生駒高俊

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生駒 高俊(いこま たかとし)は、江戸時代前期の大名讃岐高松藩第4代藩主、出羽矢島藩初代藩主。高松藩3代藩主生駒正俊の長男。

生涯

元和7年(1621年)7月、父正俊の死去により、家督を相続した。幼少のため、外祖父藤堂高虎の後見を受けることになった。寛永3年(1626年)8月19日、従四位下壱岐守に叙任された。成年した高俊は、政務を放り出して美少年たちを集めて遊興に専ら耽ったこともあって、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こった(生駒騒動)。寛永14年(1637年)、生駒帯刀らが土井利勝藤堂高次に前野助左衛門らの不正を訴えた。これに対し、前野らは徒党を組んで退去した。寛永16年(1639年)、幕府は騒動の詮議を始める。寛永17年(1640年)7月26日、幕府は藩主高俊の責任を追及し、領地を没収し、出羽国由利郡に流罪とした。ただし、由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町と鳥海町の部分)で1万石を堪忍料として与え、高俊は矢島村に陣屋を構えた。なお、生駒派の中心人物は大名にお預け、前野派の中心人物は死罪となった。

高俊の長男は高清となっているが、「讃岐国高松城主生駒壱岐守高俊封地十七万千八百余石を収公され、長子右衛門高法と共に、出羽の国由利矢島‥」(『徳川実紀』寛永17年(1640年)7月26日の項)とある。実在したと思われるが、記載は前後この『徳川実紀』以外にない。

小説

外部リンク

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