辛光洙

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テンプレート:Infobox 辛光洙(シン グァンス、1929年6月27日 - )は大韓民国(韓国)の政治犯日本人拉致に関わった北朝鮮スパイだった。

人物

静岡県浜名郡新居町(現・湖西市)出身。日本名は「立山富蔵」(たてやまとみぞう)。太平洋戦争終結後に北朝鮮に移住。1950年に北朝鮮義勇軍に志願入隊。1954年ブカレスト工業大学予科入学、その後機械学部を卒業、技師資格を取得。日本語英語朝鮮語ロシア語など4ヶ国語を話す。その後、朝鮮労働党の命により工作員になる。

1973年能登半島から日本国内に侵入。東京在日朝鮮人朴春仙の家で生活している。この時の辛の生活は石高健次1994年頃、朴から聞いている。朴によると辛は2階の1室を借りて住みこんだ。しかし来客を嫌い、2階の部屋に閉じこもるほど、工作活動の漏洩には注意していた。外出して書籍を買ってくる時は決まって政府の白書(主に防衛軍事関係)だった。北朝鮮への郵送物は自分では行かず、朴が代わりに行くことが多かったが、絶対に「東京国際郵便局に行ってくれ。近所の郵便局ではだめだ」と話していたという。石高が朴からこれらのことを聞くことができたのは、朴からの依頼であり、「私がかつてスパイ(=辛)と暮らしていたから」と話を切り出したという。辛は朴に自分が工作員である旨を話しているが、朴は土台人ではない。以後東京、京都大阪に居住、また拠点とし対南工作を行うことが増え、朴の家に住み着くことはなく、時折戻ってくる程度になった。そして、1980年6月に宮崎県青島海岸で、大阪府に住んでいた日本人調理師土台人である在日工作員と共謀して拉致、同人になりすまして海外渡航を繰り返していたが、1985年ソウル特別市内で韓国当局に逮捕された。逮捕に至った手がかりは、辛光洙が日本で利用していた土台人のネットワークを構成する者が、辛光洙のことを日韓の公安当局に通報したことによる。[1]当初は死刑判決を受けたが後に無期懲役に減刑。1999年12月31日金大中大統領によるミレニアム恩赦釈放され、2000年9月2日、「非転向長期囚」として北朝鮮に送還された。北朝鮮では、英雄として辛の記念切手が販売されている。

2005年12月30日、先に述べた調理師以外にも、現在帰国している一部の被害者や、新潟県新潟市で拉致された13歳の女子中学生等の拉致に、辛光洙と「朴」と名乗っていたチェ・スンチョルが実行犯として関わっていたことが明らかにされた。警視庁公安部2006年2月23日国外移送目的略取国外移送の容疑で再度逮捕状を取得、同3月3日、重ねて辛光洙をICPOを通じて国際指名手配し、北朝鮮に対し所在の確認と身柄の引き渡しを要求している。

在日韓国人政治犯釈放の要望書について

テンプレート:Seealso 1989年7月、韓国当局に対して、韓国の民主化運動で逮捕された在日韓国人政治犯29名の釈放を求めるという趣旨の要望書が、当時の日本社会党公明党社会民主連合無所属の議員有志133名の署名とともに韓国政府へ提出された。このとき釈放要望対象となった政治犯29名の中に辛光洙や拉致共犯者とされるKなど北朝鮮スパイの名が複数含まれていたため、金正日北朝鮮による日本人拉致実行を認めた2002年9月以降、同年10月19日に当時官房副長官であった安倍晋三土井たか子菅直人を名指しで「極めてマヌケな議員」と評するなど、署名した国会議員保守政治家日本共産党から激しく批判された。こうした批判に対して菅直人は、「釈放を要望した人物の中に辛光洙がいるとは知りませんでした。 そんな嘆願書に署名したのは私の不注意ですので、今は率直にお詫びしたい」 と謝罪した[2]

これに対し公明党社民党などから以下のような釈明・抗弁がある。

  • 当時の日本国内での政治犯釈放要求運動の対象はもっぱら、「学園浸透スパイ団事件」の「首謀者」とされた徐勝・徐俊植兄弟の救援であった。当時の日本国内における日本人拉致問題の認識は「北朝鮮工作員による拉致の疑いがある」という程度のものであり、警察庁捜査も進展していなかった。辛光洙をはじめとする実行犯の氏名や具体的な犯行内容については、国会議員だけでなく一般社会でも全く認知されておらず[3]、当時は辛光洙が拉致事件に関与していたことは、ほとんど明らかにはなっていなかった[4]

一方、共産党や自民党は以下のような反論・追究を行っている。

  • 要望書が提出される1年前、1988年3月26日参議院予算委員会において、日本共産党橋本敦議員)が辛光洙事件について質疑・追及しており[5]、署名議員も予算委員として委員会に出席していた(社会党5名、公明党2名、無所属1名)。国会議員が事実を知らなかったこと自体が、まったくおかしな話[6][7]だ。

また、共産党は自民党議員がこの件を取り上げると自民党に対して「自公連立の友党である公明党の議員が署名していたことについて、何の言及もしないのは二重基準だ」という旨の反論をすることが多い[8]。なお公明党で署名した議員は全員既に政界を引退している。

なお1984年4月25日の衆院外務委員会において、社会党の土井たか子が、韓国の在日韓国人政治犯の釈放に向け日本政府の尽力を求めたことに対し、前述の安倍晋三の父である安倍晋太郎外務大臣(当時)は、「私も外務大臣となって2年近く、韓国の外務大臣や要人と会うたびに、この政治犯の取り扱いについて人道的な配慮を加えてほしいということをしばしば申し入れて、今日に至っている」と述べ、「内政干渉にわたらない範囲内で人道的配慮を韓国政府に絶えず求めていきたい」「この7月に行われる外相会談でも、(土井)委員の要請を十分踏まえて対応する」と答弁している[9]

要望書に署名した国会議員

日本社会党

衆議院
阿部未喜男五十嵐広三池端清一石橋大吉石橋政嗣伊藤茂伊藤忠治稲葉誠一井上泉井上一成井上普方岩垂寿喜男上田哲上田利正上原康助大原亨大出俊緒方克陽岡田利春小川国彦奥野一雄小沢克介加藤万吉角屋堅次郎河上民雄河野正川崎寛治川俣健二郎木間章上坂昇小林恒人左近正男佐藤観樹佐藤敬治佐藤徳雄沢田広沢藤礼次郎渋沢利久嶋崎譲清水勇城地豊司新村勝雄新盛辰雄関山信之高沢寅男田口健二竹内猛田中恒利田邊誠田並胤明辻一彦土井たか子戸田菊雄永井孝信中沢健次中西績介中村茂中村正男野口幸一野坂浩賢馬場昇早川勝広瀬秀吉細谷治嘉堀昌雄前島秀行松前仰水田稔三野優美武藤山治村山喜一村山富市安田修三山口鶴男山下八洲夫山花貞夫吉原米治渡部行雄
参議院
青木薪次赤桐操穐山篤秋山長造一井淳治糸久八重子稲村稔夫及川一夫大木正吾大森昭小川仁一小野明梶原敬義粕谷照美久保亘久保田真苗小山一平佐藤三吾志苫裕菅野久光鈴木和美高杉廸忠千葉景子対馬孝且中村哲野田哲浜本万三福間知之渕上貞雄松前達郎松本英一丸谷金保村沢牧本岡昭次八百板正安恒良一安永英雄矢田部理山口哲夫山本正和渡辺四郎

公明党

衆議院
小川新一郎鳥居一雄西中清
参議院
猪熊重二塩出啓典和田教美

社会民主連合

衆議院
江田五月菅直人[10]
参議院
田英夫[11]

無所属

衆議院
安井吉典(社会党系)
参議院
青島幸男宇都宮徳馬喜屋武真栄山田耕三郎

要望書の内容

私どもは貴国における最近の民主化の発展、とりわけ相当数の政治犯が自由を享受できるようになりつつあることを多とし、さらに残された政治犯の釈放のために貴下が一層の主導権を発揮されることを期待しています。在日関係のすべての「政治犯」とその家族が希望に満ちた報せを受け、彼らが韓国での社会生活におけるすぐれた人材として、また日韓両国民の友好のきづなとして働くことができる機会を与えて下さるよう、ここに心からお願いするものであります。

1989年
大韓民国盧泰愚大統領貴下
日本国国会議員一同

脚注

  1. 土台人とは、工作員の活動に協力する在日コリアン暴力団関係者のことである。辛が逮捕されて間もなく、朴の兄で北朝鮮でアナウンサーだった朴安復銃殺刑にされた。1970年代後半、東京に住む朴の元に辛から金の工面を求める書簡が届いた。しかしこれまでにも幾度か貸していた朴は、今回ばかりは自分の貯めたものだから自分の自由に使いたいと思い、北朝鮮にいる兄・安復の元に手紙を出し、兄を通して辛に断ってほしいと依頼した。しかしその手紙が兄の運命を変えてしまう。安復が宛先に書かれた場所に行ったところ、そこが工作員の拠点だった。一般人が工作員の拠点にやってきたことで、スパイ容疑の疑いをかけられた安復は直後から北朝鮮当局の監視対象になり、1980年3月に突然強制収容所送りにされた。5年後、辛が逮捕された時に北朝鮮では一時工作活動が混乱する事態になり、「朴兄妹が母国を売ったのだ」と嫌疑をかけられ、安復は銃殺刑に処されたのである。これについては後に工作員が妹・春仙に「兄の銃殺はどうしようもなかった」と冤罪だったことを暗に認めている。
  2. 「青島幸男も村山富市も「拉致犯釈放」署名のマヌケ仲間 (ワイド特集 悪い奴ほどよく眠る)」週刊新潮2002年11月7日号。
  3. 『反射鏡』 拉致問題解決を妨害したのはどの党か テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. 郵政・年金・外交―何が問題か NHK政党討論 市田書記局長が発言 しんぶん赤旗 2005年9月6日付
  9. 第101回国会 外務委員会 第10号
  10. 東京基督教大学教授・西岡力 拉致対応にみる菅首相の二面性 産経ニュース 2010年6月18日
    署名について、リストを確認せず不注意だったと詫びている。
  11. 田英夫は、国会質疑において、複数回にわたって拉致問題が対朝外交において存在している事実を肯定している。テンプレート:Cite web「最近で言えば拉致問題とか行方不明問題とかいうようなことを含めていろいろ問題があって、今完全に何もない、約束事のない、秩序のない状態になっている。これはひとつ宿題として、大臣おっしゃるように民間しか当面あり得ないわけですから、それをどうしたらいいのかという問題がひとつ宿題だということは意識の中に政府の皆さんも含めてお互いに持っていた方がいいんじゃないかと思います。」、テンプレート:Cite web「拉致問題とかさまざまな日本にとっての重要な問題があることは事実であります」

参考文献

  • 朴春仙『北の闇から来た男 - 私の愛した男は「北朝鮮の工作員」だった』 ザ・マサダ 2003年2月 ISBN 4883970795
  • 石高健次「どこまでシラを切るんだ北朝鮮」 光文社 1997年

関連項目

外部リンク