児島惟謙

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テンプレート:政治家 児島 惟謙(こじま これかた、天保8年2月1日1837年3月7日) - 1908年明治41年)7月1日)は、明治時代の司法官。後述する大津事件の際には、大審院長として司法権の政治部門からの独立を守り抜き、「護法の神様」などと高く評価された。後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候

幼名は雅次郎、長じて五郎兵衛、あるいは謙蔵とも称した。「児島惟謙」は後述する脱藩を機に用い始めた仮の名で、児島はこれを終生用いた。名前は「これかた」以外にも「いけん」、「これかね」などとも呼ばれる。は天赦、は有終。

経歴

天保8年(1837年)に伊予国宇和島城下で宇和島藩士の金子惟彬(豊後佐伯氏の一族)の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。慶応元年(1865年)に長崎に赴いて坂本龍馬五代友厚らと親交を結んだ。慶応3年(1867年)に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動した。戊辰戦争にも参戦した。

1868年に出仕し、新潟県御用掛、品川県参事を経て、1870年12月に司法省に入省。名古屋裁判所長、長崎控訴裁判所長などを経て1883年に大阪控訴院長となり、1886年には関西法律学校関西大学の前身)創立を賛助し、名誉校員となった。

1891年大審院長に就任し、間もなく大津事件が発生した。被告人である津田三蔵大逆罪により大津地方裁判所に起訴されたが、総理大臣松方正義ら政府首脳が大逆罪の適用を強く主張していたこともあり、大審院は事件を自ら処理することとした。これに対して、児島は津田の行為は大逆罪の構成要件に該当しない(罪刑法定主義を参照)との信念のもと、審理を担当する堤正己裁判長以下7名の判事一人ひとりを説得した。結局、大審院は津田の行為に謀殺未遂罪を適用して無期徒刑を宣告した。司法権の独立の維持に貢献した児島は「護法の神様」と日本の世論から高く評価され、当時の欧米列強からも日本の近代化の進展ぶりを示すものという評価を受けた。

しかし、司法権の独立とは、単に政治部門(立法行政)は裁判所の判断に干渉できないという司法権の外部からの独立のみを指すのではなく、裁判官一人ひとりが、同僚や上長からの干渉を受けることなく独立して判断できるという裁判官の判断の独立も含まれている。この観点から、児島は司法権の外部からの独立は守ったが、反面、裁判官の判断の独立を自ら侵害したとする見方もある[1]

1892年6月、向島待合花札賭博に興じていたとして、児島を含む大審院判事6名が告発され、時の検事総長松岡康毅から懲戒裁判にかけられた。翌7月に証拠不十分により免訴になったが、児島は1894年4月、責任を取らされる形で大審院を辞職した(司法官弄花事件)。

その後、貴族院勅撰議員(1894年 - 、1905年 - )、衆議院議員(1898年 - 1902年)などを歴任。1908年没。享年72(数え年)。

児島姓に関するエピソード

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児島惟謙像(宇和島城搦手門前)

大津事件前年の1890年3月10日、本籍を北宇和郡三間村から内海村大字内海(赤水)586番戸に移している。なお、同村須ノ川には「児島」の姓が多いこと、父惟彬が金子家に養子に入る前に一時赤水の豊島家の養子に入っていたことなどが児島姓を名乗る事に繋がったのではないかと言う説もある[2]

脚注

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参考文献

外部リンク

先代:
南部甕男
大審院
第6代:1891年 - 1892年
次代:
名村泰蔵

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  1. 古川純「大津事件 児島惟謙と「司法権の独立」」(法学教室121号28頁)・29頁など。
  2. 「新訂・内海村誌」