矢島藩

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矢島藩(やしまはん)は江戸時代、および明治時代初期の藩の1つ。羽後国(旧出羽国由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)周辺を領した。藩庁は矢島陣屋(別称:八森陣屋)に置かれた。

概略

讃岐高松17万1800石の領主であった生駒高俊は、家中不取締りを理由に領地を没収され、堪忍料として矢島1万石を与えられた。さらに、高俊の嫡男高清が弟俊明に2000石を分知したため、以降の生駒氏は8000石の交代寄合(最初は江戸詰交代寄合表御礼衆)となった。

1868年戊辰戦争で当主親敬は新政府に味方し、戦後、功により1万5200石に高直しされ、生駒氏は約200年ぶりに諸侯に列して立藩した。厳密にいえば、矢島配流から交代寄合確定までの1640年 - 1658年と、藩の復活から版籍奉還によって矢島県となるまでの1868年~1869年にしか藩は存在しなかったといえる。

藩史

生駒氏大和国生駒荘の出身。戦国時代尾張国に移り、親正織田信長豊臣秀吉に仕え、豊臣時代には讃岐高松17万1800石の大名に立身した。関ヶ原の戦いで親正は西軍に味方したものの、嫡男一正を東軍に参加させたため、戦後は所領を安堵される。

しかし、一正の孫高俊は酒色に耽って民政を顧みなかったため、家中に激しい派閥抗争が発生した(生駒騒動)。やがて、内紛は幕府の知るところとなって1640年に改易。堪忍料として高俊に1万石が与えられ、八森陣屋にて約20年の軟禁生活を送った。高清は弟俊明に2000石を分知したため、以後、生駒氏は8000石の江戸詰交代寄合表御礼衆となった。

歴代当主は江戸定府であったため、領地統治は郡奉行の三浦伊右衛門ら山本一党に委ねられたものの、暴政の限りを尽くしたため、1677年、農民代表が江戸の領主に直訴する事態となった。この結果、親興は山本一党に切腹を命じ、年貢もかつての基準に戻すよう命令した。しかし、城代家老・市橋彦兵衛は従来通りの基準で徴収しようとしたため、農民たちは逃亡し、佐藤仁左衛門が再び直訴する事態となった。親興は従来の徴収基準に戻す旨の朱印状を仁左衛門に渡すが、仁左衛門は国許で朱印状を奪われ、仁左衛門やその家族、協力者たちは処刑された。しかし、逃亡した農民たちは帰郷しなかったため、やむなく年貢を従来の基準に戻すことを約束するに至った。これを延宝騒動または仁左衛門騒動という。

1780年親睦は将軍徳川家治より国入りを許され、以後は参勤交代を行った(交代寄合)。領内の実情把握が可能となったためか、それ以降の歴代当主は藩政に力を入れた。

1868年、新政府に抗する奥羽越列藩同盟が結成される。当初、親敬は加盟したが、のちに家中を勤王論に統一して新政府に与した。これによって庄内藩の攻撃を受け、親敬は陣屋を自焼して撤退する。以後、新政府軍とともに東北地方の鎮撫につとめた。1868年の高直しの結果、生駒氏は1万5200石の諸侯に列し、約250年ぶりに讃岐守を称することが許された。翌年、軍功により賞典禄1000石。約200年ぶりに藩が復活したものの、翌年の版籍奉還によって矢島県となり、1871年廃藩置県では秋田県に統合された。

明治17年、親承男爵が授けられる。

歴代藩主

生駒(いこま)家

外様 1万石→8000石→1万5200石

  1. 高俊(たかとし)〔従四位下、壱岐守〕
  2. 高清(たかきよ)
  3. 親興(ちかおき)
  4. 正親(まさちか)
  5. 親猶(ちかなお)
  6. 親賢(ちかたか)
  7. 親信(ちかのぶ)
  8. 親睦(ちかとし)
  9. 親章(ちかあきら)
  10. 親孝(ちかのり)
  11. 親愛(ちかよし)
  12. 親道(ちかみち)
  13. 親敬(ちかゆき)〔従五位下、讃岐守〕

幕末の領地

明治維新後に由利郡1村(旧旗本領)が加わった。

関連項目

外部リンク

  • サイバー記念館 由利本荘市矢島町総合支所振興課のサイト。
  • 佐藤仁左衛門仁左衛門騒動について詳しく説明している。
  • 矢島藩「幕末の諸藩と城郭」についてのサイトの一部。藩の歴史についても詳しく説明している。

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