藤原忠通

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テンプレート:基礎情報 公家 藤原 忠通(ふじわら の ただみち、承徳元年閏1月29日1097年3月15日〉 - 長寛2年2月19日1164年3月13日〉)は、日本平安時代後期から末期の公卿摂政関白太政大臣藤原忠実長男

小倉百人一首では法性寺入道前関白太政大臣

生涯

康和5年(1103年)、大江匡房の名付により「忠通」と称する。嘉承2年(1107年)、元服白河法皇猶子となる[1]永久2年(1114年)、白河法皇の意向により法皇の養女藤原璋子閑院流藤原公実の娘)との縁談が持ち上がるが、璋子の素行に噂があったこともあり、父・忠実はこの縁談を固辞し破談となる。保安2年(1121年)、法皇の勅勘をこうむり関白を辞任した忠実に代わって藤原氏長者となり、25歳にして鳥羽天皇の関白に就任。その後も崇徳近衛後白河の3代に渡って摂政・関白を務めることとなった。摂関歴37年は高祖父頼通の50年に次ぐ。また太治4年(1129年)、正妻腹の娘・聖子を崇徳天皇の後宮女御として入内させ[2]、翌5年(1130年)、聖子は中宮に冊立された。崇徳帝と聖子との夫婦仲は良好だったが子供は生まれず、保延6年(1140年)9月2日、女房・兵衛佐局が崇徳帝の第一皇子重仁親王を産むと、聖子と忠通は不快感を抱いたという[3]保元の乱で崇徳上皇と重仁親王を敵視したのもこれが原因と推察される。

一般には父・忠実が弟の頼長を寵愛する余り、摂政・関白の座を弟に譲るように圧力をかけられたように言われているが、実際には長い間摂関家を継ぐべき男子に恵まれず[4]天治2年(1125年)に23歳年下の頼長を一度は養子に迎えている。だが、40歳を過ぎてから次々と男子に恵まれるようになった忠通が実子に摂関家を相続させるため、頼長との縁組を破棄した。

忠通と忠実・頼長は近衛天皇の後宮政策においても対立し、久安6年(1150年)正月に頼長が養女・多子を入内させ、皇后に冊立させたのに対し、忠通もその3ヵ月後にやはり養女・呈子を入内させて、中宮に冊立させた。この呈子立后にとうとう忠実・頼長は業を煮やし、忠通は父から義絶されて頼長に氏長者職を譲らされるが、多子と天皇の接触を妨害する事などで対抗し、久寿2年(1155年)の後白河天皇の践祚により復権。それら一連の対立が保元の乱の原因の一つとなった。乱後、氏長者の地位は回復されたが、その際に前の氏長者である頼長が罪人でかつ死亡していることを理由として、宣旨によって任命が行われ、藤原氏による自律性を否認された。更に忠実・頼長が所有していた摂関家伝来の荘園及び個人の荘園が全て没官領として剥奪されることになったが、忠通が忠実に摂関家伝来のものと忠実個人の荘園を自分に譲与するように迫り、漸く忠通の所領として認められて没収を回避された。

保元3年(1158年)の賀茂祭の際に院近臣藤原信頼との対立を起こしたことから後白河天皇より閉門に処せられて事実上失脚、同年に関白職を嫡男の基実に譲った後、応保2年(1162年)に法性寺別業で出家して円観と号した。忠通は晩年身近に仕えていた女房の五条(家司源盛経の娘)を寵愛していたが、長寛元年(1163年)末か翌年の年初頃、五条が兄弟の源経光と密通、これを目撃した忠通は直ちに経光を追い出した(『明月記』)ものの、精神的な衝撃もありまもなく薨去したという[5]

人物

  • 忠通が氏長者となった時は既に摂関政治は形骸化し、さらに父や弟との対立を抱え、男子を儲けたのも遅い方であったが、そのような悪い状況の中でも本来対抗勢力である鳥羽法皇や平氏等の院政勢力と巧みに結びつき、保元の乱に続く、平治の乱でも実質的な権力者・信西とは対称的に生き延び、彼の直系子孫のみが五摂家として原則的に明治維新まで摂政関白職を独占する事となった。もっとも、基実の後継者として藤原信頼の妹が生んだ近衛基通ではなく、娘・皇嘉門院(聖子)の猶子となっていた庶子(三男)の兼実を後継者にすることを意図したものの、基実の急死による挫折(次男・基房の関白任命や平氏一族による基通後見の成立などの事態の急変)がその後の摂関家分裂の原因となったとする説もある[6]
  • 悪辣な陰謀家とする説があるが(角田文衛など)、異論もある(元木泰雄など)。
  • 詩歌にも長じ、書法にも一家をなして法性寺様といわれた。漢詩集に『法性寺関白集』、家集に『田多民治集』がある。日記に『玉林』があるが散逸してほとんど現存しない。

歌人として

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小倉百人一首79番「法性寺入道前関白太政大臣」

金葉集』以下の勅撰集に58首入集しているが、その歌について『今鏡』では「柿本人麻呂にも恥じないのではないか、と人々が申し上げている」とあり、また漢詩をつくれば菅原道真より優れているといわれた。これは鳥羽天皇から後白河天皇の4代にわたって関白となり、摂政と太政大臣におのおの2度ずつなっている人物であるため、美辞麗句に満ちたものになったと考えられる。

小倉百人一首から。

わたの原 こぎいでてみれば 久方の雲いにまがふ 沖つ白波 (法性寺入道前関白太政大臣)

なお、この直前・直後の歌の詠み人は、いずれも忠通との政争に敗れた人物(藤原基俊崇徳天皇)である。

書家としての評価

  • 法性寺流を開いた。肉太で、丸味と力強さを兼ね備えた生々したものである。
  • 藤原基衡毛越寺に伽藍を建立した際、金堂円隆寺(のちに兵火で焼失)に掲げる額の揮毫を忠通に依頼した。しかし、奥州藤原氏は京都からすれば俘囚の係累であり、身分を明かして依頼しても応じられるはずがないため、実際の依頼は仁和寺を通して行われた。のちに真の依頼者を知った忠通は額を取り返そうとしたが失敗に終わった(『吾妻鏡』には「円隆寺の額は関白忠通の筆、色紙形は藤原教長」とある)。

荘園

官歴

括弧内は西暦換算テンプレート:Smaller

  • 嘉承2年(1107年)
    • 4月26日 - 元服、正五位下に叙位、禁色を許される
    • 6月18日 - 侍従任官
    • 11月25日(1108年1月 )- 右近衛権少将に転任
    • 12月8日(1108年1月)- 右近衛中将に転任
    • 12月29日(1108年2月)- 従四位下に昇叙、右近衛中将は元の如し
  • 嘉承3年(1108年)
    • 1月(2~3月)- 播磨 権守を兼任
    • 改元して天仁元年12月20日(1109年1月)- 正四位下に昇叙、右近衛中将・播磨権守は元の如し
  • 天仁3年(1110年)
    • 2月25日 - 従三位に昇叙、右近衛中将・播磨権守は元の如し
    • 5月13日 - 正三位に昇叙、右近衛中将・播磨権守は元の如し
  • 天永2年(1111年)
    • 1月23日 - 権中納言に転任、右近衛中将は元の如し
    • 2月1日 - 従二位に昇叙、権中納言・右近衛中将は元の如し
  • 天永3年(1112年)3月18日 - 正二位に昇叙、権中納言・右近衛中将は元の如し
  • 永久3年(1115年)
  • 元永2年(1119年)2月6日:左近衛大将を兼任
  • 保安2年(1121年)3月5日 - 関白宣下、藤氏長者宣下、内大臣は元の如し、従一位右大臣源雅実の次座
  • 保安3年12月17日(1123年1月)- 従一位に昇叙、左大臣に転任、関白・藤氏長者は元の如し、依然従一位太政大臣源雅実の次座
  • 保安4年(1123年)1月28日 - 関白を止め、摂政宣下、左大臣は元の如し、源雅実より上座となる(ただし一座宣下の記録を欠く)
  • 大治3年12月17日(1129年1月)- 太政大臣宣下、摂政は元の如し
  • 大治4年(1129年)
    • 4月10日 - 太政大臣を辞す
    • 7月1日 - 摂政を止め、関白宣下
  • 永治元年12月7日(1142年1月)- 関白を止め、摂政宣下
  • 久安5年(1149年)10月25日 - 太政大臣宣下、摂政は元の如し
  • 久安6年(1150年)
    • 3月13日 - 太政大臣を辞す
    • 9月26日 - 藤氏長者を止む(頼長が藤氏長者となる)
    • 12月8日 - 摂政を止め、関白宣下
  • 保元元年(1156年)7月11日 - 藤氏長者宣下(同日頼長が敗死したため)
  • 保元3年(1158年)8月11日 - 関白を辞す
  • 応保2年(1162年)6月8日 - 出家法名は円観
  • 長寛2年(1164年)2月19日 - 薨去、享年68

系譜

脚注

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関連項目

テンプレート:藤原氏長者 テンプレート:日本の摂政 テンプレート:歴代関白 テンプレート:歴代太政大臣

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  1. 忠通の子・兼実の日記『玉葉』には、忠通は法皇の実の妹である篤子内親王(堀河天皇中宮・藤原師実養女)の養子になったとする(承安5年7月26日条)。
  2. 摂関家からは藤原寛子(頼通の娘)以来約80年ぶりの入内。なお、養女を含めると、堀河天皇中宮篤子内親王藤原師実養女、後三条天皇皇女)以来で38年ぶりとなる。
  3. 今鏡』第八、腹々の御子
  4. 正妻の藤原宗子との間には男子が生まれたが夭折。また、妾腹の男子に恵信(永久2年(1114年)生)・覚忠(元永元年(1118年)生)がいたが、いずれも出家している。この2人に対しては、正妻宗子が良い感情を抱いていなかったようであり(『今鏡』)、2人の出家については宗子への配慮または彼女自身の意図に依るものであることを窺わせる。
  5. 角田文衛『平安の春』講談社学術文庫、平成11年(1999年)、226頁
  6. 山田彩起子『中世前期女性院宮の研究』思文閣出版、平成22年(2010年)、222-223・256・263頁
  7. 尊卑分脈』『系図纂要』による。『今鏡』では源国子とする。