流鏑馬

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テンプレート:Redirect テンプレート:Infobox 武道・武術 流鏑馬(鏑流馬、やぶさめ)とは、疾走する馬上から的に鏑矢(かぶらや)を射る、日本の伝統的な騎射の技術・稽古・儀式のことを言う。を馳せながらを射ることから、「矢馳せ馬(やばせうま)」と呼ばれ、時代が下るにつれて「やぶさめ」と呼ばれるようになったといわれる。

概要

ファイル:Yabusame00.jpg
流鏑馬の射手の狩装束
(『流鏑馬絵巻』穴八幡宮蔵より)

歴史

流鏑馬を含む弓馬礼法は、896年(寛平8年)に宇多天皇源能有に命じて制定され[1]、また『中右記』の永長元年(1096年)の項などに記されているように、馬上における実戦的弓術の一つとして平安時代から存在した。

関白藤原忠通によって春日大社若宮の社殿が改築され、保延2年(1136年)3月4日春日に詣で、若宮に社参(中右記・祐賢記文永10・2・26条)し、9月17日始めて春日若宮おん祭を行ない、大和武士[2] によって今日まで「流鏑馬十騎」が奉納され続けてきた。(中右記・一代要記)

吾妻鏡』には源頼朝西行に流鏑馬の教えを受け復活させたと記されている[1]鎌倉時代には「秀郷流」と呼ばれる技法も存在し、武士の嗜みとして、また幕府の行事に組み込まれたことも含めて盛んに稽古・実演された。北条時宗の執権時代までに、鶴岡八幡宮では47回の流鏑馬が納められたとされる[1]。だが、しかし、個人の武勇に頼っていた時代から、兵法兵器が進化して足軽鉄砲による集団戦闘の時代である室町時代安土桃山時代と、時を経るに従い、一時廃れた。

江戸時代に入り、享保9年(1724年)、時の将軍徳川吉宗の命を受けた小笠原流20代小笠原貞政は、小笠原の伝書を研究し新たな流鏑馬制定、古式と共に奥勤めの武士達に流鏑馬、笠懸の稽古をつける。享保13年(1728年)、徳川家重の世嗣ぎのために疱瘡治癒祈願として穴八幡宮北の高田馬場(現在の東京都新宿区西早稲田三丁目)にて流鏑馬を執り行い、これを奉納した(この10年後、無事疱瘡祈願成就した折に報賽として再び行われ、その様子を絵巻にしたものが『流鏑馬絵巻』である)。この後、将軍家の厄除け、誕生祈願の際などに度々流鏑馬が行われるようになる。明治維新を経て幕府解体、また第二次世界大戦と以後の煽りを受けるなど三度の衰退を見るが、戦後に復興、現在に至る。現在、流鏑馬は神社の神事として、日本の各地で盛んに行われ、観光の目玉となっている。

馬場

馬を疾走させる直線区間で、通常2(約218メートル)。進行方向左手に間を置いて3つの的を立てる。馬場から的までの距離は5m前後、的の高さは2m前後(流派や規定の違いにより、それぞれの距離にはばらつきがある)。射手(いて)は、狩装束を纏い、を疾走させ、連続して矢を射る。

騎射三物

馬上における弓術には、他に笠懸(かさがけ)や犬追物(いぬおうもの)があり、流鏑馬と合わせて「騎射三物」とされる。的と射手との距離を10-15(約18-27メートル)に1つ置いたものを「笠懸」、竹垣で囲んだ馬場に150匹のを放し、射手36騎が3手に分かれて犬を射るものを「犬追物」という。犬追物では、犬を傷つけないよう「蟇目(ひきめ)」と呼ばれる大型の鏑をつけた矢を用いる。

詳細

以下、徳川氏での例について述べる。

馬場は長さ2町である。広さ2杖半ほどの中に幅1杖の芝を張るか、または縄を張って、中に砂を撒いて馬走とする。いちだん掘り下げることもある。両側には埒がある。左を男埒といい、高さは2尺3寸、右側は女埒といい、高さは2尺、木製でもあり、萩でも結ぶ。

的は3箇所に立てる。一の的までは48杖、一の的から二の的間は38杖、二の的から三の的間は37杖である。的と馬走との間は3杖であり、上手には5杖、7杖などに的を立てることもある。的は方1尺8寸、厚さ1分ほどの檜板である。的串の長さは3尺5寸ほどで、的を挟み、頂点を上下に(いわゆるダイヤ型に)立てる。

射手の服装は水干(すいかん)、または鎧直垂(よろいひたたれ)を着て、裾および袖をくくり、腰には行縢(むかばき)をつけ、あしに物射沓(ものいぐつ)をはき、左に射小手(いごて)をつけ、手袋をはめ、右手に鞭をとり、頭には綾藺笠(あやいがさ)を戴く。太刀を負い、刀を差し、鏑矢を五筋さした箙(えびら)を負い、弓並びに鏑矢一筋を左手に持つ。

次第は、射手、諸役ともに神拝が終わって馬場に行き、馬場を一通り見て回り、射手は馬場末に集まり並び、ウマを立て、諸役はそれぞれ所定の位置につく。日記役が立ち出て、射手の中から一番の射手がこれに出向かってひざまずくとき、日記役は「流鏑馬はじめませ」と宣する。この間、一同の射手は下馬する。一番の射手がこれを受けて立ち帰り、射手に伝え、一同うちそろって乗馬し、馬場元に行き、扇形にウマを立て並ぶ。一番の射手がまずウマを進めて立ち出、祝詞を奏し、終わって中啓を出し、扇捌きをなし、そのままウマを馳せ出し、中啓を前方に高く投げ揚げ、取りかけて一の的を射る。これを揚扇という。次いで二の的、三の的を射ることは変わらない、射手次々と射終わり、5騎でも7騎でも、当日最後の射手は老練、上手の者がこれにあたり、まず一の的を射て矢番いし、ただちに右手に鞭を取り、高く差し上げ、静かにこれを下ろして取りかけ二の的を射、三の的の前にも鞭を上げる。これを揚鞭といい、はなはだ困難な技術である。射手は射終わった者から馬場元に集まるから、全部終了のときはただちに乗り出して、諸役はそれぞれの位置について支度所に戻る。

射法は、胴造り及び矢番いに特色がある。ウマを追い出すとともに鞍まわりといって、左右の膝を開き鐙に立ち上がり、身体は鞍と3寸くらい空くようにする。これを鞍をすかすという。身体は前に伏せ、胸をそらせる。一の矢は番えて出るけれども、二の矢、三の矢は箙から抜いて番える。

流鏑馬では声を掛ける。式には一の的手前で「インヨーイ」と短く太く掛け、二の的手前で「インヨーイインヨーイ」と甲声でやや長く掛け、三の的手前では「インヨーイインヨーイインヨーーイ」と甲を破って高く長く掛ける。略では「ヤアオ」「アララインヨーイ」「ヤーアアオ」「アラアラアラアラーーッ」などと掛ける。

日記は、当日射手、姓名を記し、中不を記す。奉書を長く二つ折りにして、右端を水引で綴じて作る。

全国各地の流鏑馬と実施日

東北地方

関東地方

中部地方

近畿地方

中国地方

四国地方

九州地方

関連項目

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 武田流35代金子四郎家教、「流鏑馬」、『乗馬への道』Vol. 1、文園社、1992年、ISBN 4-89336-068-X、100頁
  2. 興福寺領荘園内の荘官を衆徒とし、春日社領荘園内の荘官を国民としてそれぞれ荘園の管理をさせた。室町時代になると、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、筒井氏を刀禰とする戌亥脇党、楢原氏を中心とした南党、越智氏を中心とした散在党、平田党の六党が割拠し、その中でも筒井氏、越智氏、箸尾氏、十市氏の四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力に成長していった。おん祭りが始められた当初から、大和武士によって「流鏑馬十騎」が奉納されてきた。

外部リンク

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