ホクトベガ

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox ホクトベガ日本競走馬1993年エリザベス女王杯勝ち馬。1996年JRA賞最優秀ダートホースNARグランプリ特別表彰馬。

生涯

馬齢は旧表記を用いる。

デビューからエリザベス女王杯優勝まで

1992年中央競馬(JRA)美浦トレーニングセンター中野隆良厩舎に入厩。当初は加藤和宏主戦騎手を務め、1993年1月5日新馬戦で楽に逃げ切る。この新馬戦と2勝目のカトレア賞(4歳500万円以下)はともにダート戦である。コースを初めて走った4戦目のフラワーカップで初重賞勝利を収めるが、クラシック桜花賞優駿牝馬ベガの前に5着、6着に敗れた。

秋のエリザベス女王杯では、牝馬三冠のかかるベガに対して、ホクトベガはトライアル競走クイーンステークスローズステークス)においてユキノビジンスターバレリーナに負けており、9番人気の評価であった。

ここで調教師の中野はある賭けに打って出る。テンプレート:要出典範囲という中野のレースプランは、4コーナーまで中段よりやや後ろの馬群内側で我慢して足を溜めて、内側が空いた瞬間にラストスパートを掛ける。これはかつて中野が管理したグリーングラス菊花賞を制した際の作戦をほとんどそのまま踏襲したものであったが、実際のレースではこの作戦が見事にはまり、ホクトベガはレース終盤4コーナーで最内を強襲、そのまま伸びて勝利を収めた。

この競走で関西テレビ馬場鉄志アナウンサーが実況した「東の一等星北斗のベガ、ベガはベガでもホクトベガ」という名フレーズがある。生産者の酒井公平は「出走するだけで掲示板に載れればいい」と思っていて京都競馬場に行かなかったところ、ホクトベガが優勝したため「テレビの前でホクトベガに申し訳ない気持ちになった」と雑誌でコメントしている。

もっとも、エリザベス女王杯優勝の時点ではこのGI勝利をフロック視や展開に恵まれたと考える者も多かった。

古馬時代

5歳時(1994年)は札幌競馬場で札幌日経オープン、札幌記念と連勝するが、他のレースは苦しい競馬が続いた。一時はGI競走の優勝馬でありながら障害競走への転向も陣営は検討し、実際に障害飛越の練習も行われたほどであった。この時に行われた障害練習による足腰の強化が、後のダート路線での活躍につながったのではないかと考える者も少なくなく、さらにはこの2年前にメジロパーマーが史上初の「障害帰りのGI馬」となったことも手伝って、程度の差こそあるが、調教において障害練習を採り入れる厩舎が続出するきっかけとなった。現在においては、調子を落としレースに勝てなくなった馬に対して、レースのリズムを取り戻させる、有効な調教のひとつと考えられている。

この障害入り構想は6歳時(1995年)のアメリカジョッキークラブカップで、サクラチトセオーの2着に入ったことで立ち消えになったが、その後も歯がゆいレースが続いた。

ダート路線で開花

転機は1995年6月13日にやってきた。この年から中央競馬と地方競馬の交流が盛んに行われる様になり、川崎競馬場では伝統の牝馬重賞エンプレス杯が当時は唯一の牝馬限定の中央地方全国交流競走として開催されることとなり、ここにホクトベガが出走した。

田んぼの様な不良馬場で行われたレースでは、1頭だけ別次元のレースを繰り広げ、その年のダイオライト記念優勝馬であり牡馬も含めた当時の南関東最強の一角であるアクアライデン、当時の南関東最強牝馬と呼ばれたケーエフネプチュンなど[1]を全部まとめて子供扱いにする3.6秒(18馬身)差[2]という圧倒的な力を見せつけ、地方競馬関係者に大きな衝撃を与える。あまりの大差勝ちのため、主戦騎手横山典弘はゴール手前の100mから、思わず勝利のガッツポーズをしたほどである。砂の女王伝説はここに幕を開ける。

このエンプレス杯では、川崎競馬の関係者が3度驚いたという。

  1. 当初ホクトベガとヒシアマゾンという、JRAのGI優勝馬2頭が出走登録を行っていた。
  2. そのうちホクトベガが、本当に川崎競馬場の競走に出走してきた。
  3. 小回り・急カーブの川崎コースや初のナイター競走を全く苦にせず、2着に18馬身の大差をつけ勝利。

その後、6歳時は中央競馬で芝の競走を使ったものの勝ちきれない競馬が続いた。7歳になり、陣営はエンプレス杯の再現を期待して川崎競馬場の川崎記念(1996年1月24日)に出走させた。

下馬評では第1回ドバイワールドカップに出走する日本のダート最強馬ライブリマウントの壮行レースと考えられており、他の出走馬も『打倒ライブリマウント』を掲げてトーヨーリファールアマゾンオペラを筆頭に当時のJRA・地方の全国ダート戦線の錚々たる精鋭たちが顔を揃えていた。にもかかわらず、いざレースになってみれば3コーナーひと捲くりで先頭に立ったホクトベガに他馬はまるで太刀打ちできず、2着馬ライフアサヒに1秒(5馬身)差をつける勝利を収めた。

これによりホクトベガ陣営はダート重賞に照準を定める。その後もフェブラリーステークスダイオライト記念群馬記念を次々に勝利。帝王賞では南関東競馬の実況アナウンサー・及川暁に「この実況をお聞きの、大井の、そして地方競馬ファンの皆さん、私は何度でも言いましょう…ホクトベガ、やはりお前は強かった!」と、その強さに脱帽したと言わんばかりの実況をした。次走のエンプレス杯で連覇を達成すると、秋の初戦となったマイルチャンピオンシップ南部杯では場内実況を務めた井上学(当時IBC岩手放送アナウンサー)も「女王様とお呼び![3]と実況した程の圧勝で7連勝。ホクトベガ陣営はもしダート戦で敗れたらその時点で潔く引退させようと考えていたが、ふたを開けてみれば3-4コーナーでのひと捲りだけで圧勝するため、負ける要素は何も見つからない状態であった。

芝レースのエリザベス女王杯(4着)を挟んで、浦和記念にも勝利。2着キョウトシチーとの着差は3/4馬身差であったが、内容自体は完勝であった。続いて出走した芝レースの有馬記念では9着と敗れるが、年が明けて出走した川崎記念を連覇し、ダート交流競走では10連勝、通算勝利数では16勝となりグレード制導入以降の中央競馬所属馬による最多勝利記録を更新した。ホクトベガの出走する競馬場では入場人員レコードを記録し[4]、勝ち続けたことでファンの期待も裏切らなかった。帝王賞出走時には大井競馬場の許容入場者数をはるかに越える7万7818人(昼夜あわせての最高記録であり、現時点でも破られていない)が来場し、最後の川崎記念に至っては、当時スタンド改築工事中で実質3万人程度の収容能力であった川崎競馬場に約5万9000人が来場した。これは1990年の川崎記念(ロジータの引退レース)すら超える記録的大混雑であった。

ダートグレード制導入以前であり、数字の上では重賞4勝・GI競走1勝[5]とされているが、競走実績や人気を鑑みれば、ホクトベガは1990年代におけるスターホースの1頭であったといえる。

ドバイ遠征と死

1997年、第2回ドバイワールドカップに招待され出走。このレースをもって競走からは引退、レース後はそのまま渡欧させ、ヨーロッパの一流種牡馬との交配が計画されていた。

しかし、当初の開催予定日(3月29日)に当地ドバイでは数十年に一度という猛烈なスコールとなり、順延となった。そしてレースとなった4月3日、ホクトベガは最終コーナーで、主催者発表によれば「馬場のわずかなくぼみに左前脚をとられて」転倒し[6]、競走を中止。さらに後続のビジューダンド(Bijou d'Inde)が巻き込まれる形で追突、ホクトベガは左前腕節部複雑骨折により予後不良と診断され、間もなく安楽死処置を受けた。手綱をとった横山典弘はのちに、自らの強引な騎乗がアクシデントを引き起こしたと悔いた。[7]

原因がいずれにあるかは別にしても、かなり不運な要素が重なった事故であったとも言われている。だが、その後しばらく、日本では競馬趣味誌の紙面や競馬予想関係のホームページのコラムなどで、競馬ライターたちがレースVTR程度の資料を根拠にして鞍上の横山に対するセンセーショナルな批判記事を書き連ねる光景が繰り広げられた[8]。一時期、横山がJRAの機関広報誌『優駿』以外の競馬雑誌への露出をほとんどしなくなったのは、これら記事によって競馬雑誌の編集部や競馬ライターたちに不信感を抱いた事が原因であるとも言われている。テンプレート:要出典

なお、輸送(検疫)の関係上、ホクトベガの遺体は日本に帰ることができず、故郷の酒井牧場に建立された墓にはたてがみが遺髪として納められた。

コース4戦4勝、18馬身の圧勝劇を見せたエンプレス杯の行われる川崎競馬場では、1998年からダートグレード競走スパーキングレディーカップに「ホクトベガメモリアル」の冠をつけ、現在もその名が残されている。ドバイでもホクトベガの名を冠した競走が施行された。

ホクトベガを管理した調教師の中野は、ホクトベガの強さについて、この言葉を残している。

彼女はモナリザ。その強さは永遠の秘密です[9]

生涯獲得賞金は8億8812万6000円。これは2009年ウオッカが更新するまでの牝馬獲得賞金最高記録であった。

競走成績

年月日 競馬場 競走名 人気 倍率 着順 距離 タイム 3F 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1993 1. 5 中山 4歳新馬 2人 3.7 テンプレート:Color ダ1200m(良) 1:12.5 (38.5) 加藤和宏 53 (イズミブルー)
1. 16 中山 朱竹賞 1人 1.5 2着 ダ1800m(不) 1:52.4 (39.8) 加藤和宏 53 サイキョウホウザン
2. 20 東京 カトレア賞 1人 1.9 テンプレート:Color ダ1600m(良) 1:37.8 (37.4) 加藤和宏 53 (サンエイレコード)
3. 20 中山 フラワーC テンプレート:Color 2人 2.9 テンプレート:Color 芝1800m(良) 1:49.7 (35.9) 加藤和宏 53 (タイジュリエット)
4. 11 阪神 桜花賞 テンプレート:Color 6人 16.2 5着 芝1600m(良) 1:37.7 (49.6) 加藤和宏 55 ベガ
5. 23 東京 優駿牝馬 テンプレート:Color 5人 10.2 6着 芝2400m(良) 2:28.2 (36.0) 加藤和宏 55 ベガ
10. 3 中山 クイーンS テンプレート:Color 2人 3.3 2着 芝2000m(良) 2:02.6 (36.0) 加藤和宏 54 ユキノビジン
10. 24 京都 ローズS テンプレート:Color 3人 5.5 3着 芝2000m(良) 2:00.7 (34.9) 加藤和宏 55 スターバレリーナ
11. 24 京都 エリザベス女王杯 テンプレート:Color 9人 30.4 テンプレート:Color 芝2400m(良) 2:24.9 (35.3) 加藤和宏 55 ノースフライト
12. 10 中山 ターコイズS 2人 3.7 3着 芝1800m(良) 1:49.8 (34.6) 加藤和宏 56 ユキノビジン
1994 1. 15 阪神 平安S テンプレート:Color 2人 5.3 10着 ダ1800m(良) 1:54.3 (40.1) 加藤和宏 54 トーヨーリファール
2. 27 中山 中山牝馬S テンプレート:Color 2人 3.6 4着 芝1800m(良) 1:48.3 (36.5) 加藤和宏 56 ホッカイセレス
4. 23 東京 京王杯スプリングC テンプレート:Color 5人 12.1 5着 芝1400m(良) 1:21.4 (34.7) 加藤和宏 56 スキーパラダイス
6. 12 札幌 札幌日経オープン 1人 2.3 テンプレート:Color 芝1800m(良) テンプレート:Color (35.2) 加藤和宏 55 (モガミサルノ)
7. 3 札幌 札幌記念 テンプレート:Color 1人 2.0 テンプレート:Color 芝2000m(良) 2:00.9 (35.7) 加藤和宏 56 (エーピーグランプリ)
8. 21 札幌 函館記念 テンプレート:Color 1人 2.9 3着 芝2000m(良) 2:02.1 (36.7) 加藤和宏 55 ワコーチカコ
10. 9 東京 毎日王冠 テンプレート:Color 11人 26.5 9着 芝1800m(良) 1:45.4 (35.3) 加藤和宏 57 ネーハイシーザー
11. 13 東京 富士S 2人 6.6 6着 芝1800m(良) 1:47.6 (34.8) 加藤和宏 55 サクラチトセオー
12. 18 阪神 阪神牝馬特別 テンプレート:Color 6人 16.3 5着 芝2000m(良) 2:01.2 (37.0) 加藤和宏 57 メモリージャスパー
1995 1. 22 中山 AJCC テンプレート:Color 6人 57.1 2着 芝2200m(良) 2:14.5 (34.6) 加藤和宏 56 サクラチトセオー
2. 26 中山 中山牝馬S テンプレート:Color 1人 3.2 2着 芝1800m(稍) 1:49.5 (34.9) 加藤和宏 57.5 アルファキュート
3. 12 中山 中山記念 テンプレート:Color 2人 10.3 8着 芝1800m(稍) 1:50.8 (34.9) 加藤和宏 56 フジヤマケンザン
4. 22 東京 京王杯スプリングC テンプレート:Color 11人 25.6 3着 芝1400m(良) 1:21.5 (35.4) 横山典弘 57 ドゥマーニ
5. 14 東京 安田記念 テンプレート:Color 3人 10.1 5着 芝1600m(良) 1:33.5 (34.7) 横山典弘 55 ハートレイク
6. 13 川崎 エンプレス杯 テンプレート:Color 1人 テンプレート:Color ダ2000m(不) 2:06.5 横山典弘 55 アクアライデン
8. 20 函館 函館記念 テンプレート:Color 5人 8.5 11着 芝2000m(重) 2:03.5 (38.0) 的場均 56 インターマイウェイ
10. 8 東京 毎日王冠 テンプレート:Color 8人 21.6 7着 芝1800m(重) 1:49.2 (35.2) 大塚栄三郎 57 スガノオージ
10. 29 東京 天皇賞(秋) テンプレート:Color 15人 77.0 16着 芝2000m(良) 2:00.2 (36.9) 横山典弘 56 サクラチトセオー
11. 19 新潟 福島記念 テンプレート:Color 8人 13.7 2着 芝2000m(良) 2:01.9 (35.4) 中舘英二 56 マイネルブリッジ
12. 17 阪神 阪神牝馬特別 テンプレート:Color 5人 12.8 5着 芝2000m(良) 2:00.8 (35.6) 中舘英二 57 サマニベッピン
1996 1. 24 川崎 川崎記念 テンプレート:Color 2人 テンプレート:Color ダ2000m(良) 2:07.5 横山典弘 53 ライフアサヒ
2. 17 東京 フェブラリーS テンプレート:Color 3人 4.6 テンプレート:Color ダ1600m(良) 1:36.5 (37.0) 横山典弘 57 アイオーユー
3. 20 船橋 ダイオライト記念 テンプレート:Color 1人 テンプレート:Color ダ2400m(良) 2:31.3 横山典弘 53 スペクタクル
5. 5 高崎 群馬記念 1人 テンプレート:Color ダ1500m(不) テンプレート:Color 横山典弘 53 ヒカリルーファス
6. 19 大井 帝王賞 テンプレート:Color 1人 テンプレート:Color ダ2000m(良) 2:04.2 横山典弘 53 (アイオーユー)
7. 15 川崎 エンプレス杯 テンプレート:Color 1人 テンプレート:Color ダ2000m(良) 2:06.7 横山典弘 56 スピードアイリス
10. 10 盛岡 マイルCS南部杯 1人 テンプレート:Color ダ1600m(良) 1:38.3 的場均 54 ヘイセイシルバー
11. 10 京都 エリザベス女王杯 テンプレート:Color 4人 8.5 4着 芝2200m(良) 2:14.4 (33.7) 的場均 56 ダンスパートナー
12. 4 浦和 浦和記念 テンプレート:Color 1人 テンプレート:Color ダ2000m(良) 2:05.5 横山典弘 53 キョウトシチー
12. 22 中山 有馬記念 テンプレート:Color 9人 31.3 9着 芝2500m(良) 2:36.0 (38.5) 藤田伸二 54 サクラローレル
1997 2. 5 川崎 川崎記念 テンプレート:Color 1人 テンプレート:Color ダ2000m(稍) 2:06.7 横山典弘 53 (キョウトシチー)
4. 3 UAE ドバイワールドC ダ2000m(良) 中止 横山典弘 55.5 Singspiel

※1 南関東競馬主催の重賞競走の格付けは、全て南関東グレードである。
※2 タイム欄のテンプレート:Colorはレコード勝ちを示す。

エピソード

ホクトベガの馬体

ホクトベガは牝馬ながら500キログラム近い雄大な馬体の持ち主であった。また、逞しく力強いが同時に牝馬らしい丸さに欠けるという見方も多かった。事実、その馬体は牡馬が周回するパドックに入った所で何ら見劣りするものではなく、むしろ他の牡馬たちを凌駕さえする見栄えの良さであった。

と球節は、カナダ産馬である父ナグルスキーの特徴をそのまま受け継いだ様に全体的に深い形をしていた。特に蹄は他の馬より倍近く深く、丁度お碗を逆さにした様な形で、藤井厩務員曰く「他の馬と違って、産まれ付きスパイクを穿いている感じだった」と語っている。

調教師の中野はホクトベガの馬体を見て「牝馬には繁殖に向いた馬と競走に向いた馬があるが、ホクトベガの馬体は明らかに競走型である」として、ベガユキノビジンなど同世代のクラシック路線を競った牝馬たちが次々に引退し、繁殖生活に入るのを横目に競走生活を続行させ、果たして5、6歳になってからダート路線で大活躍した。

ホクトベガとヒシアマゾン

同じ中野厩舎所属の1世代後輩ヒシアマゾン(ともに誕生日も同じ3月26日生まれ)と合わせて語られることも多く、「ホクトベガとヒシアマゾン、2頭がレースしたらどちらが勝ったと思いますか」という質問に対して中野、藤井は異口同音にこう語っている。「芝でレースをしたら、(ホクト)ベガはアマゾンに100回挑戦しても勝てないでしょう。でもダートですとアマゾンが100回挑戦しても(ホクト)ベガには勝てなかったでしょう」。

実際にこの2頭は1996年のエリザベス女王杯と有馬記念(どちらも芝のレース)で対戦しており、ヒシアマゾンが2度とも先に入線している。ただしエリザベス女王杯においてヒシアマゾンは2位入線から降着となっており、確定後の着順としてはホクトベガが上位となる。

血統表

ホクトベガ血統ニジンスキー系/アウトブリード

*ナグルスキー
Nagurski カナダ
1981 鹿毛
Nijinsky
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
Deceit
1968 黒鹿毛
Prince John Princequillo
Not Afraid
Double Agent Double Jay
Conniver

タケノファルコン
1982 黒鹿毛
*フィリップオブスペイン
Philip of Spain
1969 黒鹿毛
Tudor Melody Tudor Minstrel
Matelda
Lerida *マタドア
Zepherin
クールフェアー
1978 栗毛
*イエローゴッド
Yellow God
Red God
Sllay Deans
*シャークスキン *シルバーシャーク
Artrevida F-No.9

脚注

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外部リンク

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テンプレート:Keiba-stub
  1. 他には、7連勝中で地元の期待を集めたマフィン、東海代表として笠松競馬場荒川友司調教師が安藤勝己(当時笠松所属)を鞍上に送り込んだクラシャトルなどもいた。
  2. 公式には「大差」。着差を参照。
  3. この発言はその後局内で問題となり、井上はアナウンサーから外され、現在はディレクター職に回っている。
  4. ただし、施設に定員以上の人員を入場させることは消防法施行規則違反なので、中にはその後消防当局から厳重注意処分を受けた競馬場もあった。
  5. ただし、勝利した競走のうち、フェブラリーステークス・川崎記念・帝王賞・マイルチャンピオンシップ南部杯は現在、ダート競走格付け委員会により統一GI(JpnI)に格付けされている。現在の基準でいえばGI競走6勝ということになる。
  6. NHK世界の競馬 1997年 ドバイワールドカップ』における、合田直弘氏の解説(リンク先動画、24分30秒)より。なお、ホクトベガについての言及は24分11秒~25分28秒。
  7. テレビ朝日系列「驚きももの木20世紀」1999年4月16日放送 『砂に消えた女王・ホクトベガのくれたもの』
  8. 折しも当時は1990年代前半の競馬ブーム・ダビスタブームを背景に乱立した競馬雑誌がブームの減速に伴って過当競争に陥っていた上、またこの種の雑誌に記事を執筆していた「競馬ライター」たちも乱立の末の一種の過剰供給状態にあり、このような目を惹くセンセーショナルな記事が数多く書かれている状況があった。テンプレート:要出典
  9. 松永郁子『名馬は劇的に生きる』(講談社、2000年)p.83