狭山藩

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狭山藩(さやまはん)は、河内国に存在した。藩主家は外様大名後北条氏(北條氏)。藩庁として丹南郡池尻村および半田村(現・大阪府大阪狭山市狭山)に狭山陣屋を構えた。

藩史

北条氏の祖は、関東地方で勢威を振るった北条早雲である。しかし北条氏は天正18年(1590年)、豊臣秀吉小田原征伐により滅亡してしまう。戦後の処罰により、北条氏第4代当主・北条氏政北条氏照は戦争責任を問われ切腹となったが、第5代当主・北条氏直徳川家康の娘婿であるという所以から、北条氏規北条氏康の五男で氏政、氏照の弟)は和平に尽力し、秀吉とも会見していたという経緯から特別に許され、高野山での蟄居を命じられた。

天正19年(1591年)、氏直は嗣子無くして30歳の若さで死去した。このため、北条氏の嫡流は断絶したが、氏規がその跡を継いで後北条氏の当主となる。その後、罪を許されて氏規の子・北条氏盛下野国内で4,000石、氏規も河内狭山で7,000石を領することになる。慶長5年(1600年)、氏規が没すると氏盛はその家督と遺領を継いで1万1,000石の大名となる。これが狭山藩の始まりである。以後、後北条氏12代の支配で明治維新にまで至った。

当初、氏規の大坂屋敷があった久宝寺町大阪市中央区)で政務を執り行っていた。第2代藩主・氏信元和2年(1616年)、狭山の地に陣屋を営んだ。

第3代藩主・氏宗は、日常の飲酒により病を得て江戸城登城がままならない状態が続いたため、寛文10年(1670年)、藩主の座を退いた。しかし、後継の氏治には老中稲葉正則の反対により家督相続が認められない状態が続いた。北条一門の運動により前老中・酒井忠清の取り成しで、氏治は新たに藩を立てるという名目で1万石が与えられ、狭山藩が存続することとなった。

第7代藩主・氏彦宝暦10年(1760年)、下級武士による藩政改革の要求運動、世に言う「狭山騒動」が起こった。しかし、運動にもかかわらず改革は遅々として進まなかった。

第11代藩主・氏燕嘉永元年(1848年)、藩校「簡修館」を再興し、他藩の子弟にも広く門戸を開放した。また安政5年(1858年)、財源確保のため山間の農民が作る氷豆腐を専売品とした。

江戸時代後期から幕末にかけて、天保8年(1837年)の大塩平八郎の乱、安政元年(1849年)のプチャーチンの大坂湾進入、文久3年(1863年)の天誅組の鎮圧などに出兵し、軍事費が嵩んだ。慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では新政府軍に加わった。しかし、江戸中期からの財政赤字と度重なる出兵により藩の財政は破綻しており、明治2年(1869年)、最後の藩主である氏恭は他藩に先駆けて版籍奉還を行なった。氏恭は藩知事に任ぜられるも辞任を乞い、同年12月に認められた。軍事費と藩債に潰された狭山藩は、明治4年(1871年)の廃藩置県を待たずして崩壊し、堺県に併合となった。その後、大阪府に編入された。

なお、藩主家は明治17年(1884年)、子爵となり華族に列せられている。

現在、大阪府堺市堺区神明町東3丁の西本願寺堺別院(堺北御坊)に、狭山藩の御成門と梵鐘が移築されている。

歴代藩主

北条(北條)家

外様 1万1,000石→1万石

  1. 氏盛(うじもり)〔従五位下、美濃守〕 - 北条氏規の長男で、北条氏直の養嗣子。
  2. 氏信(うじのぶ)〔従五位下、美濃守〕 - 北条氏盛の長男。
  3. 氏宗(うじむね)〔官位官職なし〕 - 北条氏信の長男。
  4. 氏治(うじはる)〔従五位下、美濃守〕 - 北条氏盛の次男・北条氏利の次男(1万石に減封)。
  5. 氏朝(うじとも)〔従五位下、遠江守〕 - 北条氏治の弟。
  6. 氏貞(うじさだ)〔従五位下、美濃守〕 - 北条氏朝の長男。
  7. 氏彦(うじひこ)〔従五位下、遠江守〕 - 北条氏貞の長男。
  8. 氏昉(うじあきら)〔従五位下、相模守〕 - 北条氏彦の長男。
  9. 氏喬(うじたか)〔従五位下、遠江守〕 - 北条氏昉の長男。
  10. 氏久(うじひさ)〔従五位下、相模守〕 - 美濃国大垣藩主・戸田氏庸の三男。
  11. 氏燕(うじよし)〔従五位下、遠江守〕 - 北条氏喬の弟・北条氏迪の次男。
  12. 氏恭(うじゆき)〔従五位下、相模守〕 - 下野国佐野藩主・堀田正衡の三男。

幕末の領地

参考文献

関連項目

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