茨城県立水戸第一高等学校
テンプレート:日本の高等学校 茨城県立水戸第一高等学校(いばらきけんりつ みとだいいちこうとうがっこう)は、茨城県水戸市三の丸三丁目にある県立高等学校。通称「水戸一高」(みといちこう)または「水戸一」(みといち)、水戸市周辺では「一高」(いちこう)(県内には「一高」が複数あるため)。野球応援の際には「水高」(すいこう)と称することが多いが、同じく水戸市内にある水戸工業高等学校も「すいこう」と呼ばれる。
目次
概要
茨城県内の高等学校の中では、近代の学校制度の枠内で最初に設置された伝統校[1]である。
校風は大学への進学を重視する[1]と同時に自由であり、私服通学に象徴されている(ただし、硬式野球部は学生服で登校することになっている)。政・財・官界に多くの人材を輩出する一方、建築、文学、映画、音楽、アニメやゲームといった芸術・サブカルチャー分野で活躍する人材が多いのもこの学校の特徴である。
部活動も活発で、弓道部はインターハイに出場するなど全国レベル。1992年(平成4年)には、クイズ研究同好会が全国高等学校クイズ選手権で優勝している。硬式野球部は過去3回甲子園に出場(うち2回は旧制中学時代)。創部は1891年(明治24年)で、1896年(明治29年)10月17日に宇都宮中と行った試合は旧制中学野球部同士の最初の対抗戦と言われている[2]。
敷地は水戸城の旧本丸跡地に立地しており[3]、水戸城では唯一現存する建築物である薬医門が校内に移築されている[4]。
沿革
1878年(明治11年)に茨城師範学校(現在の茨城大学教育学部)の予備学科として設置された。その後明治時代に何回かの改称を経て、1901年(明治34年)に茨城県立水戸中学校という校名になり、以後は戦後まで改称されなかった。1948年(昭和23年)に学制改革によって、改組などにより茨城県立水戸第一高等学校が成立。全日制の課程がおかれ、加えて「通信による教育」(現在の「通信制の課程」における教育)も同時に行われた。その後、1971年(昭和46年)に開校した茨城県立水戸南高等学校に通信制課程が設置されたことにともない、1975年(昭和50年)に同校の通信制は廃止された。
アクセス
- 水戸駅より徒歩約10分
教育方針
- 校是
- 「至誠一貫」 (しせいいっかん)
- 「堅忍力行」 (けんにんりょっこう)
校是は、校訓のようなものであるが、過去には校是と校訓の双方が存在し、校是と校訓は区別されている。至誠一貫は江戸幕府十五代将軍徳川慶喜に関係がある。戦前は徳川慶喜直筆の「至誠一貫」の書が存在したが、空襲で消失。
校歌
1908年(明治41年)、菊地謙二郎校長当時に制定されて以来、ほとんど改訂無しに連綿と歌い継がれている。二番が帝国主義時代の日本を連想させるため、第二次世界大戦後は自主規制で歌われず、1950年(昭和25年)ごろに一番だけが復活、二番が復活したのは、1970年(昭和45年)過ぎになってからである。
- 作詞 古賀快象
- 作曲 片岡亀雄
- 一、旭輝く日の本の
- 光栄(はえ)ある今日のそのもとは
- 義人烈士の功績(いさおし)ぞ
- 忠孝仁義の大道を
- 貫く至誠あるならば
- 天地も為に動きなん
- 二、世界にきおう列強と
- ならびて進む帝国の
- 基礎(もとい)は堅忍力行ぞ
- 花朝月夕※つかのまも
- 古人に恥じぬ心して
- ゆめ怠るな一千人
※「花朝月夕」表記のものと、「花鳥月夕」表記のものが混在している。
第二校歌
1921年(大正10年)、菊地謙二郎校長(当時)が舌禍事件から辞職をせざるを得なくなったことに反発し、生徒800余人が同盟休校(ストライキ)を敢行した。この時、4年生(旧制水戸中学)の塙義幹の作詞で作られた正義の歌が、後に正式に第二校歌として制定されることになる。当時のエリート層であった旧制中学生達が、校長の復職を求め、退学を覚悟して血判の上同盟休校を行ったことは、旧制水戸中学・水戸第一高等学校生徒の誇りであり、正義の歌は精神的なバックボーンとして永らく生徒の間で歌い継がれて来た。曲は旧制一高寮歌「都の空」の旋律を借りて歌ったと言われている。当時は5番まで歌詞が存在したが、第二校歌としては三番までになっている(現第二校歌の三番は、同盟休校時の四番と五番の折衷)。
- 作詞 塙義幹
- 作曲 旧制一高寮歌「都の空」
- 一、那珂の流れはいや早く 迷雲とざす水城の
- 巷に立てる赤族の 悲壮にさけぶ詩窖子
- 二、白玉のごと若人の 心は清きほのほなれ
- 威き男子の一生は 血潮に燃ゆる歌となる
- 三、血潮のおどりに眼を閉じて 見よその力は偉大なれ
- 立てよ水高健男児 立つべき時は今なるぞ
- 立てよ水高健男児 立つべき時は今なるぞ
部活動・同好会
運動系
- 硬式野球部
- 軟式野球部
- 陸上競技部
- 水泳部
- バスケットボール部
- バレーボール部
- 卓球部
- ソフトテニス部
- ハンドボール部
- ラグビー部
- サッカー部
- 剣道部
- テニス部
- 弓道部
- バドミントン部
- 山岳部
- ボクシング部
学校行事
学苑祭
水戸一高の文化祭。略して『苑祭』とも呼ばれる。各クラスと展示希望の有志団体(部・同好会等)が自主的に企画・運営し、お化け屋敷等のアトラクション、喫茶店等の出店、ダンスや自主製作の映画の公演などが行われる。毎年かなりの盛り上がりを見せ、来校者数は数千人にのぼる。全校を通し、来校者からの投票を最も多く集めた展示団体には「三の丸大賞」が与えられ、各学年ごとに投票数を一番多く集めたクラスには「学年大賞」、二番目に多く集めたクラスは「学年準大賞」が与えられる。どのクラスもこれらの賞を取るために躍起になる。
2007年(平成19年)までは9月の初旬に実施され、在校生は夏休みいっぱい苑祭の準備に燃える者も多かった。また当日は通常大学の夏休みと重なるため、OB・OGもかなりの人数が来校していた。そのため高校の文化祭としては相当派手なものとなっており、それだけ内容も充実していたと言える。
しかし、2007年(平成19年)10月、学苑祭の6月実施が職員会議で決定された。背景には3年生の大学受験準備への配慮があるが、「準備期間が短くなるため、学苑祭の質を維持できない」「部活動の大会等と重なるため、部活動所属者が参加できない」「大学の夏休みと重ならないため遠方の大学生OB・OGの来校が難しい」等の反対意見も根強い。2013年(平成25年)は6月下旬に実施され、65回目を数えた。かつては3日間行われていたが、現在は2日間である。
歩く会
水戸一高の名物行事となっている強歩大会。2013年(平成25年)で学苑祭と同じく65回目を数えるが、起源となる行事は戦前から行われていた。毎年10月、全校生徒が学校指定の体操着である真っ白なジャージで一昼夜かけて約70kmを歩く。コースは3コースあって毎年順繰りに行われ、ちょうど3年間で1回りするようになっている。スタート地点は学校であったり、学校付近に集合してバスで行ったりするが、どのコースもゴールは学校である。
コースにより細かい距離数は異なるが、1日目の午前にスタートし、前半約45kmは1年生からクラス順に長い列になって歩く集団歩行。各クラスはクラスのスローガンなどを書いたのぼり旗を用意し、先頭の人が持って歩く。例年のぼり旗の文句は注目を集め、一番面白いクラスは一種の尊敬を集める。途中短い休憩をはさみながら、およそ半日強をかけて深夜に休憩場所に到着すると数時間の休憩時間をとる。後半約25kmは走るも歩くも各々次第という自由歩行となるため、運動部員を始めとした脚力に自信のある者にとっては2時間強のタイムを目指すマラソン大会となり、それ以外の多くの生徒は4~7時間ほどかけてゴールにたどり着く。なお、自由歩行においてはコース途中にいくつか「関門」(軽い飲食物や休憩スペースがある)が設けられており、各関門に設定されたタイムリミットに間に合わない生徒はマイクロバスに強制収容され、ゴールの学校まで運ばれる。自由歩行の最後尾にはタイムリミットとほぼ同じペースで歩く「追い上げ隊」がおり、追い上げ隊から距離を離されるとマイクロバスに強制収容される。
完歩率(全参加者中リタイアせずにゴールできた生徒の割合)は毎年高く、天候が良好なら95%以上、雨天でも90%以上は完歩するのが通例である。なお、自由歩行での上位入賞者は表彰され、名前の掲示と記念のメダルが贈られる。例年歩く会の前の体育の授業はランニングを中心とした体力作りの授業になるが、1999年(平成11年)、体育授業中に死者を出し、歩く会(第51回)は中止となった。当時の定例生徒集会では無期中止も含め激しい議論となったが、生徒の間で存続の声も多く、翌年から再開された。
また2009年(平成21年)度は新型インフルエンザの感染者が多く、感染拡大を防ぐため中休止までしか行われなかった。
- 「夜のピクニック」
- 水戸一高OGの作家・恩田陸の著書「夜のピクニック」は、歩く会がモデルとなっている。この本は第2回本屋大賞を受賞し、歩く会が更に有名になるきっかけとなった。小説を原作とした同名映画では、近隣の市町村や水戸一高でも撮影が行われ、水戸一高など近隣の多くの高校生が白ジャージでエキストラ出演した。
三の丸音楽祭
当初は9月の学苑祭に包含されていたが後に独立し、毎年6月頃に行われていた、自由参加の音楽祭。軽音楽同好会を中心とした実行委員会による自治運営のもと、毎年20~30ほどの希望者が体育館に設置されたステージで演奏をした。参加者の音楽ジャンルはロックからラップ、歌謡曲、室内楽に至るまで様々で、教師もしばしば舞台に立った。2001年を最後に休止状態となっており、再開の目途は立っていない。
学校内の史跡・文化財
テンプレート:See also 学校敷地の北西側に移築されている水戸城薬医門は、安土桃山時代の様式で造られた水戸城の城門であり[3]、1983年(昭和58年)に茨城県指定文化財に指定されている[5]。明治以降は複数の所有者を経て移築を繰り返し[4]、現在は茨城県教育委員会が管理を行っている[5]。門に関して現存する史料は少なく、謎も多い建築物であると言われる[4]。
進路実績
例年、東北・関東圏の大学に進学する者が多い。2014年は225名が国公立大学に、754名が私立大学に合格した(浪人含む)。大学別に見ていくと地元の東北大学が46名、筑波大学が31名であった。また、都心部では東京大学が19名、慶應義塾大学が25名、早稲田大学が81名であった[6]。
著名な出身者
学界
- 五来欣造(元早稲田大学教授、読売新聞主筆、作家、政治学者)
- 深作安文(東京帝国大学教授、倫理学)
- 時野谷常三郎(京都帝国大学教授、西洋史)
- 斎藤隆三(風俗史家、文学博士)
- 牧二郎(元京都大学基礎物理学研究所所長、素粒子物理学)
- 大石泰彦(元東京大学経済学部長、厚生経済学)
- 城所仂(元順天堂大学教授、胃内視鏡の創始者の一人)
- 大平五郎(東北大学名誉教授、日本金属学会会長)
- 辻達彦(群馬大学名誉教授、公衆衛生学)
- 風祭元(元東京都立松沢病院院長、精神医学者)
- 大森健一(元獨協医科大学学長、精神病理学者)
- 海後宗臣(東京大学名誉教授、教育学者)
- 海後勝雄(埼玉大学名誉教授、教育学者)
- 栗原百寿(元拓殖大学教授、農業経済学者)
- 石井武比古(東京大学名誉教授、放射光学)
- 郡司篤晃(元東京大学、保健管理学)
- 松野太郎(東京大学名誉教授、気象学者。日本学士院賞、世界気象機関賞)
- 本島修(核融合科学研究所所長、ITER機構長)
- 谷口幸男(広島大学名誉教授、ドイツ・北欧文学)
- 初瀬龍平(神戸大学名誉教授、国際関係論)
- 篠原彰 (大阪大学蛋白質研究所教授)
- 青島貞人 (大阪大学大学院理学研究科教授)
- 川上久壽 (小樽商科大学名誉教授)
- 神原秀記 (日立製作所フェロー)
- 馬場章 (東京大学大学院情報学環教授、日本デジタルゲーム学会初代会長)
- 鳥居泰彦 (経済学者、文部科学省中央教育審議会会長、第16代慶應義塾大学塾長)
- 石川城太 (一橋大学教授)
- 山本良一(東京大学名誉教授、環境工学)
- 中島典之 (東京大学環境安全研究センター准教授)
- 櫻井明久(駒沢大学教授、地理学)
- 日高昭二(神奈川大学教授、日本近代文学)
- 藤岡貞彦(元一橋大学社会部長、教育学者)
- 後藤和子(埼玉大学教授、文化経済学)
- 平勢隆郎 (東京大学東洋文化研究所教授、中国史家)
- 桜井英治(東京大学総合文化研究科教授、日本中世史)
- 田口紀子(京都大学文学部教授、フランス文学)
- 徳宿克夫(高エネルギー加速器研究機構教授)
- 高崎宗司(津田塾大学教授、韓国問題評論家、アジア女性基金運営審議会委員長)
- 廣木詔三 (名古屋大学大学院情報科学研究科教授、創発システム論)
- ましこ・ひでのり(社会学者、中京大学教授)
- 豊田ひろ子(東京工科大学教授、言語学者)
- 鳥飼行博(中央大学教授、経済学)
- 室井尚(横浜国立大学教授、美学者)
- 菊池和徳(大阪大学教授、数学者)
- 大津秀一(緩和医療医、作家)
- 内藤淳(法政大学准教授、法哲学者)
- 元田結花(学習院大学教授、国際開発援助論)
- 赤堀三郎(社会学者、東京女子大学准教授)
- 村尾美緒(東京大学理学系研究科准教授、量子情報理論)
- 樗木俊聡(東京医科歯科大学難治疾患研究所教授)
芸術・スポーツ
- 小泉堯史 (映画監督、「博士の愛した数式」、「雨あがる」、「阿弥陀堂だより」など)
- 深作欣二 (映画監督、「仁義なき戦い」、「バトル・ロワイアル」など)
- 柳町光男 (映画監督、「火まつり」、「カミュなんて知らない」など)
- 大川俊道 (脚本家、映画監督)
- 川又昂 (映画撮影監督、小津安二郎監督の下で撮影助手、大島渚、野村芳太郎監督の作品の多くで撮影監督を務めた)
- 畑中佳樹(映画評論家、米文学者、東京学芸大学教授)
- 斉藤英治(映画評論家、米文学者、明治大学教授)
- 深町章(稲尾実)(映画監督)
- 宮崎恭一(映画・音楽プロデューサー)
- 大矢敏行 (代々木アニメーション学院創業者)
- 武藤起一(映像環境プロデューサー、NCW主催者)
- 三神真彦(映像作家、小説家)
- 大久保康雄(翻訳家、英米文学者)
- 長塚節 (中退)(歌人、小説家、正岡子規の弟子、茨城尋常中学校中退)
- 宇野喜代之介(小説家、教育者)
- 菊池幽芳(小説家)
- 渡辺啓助(推理作家)
- 渡辺温(推理作家)
- 檜山良昭(推理作家、SF作家)
- 郡司次郎正(小説家)
- 恩田陸 (小説家、「歩く会」をモデルとした小説「夜のピクニック」(新潮社)の作者、「図書室の海」は同校の図書室が舞台)
- 松崎有理(SF小説家)
- 佐々木中(中退)(思想家、作家)
- 石河幹明(ジャーナリスト、福沢諭吉研究家、時事新報主筆)
- 富田正文(作家、福沢諭吉研究家、日本学士院賞受賞)
- 伊藤正徳(ジャーナリスト、軍事評論家)
- 立花隆 (中退)(東京大学教授、ジャーナリスト、水戸一高から都立上野高校へ転校、東京大学文学部卒業)
- 徳大寺有恒 (自動車評論家)
- 室生忠(小室朗人)(宗教ジャーナリスト)
- 石井敬吉(建築家、建築史家)
- 妹島和世 (建築家、プリツカー賞受賞者)
- 八束はじめ(建築家)
- 吉原正(建築家)
- 日埜直彦(建築家)
- 金箱温春 (建築構造家)
- 河原泰則 (WDRケルン放送交響楽団首席コントラバス奏者)
- 大塚利恵 (シンガーソングライター)
- 坂口大介(プロサックス奏者)
- 小泉信彦(キーボーディスト、音楽プロデューサー)
- 佐藤俊介(作曲家)
- 木村聡(写真家、「赤線もの」で知られる)
- 木内克(彫刻家)
- 辻永(洋画家)
- 橘孝三郎 (政治運動家、思想家)
- 持丸博(政治活動家、作家)
- 古山恵理 (「ガラスの青春応援団」(かのう書房)の作者)
- 坂口博信 (ゲームクリエイター、代表作に「ファイナルファンタジーシリーズ」、「クロノ・トリガー」など)
- 松尾邦彦 (メディアアーティスト)
- 常陸山谷右エ門 (中退)(大相撲第19代横綱、旧制水戸中を中退して相撲に進む)
- 飛田穂洲 (元早稲田大学野球部監督、新聞記者、学生野球の父、名言に一球入魂)
- 石井連蔵 (元早稲田大学野球部監督)
- 玉造陽二 (元プロ野球選手、西鉄ライオンズ外野手)
- 橋本政雄 (元プロ野球選手)
- 桑名重治 (元プロ野球選手)
- 桜井薫(元プロ野球選手)
- 井上庸 (プロボクサー)
- 長谷川五郎 (オセロの考案者)
- 武石浩玻 (飛行家)
政官界・実業界その他
- 橋本昌 (茨城県知事)
- 塚原俊郎(元労相)
- 種田誠 (弁護士、元参議院議員)
- 藤田幸久 (参議院議員、民主党)
- 小林元 (前参議院議員、民主党)
- 山口那津男 (参議院議員、元衆議院議員、公明党代表)
- 高野博師 (前参議院議員、元環境副大臣、公明党)
- 下河辺淳(元国土庁事務次官、総合研究開発機構理事長)
- 西野元(大蔵次官、枢密顧問官)
- 金沢昭雄 (元警察庁長官)
- 仁平圀雄(元警視総監)
- 荷見安(農林次官、全国農業協同組合中央会会長)
- 吉岡荒造(台北州知事)
- 高久泰文(元参議院法制局長官、元拓殖大学教授)
- 沢田節蔵(外交官、駐ブラジル大使、東京外国語大学初代学長)
- 若月馥次郎(外交官、リヨン市の「若月通り」で知られる)
- 高瀬侍郎 (元外交官、元拓殖大学総長)
- 坂場三男(外交官、駐ベルギー大使)
- 滝崎成樹(外交官、官房人事課長)
- 藤田卯一郎 (松葉会初代会長)
- 栗田健男 (海軍中将)
- 谷萩那華雄(陸軍少将)
- 井川省(陸軍少佐)
- 永井八津次(陸軍少将)
- 勝山淳(海軍少佐、回天特攻の搭乗員として知られる)
- 渡辺保正 (海軍少将、第1駆逐隊司令)
- 細田徳寿(内務官僚、大分県知事)
- 小島新一 (商工次官)
- 金子義昭(大蔵官僚、東証専務理事)
- 藤田昌宏(経済産業省貿易経済協力局長)
- 村上達也(東海村村長)
- 安島昶(教育者)
- 檜山廣 (丸紅元会長)
- 川又克二 (日産自動車元社長、元会長)
- 足立吉正(JX日鉱日石金属元社長)
- 鬼澤邦夫 (常陽銀行頭取)
- 笛田昭紘 (SAIグローバルジャパン社長)
- 堀義人(グロービス・キャピタル・パートナーズ代表)
- 難波靖治(ラリードライバー、ニッサン・モータースポーツ・インターナショナル初代会長)
- 須田将啓(エニグモ代表取締役CEO)
- 新井欣弥 (鹿島建設副社長)
- 八剱洋一郎 (ウィルコム顧問)
- 篠田博之 (『創』編集長)
- 中村泰(スナイパー、各種事件に関与)
- 大藤晋司 (テレビ北海道アナウンサー)
- 太田英明 (文化放送アナウンサー)
- 宮垣聡 (弁護士、アンダーソン・毛利・友常法律事務所パートナー)
- 花井忠 (弁護士、元検事総長、元中央大学教授)