御前会議

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御前会議(ごぜんかいぎ、英語:Imperial Conference)とは、大日本帝国憲法下の日本において、天皇臨席の下で重要な国策を決めた会議である。

今日においては会社、団体など組織の幹部の会議の比喩として使われることも多い。

概要

広義には、官制上天皇親臨が定められていた枢密院会議、また王政復古直後の小御所会議や、天皇臨席の大本営会議なども御前会議といえる。しかし、狭義には、戦争開始終了に関して開かれた、天皇・元老閣僚・軍部首脳の合同会議を指す。

1894年に対開戦(日清戦争)を決定したのが最初。以後、三国干渉日露戦争などに際して開催され、1938年以後には支那事変の処理方針、日独伊三国同盟、対米英蘭開戦(真珠湾攻撃)などを決定した。

大日本帝国憲法第13条には、天皇が開戦と終戦を決定する事が明記されていたが、例えば「御前会議法」というような法制上の開催根拠がないなど、御前会議の開催は困難であった。また天皇による意思の表明・発動は(天皇自らにその責任が及ぶため)好ましくないとされ、たとえ出席しても一言も発しないことが多かった。

御前会議での決定は、即時でそのまま国家意思の決定となるのでなく、改めてその内容について正式の手続(例えば閣議)の諮問を経てから正式に決定された。

構成員

支那事変以後の御前会議

1938年に復活して以降について記す。

開催年月日 議題 内閣 昭和天皇の発言等
1 1938年1月11日 支那事変処理根本方針 第1次近衛内閣
2 1938年11月30日 日支新関係調整方針 第1次近衛内閣
3 1940年9月19日 日独伊三国同盟条約 第2次近衛内閣
4 1940年11月13日 支那事変処理要綱に関する件ほか 第2次近衛内閣
5 1941年7月2日 情勢ノ推移ニ伴フ帝国国策要綱 第2次近衛内閣
6 1941年9月6日 帝国国策遂行要領 第3次近衛内閣 明治天皇御製を詠む形で、対米開戦回避を示唆。
7 1941年11月5日 帝国国策遂行要領 東條内閣
8 1941年12月1日 対米英蘭開戦の件 東條内閣
9 1942年12月21日 大東亜戦争完遂の為の対支処理根本方針 東條内閣
10 1943年5月31日 大東亜政略指導大綱 東條内閣
11 1943年9月30日 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 東條内閣
12[1] 1944年8月19日 今後採るべき戦争指導の大綱ほか 小磯内閣
13 1945年6月8日 今後採るべき戦争指導の基本大綱 鈴木内閣
14 1945年8月9日 ポツダム宣言受諾の可否について 鈴木内閣 鈴木貫太郎から乞われる形で宣言受諾の意思表明(いわゆる聖断)。
15 1945年8月14日 ポツダム宣言受諾の最終決定 鈴木内閣 再度、宣言受諾の意思表明(再度の聖断)。

場所

  • 終戦直前の2回の御前会議は「望岳台」近くの地下壕「吹上御文庫付属室」で行われた。地下10m、部屋の広さは15坪ほど[2]であり、天皇皇后両陛下のの寝室・居間のある吹上御文庫地下壕[3]からは90m離れており、地下道でつながっていた。1944-45年に50t爆弾に耐えられるよう陸軍工兵隊により作られ、附属室での初めて枢密院本会議が、1945(昭和20)年6月2日に開催された[4]

脚注

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関連項目

  • 第12回より、「御前に於ける最高戦争指導会議」の名称で開かれている
  • 56平方メートルという資料がある。
  • 1942(昭和17)年12月31日竣工。建坪1320㎡。当初1t爆弾に耐えられるようコンクリートと砂の3重構造で作られたが、後に6t爆弾に耐えられるよう補強された。『天皇裕仁と東京大空襲』松浦総三
  • 枢密院は皇居内に現存する。長く宮内庁音楽隊の練習場所であり補修もされていなかったが、2010年頃から復旧工事計画が進んでいる。