端島 (長崎県)
テンプレート:Infobox 端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。明治時代から昭和時代にかけては海底炭鉱によって栄え、東京以上の人口密度を有していたが、1974年(昭和49年)の閉山にともなって島民が島を離れてからは、無人島である。軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている[1]。
目次
地理
テンプレート:Double image stack 長崎港から南西の海上約17.5キロメートル[2]の位置にある。旧高島町の中心であり同じく炭鉱で栄えていた高島(の南端)からは南西に約2.5キロメートル[1]の距離にあり、長崎半島(野母半島)からは約4.5キロメートル離れている。端島と高島の間には「中ノ島」という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されたが、わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が公園や火葬場・墓地として使用していた。そのほか端島の南西には「三ツ瀬」という岩礁があり、端島炭鉱から坑道を延ばしてその区域の海底炭鉱でも採炭を行っていた。
端島は本来は、南北約320メートル、東西約120メートル[3]の小さな瀬であった[4]。その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる6回の埋め立て工事によって、約3倍の面積に拡張した[3][5]。その大きさは南北に約480メートル[3][5]、東西に約160メートル[3][5]で、南北に細長く、海岸線は直線的で、島全体が護岸堤防で覆われている。面積は約6.3ヘクタール[6]、海岸線の全長は約1200メートル[7]。島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設がある。
年間平均気温は15から16℃[8][9]。平均降水量は2000ミリメートル[8]、冬は比較的雨量が多い[9]。夏は南東風・南風、冬は北西風・北風が多い[9](いずれも旧高島町についてのもの)。
端島を舞台とした1949年(昭和24年)の映画『緑なき島』のタイトルにも現れているが、この島には植物がとても少なく、住民は本土から土砂を運んで屋上庭園を作り、家庭でもサボテンをはじめ観葉植物をおくところが多かった。また、主婦には生け花が人気であったという。西山夘三も草木はほとんどないと述べているが、これについては誇張的という指摘がある[10]。閉山後の調査では二十数項目の植物が確認されており、特にオニヤブマオ(イラクサ科)、ボタンボウフウ(セリ科)、ハマススキ(イネ科)の3種が端島の主な植物として挙げられている[10]。
歴史
19世紀まで
端島の名がいつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明だが、『正保国絵図』には「はしの島」、『元禄国絵図』には「端島」と記されている[11]。『天保国絵図』にも「端島」とある[12]。
端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)[13][14][15]が、『佐嘉領より到来之細書答覚』によると、1760年(宝暦10年)に佐賀藩深堀領の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)が端島・中ノ島・下二子島(のちに、埋め立てにより高島の一部となる)・三ツ瀬の領有をめぐって争いになり[16]、その際に両者とも「以前から自分達の村で葛根掘り、茅刈り、野焼き、採炭を行ってきた」と主張[16]、特に後者は「四拾年余以前」に野母村の鍛冶屋勘兵衛が見つけ、高浜村とともに採掘し、長崎の稲佐で売り歩いていたと述べている[16][11]。なお当時は幕府領では『初島』と、佐賀領では『端島』と書いていたようである(『佐嘉領より到来之細書答覚』『安永二年境界取掟書』『長崎代官記録集』)[11]。
このように石炭発見の時期ははっきりしないが、いずれにせよ江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度であった[13]。1869年(明治2年)には長崎の業者が採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続いた3社も1年から3年ほどで、大風による被害のために廃業に追い込まれた[17]。36メートルの竪坑が無事に完成したのは1886年(明治19年)のことで、これが第一竪坑である[17]。
1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[18]。端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。譲渡後は第二竪坑と第三竪坑の開鑿もあって[19]端島炭鉱の出炭量は高島炭鉱を抜く(1897年)[19]までに成長した。この頃には社船「夕顔丸」の就航、蒸留水機設置にともなう飲料水供給開始(1891年)、社立の尋常小学校の設立(1893年)など基本的な居住環境が整備されるとともに、島の周囲が段階的に埋め立てられた(1897年から1931年)。
20世紀
1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設された。この年には大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道[20]しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいる[20][14]ことから、「軍艦島」の通称は大正時代ごろから用いられるようになったとみられる。ただし、この頃はまだ鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく(30号棟と日給社宅のみ)、大半は木造の平屋か2階建てであった。
大正期から朝鮮人労働者が増え、第二次世界大戦中には徴用と吉田飯場(朝鮮人の吉田が経営する飯場)を合わせて500人から600人ほど、自由渡航で来た所帯持ちの朝鮮人労働者も80人ほど働いていた[21]。中国人労働者も、1944年(昭和19年)に204人が徴用されてきた[21]。給料や食事、休日などの虚偽の好条件で騙されてやってきた労働者が多く[22]、劣悪な環境に耐えられず「島抜け」(泳いで島を脱出すること)や自殺をする者もおり[23]、日本人の場合は自殺(縊死)が多かったのに対して、朝鮮人の場合は島抜けを試みる者が多かった[23]。ただし、実際に「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、警察や監視する職員に捕まって連れ戻され、見せしめに拷問された[23]。野母半島の住民は、端島や高島から労働者たちが命懸けで逃げ出してくるのを見て、それらを「監獄島」と呼んだ[24]。端島炭鉱から後に長崎市内の造船所へと移された朝鮮人労働者によると、同じ三菱の経営ながら造船所では危険な仕事もなく十分な食事が与えられ、端島炭鉱とは「天と地の差」であったという[25]。朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容され、作業現場も交代時間も重ならないようにされた[21]。
1945年(昭和20年)6月11日にアメリカの潜水艦「ティランテ」が、停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈したが、このことは「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になった[26]。
端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[27]。人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、人口密度は83600人/km²と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[28]。炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。
1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。閉山時に約2000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、端島は無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続いた[29]。
閉山後
近代化遺産として、また大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されている。廃墟ブームの一環でもしばしば話題に上る[30]。無人化以来、建物の崩壊が進んでいる[31]。ただし外壁の崩壊箇所については、一部コンクリートで修復が行われている。
島は三菱マテリアルが所有していたが、2001年(平成13年)、高島町(当時)に無償譲渡された[32][33]。所有権は、2005年(平成17年)に高島町が長崎市に編入されたことに伴い、長崎市に継承された。建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、島内への立ち入りは長らく禁止されていた。2005年(平成17年)8月23日、報道関係者限定で特別に上陸が許可され、荒廃が進む島内各所の様子が各メディアで紹介された[34][35]。島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決され、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことで、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった(条例により、見学施設以外は島内全域が立入禁止[36])。解禁後の1か月で4,601人が端島に上陸した[37]。その後も、半年間で34,445人[38]、1年間で59,000人[39]、3年間で275,000人[40]と好調である。なお、上陸のためには風や波などの安全基準を満たしていることが条件になっており、長崎市は上陸できる日数を年間100日程度と見込んでいる[37]。軍艦島上陸ツアーによる経済波及効果は65億円に上る[40]。
一部で世界遺産への登録運動が行われ、2006年8月には経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を地域の観光資源としていかしてもらおうと、世界遺産への登録を支援することを決定した。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されることが決まり[41]、2009年(平成21年)1月に記載された。
長崎市の協力のもと、立入禁止区域や屋内を含む島内全域を撮影した端島のGoogle ストリートビューが、2013年6月28日に公開された[42]。
長崎市は2014年1月から5月にかけて長崎大学インフラ長寿命化センターに委託し島の3次元データでの記録化を行う方針である[43]。
人口の推移
1920年(大正9年) | ファイル:B100.pngファイル:B50.pngファイル:B10.pngファイル:B03.pngファイル:B01.png 3,271 | 国勢調査による推計人口 |
---|---|---|
1925年(大正14年) | ファイル:B100.pngファイル:B30.pngファイル:B05.pngファイル:B03.png 2,750 | |
1930年(昭和5年) | ファイル:B100.pngファイル:B50.pngファイル:B10.pngファイル:B05.png 3,290 | |
1935年(昭和10年) | ファイル:B100.pngファイル:B50.pngファイル:B10.pngファイル:B01.pngファイル:B01.png 3,231 | |
1940年(昭和15年) | ファイル:B100.pngファイル:B50.pngファイル:B10.pngファイル:B05.pngファイル:B01.pngファイル:B01.png 3,333 | |
1945年(昭和20年) | ファイル:B50.pngファイル:B30.pngファイル:B03.png 1,656 | |
ファイル:B100.pngファイル:B100.pngファイル:B01.png 4,022 | 高島町端島支所による人口 | |
1950年(昭和25年) | ファイル:B100.pngファイル:B100.pngファイル:B30.png 4,600 | |
1955年(昭和30年) | ファイル:B100.pngファイル:B100.pngファイル:B30.pngファイル:B05.pngファイル:B01.pngファイル:B01.png 4,738 | |
1960年(昭和35年) | ファイル:B100.pngファイル:B100.pngファイル:B50.pngファイル:B05.pngファイル:B03.png 5,151 | |
1965年(昭和40年) | ファイル:B100.pngファイル:B50.pngファイル:B10.pngファイル:B10.png 3,391 | |
1970年(昭和45年) | ファイル:B100.pngファイル:B50.png | |
1973年(昭和48年) | ファイル:B100.pngファイル:B05.pngファイル:B03.png 2,150 | |
1975年(昭和50年) | 0 |
行政区域の変遷
江戸時代は幕府領の彼杵郡高浜村に属していた[11][45]。ただし前述のように境界をめぐる争論があり、1773年(安永2年)に「幕府領・佐賀領とも端島に干渉しない」とされ、帰属先は定められていない[16]。1889年(明治22年)4月1日の町村制施行により西彼杵郡高浜村端島名となる。1955年(昭和30年)4月1日に高浜村が野母村・脇岬村・樺島村と合併して野母崎町(現・長崎市)となった際、端島は高浜村から分離し、高島町に編入された。2005年(平成17年)1月4日に高島町が長崎市に編入され、長崎市高島町字端島[36][46]となる。
島内の建築物
端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった同潤会アパートより古いものがいくつか含まれている。7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートである[47](ただし1916年の竣工時は4階建て)。
30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような日給社宅(16号棟から20号棟、1918年)など、次々に高層アパートが建設された。第二次世界大戦前頃、国内では物資が不足し統制が行われ、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったが、この島では例外的に建設が続けられ、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅である。なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたため[48]であり、鉱長や幹部職員などのための高級住宅は木造であった[48]。
高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあった。また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われたという。
どの建物にも人員用エレベーターは設置されておらず[49](1945年建設の65号棟に計画されたが、資金不足で結局設置されなかった。なお小中学校には、閉山までのごく短い期間、給食用エレベーターが設置された)、また個別の浴室設備(内風呂)を備えるのは鉱長社宅の5号棟(1950年)および幹部職員用アパートの3号棟(1959年)、職員用集会宿泊施設の7号棟(1953年)、そして島内唯一の旅館「清風荘」だけであった。トイレも多くが落下式であった[50]が、閉山時には半数ほどの住宅で水洗式が導入されていた。炊事場は閉山まで共同のところが多かった。
岩山の南端、貯水槽の隣に灯台があるが、これは閉山によって夜間の島の明かりが無くなったため、その翌年(1975年)に建てられた[51]もので、正式名称は『肥前端島灯台』[51]。灯台は、1998年に強化プラスチック製の「2代目」に建て替えられた[51]。
木造や鉄骨造で建設された建物は、元から荒波に晒され続けた(酷い時には島全体を波が覆う事すらあった)上に、風雨のほか、防水技術の問題[52]や無人化によって維持管理がなされなくなったこと[52]から急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものが多い。なお、潮害対策として、建物外部に鉄製の部品が用いられることはほとんどなかった。鉄筋コンクリート造の場合も、その技術が未熟な時期のものも多く、配筋計画の問題[52]のほか、建材の入手難から海砂を混ぜていたこと[52]もあり劣化が進んでいる。56・57号棟に設けられたキャンチレバー(張り出しベランダ)は、その設計に不備があったため亀裂が入り、鉄パイプの支柱で補強されていた[52]が、閉山後その支柱も消失し、キャンチレバーが崩落するのは『時間の問題』とみられる[52]。70号棟(小中学校校舎)は波で土台の土が浚われ基礎杭が剥き出しになっている。30号棟を筆頭に古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊される事無く手付かずのまま放棄されているため、建築工学の観点からも経年劣化などの貴重な資料として注目されている。
建造物(住宅等)の一覧
「建設年代」は、大正時代を赤、昭和(戦前・戦中)を緑、昭和(戦後)を青で色分けしている。「構造・階数」の背景色は木造を赤、鉄筋コンクリート造(RC造)を青、その他を緑とし、「建物用途」は上記の図に同じ。
建物名 | 建設年代 | 構造・階数 | 建物用途 | 住居戸数・増築歴・内部の公共施設・倒壊の有無 |
---|---|---|---|---|
テンプレート:Display none1号棟 | 1936年 (昭和11年) |
RC+木造1F | 端島神社 | 拝殿は木造(全壊)、本殿と境内はRC造(現存) |
テンプレート:Display none2号棟 | 1950年 (昭和25年) |
RC造3F | 職員社宅 | テンプレート:Display none9戸 |
テンプレート:Display none3号棟 | 1959年 (昭和34年) |
RC造4F | 職員社宅 | テンプレート:Display none20戸。幹部用。内風呂あり(集合住宅では3号棟のみ) |
テンプレート:Display none5号棟 | 1950年 (昭和25年) |
木造2F | 鉱長社宅 | テンプレート:Display none1戸。内風呂あり。ほぼ全壊 |
テンプレート:Display none6号棟 | 1936年 (昭和11年) |
木造2F | 職員単身寮 | 全壊 |
テンプレート:Display none7号棟 | 1953年 (昭和28年) |
木造2F | 職員クラブハウス | ほぼ全壊 |
テンプレート:Display none8号棟 | 1919年 (大正8年) |
RC+木造3F | 職員社宅 | テンプレート:Display none4戸。1階に共同浴場 |
12号棟 | 1925年以前 (大正14年) |
木造+鉄筋3F | 職員社宅 | テンプレート:Display none3戸。半壊 |
13号棟 | 1967年 (昭和42年) |
RC造4F | 町営住宅 (教職員用) |
テンプレート:Display none12戸 |
14号棟 | 1941年 (昭和16年) |
RC造5F | 職員社宅 (中央住宅) |
テンプレート:Display none15戸 |
16号棟 | 1918年 (大正7年) |
RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) |
テンプレート:Display none66戸。1階に外勤詰所 |
17号棟 | 1918年 (大正7年) |
RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) |
テンプレート:Display none54戸。屋上に簡易遊園地 |
18号棟 | 1918年 (大正7年) |
RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) |
テンプレート:Display none50戸。屋上に農園 |
19号棟 | 1918年 (大正7年) |
RC造9F | 鉱員社宅 (日給社宅) |
テンプレート:Display none45戸。屋上に弓道場 |
20号棟 | 1918年 (大正7年) |
RC造7F | 鉱員社宅 (日給社宅) |
テンプレート:Display none26戸 |
21号棟 | 1954年 (昭和29年) |
RC造5F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none15戸。1階に警察派出所 |
22号棟 | 1953年 (昭和28年) |
RC造5F | カモメ荘 (町営住宅・公務員用) |
テンプレート:Display none12戸。1階に老人クラブ。2階に町役場端島支所 |
23号棟 | 1921年 (大正10年) |
木造2F | 寺院(泉福寺) | テンプレート:Display none6戸。1階は社宅、2階が泉福寺。ほぼ全壊 |
25号棟 | 1931年 (昭和6年) |
RC造5F | 職員社宅 | テンプレート:Display none6戸。2階に宿泊所。スナック「白水苑」・旅館「清風荘」も |
26号棟 | 1966年 (昭和41年) |
プレハブ2F | 下請作業員飯場 (旧船頭小屋) |
テンプレート:Display none8戸。全壊 |
30号棟 | 1916年 (大正5年) |
RC造7F | 下請飯場 (旧鉱員社宅) |
テンプレート:Display none140戸。竣工時は4階建て(その後まもなく7階建てに増築)。日本最古のRC造アパート |
31号棟 | 1957年 (昭和32年) |
RC造6F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none51戸。1階に端島郵便局、地下に共同浴場。2階部分をボタ捨てベルトコンベアが貫通 |
39号棟 | 1964年 (昭和39年) |
RC造3F | 町立端島公民館 | |
48号棟 | 1955年 (昭和30年) |
RC造5F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none20戸。地下にパチンコ屋・雀荘など |
50号棟 | 1927年 (昭和2年) |
テンプレート:Nowrap | 映画館 (昭和館) |
閉山までの数年間は卓球場。1991年の台風によりほぼ全壊 |
51号棟 | 1961年 (昭和36年) |
RC造8F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none40戸。地階に個人商店 |
56号棟 | 1939年 (昭和14年) |
RC造3F | 職員社宅 | テンプレート:Display none6戸 |
57号棟 | 1939年 (昭和14年) |
RC造4F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none8戸。地下にピロティ商店 |
59号棟 | 1953年 (昭和28年) |
RC造5F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(60号棟地下と連結) |
60号棟 | 1953年 (昭和28年) |
RC造5F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に生協の購買所(59号棟地下と連結) |
61号棟 | 1953年 (昭和28年) |
RC造5F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none17戸。昭和40年代、屋上にプレハブ1階分を増築。地下に共同浴場 |
65号棟 | 1945年 (昭和20年) |
RC造9F | 鉱員社宅 | テンプレート:Display none317戸。竣工時は北側の棟のみ、7F建て(1947年から1958年にかけて増築)。屋上に幼稚園。端島で最大のアパート |
66号棟 | 1940年 (昭和15年) |
RC造4F | 鉱員合宿 (啓明寮) |
|
67号棟 | 1950年 (昭和25年) |
RC造4F | 鉱員合宿 (単身寮) |
テンプレート:Display none48戸 |
68号棟 | 1958年 (昭和33年) |
RC造2F | 高島鉱業所端島病院(隔離病棟) | |
69号棟 | 1958年 (昭和33年) |
RC造4F | 高島鉱業所端島病院 | |
70号棟 | 1958年 (昭和33年) |
RC造7F | 町立端島小中学校 | 1961年に7階部分を増築(鉄骨) |
71号棟 | 1970年 (昭和45年) |
RC造2F | 町立端島小中学校体育館 | 1階が武道場・給食室、2階が体育館 |
ちどり荘 | 1958年以降 テンプレート:Nowrap |
木造2F[53] | 教員用住宅 | テンプレート:Display none6戸。RC造2Fとする資料も[54] |
30号棟
30号棟は、1916年(大正5年)に建設された日本初の鉄筋コンクリート造アパートである[55][56](日本初の鉄筋コンクリート造「高層」アパートとも)。当初は4階建てであったが、完成後まもなく7階建てに増築されている。島の南西部、岩山の南端の山麓に位置する。中央に吹き抜けをもち、上から見るとほぼ正方形に近い「ロの字形」をした建物である[57]。吹き抜けの周りを囲むようにロの字形の廊下があり、階段も吹き抜けに面している[57]。その周囲に巴形に住居が配置されている[57]。鉱員社宅として建てられたが、閉山時には下請飯場として用いられていた。7階建てだが部分的に地階もあり[57]、閉山時は売店が入っていた。戸数は140戸[57]、総床面積は3808.0平方メートル[57]。基本的な階の構造は、1K(6畳)が19戸と1K(4畳)が1戸と共同トイレ[57]。25号棟・26号棟・緑道(山通り)とは通路で繋がっている[57]。建物の南東側には、船着場に直通のトンネルの出口がある[57]。当時はまだ技術的に未熟であり、また材料や環境の悪さゆえ、最初に造られた下層階の劣化が速かったため、1953年(昭和28年)、上層階をそのままに下層階の鉄筋を取り替え、コンクリートを打ち直して改築している[58]。
日給社宅
日給社宅とは、1918年(大正7年)に建設された鉱員社宅、16号棟から20号棟の通称である。「日給社宅」という名前は、当時の鉱員が日給制だったことによる(職員は当時から月給制だった)[59]。30号棟に続いて建てられた、島内でも特に古い住宅である。同じ向きに並んだ各棟の西側(海側)が「防潮大廊下」と呼ばれる連絡通路で繋がっており、全ての階が一体となっている。地下には店舗が、屋上には公園や農園があった。トイレは各棟の大廊下側に共同トイレが設置されていた。この住宅の特徴は、大廊下があったこともあって、戸外床面積の割合が約4割も占めていたことである(同時期の同潤会アパートや戦後の公団住宅では最大で2割ほど)[60]。
65号棟
65号棟は鉄筋コンクリート造の鉱員社宅で、端島で最大のアパートでもある[61]。コの字型をしており、最初に建設された北側の7階建て『報国寮』は、第二次世界大戦中にも関わらず建設が進められ1945年(昭和20年)に完成した[62]。その後8階・9階部分を増築(1947年)、東側を9階建てで増築(1949年)、東側に10階部分(屋上保育園)を増築(1953年)、南側を10階建てで増築(1958年)と、段階的に拡張している[62]。最終的には317戸、総床面積16895.5平方メートル(屋上・地下含む)[57]となった。計画時は北側の棟にエレベーターが設置される予定だったが、中止となりそのスペースは住居に転用された。上層階には、1941年完成の中央住宅(14号棟)で本格的に採用されたカンチレバー(張り出しベランダ)が設けられている[61]。基本的な部屋の構造は2K(6畳2間)。4階と7階には緑道(山通り)への連絡通路が[62]、地下1階には理容室がある[57]。
1958年(昭和33年)に完成した南側の棟は「新65号」と呼ばれていた[63]。端島では最も高い建物(10階建て)で、各戸に水洗式のトイレが完備されていた(北側・東側の棟は共同トイレ)。
その他の建築物
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端島の西側には鉱員のための集合住宅が立ち並ぶ。手前右から48号棟、51号棟、日給社宅(16号棟など)、59号棟、60号棟、61号棟、66号棟
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同じく端島西側。中央は手前から48号棟、14号棟、3号棟、左は51号棟、右は手前から39号棟、13号棟
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7階建ての端島小中学校(70号棟)
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木造建築物は大半が風雨により倒壊している。
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炭鉱関連施設には閉山時に破壊されたものが多い。
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1962年に完成した3代目のドルフィン桟橋。初代は完成後2年目に台風で流失、2代目も完成翌年の台風で破損した。
交通アクセス
端島には飛行場がなく、また別の陸地とをつなぐ橋梁もないため、端島へ至る交通機関は船舶に限られる。
かつては三菱が社船「夕顔丸」を運航していた(1962年まで)ほか、野母商船が長崎港より、伊王島、高島を経由して端島に至る航路を運行していた。1970年の時点では1日12往復、長崎までの所要時間は50分であった。
これらの航路は島の無人化により廃止され現存しないが、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、島の周囲を巡る遊覧船が長崎港などから運航されるようになった。上陸は禁止されていたが、それでも上陸を試みる無法者は多く[33][64]、その場合は海上タクシーなどが利用されていた。
長崎市の「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」により、見学可能エリアは一部に限られるものの、2009年4月22日から観光客が上陸・見学できるようになった。旅行会社や海運会社が上陸ツアーを行っている。軍艦島コンシェルジュ、 やまさ海運や、高島海上交通の上陸ツアー(長崎港→端島→長崎港)の場合、料金は(長崎市に払う施設使用料込みで)大人が4,300円。2010年8月には伊王島からの上陸ツアーも開始された。
ただし悪天候の場合、すなわち風速が秒速5メートル超、波高が0.5メートル超、視程が500メートル以下のいずれかに該当する場合には、ドルフィン桟橋が利用できず上陸できない。そのような場合でも、欠航でなければ、施設使用料300円以外の料金の払い戻しはない(やまさ海運では1割返金)。やまさ海運の2009年度の統計によると、(月によってだいぶ異なるが)全体的に欠航便や上陸中止便がそれぞれ数割ほど発生しており、2月と9月はほぼ9割が上陸できているのに対し、7月の「上陸率」は僅か34%にとどまる[65]。
舞台とした作品
- 映画
- 『緑なき島』(1949年公開)の舞台[1][66]。
- 『純』(1980年公開、江藤潤主演)では主人公・純の出身地となっており[67]、端島でのシーンもある。
- 『冒険者カミカゼ -ADVENTURER KAMIKAZE-』(1981年、千葉真一主演) - ビル間をロープで綱渡り・爆破・海中へダイブするなど、クライマックスの中心となる舞台[68]。
- 『魚からダイオキシン!!』(1992年公開、内田裕也主演)のロケ地[69]。
- 『007 スカイフォール』(2012年12月1日公開、ダニエル・クレイグ主演) - 本編に登場する廃墟の島、デッド・シティのモデル。2011年7月にスタッフが端島にロケハンをしたが、安全性を考慮して現地でのロケ撮影は実施せず、ロケハンで撮影した写真をもとに作られたロンドン郊外のセットで映画撮影がなされた[70][71]。
- 音楽
- B'z『MY LONELY TOWN』(2009年)のディスクジャケット、ミュージック・ビデオ撮影のロケ地[72]。
- KOTOKO『Light My Fire』(2011年)、ミュージックビデオ撮影のロケ地[73]。
- ドラマ
- 小説
- 漫画
- 漆原友紀『迷宮猫』の舞台である団地のモデル[79]。
- 渡辺潤『モンタージュ (漫画)』作品内で強奪された3億円を隠していた場所として登場。
- ゲーム
- その他
その他
脚注
参考文献
- 後藤惠之輔・坂本道徳 『軍艦島の遺産 : 風化する近代日本の象徴』 長崎新聞社、2005年、ISBN 9784931493537
- 阿久井喜孝・滋賀秀實 『軍艦島実測調査資料集 追補版』 東京電機大学出版局、2005年、ISBN 9784501620707
- 阿久井喜孝 『軍艦島 : 海上産業都市に住む』 岩波書店、1995年、ISBN 9784000084956
- 軍艦島を世界遺産にする会 『軍艦島 : 住み方の記憶』 軍艦島を世界遺産にする会、2008年、ISBN 9784990452407
- 高島町役場総務課企画振興班編 『高島町の足跡 高島町閉町記念誌』 高島町、2004年。
- 林えいだい『写真記録筑豊・軍艦島 朝鮮人強制連行、その後』 弦書房、2010年。ISBN 9784863290334
関連項目
外部リンク
- 軍艦島を世界遺産にする会 - NPO軍艦島を世界遺産にする会
- 軍艦島オデッセイ - 端島の歴史、建築物、施設配置図、建物の個別データベース、軍艦島百景等。
- 軍艦島 Ver 3.0 - FLASHによる長崎県端島の紹介。
- 軍艦島特集 / 西日本新聞 - 西日本新聞社
- やまさ海運 - 軍艦島クルーズ案内
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