関東地震

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ファイル:Great Kanto Earthquake 1923 & 1703 focal area map.png
1923年大正関東地震(赤塗りの領域)と1703年元禄関東地震(赤点線内の領域)の震源域(地震調査委員会,2004)

関東地震(かんとうじしん)とは、相模トラフ震源とするプレート境界型地震(海溝型地震)である。関東大地震(かんとうだいじしん)とも呼称される。

200年以上の周期で繰り返し発生していると考えられている。記録に残る地震で同様のプレート間地震であると推定されるのは元禄16年(1703年)の元禄関東地震大正12年(1923年)の大正関東地震関東大震災)の2例である[1]

概要

関東では相模湾フィリピン海プレート北アメリカプレートの境界(相模トラフ)を震源とする巨大地震が繰り返し生じていると考えられている。有史以前の発生については不明で、歴史記録に残っている地震としては元禄16年(1703年)にマグニチュード8.1-8.2[2]元禄関東地震、220年後の大正12年(1923年)にマグニチュード7.9の大正関東地震関東大震災)が記録されている。

南関東では818年878年相模・武蔵地震)、1293年鎌倉大地震)、1433年[3]あるいは1495年[4][5]などにも大被害を伴う地震の記録があり相模トラフで発生した可能性もあるが、これらの発震機構には諸説あり、1923年の関東地震と同様のメカニズムのものであったかは不明である。 また、元禄地震と大正関東地震の間に発生した安政2年(1855年)の安政江戸地震安政の大地震)は震源断層が特定されておらず[6]、関東地震には含めない。なお、この地震の震源域については関東地震の相模トラフより北側とみられており、明治27年(1894年)の明治東京地震と同様のタイプの地震と考えられている(詳細は「南関東直下地震」参照)。

類聚国史』に記された前述の弘仁9年7月(818年)の地震を関東地震に含める場合もある[7][8]が、相模武蔵下総常陸上野下野等国とされ上総安房が記されていないこと、津波の被害の記述がないことなどの理由で萩原尊禮などはこの地震を内陸地震としている[9]

再来周期

この地震は地震に伴い隆起する特徴を持っていることから、海岸線に残された痕跡から発生周期の解析が試みられている[10]。関東地震が、878年相模・武蔵地震(元慶地震、M 7.4) 、1293年鎌倉大地震(永仁地震、M 7.0程度) 、1703年元禄地震(M 8.1)、1923年大正地震(M 7.9)で有るならば最短220年、最長415年[11]、元禄と大正の関東地震はほぼ最短の間隔で発生したと考えられている[12]。ただし、上述の通り元禄関東地震以前の記録はほとんど残っていないため、正確な周期については不明である。大正関東地震の震源域の南端は神奈川県西部から野島崎付近までである。一方、元禄関東地震の震源域には房総半島南東沖も含まれ、このような地震は約2000年周期で発生すると推定されている。

この房総半島南東沖の震源域について約2000年より短い周期で繰り返し地震が発生してきた可能性があることが、産業技術総合研究所の海溝型地震履歴研究チームの調査により判明し、2011年9月、日本地質学会で発表された。房総半島南部沿岸の地質調査により従来の約2300年の周期と一致しない隆起痕が複数発見されたことによるもので、詳細な発生周期の解明には陸上だけでなく海底調査なども必要としている。地震の規模についてはM8級クラスの可能性がある。また、元禄関東地震については「大正型」の震源域に加えて、房総半島南東沖の「外房型」の震源域による連動型地震の可能性も指摘している[13][14]

他の地震・自然災害との関連

過去の関東地震やその可能性が指摘される地震を前後にしていくつかの巨大地震・噴火が発生している。いずれも同じプレート境界における地震ではないため誘発地震であるかなどの断定はできないものの、関連性を指摘されることがある[5]

元禄関東地震の4年後の1707年には、相模トラフと隣合う南海トラフ連動型巨大地震である宝永地震とその直後に歴史上最後の富士山の噴火である宝永大噴火が起きている。また、日本海溝付近における連動型地震とされる869年貞観地震の9年後には前述の相模・武蔵地震(伊勢原断層、或いは相模トラフにおける地震とされる)が発生しており、さらにその9年後の887年には南海トラフの連動型巨大地震の可能性が指摘される仁和地震も発生している。この他、南海トラフ沿いの巨大地震である1498年明応地震の3年前には、南関東で起きていた可能性が指摘される前述の1495年の地震(震源域は相模トラフ、或いは文献の記述は明応地震と混同されているなど諸説あり、明応地震#明応4年8月15日の地震参照)もある[5][15]

なお、関東地震に分類されない1855年の安政江戸地震においても、南海トラフ沿いで1年前に安政東海地震及び安政南海地震という連続した巨大地震が発生している。

元禄関東地震

テンプレート:Main このタイプの地震は、房総半島南方沖を震源域とし西南西-東北東方向の軸を持つと考えられ、大正関東地震タイプの数回に1回の割合で連動し発生していると考えられている。

大正関東地震

テンプレート:Main2 テンプレート:地震

大正12年(1923年)9月1日11時58分32秒、神奈川県西部を震源として発生したM7.9の地震(古い文献では北緯35.1度、東経139.5度の海上を震源としているものもある)。

このタイプの地震は、震源域は三浦半島の延長線方向の北西-南東方向の軸を持つと考えられている。

前震

以下は本震発生以前の近い時期における関連が指摘される地震の記録である。

  • 8年前
    • 大正4年(1915年)11月、東京で有感地震が過去最多の18回。
    • その後地震は沈静化。
    • 大森房吉今村明恒両博士の関東大地震論争。
  • 1 - 2年前
    以下は共にフィリピン海プレート内部の地震[16]
    • 大正10年(1921年) - 茨城県南部で地震(M7.0)。
    • 大正11年(1922年) - 浦賀水道で地震(M6.8)、25人が死傷。
  • 2 - 3ヶ月前
    • 大正12年(1923年)5 - 6月、茨城県東方で200-300回の群発地震(有感地震は水戸73回、銚子64回、東京17回)[17]

本震

大正12年(1923年9月1日に発生。発生要因はフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界での北米プレートの跳ね返りであり[18]、メカニズムは低角逆断層型であるが、横ずれの成分も含む[19]震源小田原直下から岩盤の破壊が始まり、北アメリカプレートフィリピン海プレートがずれ始めた[20]のち破壊は40〜50秒かけて放射状に広がり、北は現在の川崎市の地下35km、南は現在の館山市の地下5km、東は房総半島端にまで広がり全体で長さ130km、幅70kmの岩盤(断層)が平均で2.1mずれた(金森(1971)の断層モデル)[20][21]。特に強い揺れを生んだのは最初に始まった小田原 - 秦野の直下での岩盤破壊(第1イベント)と、その約10 - 15秒後に始まった三浦半島の直下の破壊(第2イベント)である[20]テンプレート:要出典範囲、ずれ幅は5mを超えたものと推定されているテンプレート:誰。これら2つのイベントが組み合わさっていることから、「双子の地震」や「2つの地震の組み合わせ」などと呼ばれることもある。東京など離れた地域ではこの2つのイベントの違いを区別できず、連続した強い揺れとして捉えられた。震源に近い地域でははっきりした揺れの変化が捉えられている[20]。当時の地震学者である石本巳四雄は東京本郷の加速度を300gal程度であったと推定している。また、東京横浜の山の手での卓越周期は0.3秒であったと述べている[22]。この揺れは約9000km離れたウイーンのオーストリア気象庁でも観測され[23]、同庁が世界にいち早く関東地震の発生を報じたとされている[24]。 この地震のフィリピン海プレートと北米プレートが主に2つのアスペリティで強く引っかかっていたが、まず震源となった小田原直下のアスペリティで岩盤が沈み込みで加わる力(応力)に耐えられず破壊され始め、ずれが三浦半島直下に達すると2つ目のアスペリティも連鎖的に破壊されたと考えられるテンプレート:誰

各地の震度

中央気象台(現・気象庁)による観測では最大震度は東京などで震度6であったが[25]当時は震度7の階級は設定されておらず、被害状況から、小田原など相模湾岸および房総半島南部で震度7に達したと推定されている[26]。また東京においても、砂町や羽田などの東京湾沿岸や三河島など内陸で震度7に達したと推定されている[27][28]

震度 観測所
(7) 小田原
6 熊谷 布良富崎東京 横須賀 甲府
5 宇都宮 銚子 長野 飯田 沼津 浜松 宮津
4 福島 水戸 筑波山 足尾 前橋 松本 伏木 福井 名古屋 彦根 大阪 徳島
3 石巻 八丈島 高田 新潟 金沢 高山 八木橿原和歌山 松山 熊本
2 函館 秋田 山形 京都 豊岡 岡山 広島
1 潮岬 浜田 多度津

規模

河角廣により本地震のマグニチュードは7.9と推定されたが[2]、その根拠は東京の震度を6とし、震央距離を100kmと仮定したものと思われている[29]。坪井(1964)も7.9が妥当としているが[30]、日本国外の地震波形を用いて解析するとM8以上となる傾向があり[31]、M8.2[32]、M8.3[33][34]、表面波マグニチュードMs8.2[35]などが報告されている。金森博雄(1977)はモーメントマグニチュードをMw7.9とし[36]、宍倉正展(2011)はMw8.0と推定している[37]。 また、中央防災会議の災害教訓の継承に関する専門調査会における平成18年7月の報告書(1923 関東大震災報告書─第1編─)では、当時の観測記録で振り切れていない完全な記録が全国の6地点であることが分かり、それらの記録をもとに評価すると、マグニチュードは8.1±0.2であることがわかったとしている。(つまり従来から用いられているマグニチュード7.9は、やや小さめだが標準偏差を考慮すると許容範囲内であるということである。)

津波

関東地震の原因とされるフィリピン海プレートの沈み込みによって生じたプレート境界の跳ね返りによって、津波が発生した。地震の数分後、太平洋沿岸地域から伊豆諸島にかけて津波が襲い、熱海で高さ12m、房総半島で高さ9mの津波を記録した。

地盤の隆起・沈降

地震によって北米プレートがフィリピン海プレートに乗り上げる形で跳ね返り、房総半島南部で隆起、丹沢山地など内陸部で沈降した。この沈降により丹沢山地では土石流が発生した。元禄地震でも同様の地殻変動と思われる記録があり、また房総半島南部には大正関東地震、元禄地震およびそれ以前の地震の際に隆起したと見られる海岸段丘が発達し、元禄地震による段丘は特に段差が大きい[38]房総半島のうち震源に近い南部地域や相模湾に接する三浦半島全域、相模湾北岸(現在の江ノ島がその例である)などで地盤の隆起が確認され、東京府南葛飾郡地域では地盤の沈降が確認された。

隆起・沈降量は以下の通り:

地域 隆起・沈降 隆起・沈降量
九重村 隆起 1.81m
北条町 隆起 1.57m
大磯 隆起 1.81m
茅ヶ崎 隆起 1.4m
初島 隆起 1.8m
旧平井村 沈降 0.38m
砂町 沈降 0.27m
亀戸 沈降 0.24m

余震

脚注

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注釈

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出典

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関連項目

外部リンク

テンプレート:日本近代地震
  1. テンプレート:Cite web
  2. 2.0 2.1 Kawasumi(1951) 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482.
  3. 石橋克彦 『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』 岩波新書、1994年
  4. 石橋克彦(1998) 石橋克彦、佐竹健治(1998): 総合報告:古地震研究によるプレート境界巨大地震の長期予測の問題点 -日本付近のプレート沈み込み帯を中心として, 『地震』 第2輯, 50, 231-243,テンプレート:JOI
  5. 5.0 5.1 5.2 15世紀にも連動巨大地震? 南海トラフと相模トラフ(朝日新聞 2012年8月21日)
  6. テンプレート:Cite web
  7. 『地学事典』「関東大地震」(地学団体研究会編、平成8年(1996年平凡社発行、ISBN 4-582-11506-3)
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web
  10. 宍倉正展:変動地形からみた相模トラフにおけるプレート間地震サイクル 東京大学地震研究所 地震研究所彙報. 第78号第3冊, 2003, pp. 245-254
  11. テンプレート:PDFlink 地震予知連会 会報第88巻
  12. テンプレート:Cite web
  13. 首都直下地震:想定外の震源域 房総南東沖、海溝型M8級痕跡--産総研発見(毎日新聞 2011年9月9日夕刊)
  14. 房総沖に新たな震源域か 関東大震災と同規模も(共同通信/47NEWS 2011年9月9日)
  15. 金子浩之「特集:首都直下地震」『日経サイエンス』2013年4月号
  16. 関東大震災の前震、フィリピン海プレート内部で(読売新聞 2011年9月15日)
  17. 日本の群発地震 1923年 群発地震研究会
  18. テンプレート:PDFlink 地震調査研究推進本部地震調査委員会 平成16年8月23日
  19. 佐藤良輔、阿部勝征、岡田義光、島崎邦彦、鈴木保典『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年
  20. 20.0 20.1 20.2 20.3 テンプレート:PDFlink日本地震学会
  21. テンプレート:PDFlink Kanamori, H(1971): Faulting of the great Kanto earthquake of 1923 as Revealed by Seismological Data, Bull. Earthq. Res. Inst. Vol.49, pp.13-18.
  22. テンプレート:Cite
  23. 関東地震(1923年)の断層モデル 東京大学地震研究所彙報. 第49冊第1/3号, 1971.9.30, pp. 13-18
  24. テンプレート:Cite news
  25. 中央気象台月別全国地震調査原稿大正12年9月
  26. 纐纈一起東大教授によれば、震度7の地域は、神奈川県南部の広い地域、東京都東部、千葉県南部の各地域に存在し、面積は阪神淡路大震災の数倍になる。
  27. 特集:関東大震災を知る 3度揺れた首都・東京
  28. 武村(2003) 1923年9月1日関東地震の関東地方における震度分布(武村,2003)
  29. 日本地震学会 続・揺れのお話
  30. Tsuboi, C., 1964, Time Rate of Energy Release by Earthquakes in and near Japan-Its General Uniformity and Variability, J. Phys. Earth., 12, 25-36.
  31. 宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年 ISBN 978-4-13-060759-9
  32. Gutenberg, B., and C. F. Richter, 1954, Seismicity of the Earth, Hafner Publishing Company, New York.
  33. Richter, C. F., 1958, Elementary Seismology, W. H. Freeman Co., San Francisco.
  34. Duda, S. J., 1965, Secular Seismic Energy Relase in the Circum-Pacific Belt, Tectonophysics, 2, 409-452.
  35. Kanamori, H. and Miyamura, S., 1970, Seismomentricak Re-Evalution of the Great Kanto Earthquake of September 1, 1923, Bull. Earthq. Res. Inst., 48, 115-125.
  36. テンプレート:PDFlink Kanamori, H., 1977, The energy release of great earthquakes, J. Geophys. Res. 82, 2981-2987.
  37. テンプレート:PDFlink 産業技術総合研究所
  38. テンプレート:PDFlink 宍倉正展(2005) : 海岸段丘が語る過去の巨大地震, 地質ニュース605号, 12-14
  39. 39.0 39.1 39.2 39.3 1923年関東地震の本震直後の2つの大規模余震 -強震動と震源位置-武村雅之 地學雜誌 Vol.108(1999) No.4 P 440-457,テンプレート:JOI


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