はるみ大阪しぐれ」、大川栄策さざんかの宿」、吉幾三雪國」など。また、水商売の女性が客に恋をするモチーフも頻繁にみられ、そうした接客産業の顧客層である男性リスナーを中心に、支持を得ている。細川たかし北酒場」、藤圭子新宿の女」など。 切ない感情・真剣な心情を表すため、短調の曲が多いとされているが、詳細な統計は無い。長調で書かれているものは、ヨナ抜き音階のものが多い。

男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマとしては、

分類

上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。たとえばジャズピアニスト山下洋輔は、“音楽理論的に両者を区分できない”の意で「演歌もアイドル歌謡曲も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。

演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。

歴史

創成期

「演歌」は、「演説歌」の略語であり、明治時代の自由民権運動の産物だった。藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。つまり、政治を風刺する歌(プロテストソング)で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称の始まりといわれる。この頃流行ったのが「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。他にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。

大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。鳥取春陽の登場である。彼の作曲である『籠の鳥』は一世を風靡した。ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。

流行歌の時代へ

昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され新しい時代を迎えた。しかし、昭和3年(1928年)の佐藤千夜子二村定一、昭和6年(1931年)の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。

なおこの時期の大衆音楽をも「演歌」扱いすることがあるが、本来的には演歌・歌謡曲・声楽曲全ての音楽性が渾然一体となった独特の音楽性を持っており、同一視出来ない。ただし上述した古賀政男の作品「吉良の仁吉」、あるいは「こぶし」を利かせた唱法を使った人気歌手上原敏などは、広沢虎造浪曲師の影響を受けている。これらの例からも、作者や歌手が一部重複しているのは事実であり、この「流行歌」時代に育まれた音楽性や技巧を基にして現在の「演歌」が生まれているので、演歌を語る上で無視は出来ない時代である。

1950年代(復興期)

戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と昭和28年(1953年)の藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、キングレコードから望郷歌謡の春日八郎三橋美智也ビクターレコードから任侠路線のスター鶴田浩二テイチクレコードから浪曲出身の三波春夫、戦後の大スター石原裕次郎コロムビアレコードからは泣き節の島倉千代子が登場。さらに三波と同じく浪曲界から村田英雄がデビュー。日活のマイトガイこと小林旭も歌手デビューした。

民謡浪曲などをベースにし、それまでの「流行歌」とはかなり質の異なる現在の演歌に近い作風の楽曲が出現した。この時期のヒット曲に「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「船方さんよ」「からたち日記」「人生劇場」など。

1960年代

昭和38年(1963年)、演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。その中で、ヨナ抜き音階小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。戦前に途絶した「演歌」分野の再来ではあるものの、社会風刺的要素は全くなく、‘‘名称だけの復活’’となり、演説歌を起源とする旧来の演歌は、戦後に流入したアメリカンフォークの影響によって「フォーク」に変わる。

演説歌が「フォーク」と呼称・総称されるようになり、演歌と呼ばれなくなったことで、ヨナ抜き音階や小節を用いた歌謡曲の派生形が「演歌」と呼称されるようになったとの見方もでき、その演歌を除く楽曲における幅広いジャンルとしての歌謡曲が1990年代に入り、「J-POP」と呼称・総称されるようになったことで、演歌を「歌謡曲」と呼称するのと同じようなものである。

この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎橋幸夫都はるみ青江三奈水前寺清子千昌夫森進一藤圭子小林幸子(わずか10歳でデビュー)、大川栄策コミックバンド派生の宮史郎とぴんからトリオ殿さまキングスなどが登場した。

作曲家は流行歌から転身した古賀政男に加え、吉田正猪俣公章船村徹市川昭介流しから転身した遠藤実ロカビリー歌手から転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼星野哲郎岩谷時子山口洋子川内康範らが登場、「潮来笠」「哀愁波止場」「王将」「長崎の女」「あゝ上野駅」「北帰行」「なみだ船」「皆の衆」「アンコ椿は恋の花」「「函館の女」「兄弟仁義」「帰ろかな」「花と竜」「涙の連絡船」「」「悲しい酒」「恍惚のブルース」「柳ヶ瀬ブルース」「浪曲子守唄」「星影のワルツ」「港町ブルース」「池袋の夜」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。(ナベプロ所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。

ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。

1970年代

1970年代に入ると五木ひろし八代亜紀森昌子牧村三枝子石川さゆり中条きよし西川峰子細川たかし新沼謙治川中美幸などが登場。

同年代の演歌のヒット曲で、1970年代前半は「傷だらけの人生」「圭子の夢は夜ひらく」「よこはま・たそがれ」「わたしの城下町」「雨の御堂筋」「瀬戸の花嫁」「女のみち」「女のねがい」「せんせい」「ふるさと」「夜空」「なみだ恋」「くちなしの花」「なみだの操」「夫婦鏡」「うそ」「昭和枯れすすき」「あなたにあげる」など。1970年代後半は「心のこり」「北の宿から」「嫁に来ないか」「昔の名前で出ています」「津軽海峡・冬景色」「北国の春」「夢追い酒」「与作」「おやじの海」「みちづれ」「おもいで酒」「舟唄」などの多くの名曲が生まれ、フォークニューミュージックアイドル歌謡などと競い合いながら安定した発展を見せていた。

その一方で、昭和49年(1974年)には森進一がフォーク歌手かつシンガーソングライター吉田拓郎作の「襟裳岬」で、第16回日本レコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまり、以後演歌かその他の音楽ジャンルか分別の難しい曲も登場することとなる。

1980年代〜1990年代

1970年代後半から1980年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようなカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭し一時代を築いた。カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。しかし若者のポップス志向がより強くなったこともあって、演歌離れもこの頃から進んでいった。

1980年代半ば以降は若者と中高年の聞く歌が、さらに乖離していく傾向が強まっていった。テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法を持つ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。

1980年代後半から1990年代前半にかけて坂本冬美香西かおり伍代夏子藤あや子など、この時期にデビューし大御所のポジションを手に入れた女性歌手達が多数誕生する。また島倉千代子の「人生いろいろ」、石原裕次郎の「ブランデーグラス」「北の旅人」、美空ひばりの「みだれ髪」「川の流れのように」などがロングヒット、往年の大御所歌手も健在ぶりをアピールした。しかし、石原とひばりは度重なる病に倒れ、石原は昭和62年(1987年)7月に、ひばりは平成元年(1989年)6月に、奇しくも二人共に52歳の若さでこの世を去ってしまう。

さらに都はるみが1984年12月(第35回NHK紅白歌合戦)に、森昌子が1986年8月に共に惜しまれつつ歌手活動を引退した(その後都は1990年に、森は2006年にそれぞれ本格的に活動再開している)。ほか尾形大作段田男大和さくらなど大型新人として期待され、ヒットを放ちながらも短期間のうちに活動を縮小・中止してしまうケースも見られた。

また吉幾三長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者や、ニューミュージックから演歌に寄った堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。さらに大瀧詠一がポップス風に作曲した「冬のリヴィエラ」(森進一)、「熱き心に」(小林旭)がヒットするなど、緩やかな衰退の中で分化が起こり、「演歌」という音楽ジャンルの定義もより拡大しつつあった。

主なヒット曲に、1980年代前半は「おまえとふたり」「雨の慕情」「大阪しぐれ」「ふたり酒」「奥飛騨慕情」「みちのくひとり旅」「北酒場」「さざんかの宿」「氷雨」「兄弟船」「矢切の渡し」「長良川艶歌」「娘よ」「つぐない」「夫婦坂」など。1980年代後半は「雪國」「時の流れに身をまかせ」「愛しき日々」「命くれない」「無錫旅情」「夫婦善哉」「追憶」「雪椿」「祝い酒」「夢おんな」「酒よ」など。1990年代に入ると「麦畑」「恋唄綴り」「忍ぶ雨」「流恋草」「こころ酒」「無言坂」「むらさき雨情」「心凍らせて」「夜桜お七」「」「珍島物語」「二輪草」などがある。

1990年代も半ばを過ぎると若者の中に支持者がほとんどいなくなった上、大御所歌手のヒットも年々減少し、演歌の衰退は激化。1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。一部レコード会社の演歌部門撤退による演歌歌手のリストラもこの時期に行われており、大御所さえもリストラされる事態に陥る。その後、リストラされた演歌歌手の多くは、演歌を主力とするレコード会社に移籍した。

2000年代

平成12年(2000年)に大泉逸郎の「」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」が大ヒットし、演歌復活の基礎を作った。但し、「孫」は大泉と同年代かそれ以上の中高年層の間でのヒットであり、10代、20代にも人気を博した氷川きよしの場合は演歌歌手としては規格外のルックスにより若者受けした部分が大きく、歌それ自体に対する評価は以前とそれほど変わらなかった。

一方で、前川清の「ひまわり」(平成14年(2002年)ヒット:福山雅治プロデュース)のように演歌歌手がポップスを意識した楽曲を発表するような動きも増えている。そのため、ジャンルとしての演歌の枠に納まらない楽曲も多くなり、演歌系の楽曲を総称して演歌・歌謡曲オリコンでは歌謡・演歌)と呼ぶようにもなってきている。また、演歌・歌謡曲に含まれる楽曲の中には、すぎもとまさと吾亦紅のように、演歌歌手ではない歌手が歌唱し、以前ならば狭義での歌謡曲には含まれなかったフォーク系やその歌唱法の楽曲も一部含まれるようになり、社会風刺的なものはないものの演説歌の流れを汲むフォークと、名称のみ演歌と称する現在の演歌が一つのジャンルに納まるという現象が発生している。

一時期1人、または2〜3人だった大型新人演歌歌手のデビューも毎年4〜5人まで増えている。また、ランキング上位を占めていたJ-POP全体の売り上げが停滞するにつれ、相対的にランキングでも上位に顔を出すことが多くなっている。平成20年(2008年)にデビュー曲「海雪」がヒットしたジェロは初の黒人演歌歌手として注目され、ヒップホップスタイルのファッションでの演歌歌唱も話題となり、ヒットした。更に、鼠先輩(2009年12月31日歌手引退)、美月優など半ばお笑い芸人のようなスタイルの歌手も出現。かつてインド人演歌歌手として活躍していたチャダも再来日し、音楽活動を再開。テレビ出演がきっかけとなり北島三郎に見出された大江裕、「平成の美空ひばり」とも称されるさくらまや等、大きなヒットこそないものの異色の新人歌手の発掘が相次ぐ。

その一方でカンカラ三味線を用いて演説歌を歌う岡大介という異色のフォークシンガーソングライターも出現。

2010年代

2010年、川内康範近藤真彦に歌わせたいと21年前に書き下ろした「ざんばら」が近藤真彦の歌唱により発表され、話題となり、ヒットとなる。また、坂本冬美ポップス系楽曲に挑戦し、フォークデュオビリーバンバンの楽曲「また君に恋してる」のカバーが話題となって、演歌歌手としては異例のヒットを連発する。

2012年、2月1日にAKB48岩佐美咲が、演歌歌手としてソロデビューする。過去に女性アイドルグループから演歌歌手としてデビューした人は、元おニャン子クラブ城之内早苗、元モーニング娘。(現ドリームモーニング娘。)の中澤裕子(中澤ゆうこ名義)がいる。

現在

テンプレート:独自研究 現在、60代後半~70代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。個性と実力を兼ね備え、演歌という新ジャンルの土台を築いた、春日八郎三橋美智也三波春夫村田英雄らの男性歌手や、「演歌(歌謡界)の女王」と称された美空ひばり島倉千代子らの女性歌手が、平成時代に入った後それぞれ亡くなった。又その後に続く、紅白歌合戦にほぼ毎年常連出場の北島三郎(2013年・第64回紅白歌合戦を最後に紅白勇退)・森進一・五木ひろし・細川たかしなどベテランの男性歌手や、石川さゆり・小林幸子など女性歌手らの大御所も、かつての昭和時代と比べると実力を発揮し切れていない状況である。また若手を除けば、歌手本人はおろか作詞・作曲家などの共同製作者が鬼籍に入るケースも増加している。

有線などでの小ヒットはあるものの、大泉逸郎『孫』、氷川きよし『箱根八里の半次郎』以来世間を揺るがす程の大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。

また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多いことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。

演歌界には旧態依然とした徒弟制度が残っており、師匠からのパワハラや契約面での障害も少なくない。そのため、例えば水樹奈々は演歌志望から声優・アニソン系に移行している。

カラオケブームによる第二次ブームの時期に幼少期から青年期を過ごした30代後半〜50代の中年壮年層の中では近親者などの影響も手伝い比較的認知度は高い。しかし、個人差はあるものの、聴く或いは積極的に唄う対象にはされにくく敬遠される傾向が強い。ただし、歌手のキャラクターは広く受け入れられている部分もある。村田英雄の「ムッチーブーム」や千昌夫の「額のホクロ」、小林幸子と美川憲一の紅白衣装対決、森進一の「おふくろさん」歌唱および近年の「おふくろさん騒動」など。

ものまねブームによる、これら個性的な歌手のものまね知名度の向上に貢献した。

10代、20代の若者の中には代表的なヒット曲や、氷川きよしなどの有名歌手を除き、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくなく、曲や歌手以前に「演歌」という語句すら敬遠されるケースさえある。

ただし、生活環境によっては若者の中にも一部には熱烈な演歌ファンが存在することも事実であるが、ファン層は50歳代後半以上が概ね8割以上で、「20歳代以下は1割以下」というのが現状である。

テレビ番組『さんまのSUPERからくりTV』に出演し話題を呼び、北島三郎のもとに弟子入りし、プロデビューを果たした大江裕や有線放送で頻繁に演歌の流れる家庭で育った大相撲勢翔太は典型といえる。

また20代、或いは社会人となれば職場での付き合い(上司や先輩とカラオケボックス、カラオケシステムのある居酒屋スナックへ行くなど)や、その他の社会活動を通して高年齢層も含めた同世代以外との交流の機会が増加する。それらの機会を通じて認知、興味関心をもつ場合もありうる。

演歌歌手の一覧

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海外での演歌

アフリカ系アメリカ人のジェロは幼少期に、日本人だった祖母から演歌に親しみ、2008年に日本で演歌歌手としてデビューした。

2007年、ブラジルサンパウロにて行われた日系移民100周年記念イベントでは、日本の音楽として演歌が流された。また大城バネサ南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。

オリコンチャート1位獲得作品

※太字の曲はミリオンセラーとなったもの。演歌・歌謡曲として歌謡曲も一部含まれる。

週間

(1968年1月4日付〜2014年1月20日付まで、計30曲)

年間

  • 1968年度 星影のワルツ/千昌夫
  • 1971年度 わたしの城下町/小柳ルミ子
  • 1972年年度・1973年度 女のみち/宮史郎とぴんからトリオ
  • 1974年度 なみだの操/殿さまキングス
  • 1975年度 昭和枯れすゝき/さくらと一郎
  • 1979年度 夢追い酒渥美二郎(最高2位)
  • 1983年度 さざんかの宿大川栄策(最高2位)
  • 1987年度 命くれない瀬川瑛子(最高2位)

(1968年度〜2006年度まで、計8曲)

テレビ番組

演歌を題材にした作品

映画
テレビドラマ
小説
  • 五木寛之『艶歌・海峡物語』、講談社、新装版、1987年(モデルは音楽ディレクターの馬渕玄三)
漫画

脚注

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関連項目

参考文献

  • 見田宗介『近代日本の心情の歴史 - 流行歌の社会心理史』 講談社、1967年(講談社学術文庫249、1978年。『定本 見田宗介著作集 第4巻』岩波書店、2012年)
  • 見田宗介『現代日本の心情と論理』 筑摩書房、1971年。(「新しい望郷のうた」などを収録)
  • 奥山弘『「艶歌の竜」と歌謡群像』三一書房、1995年10月
  • 菊池清麿『さすらいのメロディー鳥取春陽伝』郁朋社、1998年:ISBN 4-900417-99-8
  • 藍川由美『「演歌」のススメ』文春新書文藝春秋、2002年:ISBN 4166602829
  • 菊池清麿『日本流行歌変遷史―歌謡曲の誕生からJ・ポップの時代へ 』 論創社、2008年。
  • 輪島裕介『創られた「日本の心」神話 「演歌」をめぐる戦後大衆音楽史 』光文社新書,2010年10月。
  • 高護『歌謡曲――時代を彩った歌たち』岩波新書、岩波書店2011年

外部リンク

テンプレート:音楽
  1. 輪島裕介2010
  2. 1968年の水前寺清子の歌に「艶歌」がある(作詞五木寛之、作曲安藤実親)。1984年の五木ひろしは「長良川艶歌」を発表した。