明治神宮

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明治神宮(めいじじんぐう)とは、東京都渋谷区にある神社明治天皇昭憲皇太后祭神とする。初詣では例年日本一の参拝者数を集める。正式な表記は「宮」の「呂」の中間の線が入らない『明治神[1]』。

概要

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昭憲皇太后と共に明治神宮の御祭神とされる明治天皇
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元日の初詣、大鳥居

明治神宮は、明治天皇昭憲皇太后を御祭神とする神宮である[2]

面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。

明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民(当時)から起こり、1914年大正3年)になると天皇に縁の深かったこの地への神宮建設が決定した[2]。造営は翌1915年大正4年)から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した[2]。鎮座祭は、1920年大正9年)11月1日に行われた[2]

22万(約73ヘクタールに及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年明治7年)、買い上げられて南豊島御料地となっていた[2]

明治神宮は2010年(平成22年)現在、初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めることでも知られる。

沿革

1912年明治45年)に明治天皇崩御し、立憲君主国家としては初の君主の大葬であったがその死に関する法律はなく、何らかの記念(紀念とも)するための行事が計画される。その事業は程なく予定されていた明治天皇即位50周年のものを引き継ぎ(明治天皇の銅像、帝国議会、博物館などさまざまな案があった[3])、続いて、1914年大正3年)に皇后であった昭憲皇太后が崩御すると、政府は神社奉祀調査会を設置して審議し、大正天皇の裁可を受けて、1915年(大正4年)5月1日官幣大社明治神宮を創建することが内務省告示で発表された。

明治天皇が「うつせみの代々木の里はしづかにて都のほかのここちこそすれ」と詠んだ代々木の南豊島世伝御料地を境内地として造営が行われた。1920年(大正9年)11月1日に鎮座祭が行われた。ちなみに、この御料地はかつて近江彦根藩井伊家下屋敷のあった場所で、明治維新後に井伊家から政府に対して献上されたものである。

神宮本殿は大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)4月、アメリカ軍による空襲によって焼失した[2]。その後全国から復興資金が寄せられ、仮殿が建設されて翌1946年昭和21年)5月に還座祭が行われた[2]。現在の本殿はその後、国内外からの寄付などによって造営が進められたもので、還座祭は1958年(昭和33年)10月31日に行われた[2]。境内の旧御苑入口付近にはかつて、代々木の地名の起源ともなったモミの巨木「代々木」があったが、この名木も空襲の折、高射砲によって撃墜されたアメリカ軍機・B29の直撃を受けて焼失している[2]

明治神宮は第二次世界大戦後、宗教法人神社本庁被包括宗教法人となり別表神社に指定されていたが、2004年平成16年)に神社本庁との包括関係を解消し、単立神社となった[4]。しかし、2010年(平成22年)8月23日、再び神社本庁は明治神宮の被包括関係を設定した。

2008年(平成20年)10月26日-11月1日:明治神宮御社殿復興50年記念の特別ライトアップ「アカリウム」奉納行事開催[5]

境内

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明治神宮付近の航空写真。1989年撮影。隣接する代々木公園を含め一帯は広大な緑地となっている。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成
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秋の大祭での古武道奉納
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秋の大祭での流鏑馬奉納
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秋の大祭での古武道火縄銃奉納

内苑と外苑に分かれており、内苑には日本各地や朝鮮半島・台湾からの献木365種約12万本が計画的に植えられた。1970年(昭和45年)の調査時には247種17万本となっており、都心部の貴重な緑地として親しまれているだけでなく、人工林が意図的に自然林化されたものとしても注目されている。

明治神宮を設営する場所として選ばれた代々木御料地付近は、元々は森がない荒地であった。そのため、神社設営のために人工林を作ることが必要となり、造園に関する一流の学者らが集められた。設計には、林学本多静六本郷高徳上原敬二、川瀬善太郎、中村斧吉(林苑課長)、大溝勇、山崎林志、中島卯三郎、農学/造園原煕大屋霊城狩野力太田謙吉森一雄水谷駿一田阪美徳、寺崎良策、高木一三、森一雄井本政信、北村弘、横山信二石神甲子郎、また、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)の折下吉延らが参加した。折下らは神宮外苑のイチョウ並木などもデザインする。

こうして集められた明治神宮造営局の技師らは1921年(大正10年)に「明治神宮御境内 林苑計画」を作成。現在の生態学でいう植生遷移(サクセッション)という概念がこのとき構想され、林苑計画に応用された。当初、多様な樹種を多層に植栽することで、年月を経て、およそ100年後には広葉樹を中心とした極相林(クライマックス)に到達するという、手入れや施肥など皆無で永遠の森が形成されることを科学的に予測され実行された。いわば、これが造園科学的な植栽計画の嚆矢であって、日本における近代造園学の創始とされている。なお、植林事業そのものは1915年(大正4年)には開始されている。

神宮御苑

明治神宮御苑(通称、神宮御苑)は江戸時代から大名下屋敷の庭園として使われ、明治時代に宮内省が所轄する南豊島御料地となり、代々木御苑と呼ばれた。ここは明治天皇と昭憲皇太后にゆかりの深い名苑であり、この地の風光をこよなく愛された皇太后はしばしば行啓されたほか、明治天皇は隔雲亭という御茶屋を建て、あずまやを作り、池には菖蒲を植え、回遊歩道を設けて美しい庭園とされた[2]

隔雲亭は大東亜戦争の末期、アメリカ軍による空襲によって焼失したが、戦後篤志家によって復元された[2]

現在、苑内には隔雲亭やあずまやのほか、お釣台、菖蒲田、清正井などがある。菖蒲田のハナショウブ(花菖蒲)は明治天皇が昭憲皇太后のために植えさせられたといわれ、6月が最盛期である。また、11月下旬から12月上旬には、紅葉を愛でることが出来る。拝観は有料であり、料金は大人500円・16時30分閉門である。 テンプレート:-

神宮外苑

テンプレート:Main 明治神宮外苑(通称、神宮外苑)は、明治天皇昭憲皇太后のご遺徳を永く後世に伝えるため、民間有志により結成された明治神宮奉賛会が、広く国民より募った寄付と全国青年団の勤労奉仕によって造営された。

青山練兵場の跡地である敷地は現在の東京都新宿区港区にわたり、聖徳記念絵画館を中心に、明治神宮外苑競技場(現在の国立霞ヶ丘陸上競技場)・明治神宮野球場・明治神宮水泳場などがある。

かつて、明治神宮の北参道(裏参道)から千駄ヶ谷を通って明治神宮外苑・外苑橋まで続く道路には、これに沿って乗馬道が整備されていた[2]。しかしながら大東亜戦争後には遊歩道となり、現在は首都高速道路4号新宿線に変わっている[2]

参拝

表参道の終点にあって山手線を跨ぐ陸橋である「神宮橋」は、鎮座に先立つ1920年大正9年)9月に完成した[6]。橋はRC構造で長さ20.4メートル、幅員29.1メートルである[6]原宿駅から明治神宮に参拝する場合にも、この橋を渡ることになる。

原宿駅寄り、境内・南参道鳥居に通じる参道として表参道が整備されたのに対して、現在の明治通り北参道交差点から北参道鳥居に通じる参道はかつて「裏参道」と呼ばれていた[7]

祭事

建立資金

神社を奉祀するとはいっても、現実にその領地確保や建立にはいくばくかの資金が必要である。いくつかの候補から、領地は東京公園を建設予定だった新宿村代々木御料地と定められた。当初の理念において、内苑は国が、外苑は国民が造るものとされ、資金は国による税金と国民による寄附金があてられた。

その総額は国税の納付額などで明治神宮奉賛会によっておおよそ標準額として予め計算されたものがあり、東京では200万、東京以外の内地では250万円、外地(当時は領土であった樺太台湾朝鮮関東州)からは20万円、また、大日本帝国国内だけではなく、国外からは25万円とされた。内地においてはその目標額が公平な負担となるよう各都府県に割り当てられた。各市町村群へは各都府県が割り当てられた額面を調整し、その寄附金を募った[8]。基本的には寄附であるので個人の自由であるが、官吏などはそうではなかったところもある(地位により額面が決められていたが、一部を除いては自らに割当られた額面の寄附は望んでのことであった。内閣総理大臣は100円とされた)。

標準額総額は495万円であったが、結果的には想定を大きく上回る約676万円となった。必要とされた額は670万円とされていたので、目標額は達成できたことになる。

逸話

おみくじ

明治神宮には、多くの神社にみられる「おみくじ」が存在しない。代わりに、くじを引き御製や御歌(明治天皇昭憲皇太后が詠んだ和歌)を「大御心」として授かる。大御心を授けられた参拝者は、これを持ち帰り折に触れ詠み返すものとされており、おみくじのように境内に結んで残すことはしない。また、御製や御歌とその解説文のみしか記述していない為、吉凶も存在しない。そのため多くの神社に見られる「みくじ掛」も境内に存在しない[9]

清正井

それまで、神宮御苑の一つの井戸であった清正井(きよまさのいど)であったが、2009年平成21年)12月25日から突如、清正井目当てに行列が延々と続く事態が続いている。これは、前日の12月24日に放送されたテレビ番組にて、手相芸人の島田秀平が清正井の御利益について力説していたことが原因である。これ以降、清正井はパワースポットとして注目を浴びることとなった。

参拝者は清正井を携帯電話のカメラ機能で撮ったりして、待ち受け画像にしているという。

神宮御苑は閉門時間が16時30分であるが、14時に並んでも閉門前に清正井にたどりつけないほどの行列で、「清正井は今から入苑しても日没となりご覧いただけません。改めてお越し下さい」という立て看板まで立てられるという事態が続いている。これに対して、明治神宮側はあくまでも「神宮全体が神域ですので……」と述べるに留まっている[10]

文化財

重要文化財

  • 明治神宮宝物殿 13棟
大正10年(1921年)竣工。鉄筋コンクリート造。中倉(附:陳列箱8基、鬼瓦1箇)、東西倉、東西廊、東西橋廊、東西渡廊、北廊、車寄、事務所、正門の計13棟が近代和風建築として国の重要文化財に指定され、土塁2箇所が附(つけたり)指定となっている。
  • 太刀 銘助茂(1972年盗難、所在不明)

-- 発行物 --

  • 1930年11月1日、明治神宮鎮座10年記念として2種(1銭5厘、3銭)の切手が発行された。

交通アクセス

鉄道

参考文献

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脚注

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外部リンク

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  1. 江守賢治『解説字体辞典』は、「宮」の字は、甲骨文以来、「ノ」を入れずに書くのが通常であり、『説文』や『康煕字典』が「ノ」を入れる字体を採用したのが異例であるとする。一方、明治神宮の公式サイトは、「ノ」は、建物(「ロ」)と建物(「ロ」)を繋ぐ「廊下」を表し、古くは建物と建物の間に廊下はなかったので「ノ」を入れなかったが、廊下が作られるようになってから「必然的」に「ノ」を入れるようになったとする。
  2. 2.00 2.01 2.02 2.03 2.04 2.05 2.06 2.07 2.08 2.09 2.10 2.11 2.12 東京ふる里文庫11 東京にふる里をつくる会編 『渋谷区の歴史』 名著出版 昭和53年9月30日発行 p206-11 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "furusato"が異なる内容で複数回定義されています
  3. テンプレート:Cite book
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Wayback
  6. 6.0 6.1 アイランズ 『東京の戦前 昔恋しい散歩地図』 草思社 平成16年1月30日発行第1刷
  7. 綱島定治 『ポケット大東京案内』 地人社/竹田弘文堂 昭和6年発行
  8. 千葉県ではキッコーマンからの1万円の寄附金を受け、市町村群への割当を1万円差っ引いて寄附金を集めた。
  9. テンプレート:Cite press release
  10. テンプレート:Cite web