谷亮子
テンプレート:日本の国会議員 テンプレート:柔道家 谷 亮子(たに りょうこ1975年9月6日 - )は福岡県福岡市出身の元柔道競技者(四段)、政治家。旧姓は田村(たむら)。オリンピックで2度、世界選手権で7度金メダルを獲得した。柔道競技の引退後、2013年現在は生活の党所属の参議院議員(1期)、生活の党副代表兼参議院幹事長。帝京大学文学部卒業 日本体育大学大学院修了。
目次
経歴
血液型はB型。階級は48 kg級。福岡工業大学附属高等学校(現・福岡工業大学附属城東高等学校)、帝京大学文学部卒業、日本体育大学大学院博士前期修了。元トヨタ自動車所属。日本オリンピック委員会・選手強化キャンペーン・シンボルアスリート制度を適用。
キレのある立ち技を特徴とし、その実力から当時TVアニメ化され放送されていた浦沢直樹の柔道漫画『YAWARA!』の主人公の名前を取って柔(ヤワラ)ちゃんの愛称で広く知られる。
世界選手権6連覇、全日本体重別11連覇、福岡国際11連覇、オリンピックでは2度の金メダル、2度の銀メダル、1度の銅メダルと出場した5大会全てでメダルを獲得するなど圧倒的な戦績を誇り、女子柔道、柔道の普及に大きな貢献をした。
国会議員として
2010年(平成22年)3月31日付でトヨタ自動車のスポンサー契約(同社所属の従業員選手扱い)が終了し、選手としての所属を個人事務所の「オフィス・リョウコ」に変更する。2010年(平成22年)5月10日、第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例区公認候補として出馬表明を示した。柔道については当時は現役続行を宣言し、2012年のロンドンオリンピックで金メダルを目指す意欲を示していた[1]が、断念した(後述)。
同年7月、第22回参議院議員通常選挙で民主党の比例区から立候補し、民主党公認候補の中で得票数第2位となる352,594票を獲得し、初当選を果たした。小沢ガールズと報道される。
本人は前述の通り、現役選手と国会議員の活動を両立する意向を持っていたが、同年9月17日、全日本柔道連盟の強化委員会が強化指定ランクを格下げ(最上位の「ナショナル」から「シニア」に1段階降格)したことにより国際大会への出場が大幅に制限されることとなった[2]。
その後も柔道競技者として練習は続けていたものの、2010年10月15日、国会議員としてまずは国政でのスポーツ振興に全力を注ぐことを優先し、2012年のロンドン五輪への代表選考試合への不参加を表明し、「柔道家引退」と報じられた[3][4]。なお、2008年の北京オリンピックで銅メダルに終わって以降、柔道の公式試合には一度も出場していない。
2012年7月2日に小沢一郎の民主党離党に同調して離党届を提出[5]。翌3日に受理され[6]、10日に離党した[7]。その後2012年7月11日、小沢が率いる国民の生活が第一の結党に参加した[8]。同年11月28日、嘉田由紀子滋賀県知事が代表を務める「日本未来の党」(前日27日に結成)に参加した[9]。12月1日、党幹事(遊説担当)に就任[10]。 日本未来の党の解党後は、小沢一郎の率いる生活の党に所属している。
2013年6月には全日本柔道連盟の理事に田辺陽子、北田典子とともに女性として初めて起用されることになった。その際に「(女子選手の)窓口的な役割が求められていると思う。柔道を通じて夢や希望を持てる体制を作りたい」「選手と所属(団体)、全柔連などの組織が孤立しないように、意思の疎通を深めたい」「日本発祥の柔道には素晴らしい伝統と文化がある。それを広めながら改革していきたい」と決意を語った[11][12][13]。
2013年8月2日、生活の党副代表兼参議院幹事長に就任した[14]。
競技歴
バルセロナオリンピックまで
城浜小学校2年生の時に兄に影響されて東福岡柔道教室で柔道を始める。それからわずか数ヵ月後には櫛田神社の奉納試合で5人抜きを演じたが、その際には男の子を投げ飛ばして、けがを負わせたことがある[15][16]。
小学校5年の時には全国少年柔道大会の団体戦に東福岡柔道教室の先鋒で出場して、準決勝で敗れたものの、3位入賞を果たした[17]。
城香中学2年の時に体重別九州予選に出場するが、準決勝で柳川高校3年の衛藤裕美子に送襟絞で一本負けを喫し、本選への出場はならなかった[15]。
翌年は九州予選で優勝して本選に進むも、準決勝でこの階級の第一人者である筑波大学1年の江崎史子に横四方固で一本負けしたが、3位に入賞した。
8月には全日本のフランス遠征メンバーに選ばれて、現地での練習試合では5戦全勝した。
10月には強化選手選考会に出場して、決勝で京都産業大学3年の坪井由香里に先に小内刈で効果を取られるが、すぐに同じ小内刈で効果を取り返すと、その後は攻め込んで判定勝ちを収めて福岡国際の代表に選ばれた[18]。
12月の福岡国際には大会が始まった1983年以来、集団演武に東福岡柔道教室の一員として毎年参加していたが、今回は初めて選手として出場することになった[15]。 その初戦で中国の高宇紅と対戦して技ありと有効2つを取るも、終了間際に高の内股で審判団が協議になるほど一本に近い技ありを取られたものの判定は変わらず優勢勝ちを収めると、準決勝では長年この階級の女王として君臨してきたイギリスのカレン・ブリッグスを体落と内股で立て続けに技ありを取ってわずか28秒の合技一本で破り、決勝でも前年の優勝者である中国の李愛月に内股すかしで一本勝ちして、この大会最年少の15歳での優勝を成し遂げ、衝撃的な国際大会デビューを飾った[19]。
1991年4月には福岡工大付属高校に進学した。 そして6月の体重別では、準決勝で筑波大学1年の永井和恵を掬い投げで破り、決勝では同大会の6連覇を狙う江崎に対して後半に攻め込まれていたものの、出足払で相手を崩したのが評価されてか[20]、3-0の判定で優勝して前年の雪辱を果たすとともに、世界選手権代表に選ばれた。
7月にバルセロナで開催された世界選手権では、2回戦で世界ジュニアチャンピオンであるキューバのレグナ・ベルデシアに有効を取って優勢勝ちするなどして勝ち進むも、準決勝でブリッグスに寝技に持ち込まれて上四方固で一本負けし、3位決定戦でポーランドのマウゴジャタ・ロシュコフスカを大外刈で破り3位になった。
10月の国体少年女子の部では柳川高校2年の佐野奈津子、3年の国吉真子とともに福岡チームの一員として参加して、チームの優勝に貢献した。
11月には大阪で開催されたアジア選手権に出場。初戦で中国の湯礼紅に有効2つ取られて敗れたが、その後の3位決定戦で韓国の尹榮娥に3-0で判定勝ちして3位に入賞した。
続く福岡国際では決勝で江崎との対戦になり、両者注意の後、江崎に場外際に追い込まれ動きが止まったため赤畳5秒ルールの警告が与えられるかとも思われたが流されて、終了間際に内股で効果を取って辛うじて勝利を収めた[21]。
1992年2月にはドイツ国際に出場して、決勝で地元ドイツのドルテ・ダンマンを内股で破ったのをはじめ、オール一本勝ちで優勝した。
5月の体重別では、決勝で埼玉大学1年の長井淳子に先に小内刈で有効を取られるも、その後すぐに掬い投げで有効を取り返して、3-0の判定で優勢勝ちして大会2連覇を達成するとともに、オリンピック代表に選ばれた[22]。
バルセロナオリンピックでは、初戦でキューバのアマリリス・サボンから有効を取って破るなどして勝ち上がり、準決勝ではブリッグスを素早い動きで翻弄して反則勝ちを得たものの、決勝ではフランスのセシル・ノバックに効果2つを取られて敗れ、2位になった。
アトランタオリンピックまで
オリンピック後最初の大会となった12月の福岡国際では、準決勝で昨年のアジア選手権で敗れた湯を払腰で破って雪辱すると、決勝でもフランスのシルビー・メルーを背負落一本で下してオール一本勝ちで大会3連覇を達成した。
1993年の2月にはフランス国際に出場して、3回戦でフランスのフレデリク・ジョシネに効果で勝った以外は、決勝のサボン戦も含め全て一本勝ちで優勝を果たした。
3月には高校選手権に出場して、準決勝までオール一本勝ちで勝ち上がり、決勝では土浦日大高校1年の磯崎佑子に3-0の判定勝ちして優勝した。
5月の上海での東アジア競技大会では、決勝で地元の湯から有効を取って破り優勝を果たした。
7月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で破り世界選手権代表に選出された。
7月には団体戦の金鷲旗にも福岡工大付属高校の一員として参加して、1 - 2階級上の選手を相手に3戦全勝した。
10月にカナダのハミルトンで開催された世界選手権では、準決勝でイタリアのジオヴァンナ・トルトラを出足払で破り、決勝でも李を盛んに攻め込んでポイントこそ取れなかったものの3-0の判定で破り、世界チャンピオンになった。
その後の国体では、柳川高校2年の阿武教子、三池高校2年の杉野美紀子とともに福岡チームの一員として参加して、オール一本勝ちを成し遂げてチームの優勝に貢献した。
12月の福岡国際では決勝でロシアのタチアナ・クフシノワを合技で破り優勝を果たした。
1994年になると帝京大学に進学した。
5月の体重別では、決勝でミキハウスの衛藤由佳を合技で破って優勝し、アジア大会代表に選ばれた。
10月に広島で開催されたアジア大会では、決勝で李を3-0の判定で破って優勝を果たした。
11月には強化選手選考会に出場して、決勝で長井から効果を取って優勝を果たした。
12月の福岡国際では決勝で長井から有効を2つ取って優勝して、バルセロナで敗れてから続いてきた連勝記録を50に伸ばした。
1995年5月の体重別では、決勝で長井から大外刈で有効を取り優勝して世界選手権代表に選ばれた。
8月に福岡で開催されたユニバーシアードでは、決勝でサボンに払腰で一本勝ちしたのをはじめ、オール一本勝ちで優勝を果たした。
10月に幕張で開催された世界選手権では、3回戦でサボンから小内巻込で技あり、準々決勝でもジョシネから効果を取って勝ち、準決勝では映画ホーム・アローンに出演したこともある女優で、なおかつ前年の世界ジュニアチャンピオンでもあるアメリカのヒラリー・ウルフを開始早々の体落で破り、決勝では前回大会に続く対戦となった李に対して、先にポイントを取りながらなお攻め続け、ラスト1秒に双手刈で一本を取って優勝し、大会2連覇を達成した。
その後の福岡国際でも決勝でサボンを縦四方固で一本勝ちするなどオール一本勝ちで優勝を果たした。
1996年3月の体重別では、決勝で長井から効果を取って優勝してオリンピック代表に選ばれた。
7月のアトランタオリンピックでは、今度こそ金メダルと期待された[23]。
準決勝でサボンを背負投で破るも、決勝戦ではワイルドカードで出場。暗黙のルール[24]を破って出場した北朝鮮のケー・スンヒに苦戦。ケー・スンヒは柔道着を左前に着ているので組み手が取れず、終盤払腰を小外刈で切り返されて効果を取られ、さらに指導を与えられて敗れ、前回大会に続いて2位になった。 この敗戦によって、前回オリンピックで敗れてから続いてきた連勝記録も84でストップした。
シドニーオリンピックまで
オリンピック後最初の大会となった福岡国際では、準決勝で李に2-1の判定で辛うじて勝利すると、決勝ではサボンに注意で勝って優勝した。
1997年1月には大阪で開催されたワールドカップ団体戦に日本チームの一員として準決勝のキューバ戦のみに出場して、そこでサボンを有効で下して勝利したが、チームは敗れて3位になった。
5月の体重別では長井から燕返で有効を取って勝ち、世界選手権代表に選出された。
10月にパリで開催された世界選手権では、準決勝で北朝鮮のペ・ドンスクを合技で下して、決勝でもサボンから内股で有効を取って破り大会3連覇を達成した。
12月の福岡国際では決勝で長井を指導で下して優勝した。
1998年には帝京大学を卒業してトヨタ自動車に入社した。
5月の体重別では決勝で住友海上の真壁友枝から体落で有効を取って優勝した。
9月にミンスクで開催されたワールドカップ団体戦では、準決勝でフランスチームのジョシネと対戦して、相手の大内刈を返して有効を取り勝利したが、チームは敗れて最終的に5位に止まった。
11月の全国女子体重別では決勝で長井から警告を取って優勝した。
1999年1月の福岡国際の決勝では、アジア大会で優勝して勢いづく真壁を小外掛一本で破り優勝した。
5月の体重別では決勝で長井を3-0の判定で下して世界選手権代表に選出された。
10月にバーミンガムで開催された世界選手権では、準決勝で韓国の朴成子を注意で破り、決勝でサボンを3-0の判定で下して大会4連覇を果たした。
12月の福岡国際では決勝でサボンを3-0の判定で破り、大会10連覇を達成した。
2000年4月の体重別では決勝で東和大学4年の濱野千穂を注意で破り、山口香に続いてこの大会10連覇を達成した。
9月のシドニーオリンピックでは、大会前に「最高でも金(メダル)、最低でも金(メダル)」という言葉と共に臨んだ。準決勝で北朝鮮のチャ・ヒョンヒャンにやや苦戦したものの3-0の判定で破り、決勝ではロシアのリュボフ・ブルレトワを開始38秒の内股一本で破り、自身初のオリンピック金メダルを獲得し嬉し涙を流した。また初のオリンピック金メダル獲得を「ようやく初恋の人に出会えた」と表現した。
アテネオリンピックまで
12月の福岡国際では、決勝で濱野を警告で破り大会11連覇を達成した。
2001年4月の体重別では、決勝で濱野に総合勝ちして大会11連覇を達成するとともに世界選手権代表に選ばれた。
7月にミュンヘンで開催された世界選手権では、準決勝でイタリアのジュゼッピーナ・マクリを内股一本で破るも、決勝では北朝鮮のリ・キョンオクと際どい試合になったものの、2-1の判定で下して大会5連覇を達成した。
2002年4月の体重別では、初戦で土浦日大高校2年の福見友子に大内刈で効果を取られて敗れ、アトランタオリンピック決勝で敗れてから続いていた連勝記録が65でストップした。また、日本選手には1990年の体重別準決勝で江崎に敗れて以来12年ぶりに敗れ、これによって対日本選手の連勝は98、国内で開催された大会での連勝記録は121でストップすることとなった。
12月には2年ぶりに福岡国際に出場して、準決勝では体重別で敗れた福見から効果を取って勝ち雪辱を果たして、決勝でもミキハウスの北田佳世から小内巻込で有効を取り、この大会12度目の優勝を飾った。
2003年4月の体重別では準決勝で福見に小外刈で一本勝ちして、決勝でも北田から背負投で有効を取って優勝を果たし、世界選手権代表に選ばれた。
9月に大阪で開催された世界選手権では、準決勝で中国の高峰からポイントを取っても攻め続けラスト1秒の背負投で一本勝ちし、決勝でもジョシネに指導3で優勢勝ちして大会6連覇を達成した。
2003年12月1日には、プロ野球選手の谷佳知と結婚。同年12月20日に結婚披露宴を行い、日本テレビで生中継された。
2004年4月の体重別では、準決勝で藤村女子高校3年の山岸絵美を払腰一本で破ると、決勝でも北田から指導2を取って優勝を果たしてオリンピック代表に選出された。
新たに「谷亮子」として臨んだ8月のアテネオリンピックでは、夫で同じくアテネオリンピック日本代表選手である谷佳知をはじめ多くの人々による応援の中、足を事前に痛めたことも報道されたが一本勝ちで決勝まで勝ち上がった。さらに決勝ではジョシネから大内刈で技ありを取り優勢勝ちを果たして、オリンピック2大会連続の金メダルを獲得した。女子競技における日本選手のオリンピック連覇は初めてのことであった。試合後のインタビューでは「シドニーの時よりも何倍も嬉しいです」と涙を流した。
北京オリンピックまで
2005年4月の体重別では準決勝で福見に内股すかしで一本勝ち、決勝では北田に指導1で勝って世界選手権代表に選出されるが、GSに入って僅か27秒で守りに入っていたわけでもない北田のみに指導が与えられた点は疑問の残る裁定と報じる向きもあった[25]。
しかし妊娠のため7連覇のかかっていた世界選手権は欠場する(北田が代役出場)。 そして12月31日には長男を出産した。
復帰後初の大会である2007年4月の体重別では、準決勝で山岸から効果を取って勝つが、決勝では福見に出足払で有効を取られて敗れた。 しかし、ここ2年間ではこの大会しか出場していなかったにもかかわらず、過去の実績が考慮されて世界選手権代表に選出された[26]。 9月にリオデジャネイロで開催された世界選手権では、3回戦でジョシネ、準々決勝で中国の呉樹根に対してGSまでもつれこむがそれぞれ効果と指導1を取って下し、準決勝でルーマニアのアリナ・ドゥミトルから大外刈で技ありを取り、決勝でキューバのヤネト・ベルモイが朽木倒にきたところを払腰で切り返して有効を取って優勢勝ちし、2大会ぶり7度目の優勝を飾った。
2008年には北京オリンピックへの出場の意欲を見せ、4月には選抜体重別に出場。準決勝で山梨学院大学2年の浅見八瑠奈を指導1で破ったのち、決勝戦で山岸絵美相手に先に送足払で効果を取るものの、その後、巴投と大外返で有効2つを取られて逆転負けを喫したが、これまでの実績からオリンピック代表に選ばれた[27][28][29][30]。
夏季大会は5大会連続出場という、日本選手の最多連続記録を更新して臨んだ8月の北京オリンピック柔道競技では柔道競技初日に登場し、予選の3試合とも優勢勝ちで準決勝に進んだ。準決勝でドゥミトルに技を掛けることができず、警告のポイントを取られて敗れ、決勝進出及びオリンピック3連覇(金メダル)はならなかった。3位決定戦でロシアのリュドミラ・ボグダノワに一本勝ちを収め、銅メダルを獲得した。
代表選手選考を巡って
2007年4月8日に福岡国際センターで開催された、リオデジャネイロ世界選手権の代表選手選考をも兼ねた選抜体重別の決勝において、谷亮子は筑波大学の福見友子に出足払で有効を取られて敗れた。大会後の強化委員会では48kg級の代表選考を巡って約2時間にも渡って紛糾した。結果として、ここ2年間国内外の大会に出場していなかったものの、過去の実績を考慮されて谷が代表に選ばれた。この点について強化委員長の吉村和郎は、「ただ世界選手権に出るだけでいいなら、若手を出す。しかし、目指すのはあくまでも金メダル。それを考えると谷のほうが金メダルに近い。われわれの選考を信じてほしい」と選考理由を述べた[31]。また、吉村は大会3ヶ月前のインタビューで、「若手3人(福見友子、三井住友海上の山岸絵美、渋谷教育学園渋谷高校の中村美里)の力ではまだ谷に追い付き追い越すのは難しい。例え谷に勝ったとしても、彼女たちが世界で戦えるのかという話になる。やはり大方の見方では(代表は)谷になるだろう」とも語っていた[32]。
勝利しながらも代表に選ばれなかった福見は、「悔しいけどコーチの方々がそう判断したのなら仕方ない」と語った。また、強化委員の1人であり、筑波大学で福見を指導していた山口香は、「(強化委員による)多数決なら(代表選出は)微妙だった。トータルではまだ認められない部分がある、と本人に伝えます」とコメントした。しかし、山口はこの代表選考にどうしても納得がいかず、スポーツ仲裁裁判所に提訴することも考えていたという[33][34]。一方、谷は後のインタビューで、「確かに彼女(福見)は国際大会で活躍していましたけど、私にはそれまでに積み上げてきた実績がありました。なんというのかな、当時の国内大会では、優勝する選手というのが毎年異なっていた。福見選手は、翌年の北京五輪予選でも結局決勝まで残れなかった。世界を相手に戦うという点においては安定感が兼ね備わっていなかった。だから、リオデジャネイロ世界選手権も北京五輪も代表には私が選ばれたのではないでしょうか。」との見解を示した[35]。
外部からこの選考を批判する声も少なくなかったが、当時、雑誌近代柔道の編集長を務めていた桐生邦雄は、今大会が「代表選手選考最終選考会」とテレビや新聞で喧伝されていたことから、一般人のみならず、柔道に詳しくないマスコミ関係者にも、今大会で勝った選手が代表に選ばれるという先入観を持たせてしまったのが問題であると指摘した。続けて、強化委員会は代表選考にあたっては、今大会を始め、講道館杯や冬季ヨーロッパ遠征における国際大会など選考対象となる大会をあらかじめ指定しており、今大会の結果のみで代表を決めるという申し合わせはしていない。加えて、指定された大会の成績以外に「これまでの実績」も加味された上で総合的に判断して代表を決定するという基準を設けている以上、今回の代表選考も特に問題はないとの見解を示した。さらに続けて、柔道の選考方法は外部からは非常に理解されにくいものの、対人競技である関係上、陸上競技や競泳などと違って客観的な記録を基準にした選考方法を採用できない側面を有している。しかしながら、誤解をできるだけ招かないように改善する余地は残っているとも付け加えた[36][31]。
2008年4月6日に福岡国際センターで開催された、北京オリンピックの代表選手選考をも兼ねた選抜体重別の決勝において、谷は三井住友海上の山岸絵美と対戦して、先に送足払で効果を取ってリードしながら、 巴投と大外返で有効2つを取り返されて逆転負けを喫した。しかし、昨年の世界選手権で優勝した実績なども踏まえて谷が代表に選出された。強化委員長の吉村は、「谷はディフェンスがよく、ディフェンスからのカウンターも狙える試合巧者。これは他の選手と比べて際立っているという判断で代表に選出した。決勝で敗れたが、コーチ陣の見解は、『ここは谷』で一致した」と選出理由を説明した[37]。
一方、谷が2年連続決勝で敗れながらも代表に選出されたことから、昨年同様に物議を醸し出すことになり、世間からはもっと透明性のある選考を望む声が噴出した。強化委員の山口は、世間も納得する明確な選考方法として、ポイント制度の導入を提案した。各大会の付与ポイントをあらかじめ公表しておけば、選考レースは一般人にも一目瞭然となり、誤解が減る結果につながる。「今回が、国内で代表を選べる最後になるかも。最終選考会で勝てない代表を、五輪で勝たせることができるのか。それは強化体制の問題」と山口は語った[38][39]。また、柔道サイト eJudoは、「全柔連は選抜体重別を数ある選考大会のうちの一つと位置づけているが、その一方で最終選考会という冠をも付けている。そうである以上は、この大会で敗れた選手を選考することに世間は決して納得しないだろう。にもかかわらず、わざわざ誤解を招く要素を声高に宣伝していることに、選手第一ではない外部の事情が垣間見みえる」とも指摘した[40](なお、国際柔道連盟は2009年から世界ランキング制度を本格的に導入して、各階級における選手間の序列を明確化した。このランキングに基づいて、オリンピックの出場資格を得られる選手や国際柔道連盟主催の国際大会におけるシード選手を決定することになった。また、女子柔道強化選手による暴力告発問題を受けて、2014年からは国内でもポイント制度を導入することが決まった。しかし、このポイント制度は「あくまで参考とする一つの指標」であって、最終的には強化委員会の判断によって代表選手が選考されるとしている)[41][42][43][44]。
柔道スタイル
身長146cmと小柄なこともあり、もともとは背負い投げ、そして小内刈、大内刈などを得意技としていた。しかし、背負いが警戒されることをうけ、他の技も習得し頻繁に出すようになった。大外刈、内股、体落、掬い投げ、肩車、小外刈と多彩で、この技の多さが一つの武器となっており、近年では背負い以外の技で勝つことが多い。
駆け引きがうまく、試合の組み立ても秀逸である。組み手に強く、相手にいいところを取られたら瞬時に技を掛けながら外すなど、危機管理能力が桁外れに高い選手である。判定で負けることはまずない。組み際や相手が立ち上がろうと油断した瞬間を逃さない。女子コーチでもあった古賀稔彦は「こんな選手は2度と出てこない」と最大の賛辞を贈っている。今までに負けた試合は10試合ほどであり、寝技ではジュニア時代に3回一本負けを喫したことがあるが、立ち技では一度もない。
オリンピック及び世界選手権では計9度も優勝しているが、オール一本勝ちで優勝したことは一度もない。しかしそれは一本勝ちが少なかったことを意味するものでは必ずしもなく、大阪世界選手権とアテネオリンピックでは1試合を除いて全て一本勝ちで優勝、さらに他の世界大会でも1試合しか一本勝ちができなかったリオデジャネイロ世界選手権を除けば、どの大会も過半数で一本勝ちを収めている。
今の外国女子柔道はタックル(朽木倒)が多くなり、日本人選手が負ける要因のひとつとなっているが、谷はこれに対処することが上手く、相手のタックルを避けることが出来る。
また、国内でも10年近く無敗を誇っていたが、出産によるブランクの影響と年齢による動きの衰えも見られるようになっているためか、2007年の全日本選抜体重別選手権では福見友子に敗れ、翌2008年の全日本選抜体重別決勝でも山岸絵美に敗れた。
勝って当然というプレッシャーの中で、長年、モチベーションを維持して頂点に立ち続ける精神力も桁外れであり、井上康生は「どういう精神構造なのかな。ゆっくり話を聞きたい。真剣にそう思う」と評している[45]。
人物像
若い頃からインタビューの受け答えがしっかりしており、記者にも常に笑顔で対応し、感謝の言葉を忘れないなど、マスコミへのサービス精神が旺盛である。またよく「○連覇します」と自身を追い込んだ発言をし、そしてそれを有言実行し続ける強い精神力を持っている。
語録
- 「最高で金、最低でも金」シドニーオリンピック前に
- 「ヤワラちゃんでいいです」 記者に本名で呼ばなくていいのかと聞かれ
- 「谷亮子でも金」アテネオリンピック前に(結婚により姓が変わったことを受けて)
- 「柔道のことを忘れた日は一日も無かった。」(2007年3月、子育てから復帰した会見で)
- 「ママでも金」(その後、銅メダル獲得)
- 「国会議員でも金」(その後、競技生活からは引退)
エピソード
- 1996年のアトランタオリンピック日本選手団の旗手を務めた。
- 結婚式では夫婦のエピソードVTRに夫婦2人が出演するというものだった。ウェディングケーキは地球をイメージした巨大な青いものだった。柔道を始めたきっかけとなった兄は式を欠席した。
- 消しゴム版画家のナンシー関は、1995年噂の真相に連載されたコラム内で「10年後にヤワラちゃんは選挙に出ていると思う。」と予想していたが、実際には上記のとおり2010年に行われる参議院選挙に民主党から出馬して当選し、関の予想は15年越しで当たったこととなる。
- テンプレート:要出典範囲漫画がアニメ化されたのちに田村亮子(旧姓)の連戦連勝が注目されるようになり、いつしか田村が「ヤワラちゃん」と呼ばれるようになった。
- 2011年8月には国際柔道連盟から女子柔道の史上最高選手に選出された[46]。
- 2013年8月には国際柔道連盟の殿堂入りを果たすことになった[47]。
戦績
- 1986年 - 全国少年柔道大会団体戦 3位
- 1990年 - 選抜体重別 3位
- 1990年 - 全日本女子柔道強化選手選考会 優勝
- 1990年 - 2000年, 2002年 - 福岡国際(11連覇を含め、合計12度の優勝)
- 1991年 - 2001年, 2003年 - 2005年 - 選抜体重別(11連覇を含め、合計14度の優勝)
- 1991年 - 世界柔道選手権バルセロナ大会 3位
- 1991年 - 国体少年女子の部 優勝
- 1991年 - アジア柔道選手権大会 3位
- 1992年 - ドイツ国際 優勝
- 1992年 - バルセロナオリンピック 2位
- 1993年 - フランス国際 優勝
- 1993年 - 全国高校選手権 優勝
- 1993年 - 東アジア競技大会 優勝
- 1993年 - 世界柔道選手権ハミルトン大会 優勝
- 1993年 - 国体少年女子の部 優勝
- 1994年 - アジア大会 優勝
- 1994年 - 全日本女子柔道強化選手選考会 優勝
- 1995年 - ユニバーシアード 優勝
- 1995年 - 世界柔道選手権幕張大会 優勝(2連覇)
- 1996年 - アトランタオリンピック 2位
- 1997年 - ワールドカップ団体戦 3位
- 1997年 - 世界柔道選手権パリ大会 優勝(3連覇)
- 1998年 - ワールドカップ団体戦 5位
- 1998年 - 全国女子柔道体重別選手権 優勝
- 1999年 - 世界柔道選手権バーミンガム大会 優勝(4連覇)
- 2000年 - シドニーオリンピック 優勝
- 2001年 - 世界柔道選手権ミュンヘン大会 優勝(5連覇)
- 2003年 - 世界柔道選手権大阪大会 優勝(6連覇)
- 2004年 - アテネオリンピック 優勝(2連覇)
- 2007年 - 選抜体重別 2位
- 2007年 - 世界柔道選手権リオデジャネイロ大会 優勝(合計7度目の優勝)
- 2008年 - 選抜体重別 2位
- 2008年 - 北京オリンピック 3位
有力選手との対戦成績
国籍 | 選手名 | 内容 |
---|---|---|
テンプレート:Flagicon | 江崎史子 | 2勝1敗 |
テンプレート:Flagicon | 衛藤裕美子 | 4勝1敗(うち1戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | 長井淳子 | 10勝 |
テンプレート:Flagicon | 真壁友枝 | 4勝(うち1戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | 北田佳世 | 4勝 |
テンプレート:Flagicon | 福見友子 | 3勝2敗(うち2戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | 山岸絵美 | 3勝1敗(うち1戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | 浅見八瑠奈 | 1勝 |
テンプレート:Flagicon | カレン・ブリッグス | 2勝1敗(うち2戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | セシル・ノバック | 1敗 |
テンプレート:Flagicon | フレデリク・ジョシネ | 7勝 |
テンプレート:Flagicon | 李愛月 | 6勝(うち3戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | 湯礼紅 | 2勝1敗(うち1戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | アマリリス・サボン | 12勝(うち4戦1本勝ち) |
テンプレート:Flagicon | ケー・スンヒ | 1敗 |
テンプレート:Flagicon | アリナ・ドゥミトル | 3勝1敗(うち2戦1本勝ち) |
(参考資料:ベースボールマガジン社発行の近代柔道バックナンバー、JudoInside.com等)。
受賞
- 1993年度JOCスポーツ賞優秀賞
- 1995年度JOCスポーツ賞最優秀賞
- 2000年10月3日 銀杯一組(菊紋)
- 2000年11月6日 内閣総理大臣顕彰
- 2000年度JOCスポーツ賞特別栄誉賞
- 2002年度JOCスポーツ賞特別貢献賞
- 2003年11月3日 紫綬褒章
- 2004年11月3日 紫綬褒章飾版
- 2007年11月3日 紫綬褒章飾版
谷亮子をモチーフとした作品
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:リダイレクトの所属カテゴリ テンプレート:柔道競技オリンピック金メダリスト女子超軽量級
テンプレート:Japan-politician-stub- ↑ 過去には橋本聖子が1995年に参院選に当選し、1996年にアトランタオリンピックの自転車競技に出場した例がある
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite newsテンプレート:リンク切れ
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 小沢氏ら衆院37人を除名処分へテンプレート:リンク切れ - 中日新聞 2012年7月3日
- ↑ 2012年(平成24年)10月17日総務省告示第369号「政党助成法第五条第三項の規定による政党の届出事項の異動の届出があったので公表する件」
- ↑ 新党の参加議員 - 時事ドットコム 2012年7月11日
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ 全柔連、執行部総辞職へ=女性理事は谷、田辺、北田氏ら 時事通信 2013年6月24日
- ↑ 全柔連:夢や希望を持てる体制に 初の女性理事3人が会見 毎日新聞 2013年6月25日
- ↑ 谷亮子氏「健全な体制を」 日刊スポーツ 2013年6月26日
- ↑ テンプレート:Ja icon テンプレート:Cite web
- ↑ 15.0 15.1 15.2 「初恋金メダル 田村亮子 栄光への道」 西日本新聞社 ISBN 4-8167-0509-0
- ↑ 福岡県/田村選手「金」県民も感動 麻生知事「何か賞を…」 西日本新聞 2000年9月17日
- ↑ 「全国少年柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1986年6月号、31-33頁
- ↑ 「全日本女子柔道強化選手選考会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1990年12月号、41項
- ↑ 「第8回福岡国際女子柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年2月号、37項
- ↑ 「全日本女子柔道体重別選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1991年7月号、46頁ー47項
- ↑ 「第9回福岡国際女子柔道選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年2月号、45頁ー46項
- ↑ 「全日本女子柔道体重別選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、1992年7月号、10項
- ↑ 「SPECIAL座談会 女子」近代柔道 ベースボールマガジン社、1996年7月号、51頁ー54項
- ↑ 本来ならば柔道着は右前に着なければいけないのだが、当時のルールでは柔道着の襟を逆に羽織ってはいけない訳ではなかった。
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ テンプレート:Cite news
- ↑ 最終選考会大荒れ 谷負けたけど代表選出 スポーツニッポン 2008年4月7日
- ↑ 亮子負けても5大会連続出場 日刊スポーツ 2008年4月7日
- ↑ 谷亮子、負けても北京…5大会連続出場も不安いっぱい サンケイスポーツ 2008年4月7日
- ↑ 谷亮子「負けても北京」さあママでも金 デイリースポーツ 2008年4月7日
- ↑ 31.0 31.1 「全日本選抜体重別選手権 代表選考方法に問題はあるのか」近代柔道 ベースボールマガジン社、2007年5月号、29頁
- ↑ 「吉村和郎・全日本柔道連盟強化委員長に聞く」近代柔道 ベースボールマガジン社、2007年2月号、41頁
- ↑ 谷亮子に勝った福見友子、代表漏れに「悔しいけどコーチの方々がそう判断したのなら仕方ない」 サンケイスポーツ 2007年4月9日
- ↑ 山口香 谷亮子の五輪代表選出に憤慨し提訴考えたこともあった NEWSポストセブン 2013年2月14日
- ↑ 谷亮子 「柔道人生でライバルと思える選手はいなかった」 NEWSポストセブン 2012年6月28日
- ↑ オリンピック代表選考方法
- ↑ 「全日本選抜体重別選手権 北京五輪代表選手」近代柔道 ベースボールマガジン社、2008年5月号、31頁
- ↑ 不可解な柔道の代表選考 ライブドア 2008年4月8日
- ↑ 「最終選考会がどれだけ重みがあるのか、位置づけがわかりづらい」 代表選考見直し?山口女子強化委員、ポイント制導入提言 サンケイスポーツ 2008年4月8日
- ↑ 柔道サイト eJudo: 【eJudo's EYE】世界選手権日本男子代表発表・評
- ↑ 柔道ポイントシステムで説明会 各大会を格付けして得点化 47NEWS 2013年11月8日
- ↑ Sports and Organization Rules Edition July 2010
- ↑ IJF - Events Overview 2013-2016
- ↑ V-ENG-WRL-2013
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- ↑ 【柔道】谷亮子氏が女子「史上最高選手」…国際柔道連盟が表彰 MSN産経ニュース 2011年8月22日
- ↑ 井上康生氏と谷亮子氏がIJF殿堂入り 日刊スポーツ 2013年8月13日