版籍奉還

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版籍奉還(はんせきほうかん)は、1869年7月25日明治2年6月17日)に、日本明治政府により行われた中央集権化事業の1つ[1]。諸大名から天皇への領地(図)と領民(戸)の返還。発案は姫路藩酒井忠邦

概要

テンプレート:See also 版籍奉還は廃藩置県までの過渡的措置であるが当時藩に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとした。明治元年11月に姫路藩から版籍奉還の建白書が出されたが、その背景には財政問題や戊辰戦争における藩内の内紛があったとされている[2]

だが、藩主が非世襲の知藩事に変わり(ただし、実際には事実上の改易処分を受けた福岡藩などの例外を除いては、世襲の後継者がそのまま後任とされている)、陪臣である藩士も知藩事と同じ朝廷(明治政府)の家臣(「王臣」)とされる事で朱子学に基づいた武士道(近代以後の「武士道」とは違う)によって位置づけられてきた主君(藩主)と家臣(藩士)の主従関係を否定することになるものであり、諸藩の抵抗も予想された。

そこで版籍奉還の実施に際してはその意義については曖昧な表現を用いてぼかし、公議所などの諸藩代表からなる公議人に同意を求めた。もっとも、公議所では賛否の両論が伯仲したため、半数弱の公議人の署名による両論折衷の答申を出し、政権から失望されている。これに前後して戊辰戦争恩賞である賞典禄について定めることで倒幕に賛同した藩主や藩士を宥めて不満を逸らした。

このため藩の中には「将軍の代替わりに伴う知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗も無く終わった。そして版籍奉還によって各藩の中で続いていた地方知行がなくなり、蔵米知行に一元化された。

また、版籍奉還と同時に旧藩主の諸侯285家は公卿142家と同時に華族に列せられ華族制度が創設され、旧藩主の諸侯は武家華族と呼ばれる。

沿革

  • 慶応4年閏4月21日(1868年6月11日)- 幕府解体により成立した新政府が政体書を発布、大名領を新たに「」とし、大名を「藩知事」に任命して諸侯統治のかたちを残す府藩県三治制を打ち出す。
  • 明治元年10月28日(1868年12月11日)- 藩行政と家臣の分離を定める藩治職制を設け[3]、政府による藩統制を行う。
  • 明治2年1月20日(1869年3月2日)- 新政府樹立を主導した薩摩長州土佐肥前の4藩が建白書を提出する。5月13日(6月22日)には上局・公議所において諮問が行われる。
  • 明治3年9月10日(1870年10月4日)- 藩制布告[4]
  • 明治4年7月14日(1871年8月29日 - 薩長土を主体とする御親兵による軍事力を持って廃藩置県を行い、府県制が確立する。

呼称

藩というと幕藩体制というように江戸幕府下の制度と思われがちだが、厳密には江戸幕府下の体制で公式に「」という呼称はなかった(一部の学者などが書などで使用するのみであった)。

ただし、幕末になると大名領を「藩」と俗称することが多くなった。「藩」という名称は中国史による。明治維新後、初めて藩という呼称が公式に使用されたが廃藩置県で藩が消失するまでのわずか2年程度の行政区名称である。

実施日一覧

()は旧暦太字は廃藩置県の前に廃藩となった藩。【 】は知藩事の任命に際して、またはその直後に改称した藩。

1869年(明治2年)

1870年(明治3年)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

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  1. 明治2年太政官布告第543、同第544 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
  2. 姫路藩では戊辰戦争において朝敵とされた徳川家の処遇や徳川家と酒井家の主従関係が否定される事に不満を抱いた元藩主酒井忠績江戸幕府最後の大老)が明治元年5月に独自に所領没収を嘆願する嘆願書を新政府に提出する事件が発生して結果的に同藩内の佐幕派が粛清される事件に至った。その後、実権を握った尊王派は急進的な国政改革を志向するとともに忠績の路線を吸収する形で藩制度を改革してより中央の統制が働く県への移行を求める建白書を提出した(水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩-敗者の維新史-』(八木書店、2011年))。
  3. 明治元年太政官布告第902 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
  4. 明治3年太政官布告第579