佐賀の乱

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『皇国一新見聞誌 佐賀の事件』(月岡芳年画)
戦争:士族反乱
年月日1874年明治7年)2月1日 - 1874年(明治7年)3月1日
場所佐賀県
結果テンプレート:JPN1868の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1868 征韓党
憂国党
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 25x20px 大久保利通
25x20px 小松宮彰仁親王
江藤新平
島義勇
朝倉尚武
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 東京鎮台
  • 第3砲隊

大阪鎮台

  • 第4大隊
  • 第10大隊

熊本鎮台

  • 第11大隊
  • 第19大隊1個小隊

出動のみ
近衛歩兵第2連隊
東京鎮台

  • 1個中隊

大阪鎮台

  • 第18大隊
  • 砲兵第7大隊1個小隊

広島鎮台

  • 第15大隊3個中隊
約11,000
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死者:137以上

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佐賀の乱(さがのらん)は、1874年明治7年)2月に江藤新平島義勇らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。佐賀の役、佐賀戦争とも。不平士族による初の大規模反乱であったが、電信の情報力と汽船の輸送力・速度を活用した政府の素早い対応もあり、激戦の末に鎮圧された。

佐賀軍の概要

征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高らを擁する憂国党による混成軍。旧佐賀藩士を中心とした反乱であり、以後続発する士族による乱の嚆矢となった。

乱を率いた江藤と島は、そもそも不平士族をなだめるために佐賀へ向かったのだが、政府の強硬な対応もあり決起することとなった。しかし、半島への進出の際には先鋒を務めると主張した征韓党と、封建制への復帰を主張する反動的な憂国党はもともと国家観や文明観の異なる党派であり、主義主張で共闘すべき理由を共有してはいなかった。そのため、両党は司令部も別であり、協力して行動することは少なかった。また、戊辰戦争の際に出羽の戦線で参謀として名をはせた前山清一郎を中心とする中立党の佐賀士族が政府軍に協力したほか、武雄領主鍋島茂昌など反乱に同調しないものも多く、江藤らの目論んだ「佐賀が決起すれば薩摩の西郷など各地の不平士族が続々と後に続くはず」という考えは藩内ですら実現しなかった。

佐賀の乱における佐賀軍の総兵数は詳しくはわかっていない。戦後に行われた裁判では赦免となったものも含めると約11,000ほどになるが、明治5年の版籍奉還時に提出された佐賀藩士の総数が約14,000ほどであることや、戦死者数が200人以下であること、明治7年に鎮圧に当たった参謀少佐渡辺央らが西郷従道に提出した「降伏叛徒概計」に6,327人とある事から全てが乱に参加した者では無いと思われる。江藤新平の弟の孫に当たる鈴木鶴子氏が著書「江藤新平と明治維新」で征韓党が1500人、憂国党が3500人と記しているのをはじめ、およそ3,000人から6,000人ほどではなかったかとする説が主張されている。

征韓党

佐賀・与賀町の「延命院」に本拠を置き、「延命院党」「征韓大社」「開化党」「北組」などと呼ばれた。若年の下級士族が中心。

  • 主宰(党首)
江藤新平(前参議)
  • 亜者(幹部)
山中一郎(海外留学生) 
香月経五郎岩倉使節団通訳・佐賀県中属) 
朝倉尚武(陸軍少佐) 
石井貞興(佐賀県大属) 
山田平蔵(佐賀県中属)
中島鼎蔵左院奉職) 
西義質(佐賀県大属・陸軍中尉

憂国党

佐賀城下南に位置する「宝琳院」を本拠地とし、「宝琳院会」「憂国大社」「南組」などと呼ばれた。藩では位の高かったものが多く壮年のものも多かった。また征韓党より大規模でもあった。

  • 主謀(党首)
島義勇(前秋田県権令)
  • 会軸(幹部)
重松基吉(島義勇の弟)
副島義高(島義勇の弟) 
村山長栄(佐賀藩一心隊隊長) 
中川義純(元佐賀藩士ですでに隠棲) 
福地常彰(佐賀藩極役)

概要

薩摩や長州など諸藩の武士で構成された部隊が官軍を編成した戊辰戦争と違い、1873年(明治6年)に制定された徴兵令による国民軍が軍隊を編成して初めての大規模な内戦である。また、1871年から1876年までの短期間大日本帝国海軍に存在した海兵隊も戦闘に参加した。このほか、蒸気船による迅速な行軍や電信技術なども使用されている。

徴兵による鎮台兵は武士たちとも互角に渡り合えることを示したが、全体的にみると徴兵による兵隊だけでは間に合わず、士族召集兵によって鎮台兵の不足を満たざるをえなかった。また、不慣れな軍装による長距離の遠征で兵の多くが靴ずれを起こし進軍が遅れた例もある。また電信も、迅速な情報の伝達に威力を発揮したが、最初期に命令を受けた熊本鎮台への電信は佐賀を経由して伝えられたため、当然の如く命令は佐賀軍の知ることとなるなど幾つかの問題点も発生している。

開戦前

征韓論をめぐる明治6年の政変で中央を追われた江藤は、副島種臣後藤象二郎の説得を振り切り佐賀に戻った。このころの佐賀は征韓論を奉じる反政府的な「征韓党」と、封建主事への回帰を目指す保守反動的な「憂国党」が結成されるなど、政情は不安定で政府からもマークされていた。

そのような情勢下、明治6年2月1日、憂国党に属する武士が官金預かり業者である小野組におしかけ、店員らが逃亡するという事件が起こった。これは即、内務省に電報で通知され、2月4日、政府は熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令した。これが佐賀の乱の第一歩である。

さらに、明治7年2月9日、内務卿大久保利通は、文官でありながら兵権を握る権限を得て、嘉彰親王(後の小松宮彰仁親王)が征討総督として現地に着任するまで、すべての事項を決裁した。大久保は東京から引き連れた部隊に加えて大阪の鎮台部隊等を直ちに動員し、博多に向かい、20日に到着すると現地で貫属隊の名目で兵を集める一方、本隊を指揮する野津鎮雄朝日山へ向かわせ、博多の本陣には山田顕義を残した。後に三瀬峠に佐賀軍の別働隊を発見し山田顕義麾下の部隊を派遣した。

2月15日~18日の戦闘

ファイル:Saga Castle Shachinomon bullet holes on doors.jpg
佐賀城鯱の門。戦闘により被弾した門扉は現在もそのまま残されている。

政府からの鎮圧命令を受けた熊本鎮台だが、兵の中にも佐賀出身が多く動揺が広がっていた。司令官谷干城も援軍を待っての進軍を主張していたが、新県令岩村高俊の命もあり、2月14日には陸海の2路に分けて部隊を出動させた。翌2月15日に海路軍を率いた岩村高俊らが佐賀に入城すると、江藤らは政府の真意を確かめるため山中一郎を代表として派遣した。しかし岩村の「答える必要はない」との返答を受け、同日夜県庁が置かれた佐賀城佐賀県佐賀市)に籠もる岩村高俊と、彼を護衛する山川浩少佐の率いる熊本鎮台部隊と交戦して大損害(3分の1が死亡)を与え敗走させた。なお、佐賀県大属小出光照も戦死している。佐賀の乱における政府軍の死者は大部分がこの戦闘におけるものである。

2月22日以降の戦闘

一時的に佐賀城を失った政府軍だが、すでに東京鎮台などを率いて福岡入りしていた大久保利通は、軍を二手に分け、本隊を福岡との県境にある要衝「朝日山」(現・鳥栖市)に、別働隊を「三瀬峠」にそれぞれ向かわせた。また、久留米まで退却した熊本鎮台も、本隊との合流を目指し筑後川から「江見」(現・みやき町)に向かい、合わせて3方向から佐賀城を目指した。さらにこれ以外にも長崎に上陸した外務少輔山口尚芳が現地の海兵隊を護衛に大村から武雄に向かい、乱への参加に消極的だった佐賀藩武雄領の説得を行わせている。これに対し、佐賀軍は長崎街道沿いを征韓党が、筑後川沿いを憂国党がそれぞれ受け持つことに決め、征韓党は朝日山に田尻種博(戊辰戦争時の大隊長)と井上考継を先鋒に西義質らを向かわせ、2月22日にはこの政府軍部隊を迎撃した。憂国党の指揮は村山長栄が取り、本隊との合流を目指す熊本鎮台部隊を迎撃した。また、三瀬峠には士族軍の参謀長を務める朝倉尚武(元陸軍少佐)を配し、山田顕義少将の率いる本営に備えさせた。なお、朝倉は佐賀軍一の用兵家とされ、山田の命で進軍してきた小笠原義従の部隊等を散々に破っている。しかし、大久保利通が直卒した近衛兵鎮台兵などが次々と戦線に投入されると佐賀軍は劣勢を余儀なくされ、朝日山はわずか数時間で突破された。翌23日は、佐賀軍も一時は善戦し県東部の中原で政府軍を包囲殲滅する直前まで追い込んだが、官軍指揮官の陸軍少将野津鎮雄が自ら先頭に立って兵を励まし戦ったので、ついに敗れ、さらに江藤本人が前線に出ての田手での戦闘でも敗退した。この敗退で勝機を失ったと見た江藤は征韓党を解散し、鹿児島県へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるため戦場を離脱した。なお、江藤は憂国党には無断で佐賀を離れており、この敵前逃亡ともいえる態度に副島義高ら憂国党の面々は激怒している。また、江藤の命で征韓党の一員である朝倉が前線を離れたため三瀬峠も官軍に突破された。

ファイル:Eto Shimpei at Saga Rebellion.jpg
江藤捕縛を報じた東京日日新聞の記事(落合芳幾画)

江藤らは2月27日には鹿児島に入ったが、西郷に決起の意志はなかったため、今度は土佐へ向かい片岡健吉林有造に挙兵を訴えた。ところが、既にここにも手配書が廻っており、3月29日高知県東洋町甲浦で捕縛される。捕吏長の山本守時は江藤に脱走を勧めたが、江藤は裁判で闘う決意を固めた後であり、これに応じなかったという。

2月28日、政府軍が佐賀城下に迫ると島義勇は佐賀で討ち死にするつもりであったが、実弟の副島義高らが「境原で官軍を防ぐので再起を期せ」と無理矢理脱出させた。島は、島津久光に決起を訴えるべく鹿児島へ向かったが、3月7日に捕縛された。

戦闘終了後

江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した臨時裁判所において、権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日間の審議で11名が4月13日の判決当日に斬首となり、江藤と島は梟首にされた。江藤らの裁判は当初から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も十分に与えられなかった。明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこのような裁判の進行をされたことが非常に無念に思ったとの伝がある。その後もしばらくは佐賀では士族らを中心に不穏な動きが続き、1877年(明治10)の西南戦争などに合流する士族もあったが、佐賀で反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊を信仰すると眼病が癒り、訴訟ごとがスムーズに決着するとの風聞が流れた。

処刑された江藤・島は明治維新に大きな功があったため、当時から「戊辰戦争で政府軍に反抗した榎本武揚が後に特赦で要職に就いた例と比較して刑が重すぎる」という意見があった。イギリス公使ハリー・パークスは1874年4月25日付の英外務大臣宛の公文書に「江藤・島は死刑に加えさらし首にされた。この判決は大きな不満を呼んでいる」「新政府が分裂し、人々は個人的感情が(江藤処刑に)復讐の性格を与えたと考えているようだ」「佐賀の乱鎮圧で政府への信頼が回復したとは言えない」と記している。[1]

大久保による謀殺説については平沼騏一郎が回顧録において真偽は知らぬがこう聴いていると前置きした上で「佐賀出身の現職参議大木喬任が江藤の助命に動き、岩倉具視もこれに協力して明治天皇の裁可で特赦と定まった。岩倉が手紙を書いて使者が佐賀に発ったが、大久保の留守を預かっていた伊藤博文が使者が着く前に殺してしまえと大久保に伝えた。使者は死刑執行より早く着いたが大久保は翌日会うと言って会わずに死刑を執行した。翌日使者に会った大久保は江藤の助命の手紙であればなぜ昨夜出さなかったのかと使者を叱責したため、その使者は宿に帰って腹を切った。真偽は兎に角、使者が行ったこと、口供完結前に殺したことは実際である」と残している。この説については伊藤痴遊が自身の著書で触れているが園田日吉は著書の『江藤新平伝』で「小説的、講談的なフィクションだろう」と看做すなど、評価は定まっていない。

1919年(大正8)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されるとともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の慰霊碑が建てられた。

ファイル:Saganoran-chukonhi.jpg
佐賀の乱慰霊碑。佐賀市水ヶ江にある。地元有志によって大正年間に建立(2005年5月撮影)

経過

  • 1873年(明治6)10月23日 明治6年政変。翌日江藤新平下野。
  • 12月10日 佐賀県権令岩村通俊上京。そのまま帰県せず県内の統制が低下する。
  • 12月23日 江藤派の青年士族らが征韓党を結成。
  • 1874年(明治7)1月16日 征韓党士族が「征韓先鋒」の出願を決議。県に弘道館の貸与を強請。
  • 1月18日前後 中央より視察として大蔵大丞林友幸が到着。事態は深刻として政府に対処を要請。
  • 1月24日 佐賀県参事森長義、熊本鎮台谷干城に県内に不穏な動きありとして対処を要請。谷は慎重な対応を求めつつも、山川浩に偵察を指令。
  • 1月25日 前参議江藤新平、佐賀に帰郷。征韓党の勢いが昂進する。
  • 1月28日 岩村通俊前権令の実弟岩村高俊が後任に任命される。岩村は長岡藩家老河井継之助の中立歎願を拒絶し、北越戦争の発端をつくった人物である。
  • 2月1日 憂国党に属する士族が官金預かり業者である小野組に強引に金談。店員ら逃亡。
  • 2月4日 政府、熊本鎮台司令長官谷干城に佐賀士族の鎮圧を命令。谷は拙速命令と批判。
  • 2月5日 政府の鎮圧命令を佐賀士族が電信局で探知。士族の議論が沸騰し、参事森長義ら他県出身の県官は逃亡。太政大臣三条実美島義勇に直接鎮撫を要請。島は承諾。
  • 2月9日 内務卿大久保利通に九州出張命令。捕縛・処刑、兵力による鎮撫の権限を委任される。
  • 2月13日 岩村権令が熊本に到着。入県の護衛を同県人の熊本鎮台司令長官谷干城少将に依頼。この日、長崎に移っていた江藤も佐賀に戻り、「決戦の議」を起草。太政大臣三条実美の要請に応じて帰国した前侍従島義勇も同調し、征韓・憂国両党の結束が強まる。
  • 2月14日 岩村権令の強い要請により熊本鎮台が出動。陸海の2路に分かれ、山川浩少佐の左半大隊と岩村権令は海路を、佐久間左馬太少佐の右半大隊は陸路から佐賀に向かう。大久保内務卿、東京鎮台兵とともに横浜を出航。
  • 2月15日 岩村権令と鎮台兵、佐賀城の県庁に入る。佐賀士族軍は筑後川の防衛線で右半大隊の合流を阻みつつ、翌未明より城を包囲し砲撃。岩村らの乗船も拿捕される。
  • 2月17日 鎮台兵の苦戦を受け、政府は混乱が東京に波及することを防ぐため新聞に軍事関係の記事掲載を禁止。
  • 2月18日 岩村権令と山川少佐ら、食糧と弾薬が不足したため、包囲を突破して久留米に撤収。奥保鞏大尉(のち元帥)らが負傷し、将兵332名中137名戦死。
  • 2月19日 佐賀征討令が発せられる。大久保内務卿と野津鎮雄少将、鎮圧部隊を引き連れ博多に到着。
  • 2月20日 野津少将指揮の東京鎮台砲隊と大阪鎮台二個大隊、集結を終え、夕刻より行動開始。
  • 2月21日 前山清一郎の中立党が政府軍に合流。
  • 2月22日 鳥栖近郊の朝日山で佐賀士族と政府軍が激突。佐賀士族、後退し政府軍は長崎街道沿いに中原に進む。
  • 2月23日 政府軍、児玉源太郎大尉が重傷を負うなど激戦の末、寒水川を渡る。さらに吉野ヶ里遺跡付近の田手川に設けられた阻止線を突破。江藤は西郷隆盛の援軍を仰ごうと、征韓党幹部を連れて鹿児島へ脱出。また、島は島津久光に調停を要請するため、重松基吉中川義純を鹿児島に派遣。神埼(神埼町)が焼失した。
  • 2月27日 政府軍、総攻撃開始。姉村、境原で激戦。三瀬峠も旧福岡藩士族の貫属隊に突破される。
  • 2月28日 憂国党幹部の木原隆忠副島義高が政府軍の渡辺央少佐に休戦交渉。渡辺は降伏以外は受理しないとし、木原を捕虜とするとともに翌日総攻撃を行うと最後通牒。島らは鹿児島に脱出。外務少輔山口尚芳の率いる長崎から入った海軍の陸戦隊が無人の佐賀城を確保する。
  • 3月1日 大久保内務卿と政府軍、佐賀城に入城。征討総督嘉彰親王、近衛兵を率い東京出発。この日、江藤は宇奈木温泉で西郷隆盛に面会。支援を拒絶される。
  • 3月7日 島義勇、鹿児島で捕縛される。16日に佐賀に護送される。
  • 3月14日 総督嘉彰親王、佐賀に到着。
  • 3月29日 逃亡中の江藤が高知県甲ノ浦で捕縛される。
  • 4月5日 佐賀臨時裁判所設置。
  • 4月7日 江藤が佐賀に護送される。
  • 4月9日 江藤らの尋問開始。大久保、嘉彰親王に随従し傍聴。
  • 4月13日 江藤・島ら13名に死刑判決が下る。即日処刑(斬首。江藤・島は斬首のうえ梟首)される。その他、136人が懲役、240人が除族、7人が禁固の処分を受け、10713人は無罪とされた。
  • 1919年(大正8)7月1日 大韓帝国の皇太子であった李垠と皇族方子女王の婚約発表による特赦令により、江藤や島など逆賊扱いされていた佐賀の乱の首謀者らが赦免される。
  • 1920年(大正9) 地元佐賀に、佐賀の乱の慰霊碑が建立される。

参考文献

  • 毛利敏彦『幕末維新と佐賀藩』(中公新書、2008年)
  • 片桐 武男『精町から佐賀の乱を読む』(佐賀新聞社、2005年)
  • 原 剛『明治期国土防衛史』(錦正社、2002年)
  • 鈴木鶴子『江藤新平と明治維新』(朝日新聞社、1989年)

脚注

  1. 英国で「佐賀の乱」公文書発見 駐日公使が母国に報告 佐賀新聞-2009年10月26日

関連項目

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