子爵

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子爵(ししゃく、:Viscount)は、中国儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する[1]。近代日本華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の階級の訳語としてもこの語が当てられるものがある。

日本の子爵

日本では1884年明治17年)7月7日に発せられた華族授爵ノ詔勅により、華族制度が設けられた。華族制度は華族令(明治17年宮内省達、明治40年皇室令第2号)に規定され、子爵は第4位に位置づけられる。

子爵に列せられたのは、以下のような家柄だった。

  1. 公家 - 明治維新前に家を興した旧堂上家。具体的には、中納言任官直後に大納言に進んだ例のある家は伯爵を与えられ、いわゆる一部の地下家や明治後の分家で創立した家は男爵とされたために、その中間にあたる家が子爵を授爵された。
  2. 武家 - 旧小藩知事は明治維新後に現米5万石未満だった旧大名家が対象。通常大名は表高1万石以上の知行地を持つ者を指すが、下野国喜連川藩足利家は表高5000石だったのにもかかわらず、江戸時代には大名扱いだったため子爵となっている。また、戊辰戦争によって江戸時代に比べ大幅に減知された大名家も含まれる(例:陸奥斗南藩3万石の松平家は、陸奥会津藩23万石からの減知転封)。幕末に大名家だった家のうち、上総請西藩林家だけは戊辰戦争後に改易となったため叙爵がなく、1893年(明治26年)になってから復権を果たし男爵を受けている(林忠崇の項参照)。
  3. 新華族 - 国家に勲功ある者。
  4. 分家 - 明治以降に分家した華族は「維新後華族に列せられたる者」という内規によって男爵を授爵されるのが基本であったが、本家が高い爵位を持っている場合には特例としてこの限りではなかった。子爵を与えられた分家華族としては、近衛秀麿家(公爵近衛家分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家分家(松戸徳川家))、松平慶民(侯爵福井松平家分家)の 3家がある。

貴族院へは子爵同士の互選により子爵議員を選出した(華族議員)。

欧州との対応

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  • 子爵と訳されることがあるヨーロッパの爵位
    • vicomte
    • viscount

主な日本の子爵

脚注

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参照文献

文献資料

  • 新村出編『広辞苑 第六版』(岩波書店、2011年)ISBN 400080121X
  • 松村明編『大辞林 第三版』(三省堂、2006年)ISBN 4385139059

関連項目

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  1. 新村出広辞苑 第六版』(岩波書店2011年)1224頁および松村明編『大辞林 第三版』(三省堂2006年) 1094頁参照。