公議所

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テンプレート:Infobox Legislature 公議所(こうぎしょ)は、明治初期に設けられた日本立法府

概要

テンプレート:Sister テンプレート:Sister テンプレート:Sister 1869年(明治2年)3月7日開所。各と諸学校から選ばれた公務人(8月20日に公議人と改称)で構成され、議案提出権を有した。議長は高鍋藩出身の秋月種樹。議長代行が薩摩藩出身の森有礼。副議長に旧幕臣神田孝平

公務人(公議人)は、政府各官から各1名、付属の諸学校より覚1名、府県代表は無く、各藩より1名が代表として送られ、19部門に分かれて審議を行った。任期は4年で2年ごとの半数改選とされていた。

存続したのは1年数ヶ月という短い期間であったが、切腹禁止や廃刀、穢多非人の廃止など開明的な議案が多く出されており近年再評価されている。ただ、平成8年ごろの中学校では、武士・庶民から議案を集めたが、改革に反対する声ばかりであり、改革が進まないので、新政府は公議所を廃止したという内容を、中学生に教えていた。[1]

だが、明治政府も予期しなかったような革新的な提言も出されるなど、独自の発言力を持ち始めたことに危機感を抱いた政府によって権限の縮小が図られて、1869年(明治2年)7月8日集議院と改称した。

なお、公議とは当時討幕派・佐幕派問わずに広く唱えられた公議政体論に由来すると考えられており、明治政府と戊辰戦争で敵対した奥羽越列藩同盟の諸藩代表による議事機関にも公議所白石城に設置)の名称が用いられている。

脚注

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  1. 『新版 中学社会 歴史』(教育出版)(平成8年ごろ、使用された中学校の歴史教科書)p 196の「廃止された公議所」に「1869(明治2)年3月, 新政府は, 全国の各藩を代表する200人以上の武士たち(公儀人)を集めて公議所を開き, いろいろな改革案を討議させた。ところが, 改革に反対する声が強く, 外国人と商社をつくることを許可する, 武士の廃刀を認めるなどの議案は, いずれも反対多数で否決された。庶民からも議案が出されたが, 洋服を禁止せよ, といった保守的な内容のものばかりだった。これでは改革がすすまないので, 新政府はまもなく公議所を廃止してしまった。」と記載されている。