可児市

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テンプレート:Infobox 可児市(かにし)は、岐阜県の岐阜県の中南部、木曽川南岸に位置する。

概要

愛知県との県境という地理的条件から1970年代より市の西部を中心に人口が爆発的に増加し、名古屋市ベッドタウンとして発展した。市制の施行は1982年と比較的若い市である。

一方で長塚古墳次郎兵衛塚一号墳などの古墳群、明智光秀(異説あり)や森成利(蘭丸)の生誕地、志野焼の発祥地などとしても知られており、歴史的な背景や遺産も多く有する。特に東部の丘陵地は現在も広く山林となっており、古くからの自然環境と新興都市としての側面を併せ持った町と言える。

可児市は一般に中濃地域に区分されるが、東濃地域とする場合もある。その他にも可児市と美濃加茂市、可児郡、加茂郡を可茂と呼称する事も多い。近隣都市の中では多治見市に次いで人口が多い。しかし、中濃・可茂の枠組みでは歴史的流れから隣の美濃加茂市が中心都市として挙げられている。

地理

ファイル:Ontakesan from Hatobukiyama 2008-12-7.jpg
鳩吹山から木曽川を望む。川を挟んで奥は太田盆地(美濃加茂市)。
ファイル:Kani city center area Aerial photograph.1987.jpg
可児市中心部周辺の空中写真。1987年撮影の4枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

岐阜県の中南部、木曽川南岸に位置し、岐阜市および愛知県名古屋市から約30km程の距離にある。可児盆地と呼ばれる盆地を市域としており、北部を除く三方を丘陵地が囲む。市域の南部が内側に入り込んでいるため、全体として逆凹形となっている。

可児市に隣接し四方を丘陵地に囲まれた完全な盆地である多治見市とは異なり、比較的北西に開けていることから、美濃加茂市御嵩町川辺町坂祝町富加町関市等と共に濃尾平野に含まれることが多い。

市の北部は木曽川が流れ、対岸の太田盆地まで概ね平坦な地形が続く。東部は最高峰である浅間山をはじめ広く丘陵地となっており、多くのゴルフ場を有する(ゴルフ場は市域の1割近くを占める)。また、東部の丘陵地には桜ヶ丘ハイツなどの住宅団地もある。南部は多治見市と愛知県犬山市に隣接し、ニュータウンや工業団地が広がっている。西部の丘陵地は西可児駅を中心としたニュータウンとして開発が進んでおり、市で最も人口が多い地区になっている。北西部には鳩吹山がそびえ、そのふもとでは市を横断する可児川が木曽川と合流する。

平成の大合併の際に可児郡御嵩町および兼山町との3市町合併構想があったが合意に至らず、兼山町のみとの合併となったため、兼山地区(旧兼山町)は御嵩町を挟んだ飛地になっている。

気候

比較的温暖で夏期に雨が多い表日本式気候であるが、盆地にあることから気温が上がりやすく、若干内陸性気候の様相も帯びる。

積雪はほとんどなく、年に数回程度である。

地層

市で見られる地層には瑞浪層群と言われるものがあり、多くの化石が発掘されている。

動物化石では、カニサイヒラマキウマAnchitherium hypohippoidesゴンフォテリウム科 Gomphotheriidaeゾウなどである。

また、ヒラマキウマは日本で最初に発見され、一番古い時代に生息していたウマである。

瑞浪層群の地層には加工しやすいサバ石(凝灰質砂岩のこと)と呼ばれるものがあり、昔はそれを加工して土蔵、建物の基礎石、室(むろ)、かまど(サバクドと呼ばれる)等を作り利用していた。現在はほとんど利用されなくなったが、室などは残されている所もある。

隣接している自治体

呼称

市を大きく東西にわけて、今渡や広見などの東を東可児、土田や帷子などの西を西可児と呼ぶことがある。市内の東可児や西可児の名が着いた施設などは、それが由来である。また、東可児には兼山地区を含めないことが多い。

歴史

古代

古く有史以前から集落が存在し、市域には国の史跡に指定されている長塚古墳や県下最大級を誇る次郎兵衛塚一号墳をはじめとした多くの遺跡や古墳が存在する。また弥生時代から近世にまで至る柿田遺跡からは、古墳時代に行われた大規模な河川工事の跡が検出された。

倭王権との関りも古く、日本書紀によれば74年景行天皇が美濃に行幸した際に、現在も久々利地区に史跡が残る泳宮(くくりのみや)を仮宮としたとされる。その際、崇神天皇の皇子でこの地方を支配していた八坂入彦命の娘八坂入媛命を見初め、后にしたと伝えられる。

律令制下ではこの地域は美濃国に属した。平安時代に作成された『和名類聚抄』においてすでに「可兒」の地名が掲載されており、古くからこの名称で呼び習わされていたことが判明している。名称の由来としては、「カネ(曲)」「カミ(神)」など他の漢字から転じたとの説、古代に地域を開拓した可兒氏に由来するとの説などがある。

7世紀頃にこの地方に須恵器の製法が伝えられると、近隣の多治見市域や土岐市域などと同様に窯業が発達した。これが美濃焼の原型で、経路となっていた東山道の街道を通って日本各地にもたらされた。平城京などからも「美濃」と押印された須恵器が発見されている。

中世

鎌倉時代に入ると源氏一門大内惟義が美濃守として就任するが、惟義亡き後の1221年承久の乱が勃発するとその子惟信後鳥羽院方に組した。惟信は筑後有長糟屋久季らと共に2000騎を駆って木曽川北岸に布陣し、幕府方と大井戸渡(現在の土田地区)で戦闘。しかし武田信光ら東山道軍の大軍に破れ、大内氏は滅亡した。その後、美濃は北条氏らの支配下となった。

元弘の乱により鎌倉幕府が滅びると、足利尊氏に従い戦功を挙げた土岐頼貞が美濃国守護となった。以後戦国時代に入るまで土岐氏が代々美濃国守護となり、可児市域も土岐氏の氏族の支配下となった。主なところでは後に明智光秀を出した明智氏を始め、瀬田氏、羽崎氏などが挙げられる。

応仁の乱後には東山道が通う交通の要所であると共に、天然の要害である盆地に位置していることから軍事拠点にもなっていた。鳥峰城(後の金山城)や大森城をはじめ多くの城がこの時期に築かれている。またこの頃には東山道の宿場として土田宿が成立しており、木曽川の渡し場が置かれていた。

森氏の台頭

ファイル:Mori Ranmaru-Utagawa Kuniyoshi-ca.1850- from TAIHEIKI EIYUDEN.jpg
信長の小姓として知られる森成利(森蘭丸)森氏は金山城を拠点として一帯を支配下に収めた。

森氏は第6代目の氏清が室町時代初期に土岐氏の被官となって以来、代々土岐氏に仕えていた。しかし第15代目の可成の代に土岐氏は斎藤道三に追われて没落したため、以後は織田信長に仕えた。

1565年、美濃を制圧した信長は武功のあった可成に鳥峰城を与えた。可成はこの城を拡張して金山城と改名し東濃への拠点としたが、1570年浅井氏朝倉氏との戦いの最中に戦死した。家督を次男の長可が継ぎ、成利(蘭丸)ら弟達と共に信長に従戦した。

1582年本能寺の変により信長と弟達が没したため、長可は領地として与えられていた信濃海津城から退去し金山城に帰還した。しかし苗木城遠山友忠が美濃の諸将と内応して長可打倒を掲げたため、長可は羽柴秀吉を後ろ盾として対抗した。長可は大森城の奥村元広や久々利城の久々利頼興など敵対した諸将を次々と征伐。翌年には苗木城を攻めて遠山友忠を追放し、可児市域を含む東濃一帯を支配下に収めた。

長可は1584年小牧・長久手の戦いで戦死し、森氏の家督は末弟の忠政が継いだ。秀吉が没すると忠政は徳川家康に接近し、1600年に家康より信濃国川中島13万7,500石を与えられた。関ヶ原の戦いでは徳川秀忠の軍勢に属して第二次上田合戦に参戦している。戦後、その功績により森氏は美作津山藩に加増転封となった。

安土桃山時代中には久々利地区で志野焼が発祥した。かつて志野焼は瀬戸が産地であるとされていたが、1930年荒川豊蔵久々利大萱牟田洞の古窯跡で志野焼の陶片を発掘し、この地で生産されていたことを実証した。

近世

関ヶ原の戦い後、市域は尾張藩領と幕府領(天領)、千村氏をはじめとする旗本領が混在するようになった。また金山城近辺には武蔵松山藩より松平忠頼転封されて金山藩が成立した。しかし翌1601年、松平忠頼はさらに遠江浜松藩に加増転封となり、金山藩は成立後わずか1年足らずで廃藩となっている。

その後の1604年小早川秀秋の家老であった平岡頼勝が家康に登用されて市域内に1万石が与えられ、徳野藩が成立した。頼勝は美濃郡代となり、陣屋として徳野陣屋を築いた。しかし、子の第2代藩主・平岡頼資の晩年から家督争いが発生し、後継の指名がないまま1653年に頼資は世を去った。死後、幕命によって徳野藩は改易・廃藩となった。

江戸時代の特記すべき事項として、塩村(現在の塩地区)におけるキリシタン弾圧が挙げられる。幕府は島原の乱以後キリシタンの取り締まりを強化していたが、1661年、塩村にキリシタンが多数存在することが発覚した。そのことを知った領主の林権左衛門は尾張藩主・徳川光友に捕縛を依頼し、信者24名が捕えられた。これを端緒に尾張藩の各地でキリシタンが露見し、1,000人以上の大検挙へと繋がった(濃尾崩れ)。塩村ではこの後の1697年にも30余名が検挙されている。

また、土田では幕末期の1819年よりビードロの製造が行われた。これは長崎でビードロの製法を学んだ石塚岩三郎が故郷の下総への帰途の途中、土田の娘と結ばれたことが縁となってこの地で製造を始めたことに由来する。石塚岩三郎が営んだビードロ屋は現在の石塚硝子であり、東海地方におけるガラス製造の発祥となった。

ファイル:Kisokaido51 Ota.jpg
木曾海道六拾九次之内 太田』(歌川広重)には、当時の太田の渡しの様子が描かれている。

この時代には東山道が中山道として整備され、当初は土田宿もその宿場に指定された。しかし木曽川の流れが変化したため渡し場は上流に移動し、太田の渡し(現在の今渡地区)が整備されて使われるようになった。それに対応して対岸に太田宿が新設されたことで土田宿は重要性を失い、1694年伏見宿と代替する形で廃宿になった。ただ完全に機能が失われたわけではなく、その後も名古屋城下から太田の渡しまでを繋ぐ上街道の一宿場として細々と存続したようである。

一方で太田の渡しには多治見街道土岐街道も接続し、年貢米や美濃焼などを運ぶ人々が多く往来した。この時代の運送は水運が大きな役割を担っており、上流の兼山湊と共に栄えていた。流れが速い太田の渡しは中山道の難所とされ、馬子唄に「木曾のかけはし、太田の渡し碓氷峠がなくばよい」と唄われた。

近代

明治維新後の廃藩置県により市域は岐阜県に含まれ、1889年町村制施行時に市域には1町7村が発足した。

1900年中央西線の名古屋〜多治見間が開通すると、物流は木曽川の水運から鉄道を利用した陸運に変化していった。それを受けて、明治末期より平井信四郎らが中心となって多治見から広見を経由して御嵩に至る鉄道路線の建設が計画された。鉄道は大正年間に完成し当初東濃鉄道によって運営されたが、後に一部は国有化された。昭和期に入ると広見駅が移転されると共に路線が拡大され、現在の太多線名鉄広見線の路線とほぼ同一となった。

ファイル:Ohotabashi-3.JPG
太田の渡し跡付近より太田橋を望む。中央左手の橋の陰に日本ライン下りの乗船場が見える。

1927年太田橋が完成したことで長年利用された太田の渡しは役目を終え、代わって木曽川には1939年今渡ダムが建設された。運輸の中心が陸運に移行したことで木曽川は日本ラインと呼ばれる観光地としての性質を強めた。

太平洋戦争が勃発すると、隣町の御嵩町を中心地として瀬田地区・柿田地区などで亜炭の採掘が活発になり、鉄道や街道を通って運ばれた。また軍需工場として土田村に萱場製作所(現カヤバ工業岐阜南工場)が誘致され、1943年より生産が始まった。当時萱場製作所は軍用機の油圧脚の約80%を生産しており、市域では初めての本格的な機械工場であった。その他戦争末期には市域西部の丘陵地にて三菱の地下軍需工場の建設が始まったが、これは完成を見ることなく終戦を迎えた。

燃料調達が容易であり街道・鉄道といった運送網が存在したことから、この地域は日本軍の生産拠点として位置付けられていた。しかしそのためにしばしば空襲の標的にもなり、各務原空襲の際にも攻撃を受けている。

現代

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小渕ダム。1951年に完成し、日本で最初に完成したロックフィルダムになった。

終戦後の物資の不足により、亜炭の採掘は衰えるどころか逆にますます盛んになった。1951年には小渕ダムが完成し、日本で最初に完成したロックフィルダムになった。

1955年、昭和の大合併の中で今渡町広見町土田村久々利村平牧村春里村帷子村が合併し可児町が誕生した。後に御嵩町および姫治村のそれぞれ一部を合併し、現在の兼山を除く市域が定まった。

高度経済成長以降、石油が燃料の中心となっていったことで亜炭採掘は急速に衰退していった。一方で戦前からの萱場工業を中心とした製造業は発展し、昭和30年代には名古屋パルプ(現大王製紙)、昭和40年代には可児工業団地と相次いで大型の工場・工場用地が完成している。

また丘陵地を開拓しニュータウンを造成したことで、可児は名古屋に程近いベッドタウンとして注目されるようになった。1970年代以降西部・南部を中心に人口が爆発的に増加し、1970年には3万人に満たなかった人口は10年後には5万人を突破した。人口の急増を受けて1982年に可児町は市制を施行し、全国で650番目・県で14番目の市として可児市が誕生した。

以後も可児市の人口は鈍化はしたものの増え続け、可茂の拠点都市として発展した。1989年には県で推し進める「花の都ぎふ」運動の中心拠点として県営可児公園(現在の花フェスタ記念公園)敷設予定地に花トピア(岐阜県花き総合指導センター)がオープン。後に県営可児公園は花フェスタ'95ぎふおよび花フェスタ2005ぎふの開催地となり、大勢の人出で賑わった。2005年に兼山町を合併したことで10万人を突破したと市は公称している。中でも近年は製造業への就労を目的としたブラジルやフィリピンなどの外国籍住民が増加しており、文化の違いにより発生するさまざまな問題に対処する必要に迫られるようになった。(関連項目外国人集住都市会議

年表

人口

テンプレート:人口統計

行政

歴代首長

  • 可児町長
    • 渡辺清男 - 1955年3月1日就任、4期
    • 林桂 - 1968年12月22日就任、4期
  • 可児市長
    • 鈴木告也 - 1982年11月7日就任、3期
    • 山田豊 - 1994年11月7日就任、4期
    • 冨田成輝 - 2010年11月7日就任、1期目(現職

電子投票

2003年7月20日の市議選で、全国5例目となる電子投票を実施した。しかし投票機器にトラブルが発生。2005年7月8日、電子投票としては日本で初めての最高裁による選挙無効判決が確定する。同年8月21日、再選挙が実施された。

立法

可児市議会

  • 定数:22名
  • 任期:2011年(平成23年)8月11日 - 2015年(平成27年)8月10日[1]
  • 議長:川上文浩(誠颯会、2期)
  • 副議長:川合敏己(誠颯会、2期)
会派名 議席数 議員名(◎は代表)
誠颯会 10 ◎可児慶志、澤野伸、板津博之、天羽良明、川合敏己、酒井正司、川上文浩、佐伯哲也、山口正博、伊藤壽
自民クラブ 2 ◎亀谷光、林則夫
民主ネット可児 2 ◎山根一男、伊藤英生
可児市議会公明党 2 ◎野呂和久、山田喜弘
日本共産党可児市議団 2 ◎伊藤健二、冨田牧子
新当クラブ 2 ◎中村悟、出口忠雄
無会派 1 小川富貴
21

※2012年5月10日、河村浩志市議が死去。そのため市議会は2014年7月現在「欠員1」である。

経済

産業

名古屋市まで名鉄電車の利用だと1時間かからないため、ベッドタウンとしての要素が大きいが、市では自動車産業が盛んであり、自動車部品の下請工場が数多く存在する。このため外国人労働者も多く、外国人登録者数は8%を超え、隣接する美濃加茂市と共に国際都市として知られる。

姉妹都市・提携都市

教育

大学

尚、名城大学都市情報学部は2017年ナゴヤドーム前キャンパスへの集約移転が決定している。 移転後の跡地利用は現在未定である。

高等学校

中学校

()内は出身小学校を表す。

  • 可児市立広陵中学校(帷子小)
  • 可児市立蘇南中学校(土田・今渡南・今渡北小)
  • 可児市立中部中学校(広見・旭・東明小)
  • 可児市立西可児中学校(南帷子・春里小)
  • 可児市立東可児中学校(桜ヶ丘小)
  • 帝京大学可児中学校(私立)
  • 中学校の変遷
    • 可児町時代には、町内には蘇南中・中部中しかなかった。人口の増加に伴い、蘇南中から西可児中が分かれた。その後、西可児中から広陵中、中部中から東可児中が分かれ、現在の状態になった。

小学校

  • 可児市立旭小学校
  • 可児市立今渡北小学校
  • 可児市立今渡南小学校
  • 可児市立帷子小学校
  • 可児市立桜ヶ丘小学校
  • 可児市立東明小学校
  • 可児市立土田小学校
  • 可児市立春里小学校
  • 兼山小学校の児童は、卒業後、隣の御嵩町にある可児市御嵩町中学校組合立共和中学校に通う。
  • 小学校の変遷
    • 人口増加に伴い、旧今渡小学校が今渡南・今渡北の二校に、旧帷子小学校が帷子・南帷子の二校にそれぞれ分かれた。

その他

交通

鉄道路線

市の南北を太多線が、東西を名鉄広見線が貫通する。両線が交わる可児駅新可児駅が市の中心駅だが、乗降客数はニュータウンと名城大学キャンパスに近い西可児駅が最も多い。

可児駅または新可児駅からJR・名鉄のいずれを利用した場合も名古屋までの所要時間は約1時間であるが、運行本数(日中はJRが2本、名鉄が4本)や乗換(日中JRは美濃太田駅・岐阜駅または多治見駅で乗り換えが必要。一方、名鉄は半数が名古屋方面へ直通、残りの半数は犬山駅で乗り換えとなる。名古屋方面直通電車(普通中部国際空港ゆき・犬山から準急)も犬山で一部特別車特急を待つため急ぐ場合は乗り換えが必要となる)の関係から名鉄を利用した方が早い場合が多い。

また、近年では中部国際空港の開港に伴い、新可児駅からも直通の特急ミュースカイの運行が朝に行われるようになり、また2008年12月27日のダイヤ改正で昼間時間帯の名古屋方面直通電車が従来の河和内海ゆきから中部国際空港ゆきに変更となった。

バス

主に東鉄バス(東濃鉄道)と、東濃鉄道によって委託運行されているコミュニティバス「さつきバス」が市内を循環している。また、廃線になった名鉄八百津線の代替としてYAOバスが明智駅から八百津方面に運行しており、兼山地区における唯一の公共交通機関となっている(さつきバス兼山線を除く)。遠隔地へは名古屋方面への高速バスの他、2006年より新宿行きの中央ライナーが1日に2往復している。

路線バス

コミュニティバス

高速バス

道路

高速道路

2005年に東海環状自動車道が開通し、市内唯一のインターチェンジとして可児御嵩ICが開設された。近隣には中央自動車道小牧東IC多治見IC土岐ICがあり、現在でもこちらを利用する機会も多い。

一般国道

市内を走る3本の国道はいずれも古くからの街道であり、歴史的経緯からいずれも木曽川周辺で交わっている。

一般県道

公共施設

警察署

消防署

1965年に可児町消防本部、消防署が設置され、1970年に1市7町村で可茂消防事務組合が設立された際に南消防署と改称した。

その他

文化施設

図書館

  • 可児市立図書館 - 1978年に町立図書館として開設した後、1985年に新築された。
    • 帷子分館
    • 桜ケ丘分館

この他、移動図書館「ひまわり号」が市内を巡回している

博物館・資料館・文化施設

  • 可児市文化創造センター (ala) - こけら落とし公演は和泉元彌が10分間行なった。当日は和泉のダブルブッキングが話題となり、全国からマスコミが駆けつけ、市の名を知られるニュースとなった。
  • 可児郷土歴史館- 江戸時代にこの地を領土とした旗本・千村氏の屋敷跡に建設されており、敷地内には現在も石垣や井戸が残る
  • 兼山歴史民俗資料館 - 建物は、1885年竣工の兼山小学校校舎を解体修理したものを利用している
  • 川合考古資料館 - 市内で発掘された古代の遺物を展示している。また次郎兵衛塚一号墳も復元整備されている
  • 木曾古文書歴史館 - 主に千村氏に伝わる書状や絵図などが展示されている
  • 荒川豊蔵資料館 - 人間国宝の陶芸家・荒川豊蔵の作品や収集品などが展示されている
  • 名鉄資料館

芸術・レクリエーション施設

 また、石塚岩三郎が江戸時代末期に現在の可児市土田で製造していた、土田びいどろの復元にも取り組んでいる。

体育施設

  • 可児市総合運動場
  • 可児市B&G海洋センター
  • 可児青少年育成センター(錬成館)
  • 坂戸市民テニス場
  • 可児市弓道場
  • 可児市ウエイトリフティング場
  • 可児市馬事公苑
  • 可児市市民センター
  • 広見市民運動場
  • 塩河市民運動場
  • 姫治市民運動場
  • 坊主山市民運動場
  • 今渡市民テニス場

ホール・集会場

  • 可児市総合会館
  • 可児市総合会館分室
  • 可児市福祉センター
  • 可児市勤労者総合福祉センター(Lポート可児)
  • 兼山生き生きプラザ
  • 公民館
    • 広見(ゆとりピア)・広見東・今渡・下恵土・土田・帷子・春里・中恵土・川合・姫治・平牧・桜ケ丘・久々利・兼山

医療・福祉施設

医療機関

福祉施設

  • 児童センター
    • 広見児童センター
    • 帷子児童センター
    • 桜ケ丘児童センター
    • 兼山児童館
  • 可児市老人福祉センター
    • 可児川苑
    • 福寿苑
    • 兼山やすらぎ館
  • 可児市養護訓練センター
  • ふれあいの里可児 - 障がい者の支援施設として作業場と支援センターが置かれている

観光・旧跡・祭事・催事

公園

  • 花フェスタ記念公園 - 約7,000品種61,000株のバラが植えられ品種の数では世界一多い。日本で唯一、英国王立バラ協会と友好提携している。
  • 可児やすらぎの森(生活環境保全林) - 中部地区最大のローラー滑り台がある。滑降時、でん部が摩擦でかゆくなるのを防止するため、ビート板の貸し出しもある。
  • 蘭丸ふるさとの森(金山城址) - 織田信長の小姓として仕えた森蘭丸が生まれたところ。
  • ふれあいパーク緑の丘
  • ふるさと川公園 - 市役所の北、可児川の対岸にある。「可児夏祭り」が行われる公園。
  • 鳴子近隣公園
  • 歴史と文化の森(身隠山古墳)
  • 可児川下流域自然公園 - カタクリ自生地がある。戦前は「ライン遊園」といわれていた。

祭事・催事

  • 可児夏祭り
  • 花フェスタ 夏まつり花火大会(8月)
  • 子守神社大祭
  • 久々利八幡神社大祭(市の無形民俗文化財)
    • 二台のヤマと呼ばれる山車と、からくり人形が特徴。
  • 洞窟夏祭り(7月)
    • 戦時中の大砲製造用に掘られた洞窟で行われる。
  • 白鬚神社大祭(流鏑馬祭)(市の無形民俗文化財)
  • 白髭神社の輪くぐり祭
  • 川合獅子舞
  • 光秀供養祭
  • 百万遍の町流し
  • 石原の提灯まつり
  • 灯篭会
  • 蘭丸祭(兼山地区)
  • 兼山夏祭(兼山地区)
  • 兼山祭(兼山地区。貴船神社例祭)
  • 鬼ヶ島おんでこ祭(帷子地区。鬼ヶ島 (可児市土田)(12月31日)
  • 帷子花火(帷子地区)(11月)
  • かに駅前一坪市(可児駅前)(毎月第四日曜日午前中)

史跡・旧跡

古墳

城址

出身有名人

歴史上の人物

マスコミ

その他

  • 近年全国的に問題となっている外来生物、アライグマの国内で初めての野外繁殖が1962年に確認され、40年以上経った現在も問題となっている。
  • 2009年6月に開かれた自治連合会主催の市政懇談会で民生委員の男性からセクハラを受けたとして、臨時職員の女性が可児市と男性を相手取り慰謝料などを求め岐阜地裁に訴訟を起こした。この訴訟において、同市が、改竄した書類を証拠として提出していたことが、2011年6月に発覚している[2][3]2013年3月29日、控訴審において、被告人の男性に対し22万円を支払うよう命じる一部勝訴判決が出た。

脚注

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関連項目

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外部リンク

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  1. 岐阜県選挙管理委員会 市町村長名簿、市町村長・議員任期一覧
  2. テンプレート:Cite news
  3. 記事