ノーザンダンサー

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テンプレート:Infobox ノーザンダンサー (Northern Dancer) はカナダ競走馬種牡馬1964年アメリカクラシック二冠馬。種牡馬としても「19世紀のセントサイモン、20世紀のノーザンダンサー」といわれる大きな成功を収めた。産駒の中から多くの後継種牡馬が生まれ、ノーザンダンサー系と呼ばれるサイアーラインを築いた。1964年カナダ年度代表馬、アメリカ最優秀3歳牡馬。イギリス・アイルランドリーディングサイアー4回、アメリカリーディングサイアー2回。アメリカリーディングブルードメアサイアー1回。

2008年12月13日付Thoroughbred Timesによると、ノーザンダンサーの1984-2007年の北アメリカにおける標準ドサージュは296ポイントである。これは調査対象となった61頭[† 1]の種牡馬、繁殖牝馬の中でセントサイモンに次ぐ2番目に高い数値であり、20世紀のサラブレッドとしては最大である。

生涯

誕生

ノーザンダンサーは、1961年にカナダ・オンタリオ州南部のウインドフィールズファームで生まれた。生産者はビール醸造で一時代を築いた富豪で、当時のカナダ最大手のサラブレッド生産者でもあったエドワード・プランケット・テイラーである。

父のニアークティックはテイラーがニューマーケットで行われたセリ市で落札した繁殖牝馬レディアンジェラが受胎していた馬で、ウインドフィールズファームの最高傑作と呼ばれた[1]。母のナタルマ1958年にテイラーがサラトガで行われた2歳馬のセリ市で35,000ドルで購入した牝馬である。1960年春に骨折のため競走馬を引退して繁殖入りし、6月にニアークティックと交配された。

翌年5月27日、ナタルマは鹿毛の牡馬を出産した。テイラーはこの仔馬を高く評価し25,000ドルという高値で売り出したが、遅生まれの上に小柄であったことが災いして買い手が付かず、テイラーが所有することになった(名義はウインドフィールズファーム)。テイラーは、父ニアークティック(新北区)、母の父ネイティヴダンサー(先住民の踊り子)よりノーザンダンサーという名前をこの馬に付けた。ノーザンダンサーはデビューする頃になっても発育が悪く、体高は最高で15.2ハンド(約154.4cm)にしかならなかった。

競走馬時代

1963年、ノーザンダンサーはフォートエリー競馬場のメイドン(未勝利戦)で競走馬としてデビューした。初戦を2着馬に7馬身の着差をつけて優勝するなど、同競馬場で3戦2勝の成績を収めた後にウッドバイン競馬場へと転戦、同競馬場でカナダ最大の2歳戦であるコロネーションフューチュリティを6馬身差で圧勝するなど、3戦2勝の成績を残した。その後グリーンウッド競馬場で1勝したノーザンダンサーはアメリカ合衆国へ移動し、ニューヨーク州アケダクト競馬場で2戦2勝の成績を挙げた。この年の成績は9戦7勝で、カナダの最優秀2歳馬に選出された。なお、最終戦となった11月のレムゼンステークスの前に発見された裂蹄がレース後悪化し、治療と休養のために気候の温暖なフロリダ州へ移送された。

1964年、ノーザンダンサー陣営は戦いの場をアメリカに設定した。2月10日の復帰初戦は敗れたがその後は連勝を重ねフロリダダービーブルーグラスステークスなどのプレップレースを優勝。2番人気でアメリカ三冠競走第1戦のケンタッキーダービーに出走。レース半ばで先頭に立つと、1番人気ヒルライズの追撃をクビ差凌いで優勝した。優勝タイムの2分フラットは当時のレースレコードであった。続いて三冠第2戦のプリークネスステークスに出走。ここでも人気は2番人気であったが、2、3番手を進み直線の前で先頭に立つレース運びで2着馬に2馬身1/4の着差をつけ優勝。二冠を達成した。この年のベルモントパーク競馬場は工事中であったため、アメリカ三冠のかかったベルモントステークスアケダクト競馬場にて行われた。このレースで1番人気に支持されたノーザンダンサーは最後の直線で伸びあぐね、優勝したクァドラングルから6馬身差の3着に敗れた。

ベルモントステークス出走後、ノーザンダンサーはカナダへ凱旋し、クイーンズプレート(カナダにおけるダービーに相当)に出走。2着馬に7馬身半の着差をつけて優勝した。陣営は次の目標をアメリカのトラヴァーズステークスに据えたが、調教中に左前肢に屈腱炎を発症していることが判明し、引退を決断した。この年のノーザンダンサーの成績は9戦7勝で、満票でカナダの年度代表馬に、そしてアメリカでも最優秀3歳牡馬に選出された。

種牡馬時代

ノーザンダンサーが生まれた1961年は、シンザンレイズアネイティヴが生まれた年でもある。当時の競馬界はナスルーラ系セントサイモン系ハイペリオン系等が勢力を競っていた状態で絶対的な主流は存在せず、ノーザンダンサーの父ニアークティックも主流の一角ネアルコ系の枝の一つにすぎなかった。

引退後ノーザンダンサーは種牡馬となり、4年間ウインドフィールズファームで繋養された。初年度種付料は1万ドルであった。ノーザンダンサーはカナダのみならずアメリカの生産者からも高い人気を集め、1969年にウインドフィールズファームからメリーランド州にある、テイラーがアメリカで出走する所有馬の調教のために作った牧場(ウインドフィールズファームメリーランド支場)へと移動した。

ノーザンダンサーは2年目の産駒から、イギリスクラシック三冠馬となるニジンスキーを送り出し、その後も英愛ダービー優勝馬ザミンストレルなど146頭のステークス競走優勝馬を輩出した。産駒はヨーロッパでの活躍が目立ち、イギリスのリーディングサイアーを4回(1970年1977年1983年1984年)獲得した。アメリカのリーディングサイアーは2度(1971年、1977年)獲得している。さらに産駒の中から種牡馬として成功するものが多く現れると(主要国でリーディングサイアーとなった産駒はサドラーズウェルズを筆頭に9頭。これはセントサイモンの8頭を上回る)、その人気はますます高まった。1970年代後半から続いた種付け料・シンジケート価格・セリ市における2歳馬の取引価格などの高騰の波にも乗り、1984年には2歳産駒のセリ市での落札価格が平均約332万ドルに、1985年には種付け料が公示価格で95万ドル(当時のレートで2億円以上、実際にはこれ以上の価格で取引されたとされる)に達し、ノーザンダンサーバブルと呼べる現象が起こった。絶頂期のノーザンダンサーはノーザンダンサーの血の1滴は1カラットダイヤモンドよりも価値があるとさえ言われた。日本でもノーザンテーストがリーディングサイアーを10回獲得するなど大きな成功を収め、牡の産駒が種牡馬として次々に輸入された。

ノーザンダンサーは1987年に受胎率が著しく低下したことにより交配シーズン途中で種牡馬を引退し、余生をノーズビュースタリオンステーション(ノーザンダンサーの種牡馬引退後ウインドフィールズファームメリーランドから改称)で過ごした。1990年11月16日早朝、ノーザンダンサーは疝痛を発症して苦しんでいるのが発見され、安楽死処分された。ノーザンダンサーの遺体はカナダのウインドフィールズファームに埋葬された。1992年7月にはウッドバイン競馬場に銅像が建てられた。

種牡馬成績

  • 1970,1977,1983,1984年イギリス・アイルランドリーディングサイアー、1971,1977年アメリカリーディングサイアー
  • 1991年アメリカリーディングブルードメアサイアー
  • 産駒数:635頭
  • 出走産駒:511頭
  • 勝ち上がり:389頭(61%)
  • ステークスウイナー:147頭(23%)

主な産駒

詳しくはノーザンダンサー系を参照

血統

血統表

ノーザンダンサー血統ニアークティック系 / Gainsborough4×5=9.38%)

Nearctic 1954
黒鹿毛 カナダ
Nearco 1935
黒鹿毛 イタリア
Pharos Phalaris
Scapa Flow
Nogara Havresac
Catnip
Lady Angela 1944
栗毛 アイルランド
Hyperion Gainsborough
Selene
Sister Sarah Abbots Trace
Sarita

Natalma 1957
鹿毛 アメリカ
Native Dancer 1950
芦毛 アメリカ
Polynesian Unbreakable
Black Polly
Geisha Discovery
Miyako
Almahmoud 1947
栗毛 アメリカ
Mahmoud Blenheim
Mah Mahal
Arbitrator Peace Chance
Mother Goose F-No.2-d

近親

  • ノーザンネイティヴ - 全弟。種牡馬として日本へ輸出。
  • トランスアランティック - 全弟。種牡馬として日本へ輸出。
  • ヘイロー - 祖母アルマームードの孫。
  • ファーザーズイメージ - 祖母アルマームードの孫。種牡馬として日本へ輸出。

脚注

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注釈

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出典

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参考文献

外部リンク


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  1. 原田1993、225頁。