大日本帝国憲法

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憲法発布略図 明治22年 楊洲周延

大日本帝国憲法(だいにほんていこくけんぽう、だいにっぽんていこくけんぽう、旧字体:大日本帝國憲法)は、1889年明治22年)2月11日公布1890年(明治23年)11月29日に施行された、近代立憲主義に基づく日本憲法[1]明治憲法、あるいは単に帝国憲法と呼ばれることも多い。現行の日本国憲法との対比で旧憲法とも呼ばれる。

短期間で停止されたオスマン帝国憲法を除けばアジア初[2]の近代憲法である。1947年昭和22年)5月3日の日本国憲法施行まで半世紀以上の間[3]、一度も改正されることはなかった。1947年(昭和22年)5月2日まで存続し、第73条の憲法改正手続を経て翌5月3日日本国憲法が施行された。

沿革

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大日本帝国憲法「上諭」1頁目
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大日本帝国憲法「上諭」2頁目
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大日本帝国憲法「御名御璽と大臣の副署」3頁目
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大日本帝国憲法「本文」4頁目

明治維新による国制の変化

日本では、明治初年に始まる明治維新により、さまざまな改革が行われ、旧来の国制は根本的に変更された。慶応3年10月14日グレゴリオ暦1867年11月9日)、江戸幕府第15代将軍徳川慶喜明治天皇に統治権の返還を表明し、翌日、天皇はこれを勅許した(大政奉還)。同年12月9日1868年1月3日)に江戸幕府は廃止され、新政府(明治政府)が設立された(王政復古)。新政府は天皇の官制大権を前提として近代的な官僚制の構築を目指した。これにより、日本は、封建的な幕藩体制に基づく代表的君主政から、近代的な官僚機構を擁する直接的君主政に移行した。大日本帝国憲法第10条は官制大権が天皇に属すると規定している。

明治2年6月17日1869年7月25日)、版籍奉還がおこなわれ、諸侯(藩主)は土地と人民に対する統治権をすべて天皇に奉還した。これは、幕府や藩などの媒介なしに、天皇の下にある中央政府が直接に土地と人民を支配し、統治権(立法権・行政権・司法権)を行使することを意味する。さらに、明治4年7月14日1871年8月29日)には廃藩置県が行われ、名実共に藩は消滅し、国家権力が中央政府に集中された。大日本帝国憲法第1条および同第4条は、国家の統治権は天皇が総攬すると規定している。

版籍奉還により各藩内の封建制は廃止され、人民が土地に縛り付けられることもなくなった。大日本帝国憲法第27条は臣民の財産権を保障し、同第22条は臣民の居住移転の自由を保障している。

新政府は版籍奉還と同時に、堂上公家と諸侯を華族に、武士を士族に、足軽などを卒族に、その他の人民を平民に改組した。明治4年(1871年)には士族の公務を解いて農業・工業・商業の自由を与え、また平民も等しく公務に就任できることとした。明治5年(1872年)には徴兵制度を採用して国民皆兵となったため、士族による軍事的職業の独占は破られた。このようにして武士の階級的な特権は廃止された。大日本帝国憲法第19条は人民の等しい公務就任権を規定し、同第20条は兵役の義務を規定した。帝国議会開設に先立ち、1884年(明治17年)には華族令を定めて華族を公爵侯爵伯爵子爵男爵の5爵に再編するとともに身分的特権を与えた。大日本帝国憲法34条は華族の貴族院列席特権を規定した。

明治の変革

王政復古によって設置された総裁・議定・参与の三職のうち、実務を担う参与の一員となった由利公正福岡孝弟木戸孝允らは、公議輿論の尊重と開国和親を基調とした新政府の基本方針を5か条にまとめた。慶応4年3月14日(1868年4月6日)、明治天皇がその実現を天地神明に誓ったのが五箇条の御誓文である。 テンプレート:Quotation

政府は、この五箇条の御誓文に示された諸原則を具体化するため、同年閏4月21日(1868年6月11日)、政体書を公布して統治機構を改めた。すなわち、権力分立(三権分立)の考えを入れた七官を設置し、そのうちの一官を公議輿論の中心となる立法議事機関として議政官とすることなどを定めた。議政官は上局と下局に分かれ、上局は議定と参与で構成とし、下局は各藩の代表者1名から3名からなる貢士をその構成員とするものだった。しかし戊辰戦争終結の見通しがつき始めると、政府は公議輿論の尊重には消極的となり、結局同年9月に議政官は廃止されてしまった。

明治2年3月(1869年4月)には議事体裁取調所による調査を経て、新たに立法議事機関として公議所が設置された。これは各藩の代表者1名により構成されるもので、これが同年9月には集議院に改組される。明治4年7月14日(1871年8月29日)に廃藩置県が実施されると、同年には太政官官制が改革された。太政官は正院・左院・右院から成り、集議院は左院に置き換えられ、官撰の議員によって構成される立法議事機関となった。

1874年(明治7年)、前年の明治六年政変征韓論の争議に敗れて下野した副島種臣板垣退助後藤象二郎江藤新平らは連署により民撰議院設立建白書を左院に提出した。この建白書には、新たに官選ではなく民選の議員で構成される立法議事機関を開設し、有司専制(官僚による専制政治)を止めることが国家の維持と国威発揚に必要であると主張されていた。これを契機として薩長藩閥による政権運営に対する批判が噴出、これが自由民権運動となって盛り上がり、各地で政治結社が名乗りを上げた。さらにこの頃には各地で不平士族による反乱が頻発するようになり、日本の治安はきわめて悪化した。その代表的なものとしては、1874年(明治7年)の佐賀の乱、1876年(明治9年)の神風連の乱、1877年(明治10年)の西南戦争などが挙げられる。

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立憲政体の詔書(国立公文書館収蔵)

1875年(明治8年)4月14日、立憲政体の詔書(漸次立憲政体樹立の詔)が渙発された。 テンプレート:Quotation すなわち、元老院、大審院、地方官会議を置き、段階的に立憲君主制に移行することを宣言したのである。これは、大久保利通伊藤博文ら政府要人と、木戸孝允や板垣退助らの民権派が大阪に会して談判した大阪会議の結果だった。また地方の政情不安に対処するため、1878年(明治11年)には府県会規則を公布して各府県に民選の地方議会である府県会を設置した。これが日本で最初の民選議会となった。

私擬憲法

1874年(明治7年)からの自由民権運動において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。政府は国民の言論と政治運動を弾圧するため、1875年(明治8年)の讒謗律新聞紙条例1880年(明治13年)の集会条例などさまざまな法令を定めた。1887年(明治20年)の保安条例では、民権運動家は東京より退去を強いられ、これを拒んだ者を拘束した。

私擬憲法の内容についてはさまざまな研究がある。政府による言論と政治活動の弾圧を背景として、人権に関する規定が詳細なことはおおむね共通する。天皇の地位に関してはいわれるほど差があるものではなかったとする意見がある。「自由民権家は皆明治維新を闘った尊皇家で、天皇の存在に国民の権利、利益の究極の擁護者の地位を仰ぎみていた」とするものである。例えば、草の根の人権憲法として名高い千葉卓三郎らの憲法草案(いわゆる五日市憲法)でも、天皇による立法行政司法の総轄や軍の統帥権、天皇の神聖不可侵を定めている点などは大日本帝国憲法と同様である。

制定への動き

1876年(明治9年)9月6日、明治天皇は「元老院議長有栖川宮熾仁親王へ国憲起草を命ずるの勅語」を発した。この勅語では、「朕、ここにわが建国の体に基づき、広く海外各国を成法を斟酌して、もって国憲を定めんとす。なんじら、これが草案を起創し、もってきこしめせよ。朕、まさにこれを撰ばんとす」として、各国憲法を研究して憲法草案を起草せよと命じている。元老院はこの諮問に応えて、憲法取調局を設置した。1880年(明治13年)、元老院は「日本国国憲按」を成案として提出し、また、大蔵卿大隈重信も「憲法意見」を提出した。このうち、日本国国憲按は皇帝の国憲遵守の誓約や議会の強い権限を定めるなどベルギー憲法(1831年)やプロイセン憲法(1850年)の影響を強くうけていたため、岩倉具視伊藤博文らの反対にあい、大隈の意見ともども採択されるに至らなかった。

岩倉具視を中心とする勢力は明治十四年の政変によって大隈重信を罷免し、その直後に御前会議を開いて国会開設を決定した。その結果、1881年(明治14年)10月12日に次のような国会開設の勅諭が発された。

この勅諭では、第一に、1890年(明治23年)の国会(議会)開設を約束し、第二に、その組織や権限は政府に決めさせること(欽定憲法)を示し、第三に、これ以上の議論を止める政治休戦を説き、第四に内乱を企てる者は処罰すると警告している。この勅諭を発することにより、政府は政局の主導権を取り戻した。

制定までの経緯

1882年(明治15年)3月、「在廷臣僚」として、参議伊藤博文らは政府の命をうけてヨーロッパに渡り、ドイツ立憲主義の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、ベルリン大学ルドルフ・フォン・グナイストウィーン大学ロレンツ・フォン・シュタインの両学者から、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイスをうけた。その結果、プロイセンドイツ)の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する井上毅をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌1883年(明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。

1885年(明治18年)には太政官制を廃止して内閣制度が創設され、伊藤博文が初代内閣総理大臣となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・ロエスレル(ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)やアルバート・モッセ(Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、1887年(明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島(神奈川県横須賀市)にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、伊東巳代治金子堅太郎らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、相州金沢の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが横浜へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生[4]。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、1888年(明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として枢密院を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は1889年(明治22年)1月に結了した。

1889年(明治22年)2月11日明治天皇より「大日本憲法発布の詔勅[5]が出されるとともに大日本帝国憲法が発布され、国民に公表された。この憲法は天皇黒田清隆首相に手渡すという欽定憲法の形で発布され、日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。また、同時に、皇室の家法である皇室典範も定められた。また、議院法、貴族院令、衆議院議員選挙法、会計法なども同時に定められた。大日本帝国憲法は第1回帝国議会が開会された1890年(明治23年)11月29日に施行された。

国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った[6]。自由民権家の高田早苗は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また、福澤諭吉は主宰する『時事新報』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行わるる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭い、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。中江兆民もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の幸徳秋水に溜息をついている。

制定後の出来事

1891年(明治24年)、日本を訪問中のロシア皇太子・ニコライ(のちのニコライ2世)が、滋賀県大津市で警備中の巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した。いわゆる大津事件である。この件で、時の内閣は対露関係の悪化をおそれ、大逆罪(皇族に対し危害を加える罪)の適用と、津田に対する死刑を求め、司法に圧力をかけた。しかし、大審院長の児島惟謙は、この件に同罪を適用せず、法律の規定通り普通人に対する謀殺未遂罪を適用するよう、担当裁判官に指示した。かくして、津田を無期徒刑(無期懲役)とする判決が下された。この一件によって、日本が立憲国家・法治国家として法治主義と司法権の独立を確立させたことを世に知らしめた。もっとも、本件は当時の司法権の独立の危うさを語っている。また、大審院長が裁判に介入したことから、個々の裁判官の独立は守られていないことに注意を要する。

1930年(昭和5年)、ロンドン海軍軍縮条約を締結した政府に対し、野党海軍軍令部右翼団体が、政府による統帥権の干犯であると難じ、内閣総理大臣濱口雄幸が右翼団体員に襲撃される事件が起きた。いわゆる統帥権干犯問題である。これ以後、立憲政党政治は弱体化してゆくこととなる。1935年(昭和10年)、貴族院議員で陸軍中将菊池武夫が、当時、通説的地位を持っていた統治機構に関する学説である天皇機関説国体に反するものと非難。機関説の主唱者であり、貴族院議員でもあった美濃部達吉は反論の演説をするも、攻撃の声は止まず、貴族院議員を辞職した。また、岡田内閣も右翼・軍部の攻撃を恐れ、国体明徴声明を出し、美濃部の著書を発禁処分とした。いわゆる天皇機関説事件である。ちなみに、昭和天皇はこのとき、「機関説でよいではないか」と側近に漏らしていたという。近代立憲国家の一般的な理解でさえも押し潰されたこととなり、ここに大日本帝国憲法による立憲政治はその実質を失ったことを示す。

日本国憲法への移行

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1946年(昭和21年)10月29日、「修正帝国憲法改正案」を全会一致で可決した枢密院本会議の模様。

1945年(昭和20年)8月、日本政府がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた。同宣言には、「日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ」、「言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ」などと定められたため、ダグラス・マッカーサー率いる連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)は、大日本帝国憲法の改正を日本政府に求めた。政府は内閣の下に憲法問題調査委員会(委員長・松本烝治国務大臣、松本委員会)を設置して、憲法問題の審議にあたらせた。政府は松本委員会が要綱化した案を元に閣議で審議し、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱(松本試案)」として総司令部に提出した。この間、国民の間でも憲法改正論議は高まり、さまざまな憲法改正案が発表された。

政府による「松本試案」の提出に先立ち、2月1日付『毎日新聞』が「松本委員会試案」なるものをスクープした。スクープされたものは松本委員会の委員の一人である宮澤俊義が作成した試案であって、松本試案とは異なるものであった。そのため、政府もその報道された内容が政府案と異なるとする声明を発表した。しかし、総司令部はその記事内容が真正な松本委員会案であると判断した。総司令部はその記事に示された「松本委員会試案」は受け入れがたいと考え、自ら憲法改正案を作成し、日本政府に提示することを決定した。総司令部は、2月3日から13日にかけて、いわゆる「マッカーサー草案」をまとめた。

2月13日、総司令部は、松本国務大臣と吉田茂首相に対し、2月8日に提出された「松本試案」に対する回答として、「マッカーサー草案」を手渡した。政府は「松本試案」の再考を求めたもののいれられず、あらためて、「マッカーサー草案」に基づいて検討し直し、「日本側草案(3月2日案)」を作成した。政府は総司令部と折衝の上、3月6日に「憲法改正草案要綱(3月6日案)」を政府案として国民に公表した。「憲法改正草案」をみると、改め文方式ではなく、新法制定形式を採用しているようである。新法を制定し、旧法を廃止する場合には、附則において「○○法は、廃止する。」と記述しなければならないが、本草案中には「大日本帝国憲法は、廃止する。」という文言はない。

この政府案を元に国民の間で広く議論が行われ、4月10日には衆議院議員総選挙が行われた(もっとも、国民の最大の関心は新憲法より生活の安定にあった)。政府は、選挙が終了した4月17日に、要綱を条文化した「憲法改正草案」を公表した。4月22日から枢密院において憲法改正案が審査が開始され、6月8日に可決された。6月20日、政府は、大日本帝国憲法73条の憲法改正手続に基づき、憲法改正案を衆議院に提出した。6月25日から衆議院において審議が開始され、若干の修正が加えられた後、8月24日に可決された。続けて、8月26日から貴族院において審議が開始され、ここでも若干の修正が加えられた後、10月6日に可決された。翌7日、衆議院は貴族院の修正に同意し、帝国議会での審議は結了した。憲法改正案はふたたび枢密院にはかられ、10月29日に可決された。天皇の裁可を経て、11月3日、大日本帝国憲法は改正され日本国憲法として公布され、翌1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

憲法改正有限界説との矛盾

テンプレート:Main 前述するとおり、憲法の改正は大日本帝国憲法第73条の規定によって行われた。この条文によると、憲法改正は天皇が発議・裁可することになっており、実際、憲法改正の上諭文には、「朕は…憲法の改正を裁可し…」との記述(欽定憲法)がなされた。この表現が、日本国憲法前文の「日本国民は…この憲法を確定する」(民定憲法)の文言と矛盾することが一部学説で問題とされた。

憲法学の学説の一つに、憲法の基本原則(国体)を変更する憲法改正は法的に不可能であるとするものがある(憲法改正有限界説)。この学説では、憲法の「改正権」という概念は「制憲権」(憲法を制定する権利)なしには産み出されないものであり、改正によって、産みの親である制憲権の所在(すなわち主権者)を変更することは法的に許されないとする。

このため、これらの矛盾を説明するために「八月革命説」が主張されるようになった。したがって、明治憲法に定められた改正手続きによって行われたのは便宜的・形式的なもので、実質的に日本国憲法は改正ではなく「新たに制定」、両者の間の法的連続性は「実質的にはなし」という解釈が取られている。

ちなみに、憲法改正無限界説においては、大日本帝国憲法には改正限界を規定する条文は存在しておらず、大日本帝国憲法第73条の規定にのっとり改正された以上、憲法改正は正当であるとし、法的連続性は存在するとする。

なお、各国の憲法の中には「憲法改正の限界」を憲法に明記しているものも存在する。

特徴

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大日本帝国憲法下の統治機構図。カッコで括った機関は、憲法に規定がない。

この憲法は立憲主義の要素と国体の要素をあわせもつ欽定憲法であり、立憲主義によって議会制度が定められ、国体によって議会の権限が制限された。日本国憲法成立後は、憲法学者らによって外見的立憲主義、王権神授説的と評された。

立憲主義の要素

立憲主義の要素としては次の諸点がある。

言論の自由

言論の自由結社の自由や信書の秘密など臣民の権利が法律の留保のもとで保障されていること(第2章)。

これらの権利は天皇から臣民に与えられた「恩恵的権利」としてその享有が保障されていた。日本国憲法ではこれらの権利を永久不可侵の「基本的人権」と規定する。また、権利制限の根拠は、「法律ニ定メタル場合」、「法律ノ範囲内」などのいわゆる「法律の留保」、あるいは「安寧秩序」に求められた。この点も、基本的人権の制約を「公共の福祉」に求める日本国憲法とは異なる。ただし、現憲法の「公共の福祉」による制限も法律による人権の制限の一種であり、現在、教育の現場で解説されるような、「旧憲法のそれは非常に制限的であり、現憲法のそれは開放的である」とする程の本質的な差はないとする意見もある(ただし、比較的な傾向としては肯定する)。その立場からは、「人権が上位法の憲法典の形で明文で保障された」点に第一の意義があり、また内容としては当時においてはかなり先進的なものであったとする。

議会制

帝国議会を開設し、衆議院は公選された議員からなること(第3章)。

帝国議会は法律の協賛(同意)権を持ち、臣民の権利・義務など法律の留保が付された事項は帝国議会の同意がなければ改変できなかった。また、帝国議会は法案提出権や予算協賛権を有し、予算審議を通じて行政を監督する力を持った。上奏権や建議権も限定付きながら与えられた(最終的には天皇の裁可と国務大臣の副署が必要であったが、建議権を通じた事実上の政策への関与が可能とされた)。

大臣責任制・大臣助言制

天皇の行政大権の行使に国務大臣輔弼(天皇が権能を行使するに際し、助言を与える事)を必要とする体制(大臣責任制または大臣助言制)を定めたこと(第4章)。

内閣内閣総理大臣に関する規定は憲法典ではなく内閣官制に定められた。内閣総理大臣は国務大臣の首班ではあるものの対等な地位とされ、国務大臣(各省大臣)に対する指揮監督権や任免権もないため、明文上の権限は強くない。しかし、内閣総理大臣は機務奏宣権(天皇に裁可を求める奏請権と天皇の裁可を宣下する権限)と国務大臣の奏薦権(天皇に任命を奏請する権限)を有したため、実質的な権限は大きかった。

司法権の独立

司法権の独立を確立したこと。

司法権は天皇から裁判所に委任された形をとり、これが司法権の独立を意味していた。また、欧州大陸型の司法制度を採用し、行政訴訟の管轄は司法裁判所にはなく行政裁判所の管轄に属していた。この根拠については伊藤博文著の『憲法義解』によると、行政権もまた司法権からの独立を要することに基づくとされている。

国体の要素

国体の要素としては次の諸点が挙げられる。

万世一系

[7]

大日本帝国憲法では皇室の永続性が皇室の正統性の証拠であることを強調していた。『告文』(憲法前文)には以下のような文章がある。

テンプレート:Quotation

輝かしき祖先たちの徳の力により、はるかな昔から代々絶えることなくひと筋に受け継がれてきた皇位を継承し…

そして、憲法第1条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と規定されたのである。近代的な政治文書で「万世一系」のような詩的な文言が用いられたのはこれが初めてである。「万世一系」のフレーズは公式のイデオロギーの中心となった。学校や兵舎でも公式な告知や発表文でも広く使われて周知されていった。

総攬者

[8]

「天壌無窮ノ宏謨(てんじょうむきゅうのこうぼ)」(御告文)という皇祖皇宗の意思を受け、天皇が継承した「国家統治ノ大権」(上諭)に基づき、天皇を国の元首、統治権の総攬者としての地位に置いた。この天皇が日本を統治する体制を国体という。

天皇統治の正当性を根拠付ける国体論は、大きく二つに分けられる。一つは起草者の一人である井上毅らが主唱する国体論(『シラス』国体論)であり、もう一つは、後に、高山樗牛井上哲次郎らが主唱した国体論(家秩序的国体論)である。井上らの国体論は、古事記神話に基づいて公私を峻別し、天皇は公的な統治を行う(シラス)ものであって、他の土豪や人民が行う私的な所有権の行使(ウシハク)とは異なるとする(井上「古言」)。これに対して、高山らの国体論は、当時、広く浸透していた「家」を中心とする国民意識に基づき、「皇室は宗家にして臣民は末族なり」とし、宗家の家長たる天皇による日本(=「君臣一家」)の統治権を正当化する(高山「我国体と新版図」、『太陽』3巻22号)。憲法制定当初は井上らの国体論を基礎的原理とした。しかし、日清戦争後は高山らの国体論が徐々に浸透してゆき、天皇機関説事件以後は、「君民一体の一大家族国家」(文部省「国体の本義」)として、ほぼ国定の解釈となった。

天皇大権

天皇が天皇大権と呼ばれる広範な権限を有したこと。

特に、独立命令による法規の制定(9条)、条約の締結(13条)の権限を議会の制約を受けずに行使できるのは他の立憲君主国に類例がなかった。なお、天皇の権限といっても、運用上は天皇が単独で権限を行使することはなく、内閣(内閣総理大臣)が天皇の了解を得て決断を下す状態が常であった。

立法権

立法権を有するのは天皇であり、帝国議会は立法機関ではなく立法協賛機関とされた。

立法権を有するのは天皇であるが、法律の制定には、帝国議会の協賛を得たうえで天皇の裁可を要するものとされた。同時代の君主国憲法の多くが立法権を君主と国会が共有する権能としていたことと比すると特異な立法例であるといえるが、帝国議会の協賛がなければ法律を制定することができないこと、帝国議会が可決した法律案を天皇が裁可しなかったことは一度もなかったことから、事実上、帝国議会が唯一の立法機関であった。ただし、例外として、天皇には、緊急勅令独立命令を発する権限など、実質的な立法に関する権限が留保された。また、憲法改正の発案権は天皇のみにあり、帝国議会にはなかった。

さらに、帝国議会の一院に公選されない貴族院を置き、衆議院とほぼ同等の権限を持たせた。

また、枢密院など内閣を掣肘する議会外機関を置いたこと。このほか、元老重臣会議御前会議など法令に規定されない役職や機関が多数置かれた。

統帥権

統帥権を独立させ、陸海軍は議会や政府に対し一切責任を負わないものとされた。

統帥権は慣習法的に軍令機関(陸軍参謀本部海軍軍令部)の専権とされ、シビリアンコントロールの概念に欠けていた。元来は政争の道具として軍が使われないようにと元勲が企図したものだが、統帥権に基づいて軍令機関は帷幄上奏権を有すると解し、軍部大臣現役武官制とともに軍部の政治力の源泉となった。後に、昭和に入ってから軍部が大きくこれを利用し、陸海軍は天皇から直接統帥を受けるのであって政府の指示に従う必要はないとして、満州事変などにおいて政府の決定を無視した行動を取るなどその勢力を誇示した。

皇室自律主義

皇室自律主義を採り、皇室典範などの重要な憲法的規律を憲法典から分離し、議会に関与させなかったこと。

宮中(皇室、宮内省内大臣府)と府中(政府)の別が原則とされ、互いに干渉しあわないこととされた。もっとも、宮中の事務をつかさどる内大臣が内閣総理大臣の選定に関わるなど大きな政治的役割を担い、しばしば宮中から府中への線は踏み越えられた。

分立主義

テンプレート:See also 本憲法の統治構造は、国務大臣や帝国議会、裁判所、枢密院、陸海軍などの国家機関が各々独立して天皇に輔弼ないし協賛の責任を持つという形をとっており、必然的にどの国家機関も他に優越することはできなかった(分立主義)。そして、実際には天皇が能動的に統治行為を行わない以上(機務六条)、権力の分立を避けるために憲法外に実質的な統合者(元老など)を必要としていた。

そしてこの、権力が割拠し、意思決定中枢を欠くという問題を解決するために、権力の統合を進めようとする動きがあった。政党内閣制はその試みのうちの有力なものである。しかし、そういった動きに対しては、天皇主権を否定し、「幕府的存在」を作ることになるとの反発などもあり(例:内閣官制における大宰相主義の否定、大政翼賛会違憲論など)、ついに解消されることはなかった。

構成

大日本帝国憲法は7章76条からなる。構成は以下の通り。なお、既存項目が存在する条文のみ列挙した。全文はウィキソース大日本帝國憲法を参照のこと。

起草前後の政情

明治維新後の日本は不平等条約を改正し、欧米列強と対等の関係を築くために近代的憲法を必要としていた。しかし、当時、欧米諸国以外で立憲政治を実現した国はなかった。民間の憲法案も多数発表されたが、憲法起草の中心になった伊藤博文にいわせれば、「実に英、米、仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく誤信し、ほとんど国家を傾けんとする勢い」であった。伊藤の懸念には根拠がなかったわけではなく、1876年オスマン帝国トルコ)がオスマン帝国憲法を制定し立憲政治を始めたが、わずか2年で憲法停止・議会解散に追い込まれていた。また、日本国内でも一部の保守派に絶対君主制を目指す動きがあった。伊藤は日本の現状に適合した憲法を目指した。それまで日本は幕藩体制の中でばらばらの状況であり、一つの国家と国民という結びつきができていなかった。そのために、天皇を中心として国民を一つにまとめる反面、議会に力を持たせ、バランスの取れた憲法を制定する必要があった。

憲法の起草は、夏島(現在の神奈川県横須賀市夏島町)の伊藤博文別荘を本拠に、1887年(明治20年)6月4日ごろから行われた。伊藤の別荘は手狭だったことから、事務所として料理旅館の「東屋」(現在の神奈川県横浜市金沢区)を当初は用いていた。しかし、8月6日、伊藤らが横浜へ娯遊中に泥棒が入り、草案の入った鞄が盗難にあったことから、その後は伊藤別荘で作業が進められた。鞄は後に近くの畑でみつかり、草案は無事だったという(脚注を参照)。

東屋には、憲法ゆかりの地であることを記念して、1935年(昭和10年)に、起草メンバーの一人であった金子堅太郎書による「憲法草創の処」の碑が建てられた。その後、東屋は廃業し、一時的に、野島公園(同区)に碑も移転したが、現在は東屋跡地に近い洲崎広場に設置されている。

なお、夏島にあった伊藤の別荘は、後に、小田原に移築され、関東大震災(大正関東地震)で焼失しているため現存しない。夏島の跡地には明治憲法起草地記念碑が建てられている。また、のちに、伊藤が建てた別荘が野島に残っている(伊藤博文記念館)。

大日本帝国憲法の問題点

大日本帝国憲法には、「内閣」「内閣総理大臣(首相)」の規定がない。これは、伊藤博文がグナイストの指導を受け入れ、プロイセン憲法を下敷きにして新憲法を作ったからに他ならない。グナイストは伊藤に対して、「イギリスのような責任内閣制度を採用すべきではない。なぜなら、いつでも大臣の首を切れるような首相を作ると国王の権力が低下するからである。あくまでも行政権は国王や皇帝の権利であって、それを首相に譲ってはいけない」とアドバイスした。この意見を採用した結果、戦前の日本は憲法上「内閣も首相も存在しない国」になった。これが後に日本に大変な災いをもたらすことになった。この欠陥に気づいた軍部が政府を無視して暴走しはじめたのである。「陸海軍は天皇に直属する」という規定をたてに政府の言うことを聞かなくなった。これが「統帥権干犯問題」の本質でもある。昭和に入るまでは明治維新の功労者である元勲がいたためそのような問題が起きなかったが、元勲が相次いで死去するとこの問題が起きてきた。そしてさらに悪いことに、大日本帝国憲法を「不磨の大典」として条文の改正を不可能にする考え方があったことである。これによって昭和の悲劇が決定的になったと言える[9]

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現行法制度との関係

大日本帝国憲法は、第73条に定める改正手続を経て全面改正され、日本国憲法となる。日本国憲法は1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された。

大日本帝国憲法の下で成立した法令は、日本国憲法98条1項により、「その条規に反する」ものについて同時に失効している。また、同条の反対解釈により、日本国憲法の条規に反しない法令は、日本国憲法の施行日以降も効力を有する。効力を有する場合、法律は法律として扱われ、閣令内閣府令として、省令は省令として扱われる。勅令は、法律事項を内容とするものは暫定的効力を認めた後失効させ、法律事項以外を内容とするものは政令として扱われた。物価統制令などのいわゆるポツダム勅令(ポツダム命令)は、法律または政令として扱われる。

脚注

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参考文献

関連項目

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外部リンク

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  1. 大日本帝国憲法には、表題に「大日本帝国」が使用されているが、詔勅では「大日本憲法」と称しており、正式な国号と定められたものではない。「大日本帝国」が正式な国号と定められた1936年(昭和11年)まで、他に「日本国」「日本」等の名称も使用された。
  2. アジア・太平洋地域では、ハワイ(1840年)やトンガ(1875年)が大日本帝国憲法(1889年)よりも早く近代憲法が制定されている。
  3. 正確には56年5か月4日(20608日)
  4. 民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから空き巣であったとされる。
  5. 柴田勇之助 編、「大日本憲法發布の詔勅」『明治詔勅全集』、p26-27、1907年、皇道館事務所。[1]
  6. 制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにもかかわらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時、東京大学医学部で教鞭を執っていたベルツが記している(『ベルツの日記』)。
  7. この章は、ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、31頁。(第8章1『日本王朝の太古的古さ』)を参照。
  8. この章は、「皇室典範に関する有識者会議」第7回の鈴木正幸・神戸大学副学長による説明を参照。
  9. テンプレート:Cite book